「災禍転福」・・・となるといいなぁ

よくも、まぁ、喜無量心書こうと思ってる、このタイミングで・・・ネタとしかいいようがないです。

「凶」来ました~!(笑)

さて8月10日は己巳の日ですので、弁天様にご挨拶してきました。

関東三大弁天の一つ、布施弁天が近くにありまして、「弘法大師空海御作といわれる弁財天像をご本尊(秘仏)として開山された祈願寺」とのことで、この土地に来て一年が過ぎ、今回は舎利禮文を写経して、納めて参りました。浅草寺では結構出る「凶」ですが、相当に運がいいと見える私(苦笑)。

よく観察して中道を歩もうと思います!

観察と言えば・・・観自在菩薩ですね。喜無量心は観自在菩薩を目指すのでしょうね。「観自在菩薩」=「観世音菩薩」だとされています。

観世音菩薩普門品よむと、自分が観自在菩薩になるのはほど遠い話ですよね。「念彼観音力」と言うから念じると言うことなのでしょうけれども、それはそれで勿論のこと、なのでしょうが、目の前のつらい出来事はおはからいにお任せして、そもそも自分で出来ることを考えるとやはり客観的にになることなのでしょうね。私はよく師僧にいわれました。

「あなたが観自在にならなきゃダメだよ!観自在になる為に唯識を学びなさい!」

唯識の話は私にはまだ荷が重い(笑)ので省略させてもらいますが・・・、喜無量心の「観想」を見てみると。

遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は
本来清浄なること 由(なおし)蓮花の
客塵に染せざるが如くして自性清浄なり
我が三密の功徳力を以て故に
觀自在菩薩と等同ならしめん

読んでママなのですが、一つヒントを書くと、「清浄」は「空」に読み替えられるんです。「客塵」は「煩悩」の事ですから、この世での様々な「欲」で生じてしまう、心的不都合とでも言えばいいんでしょうか。染まらない如くの、「自性清浄」・・・「自性空」ってことで理解しています。

実はこの「自性空」、般若心経では単に「空」と言って、「五蘊が皆、(自性)空」と解れば「一切苦厄」を「度」すと言ってます。「自性」って何かなのですが、「チベットの般若心経(ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ, 斎藤 保高, クンチョック シタル著)」によると、「ものごとの本質」であり且つ「他に依らず成立する実態」と解釈できるそうです。そして、漢訳では「五蘊皆空」なのですが梵文での「自性」が漢訳には省略されていて、「度一切苦厄」がありません。また、ここでいう「空」は「空っぽ」という意味で、「五蘊」の「自性」性が「空っぽ」ということ・・・「自性たり得ない」=「無自性」ということなんです。

ピンとこない話ですが「因果によって成立している」と理解するのが最も早いのでしょうか、極論すると「五蘊は「幻」でしかない」ということ、「五蘊」・・・つまり「色」「受」「想」「行」「識」で成立してしまっている「幻」を「見極める」ことということが言えるのだと思います。

お大師さんはこの「度一切苦厄」と「究竟涅槃」を「修行によって得られた境地での利益」=「得楽」だと「般若心経秘鍵」仰っています。そう考えると「得楽」が「喜」無量心なのかな?と思えてしまうのは私だけでしょうか?いずれにしてもその「得楽」は私にはまだまだ解らないことなのですが、そのためには「照見」・・・つまり「自在」に「観察」しなければならないわけです。

やっぱり、ラーダ長老さんの如く観察するわけですよ(笑)。

一説では、観自在菩薩は瑜伽行者を指すなんていうのを聞いたことがありますが、そうすると、少なくとも「菩薩」にはなかなか遠いながらも「観察」を「自在」になれるように目指すという意味で、「観自在菩薩と等同ならしめん」ということになりそうですね。

書き忘れましたが、蓮花は『泥』の中から生えて綺麗な花を咲かせます。そしてその花には「客塵」という『泥』がついてません、その譬えなのだそうで、どろっどろの中に生きている私たちも「花」=「如来蔵」は汚れていないはずなんですよね。本来、汚れが無い(空っぽ)の「想い」は何かによって汚しているわけです、しかも自分の選択によって。汚れていない想いは汚れていない形で、今思っている形とは実は違うのかもしれません。結局は「心の中」の出来事・・・「幻」なんでしょうね。

