慈無量心と菩薩達

癒やし瞑想」に書いたとおり、「金剛頂瑜伽千手千眼觀自在菩薩修行儀軌經」から起こしなおした慈無量心は以下となる

遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は
皆、如来蔵を具し、
三種の身口意の金剛を備えたり
我が三密の功徳力を以て故に
普賢菩薩と等同ならしめん

視点を変えて「四無量心観」を見てみると、自分が仏様の目線になる努力をするものともいえるし、ある意味「修行」の指針にもなることを示してくれている如来蔵は浄菩提心を示しているといわれている。そして、身口意を永遠の金剛の徳に変えること、普賢菩薩(समन्तभद्र)を目指す必要があるということが解る。そうしてみると・・・金剛薩埵そのものですよね。

普賢菩薩って「慈」と「行」の菩薩様なのけれども、私には、同時に「発心」それを保ち続けることの難しさを教えてくれる存在だと思えてならなかったりする。実は「坊さんブログ」で既にフォローくださっていたりする(笑)が、「続けていくこと」の難しさも教えてくれているように思えてならないのが私にとっての普賢菩薩の姿だったりしている。

やめたら、終り、ではなく
やめたら、終らない

同時に、慈無量心の普賢菩薩の続けて、悲無量心では虚空蔵菩薩、喜無量心では観自在菩薩、捨無量心では虚空庫菩薩であることが解る。慈悲喜捨それぞれの文言がそれぞれの菩薩に対応して、「六道四生の一切有情」を対象にしているわけだが、逆に見ると、私たちが目指すべき菩薩の姿あり方を指し示しているともいえると思う。

経典に出てくるような超人的な菩薩になる・・・入我我入して即身成仏という意味ではなく、それぞれの菩薩が目標とでもいえばいいのだろうか。それぞれの菩薩の一部でもあやかって日々を生きていきたいものだと思って・・・・Let’s Night Stand Buddhist!です。

おやすみなさい。

心の縮図

如来蔵は仏性とも覚性とも仏種とも。唯識でいう範囲は「五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識」ということになるらしい。つまりは心の範囲が無意識まで含めるとする。

岡野守也先生の著書「唯識の心理学」ではヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「生物から見た世界」を引用して、ゾウリムシの環世界の話が出てくる。

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ゾウリムシは密生した繊毛に覆われており、それを打って、体軸のまわりをたえず回転しながら水中をすばやく移動する。

ゾウリムシの環世界は環境にあるさまざまな事物の中から常に同じ知覚標識だけを取りだしており、(中略)なんらか刺激が起こると逃避運動が起こる。(中略)この小動物は食物である腐食菌(その環世界のあらゆる事物のうち、刺激を発しないのはこれだけである)にぶつかるとはじめて静止する。

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との部分を引用(「生物から見た世界」)して、つまりは、心の中に「障害物」と「食物」に識別だけ起こって、そこに対する反応が起きていることを「私たちの心の極端な縮図」とおっしゃっている。「なるほど」と思ったのを今でも新鮮に感じていたりする。

「情」があるのが「有情」なら、生理学的には反射で片付けられそうな範囲も含めて、極論この範囲も・・・観察の範囲だといえそう(笑)。当然、不殺生戒による「衆生」とか「生きとし生けるもの」の定義が、「有情」の範囲ともいえそうだけれども、ヴィパッサナー瞑想で自分を観察する範囲と置き換えてみると・・・含まれそうな気がしないでもない。そうかんがえると人間って言う生き物すげー!と思う。・・・もはや私に出来るのは、宇宙全体を全身で感じてみる(まねごと)ぐらいしか出来ないわけですが(笑)・・・それでも全然足らない。まして私は達人でもないので(;´∀`)・・・。

逆説的にとらえると、「六道四生の一切有情」は「私」を「一」としたら、「一」か「全」か、好きな人とか嫌いな人とか、一切考える必要がないと考えてまして、とてもありがたい範囲です(笑)。結局、全身くまなく意識するにしても意識できる範囲は限界があると言えなくもない。

