元々この考え方を提唱したのはカール・ユングです。日本語では共時性なんて言ったりします。曖昧で意味深な事から商売的にはもてはやされる概念なんでしょうね。なのでかなり嫌いな言葉でもありますが、実際、それを感じることが多いのも事実だったりします。
Wikipediaにも書いてあることですが、『従来知られていた「因果性」の原理とは異なる、複数の出来事を離れた場所で、同時期に生起させる原理』であるというんですね。それぞれの個の無意識に共有部分があって(集合的無意識)、共通する『元型』によって起こるそうですね。
「元型」があるとしたら釈迦牟尼仏だったり、その思想であったり、目標であったりが私にとってのソレでありそうな気がします。
そう考えると、サンガにおいて、元型=釈迦如来による共通部分による「縁起」が成り立ちそうな気がしますが、内緒の方向で。変な意味で読者の皆さんが「共時性(シンクロニシティ)」に利用されることがありませんように。
私の念持仏というか枕本尊というか、奉っているのは、あくまでも「生身の佛」様ということで佛舎利です。元々戴いた(というか「お布施しておわけ戴いた」)水晶の舎利塔(パゴダ)に入った「御舎利」だったのですが、数年前火災に遭ってこの身以外は全てを失ったワケで、一時はその水晶の舎利塔の割れて粉々になった欠片をいくつか集めて祀っていました。お分けくださったミャンマー上座部仏教の僧侶に事情をお話ししたところ、改めて2粒とミャンマーのパゴダを象った舎利塔をセットで戴いたものが今の本尊となっています。この世に二つと無い本尊となったわけです。
この場を借りて改めて、ありがとうございます。
実際「御舎利」といっても実物のお釈迦様の御遺骨ではなく、貴石などを舎利として祈念していただいたモノです。嬉しいじゃないですか、やはり、見ず知らずの佛徒に成仏を目指せるように信仰のお供として、祈念していただいた事が。
要は舎利となる貴石を仏舎利として思い込むことから始まるわけです。
今ではそんな御舎利も勝手に増やして三十数粒にして戴いた舎利塔に納めています。たまたま開眼法を知っていたから勝手に開眼していますが、機会あらばちゃんと伝統に従って開眼して戴くかもしれませんし、そのまま拝み続けるかもしれません。最初にわけて戴いた時、実は高野山に得度する前後でして、元々その水晶の舎利塔と御舎利はミャンマー上座部仏教の僧侶に共感した真言宗の僧侶によって寄進されたものを分けていたそうです。
火災に遭って改めてわけて戴いたのは上座部仏教の僧侶によって瞑想会を開いた時に分けたモノだったらしく、所縁が日蓮宗のお寺のようです。私は今は姓が変わっていますが、嫁ぎ(?)先の宗派は日蓮系・菩提寺は真言系というまさに、シンクロニシティなわけですよ(笑)。
当然、「御舎利」=「生身の佛」であり「応供」なワケですけれど、「五濁悪世ノ衆生ハ佛身ヲ見ルニ堪エ不ルガ故ニ 大悲方便ヲ以テ變ジテ金剛ノ舎利ト成ル」ように、お釈迦さんはその土地の信仰に従い弔せたワケで、大小乗関係なく共通で祭られていたワケです。お釈迦さんの時代に「経典」も「仏像」も作らせなかったわけですが、元々後世ゆるされた唯一の形なのであろうと思われます。
華厳経の毘盧遮那佛の如くお釈迦様は”今”何も語ってくれません。シャカ族が太陽の末裔(日種族)とされている話もあり、「光明遍照」つまり「毘盧遮那(वैरोचन)」と如来の十号のようにされたともとれます。少なくとも「佛陀:釈迦」とても深い関わりがあるのは確かですが、所詮は象徴として「架空の佛」とされるのが一般的なんでしょうね。私にとってはその架空の佛様は、あくまでも目指すべき仏陀の姿・・・シンボルであって、そこに内在する「佛法」が最も尊重すべきものであるのが現実で、「如来(金剛)の知恵(根本)」=「御舎利」が信仰の対象においているに過ぎません。
たまたま、その点で大日如来とお釈迦様と繋がったから信仰の対象にしているわけですが、大切なのはあくまでもやっぱり「佛法」=「達磨(ダンマ)」です。
「御舎利」は言うなれば「法」を示す「シンボル」で私にとっての「種子」ですね。別の形で如意宝珠でもあり(「如意融通尊」も祀っていますが、表の形です(笑))、智恵の象徴なワケです。何も語ってくれやしませんが。
経典は一時阿含経に傾倒していました。ただ、これは生の声を口語体にして書かれたモノでその場にいてその環境にいてその境涯でなければ解らない部分があります。例えば以前書きましたように「五感・五官」に対して各々「厭い嫌う」という邦訳が使われているわけですが、これを実生活の中で活かすのではなくあくまでも瞑想や思惟の中で使うべきなのではないかと最近思っています。そうでないと自我喪失もあり得るわけで、軸の無い状態になってしまう場合があるなと言うのが心配でもあります。ですので、今は敢えて「般若」系のお経(実は私の原点が「般若心経」)と「法華」の一部だったり、総持で陀羅尼を読むかとしています。そしてその代表が普賢菩薩乃至観自在菩薩であり、文殊菩薩の智恵でありと。
そんな小難しいことを言っても、そんなたいした人ではなく凡人なので(笑)、そんな今日は「そもそも我とは何ぞや」と坊さん(静恵先生)に聞いていたりしたわけです(笑)。とっても、凡夫なのですよ!
そしてまた、それを元に「思惟」する、日々となります。