というわけで、「今日」の「凶」には(「ネタ」という「メッセージ」に対して)、冷静に観察して、「幻」に惑わされないように見極めて真ん中辺を進もうと思います。

もし、「観世音菩薩普門品」にでてくる百戦錬磨の「観音」様になってしまうとしたなら、何でも出来てしまうスーパーマンになれるはずなんです。

「皆の願いが叶いますように」・・・そう読めませんかね?!観音様への思いがつまっているのは確かです。

南無そのまんま

突然ですが、認めたくない自分がいます!。

小学校に入って間もない甥っ子が来て、私に暴言を吐いていきました。

「だからおまえは結婚できないんだ」

え?結婚しているけど?しかし、カチンときました。そして、その晩と翌晩まで引きずって、マイハニーにツラく当たってしまいました。。。

あ、満月か・・・満月は人を狂わせるなぁ(笑)

多分書かなくてもいいことなのでしょうが、先に進めない自分にメッセージとして起きた話なのだろうと、書くことにしました。多分、今の相方に出会わなければ本当にそうなっていただろうと思います(笑)。

複雑な伏線を書くと、その子は義理の弟の子供なのですが、昨年、義理の弟たちは離婚してしまいました。アツアツで結婚して嫁さんの家に入り、お嫁さんの両親と一緒に暮らし始め、一児をもうけたわけですが・・・、義理弟は仕事のことで心を煩い(更にはその宅事情も重なって)、それが引き金となって、昨年、離婚となりました・・・そしてもしかしたら、今現在、周りでそんなことをいっている大人がいて、それをそのまま学習したのでしょう。想像に苦しくない状況と言うことでしょうか。・・・まだ甥っ子は自分の両親が「離婚」したことを理解できておらず「結婚」の意味を理解できていないのだろう、ということになります・・・。

昨今はすぐ結婚して子供がいような関係なくすぐ離婚してしまいます。逆説的にその両者はとても敷居の低い話になってしまいました。そうかと思うと単身のままの人も多い時代です。何がどうしてこうなってしまったのだろうと。

実はこの結婚だとか離婚だとか、一つの社会的な概念でしかありません。逆に社会が形成される為には必要な概念です。ただ、この概念がなくなると、性欲のままに子作りをし・・・自然界のままで、実はそれは決して間違ったことではなかったりします。ただ増えすぎてしまう。近隣の国では逆に「一人っ子政策」なんぞを作り法的に拘束してました。それでもその国では影に隠れて増え続けたわけですが。かたや日本は医療が進み死ぬに死ねない国家では高齢化社会が進んで25%が高齢者というとんでもない状態になっています。先進諸国ではナンバーワン!そしていい意味でも悪い意味でも事例になっていくことで注目の的だったりします。どうしましょうかね~?半ば「人ごと」なのですが、確実に私たちに負担が来ている今日この頃です。

いずれにしても、「生まれれば死ぬ」、実は絶対的なセットです。

「生死の苦海に沈溺して自心を悟らず」

何が一体私たちを悩ませようとしているのか自心に解いてみます。結婚して一児をもうけてやっと一人前という社会通念があります。そしてそういう価値観に縛られて一人前になる為に勉強をして社会に放り出されます。つまり私たちはすり込まれて生きているのかもしれないとしたらどうでしょうか?。

実はここでいう「生死」とは「迷い」のことで、上で言う「生死」ではなかったりします。仮に「苦海」を社会としましょう。

「迷いの社会に放り込まれて自心を悟る必要も暇もない」

そうなんです。社会に生きていれば、戒律の殆ども不要です。殺人や盗みは犯罪です。あちこちで子作りしたらそれはそれで下手すれば社会的に抹殺されます(笑)。多分お釈迦様の生きていた時代も社会があったならば多少の通念は似たものもあったのではないでしょうか?そうなると敢えてこの戒律を入れた意味が不明です。社会の一部として生きるのに殆どは問題ないのですが、ものによっては迷いが生じて首が回らなくなります。たとえば「ダブルスタンダード」などいい例でしょう。