更にいえば、「いましめ」としての「不殺生戒」も応用できますよね。単に「虫」殺しちゃダメなんじゃなくて、「自分と同じ心の縮図を持つ者」なので、自分が大事と同等なだけ宇宙(?環境?)にとっての存在であると考えられるわけですし、逆に宇宙大から考えると、「私」も「虫」また、多分、同等に、平等に必要なんでしょうね。そして共に生きている訳で、仮に「共存」という言葉当てはまるのでしょう。だって、自分の自分だけの「空気」や「水」なんて少なくとも地球上にいる限り定義できないんですよね。

そう考えると好きな人嫌いな人関係なく・・・結構、楽しく範囲が広げられちゃうわけで。だって、その人の何が解るんだか=自分の何が解るんだか、ってことでしょう?!。もやはごめんなさいとしかいいようがない。そんな「自分の心」さえ追い切れないのに、もう他の人様のことときたら・・・そんな自分と同じ心の範囲があるんですよね。

「こいつ嫌い」って考えている自分をも慈しむわけですから、極論、私の「阿(अ)字」の範囲だけ他人の「阿(अ)字」があるわけで。それでもそれが邪魔ならそこを考えなきゃいいワケで。それでも出てくるなら自分に「そう思っちゃってごめんねー」とスルーしてみるとか色々試せます。とどめておくこと、がスタートだと思いますし。もしくは、何か気がついたらすぐ、メモする。メモしきれないなら、放置する。私はくっだらないことまでメモったりします、逆にくだらない内容しかメモしきれませんでした。そのメモ、後で見ると面白いです、恥ずかしいのもあります、まず見せられません(笑)。

そうやって全体から自分を見てみると・・・うまくいかなかった原因、見えてきそうな気がします。つまり見たくない自分、認めたくない自分。言い換えればマーラなんでしょうし「無明」。きっとその反対は「如来蔵」なのかもしれないし、ひとそれぞれの「真理」かもしれないです。そうやって考えると、四無量心観、すごくよく出来てて、結構、じっくりやると面白いです。

根本経典(阿含経)に出てくる方で、ラーダ長老さん、お釈迦さんとの会話が出てくるのです。お題目を戴いて多分その後瞑想するのだと思います。これは読んでもらった方が早いのですが、「欲貪」、「魔羅」、「魔法」、「無常」、「苦」、「無我」、「壊法」、「滅法等」・・・だいたい同じ内容で、「○○は何?」に対して、お釈迦さんは「色」「受」「想」「行」「識」をそれぞれ「○○」であると・・・現代的にいえばこの五蘊を「疑え」といっているのだと思います。

「六道四生の一切有情」のこと書こうと思ってたら・・・飛びすぎました(笑)

火舎香炉

最近はアロマ使っている事は書いたんですが、数年以上前だろうか次第を自行でやっていた時見つけて使っていたのがこれ

え?ずるい?それまで勿論ひとつひとつ盛ってました。すぐに香具自体をコ字のを自作して盛っていたんです。灰に接する山の部分を少し丸めて・・・毎度毎度。若しくはコの字型のお香買っていたんですが・・・・。これを見つけて飛びつきました。結構しますが・・・トータルコストを考えるとおすすめです(笑)。これに抹香300グラム買ってきたら多分、すごい持ちます。経験上、固めておくと真っ白によく燃えます(火舎香炉の大きさは中型ですので中型用だと思います)。上からもう一度しっかり固めて押しておくと焼香の際の乗せやすいです(謎)

ちなみに、事と次第によっては一辺で間に合うかもというのは放っておいて、そもそも、もう普段使いもしていませんが、今C型もあるんですって!(記事書くのにもう一回探してみて発見)。

さらに普段使いは・・・渦巻き香です、えぇ。適当な香炉を用意して、灰をひいて、100円ショップあたりで水道口の「ゴミ受け」金網を買ってきて、逆さにして丸いところを灰の上に少し出して、その上に、渦巻き香をのせる・・・と、渦巻き香消えませんので心配いらずです。金属の網にすれば燃えませんし(笑)

