公開にあたって

実のところ、ページは作ろうとしていたところで家庭内LANの内部サーバにお試しサイトを作っていたのでした。
で、何を書こうか・・・という事は最初にある程度決まってきていて、経書儀軌などにある漢音写した真言をデバーナーガリーで書いてみるということでした。ただ公開する事に躊躇した、という本音があり、人によっては扱って欲しくはない分野であって「神秘」のままにしておいた方がいい場合もある。
お大師さんを思えば、久米寺で大日経に出会って、真言を学びたいと思って、無名の沙門が志那まで学びに行かれた訳で、伝説的であってサクセスストーリーであって物語はきれいに描かれている。そこにはすごい苦悩の連続であったはずで茨の道であったことは想像に苦しくなく、だからこそ大切にしなければならない思いもある。
ただ、それが単なる神秘主義で終わってしまうのは、お大師様が残した文章を見ると何か違うようにも思えてならなかった訳で。調べれば真言陀羅尼は載せているサイトもいくらでもあって何だか解らないけど「願いが叶っちゃうんじゃ?!」な信心や思いを否定するつもりもなく。

陀羅尼は総持といって「記憶して忘れないこと」を意味する事は調べるといくらでも出てきますし、それは決して「頭が良くなっちゃう」訳ではないのでは?とも思えてます。信じて虚空蔵菩薩真言を一洛叉ほどやった時期もありますし、もっと直接的に宝生如来真言を十洛叉なんかも試したりしました。けれどもちっともお金持ちにはなれませんでしたし、頭も全然よくなりませんでした(笑)。「修行してないからだ~」(と言われればその通りです)だけではなくてもっと何か言葉では言い表せない何かがそこにあるのでは?と気づくには十分でした。
「心」の事であれば「唯識」が重要で最初は何だか解らないけど読んでみるのも有りだと思いますし、世の実相なら「倶舎論」なんて素晴らしいものもありますし、私のように御大師様フリークなら「何で?」と言う疑問が出来たら是非「吽字義」や「声字実相義」読んで気がついてみるのも一興なのかもしれないです。