続けて、悲無量心では、

「妄りに分別を生じ 種々の煩悩随煩悩を起す」

とあります。皮肉を込めて訳すなら、石川啄木の言葉を借りて、

「働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」

敢えてこう書かせてもらいましたが、我欲によって目の前の幸せに気がつけないから苦しいママ。

さて、最初の話に戻すと、「結婚」という社会的価値を取り入れた私は、愛別離苦に相当する「離婚」を秘めているから余計苦しいのですね。そして一人前じゃないという世間体・・・つまり社会通念上の自我否定。こりゃぁ苦しいし怒りたくもなります。そして見苦しいですよね、私(笑)。そして何より今そこにある幸せを見えなくさせているのです。

それは「迷い」だけではなく「あたりまえ」という気持ちに変化した時にすでに生じています。

社会的(人間中心の生きている世界において)に正しいかどうかを「世俗諦」といいます(もっと深い意味がありますが一応ここではそうしておくことをお許しを)。「迷い」が生じたらまず人はこの世間での正しさを考えます。その迷いで選択すると「欲」が生じます。その欲はいい意味では生きる糧になります。悪い意味では犯罪や違法行為に走ります。だから宗教や哲学より法学や経済学の方がよっぽど役に立ちます。そして社会での生き方に役立つ方法を選択すればいいんです。

「これでいいのだ」

社会に適合していると言うことです、えぇ。あれ?苦しくないですか?おかしいと思いませんか?そしてその内「このままでいいのだろうか?」と思ったりしませんか?

面白いことを宗教評論家・・・もとい「仏教原理主義者」の ひろさちや さんは御著書「気にしない、気にしない」(PHP文庫)の中で仰っています(今日のお題はそこから取らせていただいて「南無そのまんま」とさせていただきました、感謝)。

「このまんま」…世間の判断

「そのまんま」…仏の判断

仏様や自然界にとって・・・宇宙にとってどうなのよってことです。

「これでいいのだ!・・・けど、それでいいんですか?」

それが、私にとっての永遠のテーマだったりします。つまり「ライフワーク」の仏教・仏道。そして、上で言う戒律、自然界や宇宙とって、つまり仏様の視点に立って事なんですよね。まぁ、それでも人が増えすぎたのかもしれませんが、皆が幸せの方法を仏様視点で探してみるしかありません。それを「真諦」といいます。

実は弘法大師は上で言う「世間諦」や「欲」を「煩悩即菩提」といって否定してはおられないと思うんです。

「生死すなわち涅槃なれば さらに階級なし。煩悩すなわち菩提なれば 断証を労することなし。」(師僧の思想ですみません(笑))

「生死即涅槃」といいます。「涅槃」とは「安らぎ」や「迷い」のたたれた状態(有余涅槃)を指すとしたなら、たとえば社会通念や概念によって支配されている自我には「安らぎ」はきません。

そして、「そのまんま」なのか「このまんま」なのか、社会でも生きていかなければならない私たちにとっての重要な判断材料と言うことは言えます。そして、「如実知自心」がとても大事と言うことを仰っています。

自己同一性」というのがありますが、面白いことに、元々「自我同一性」と呼ばれていて、アイデンティティのことです。実は青年期のことだとされていましたが、この自我、「中年期老年期において何度も繰り返して再構築される」のです。つまり、自我は壊れてしまっても、「自己」はそのまんま、つまり自我が滅しても死にゃぁしません(笑)。そもそも、自我はなかったものでもあるんです。社会概念によってがんじがらめにされてしまった可哀想な「自分」の一部だと思い込んでいる「虚構の自分」でしかありません。一生が勉強と言いますが、一生かかっていいんでしょう。そう思えばこそのんびり続けられます。続けていいんです、きっと。

さて、こうして告白してスッキリしました。

私の苦しみは絶てました。

巻き込んじゃって、不快な思いをされたかたにはすみません。

そしてありがとうございます。

「皆の苦しみがなくなりますように」

そして何より、疲れて帰ってくる、(共働きの)マイハニーを暖かく迎えてあげようと思います。

さて、これらの苦しみを智恵に変えて「虚空蔵菩薩」を目指したいところです。

驀過

驀過、たま~にやってしまいまする(´ω`)ノ

念誦で、母珠(達磨、緒留)を超えてカウントしてしまうことで、法(達磨)を超えるという意味で忌みます。元々僧侶の隠語の「莫迦」はサンスクリットでmoha(मोह 愚)なんだそうで(笑)。つまり、

驀過=莫迦=馬鹿

って事なんでしょか?(笑)