さらに追加で、内緒ですが、渦巻き香選ぶ時に・・・ぐぐる時に、「柄香炉」(何に使うか知っていると思いますけど)を検索に加えて「渦巻き香+柄香炉」でググると結構丁度いいのが出てきます(近くの仏具店で買えるような香炉の口の大きさに丁度よさげです)。まぁ、それでも、香炉の口の大きさは測っておいて選んだ方がいいと思いますけれど。渦巻き香だと、お線香の時間より少し長めに座るなら全然持ちますし、途中で消してまた次回に使えばよいでしょうし。

癒やし瞑想

四無量心観というのがあり、よく知られているのが

  1. 私(皆)が幸せでありますように
  2. 私(皆)の苦しみがなくなりますように
  3. 私(皆)の願いが叶いますように
  4. 私(皆)が菩提を開けますように

ということを観想して瞑想する。

お次第に出てくるのは複雑怪奇ですが、三摩地と言ってるくらい「じっくり」繰り返してみると、上の4つと同じ事が解る。

いくつかの経典にその観想が確認できるので「金剛頂瑜伽千手千眼觀自在菩薩修行儀軌經」という経典から抜粋すると以下である。観想の部分だけを訳して真言はデバーナーガリーに起こした(必要なら先生とかに聞いてみるとより正しいのを教えてもらえると思われる)。

然後結跏趺坐端身正念。不動支節閉目寂靜。入四無量心觀。即結定印

初入慈無量心定。以慇淨心。

遍緣六道四生一切有情。(遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は
皆具如來藏。(皆、如来蔵を具し、
備三種身口意金剛。(三種の身口意の金剛を備えたり
以我修三密功德力故。(我が三密の功徳力を以て故に
願一切有情等同普賢菩薩。(一切有情が、普賢菩薩と等同なることを願わん

如是觀已即誦大慈三摩地 真言曰
ओं महा मैत्रय स्ढर

次應入悲無量心三摩地智。以悲愍心。

遍緣六道四生一切有情。(遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は
沈溺生死苦海不悟自心。(生死の苦海に沈溺して自心を悟らず
妄生分別起種種煩惱隨煩惱。(妄りに分別を生じ 種々の煩悩随煩悩を起す
是故不達真如平等如虛空。超恒沙功德。(是故 真如平等の虚空の如く恒沙を超える功徳に 達せず
以我修三密加持力故。(我が三密の功徳力を以て故に
願一切有情等同虛空藏菩薩。(一切有情が、虛空藏菩薩と等同なることを願わん

如是觀已即誦大悲三摩地 真言曰
ओं महा करुणय स्ढर

次應入喜無量心三摩地智。以清淨心。

遍緣六道四生一切有情。(遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は
本來清淨猶如蓮華。(本来清浄なること 由(なおし)蓮花の
不染客塵自性清淨。(客塵に染せざるが如くして自性清浄なり
以我修三密功德力故。(我が三密の功徳力を以て故に
願一切有情等同觀自在菩薩。(一切有情、觀自在菩薩と等同なることを願わん

如是觀已即誦大喜三摩地 真言曰
ओं शुद्धप्रमैद स्ढर

次應入捨無量心三摩地智。以平等心

遍緣六道四生一切有情。(遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は
皆離我我所離蘊界。(皆、我我所を離れ 蘊界を離れ
及離能取所取於法平等。(及び能取所取を離れ 法に於いて平等なり
心本不生性相空故。(心 本より不生なり 性相空なるが故に
以我修三密功德力故。(我が三密の功徳力を以て故に
願一切有情等同虛空庫菩薩。(一切有情が、虛空庫菩薩と等同なることを願わん