ネタとして用いる日は来ないだろうと思っていたけど、丁度いいので!。

少なくとも、達磨超えて気がついて自分の心の中で「バカん(;´Д`)」と思っているのは確かです。

ちなみに、「金剛頂瑜伽念珠經」に

・・・

珠表菩薩之勝果 於中間絶爲斷漏
繩線貫串表觀音 母珠以表無量壽
愼莫驀過越法罪 皆由念珠積功徳

・・・

とのこと。

さて、慈無量心観、まだ、終わってなかったりする。というのは、普賢菩薩って一体何だろうと。多分、ぐぐると色々出てくると思うのだけど、結局は、普賢菩薩の十誓願に集約されると思われる。

1)礼敬諸仏
2)称讃如来
3)広修供養
4)懺悔業障
5)随喜功徳
6)請転法輪
7)請仏住世
8)常随仏学
9)恒順衆生
10)普皆廻向

諸佛に礼拝し称賛し広く供養を修して、

業障を懺悔して功徳を喜び、

法を説くことを請い、

諸佛が世に住するのを願い、

仏教(法)を学び、

恒に衆生に順い、

普く皆を廻向する。

よく考えてみると、五悔を思い出す内容だったりする・・・と思っていたらまさにそれを説明してくださっているページを見つけたのでリンクしておこうと思う。

住職のひとりごと : 「さんがいずいき」を平易に解す 

いつも指導してくださる静恵先生のところではないのですが参考になりますので。

さて、私は小学校の時、歴史の授業でこう習っている。

「あなたたちは、末法の世に生まれてきたのだから絶対に悟る事は出来ないので諦めなさい。よかったね。」

義務教育の現場で教えられる歴史は残念ながら「誰かの主観」であることを(あえて)教えてくれたのだと勝手にひねて考えている。

かくして、無神論者に育て上げられた私にとって、お釈迦様を讃歎して敬礼するのは、実感こもってよいのです。ただ、「称讃如来」とひたすら真言陀羅尼を念誦する事にも実は疑問を隠せないのが本音で、他力本願になるなら単に、「南無阿弥陀仏」と唱えて連れて行って戴く方がよいようにも思えてしまうのだったりする。たとえば、「紙本白描阿弥陀鉤召図」のように(笑)。いやぁ、極楽浄土に・・・封印されてしまいそうで・・・(苦笑)

さて、密教に説かれる如来・仏・菩薩はどうしたものかと、いうのに私見をば、夢を砕くようならお許しください。

仏画や曼荼羅に描かれる仏様達が実態としているわけではないよなぁ、といつも思うのです。その絵に描かれたシンボル的な意味は確かに何か得体の知れない・・・仏様や神様とかに通じるものがあるのであろうと思っていて、それらは、お釈迦様の「智恵」、お釈迦様の説かれた「法」をシンボル(象徴)化したしたものであり、多分、「法」とか「達磨」とか、「事象」を描いた「理智(वं)」なのだろうと考えている。

真言陀羅尼が「総持」といい、「記憶」を表すといわれているんですが、科学の世界で「記憶」は必ず通るルートがあるのだそうです。
最初は、記銘(符号化)、保持(貯蔵)、想起(検索)、そして忘却。
初っぱな、シンボル(象徴)化、「ロゴス」なのです。
「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」( ヨハネによる福音書1)
お大師さんも
「五大皆有響。 十界具言語。 六塵悉文字。 法身是実相。」
て言ってます。

多分、仏画に描かれる仏様を拝むというよりは、「阿(अ)」字、つまり、私たちの生きている宇宙や現世とその共存・つながりを「諸佛・如来」として讃歎する・・・「ありがとう」だと思えた時、意味を解しました。妄信できない罪深き私をお許しいただければと思いますが、そう考えると、慈無量心、「皆が幸せでありますように」だと思えるようになったわけです。

追記:懺悔って何だろうと。何も戒律を守れなかったりしたことを反省して諸佛に告白する場だけでなく。。。今日の失敗を繰り返さない為に、仏法に照らし合わせて、考えてみる場でもいいのでは?とか思ったりしている。それは「世間」にとって「どうなのか」だけでなく、「宇宙・現世」にとって「どうなのか」という、前向きな事を考える時間でもあると思うんです。

追記の追記:「種子」という言葉も密教の本当の意味なのだと思うのでその内に。。。