如是觀已即誦大捨三摩地 真言曰
ओं महोढेक्ष स्ढर

「慈無量心定」での「慇淨心」の「慇」は「いたむ・ねんごろ」とか「丁寧」的な意味と思える。

訳文の太字が次第にでてくるところなので、他の部分は読み飛ばしてよいと思うし、訳が適当になってしまった感が。。。ただ意味はわかるので補足になればと思う。

「我我所」とは「自我」のこと

「能取」「所取」はそれぞれ「主」「客」のことなので「主観と客観」のこと

最後の「一切有情が、○○菩薩と等同なることを願わん」と訳したが約めて「○○菩薩に等同ならしめん」となる。

「三摩地」と言っているから、観想を読んでじっくりと意味を考えて味わって・・・真言をとなえるのが本来なのだと思う。

自分自身に重点を置くなら・・・私は普段に、

「遍く縁ぜよ六道四生の一切有情」ではなく

「六道四生の吾我 は」とか単に「吾我は」

でもいいんではなかろうか?。大まじめに考えると「四生」は「胎生」「卵生」「湿生」「化生」なので、「人道胎生の私は」なのだろうけれど、「ずっと人間です!」なんて解らないので(苦笑)なので単に「吾我は」がよいかもしれない。

私はそうした(今でもそうだけれども)のは「今、自分すら救えないのに、自分勝手な念いで我が儘の勝手なママに自分勝手に選んだ他人に価値観を押しつけて救うとか、おごりも甚だしい」と自戒したからだった。

たとえば、世間・世界の言う「平等」と、宇宙的な意味での「平等」と、自分の考える「平等」と同じと言えるかどうかを考えれば自ずとずれを感じてしまうし、師僧に「あなたの考えていることは誰かが言ったこと」と散々諭されてきたからもしかしたら思っている常識すらも疑わしく思えてよいのだと思う。

だんだんと「皆(一切有情)が」と置き換えていけばよいと思し、その時は、廻向文の「皆共成仏道」はポイントだと思う。

こんだけで勤行終わり!でもいいんじゃないかと

特に穴の病気にご利益

座禅というと痔・・・。

私の場合は「痔」持ちではなく「坐骨神経痛」持ちで座ると季節の変わり目はひどくなるわけで。

修法座につくとき、「着弁念威香(着弁念香威)」とするわけですが、威儀の時に体を左右前後揺らしつつ坐り位置を直すようにしてます。私は自行しかしないのでひどくなり始めると、そんな風にゆらゆら~って徹底します。

そうすると「坐骨神経痛」ひどくならないで済む!

確か阿字観の時はそうするんじゃなかったでしたっけ?!ちなみに座禅のやり方たとても参考になるかと思います。ヨガにもあるかもしれない、そっちは調べて(笑)。

後は寝るとき、他人には坐骨神経痛は手技で軽快にしてあげられるけど、自分にはどうにもならんのです!なので痛むときは「四の字ストレッチ」で臀筋を伸ばしつつ、「梨状筋を伸~ば~し~て~る~」イメージで伸ばします。

インセンスの代わりに

邪道かもしれないけれど、夜の焼香はアロマにすることにしている。相方がいやがるのと、この季節流石にエアコン無しではやってられない季節になってきて閉めきった状態になるからだ。

個人的にはサンダルウッドがやっぱり落ち着くのでいいのだけど、気持ちが疲れてくるとそれなりの香りを選んでしまうものだ。そんなこんなでティートゥリー+ゼラニウム+柑橘系にしていたり。

焼香は精進を意味すると習っているし、温める為にロウソクであぶるわけで、智恵と精進の一石二鳥。

賛否両論ありそうだし、結局自分を見つめる意味もあるなら、電池でLED(まさに智恵の塊ですけれども(笑))の無味乾燥な選択肢よりかは心を込めてそんなのもありかと。

さて、今日はどんな香りにしようか?そんな遊び心ですんまそん。

 

奇跡で必然

キリスト教徒かでよく言う神秘的な偶然が降ってくる事を奇跡と言うけど、仏教の場合ってどうなのだろうと。

個人的には現状全てが奇跡で有り必然だと思う。偶然に会った因を現在に導いているわけで、その偶然の積み重ねのより合わせとして縁で、目の前にある事が望んだ事であると同時に、過ごし方次第でそれを更に因として縁となる。未来雑乱住。運の悪さも同時に発動して行く先々のお店は「休み!」信じられないほど!おいらのレジェンドにまた1ページを飾るほどすごい悪いくじ運でした(笑)それでも楽しく幸せで。

・・・全身で感じる思いは・・・不幸ではなく・・・なんというか、ただただ新鮮だった。こういう風に不幸すらも全身で感じて喜べたなら、多分、きっと、幸せなんだと思う。

戒清浄、波羅蜜清浄、六根清浄・・・文殊の智恵と観音の洞察力と普賢の菩提心、保ち続けられるようになれるようになりたいと思う日でした。

まずはどんなことでも笑えるようになる事かもしれないなぁ、私にはこれが一番足りないかもしれないです。

薫習

「渇愛」が「再生」的な意味であると言う事をつい先日教えて戴いてすっきりしたのだった。
元々私が仏教を一旦捨てたのには「一切皆苦」であった。
全ては苦痛というのは実際人として生きていて、一瞬すごく楽しかったり嬉しかったりという時間がある事自体「苦」ではないし、それを思い出になった瞬間から、思い出している期間というのは楽しいわけで「苦痛」とは言い難いわけで。

そんな私を仏教という学びの世界に呼び戻したのは、父との出来事だった。たまたまその日休みで、朝方大騒ぎして母に連れられて父は出かけて行った。父の死の前日まで大げんかして、怒りやまぬ私自身は心中「もう帰ってくるな!」と思ったわけで、そのまま本当に帰らない事になるとは思いもよらなかったわけだ。
取り返しのつかない思いにかなり凹んだのを覚えている。

人は「苦痛」を受けると五段階の心理状況に追い込まれていく。
元々「死の受容モデル(臨死5段階モデル)」という精神科医キューブラー・ロスが科学的に捉えたものである。
(1)否認(孤立);(2)怒り;(3)取り引き;(4)抑うつ;(5)受容。
このモデルは死に関してだけではなく、怪我をした選手から、恐らく、不測の事態におかれた時、人間誰しもが陥ってしまうであろう心理課程とも言えると思う。(詳しくはgoogle先生に聞いてもらって・・・一つだけ参考までに「スポーツ障害における心理サポート」→「2,怪我による心理的影響」)
これを紹介したのにはあの時の心理状態を追ってみると、多少なりともあたっているし、近々の事もやはり心当たりがあったりするわけで。

更に仏教だと「十二因縁」と呼ばれるモデルもあるけど、後半「愛-取-有-生-老死」に似ていると思えなくもない。

仏教に言う「苦」は刹那的連続性(時間)の中で「不安定」という意味で、寧ろ「諸行無常」と言っているんではないかと私は思っている。つまり「一切行苦」。こう思ったときスッキリ受け入れられた言葉の一つであったりする。

人間は残念な生き物で刹那刹那の連続性を時間と空間として認識してしまう。本当はただの連続した「空間」なのだと思うが。これが一つの欠点なのだろうし、刹那を完全に受け止める事もできないわけで。

まごまごしている刹那に当然、「無明-行-識-名色-六処-触-受」が起きてしまう。既に「識」の段階で好きとか嫌いとか識別作用が生じて、怒り乃至負の感情を生んでしまっているわけで、構造や何かを知っていようがいまいが、また同じ失敗を繰り返してしまう。そう、「あ」っという間に「う~む」と呻る結果になるわけでいかんともしがたい。つまりは「再生」で始まりが終わりで「再生」が繰り返されてしまうわけですわ。

そんな今日は仏滅なので勤行お休みするデーに決めてるんです( ̄ー ̄)ニヤリ おやすみなさい。

記憶

記憶には科学的に必ず通るルートがあるんだそうで。
最初は、記銘(符号化)、保持(貯蔵)、想起(検索)、そして忘却。
初っぱな「ロゴス」ですよね~。
「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」( ヨハネによる福音書1)
お大師さんも「五大皆有響。 十界具言語。 六塵悉文字。 法身是実相。」て言ってますよ。