造塔の話

以下は増谷文雄編訳 阿含経典3 からの引用である。最初に、実はお釈迦様とアーナンダとの間で「女人」についての問いがあるが、割愛させてもらいます。

(増支部経典 4-245、増一阿含経 36-3)

ー世尊よ、わたくしどもは、如来の遺身をどのように処理すべきものなのでしょうか

アーナンダよ、そなたたちは、如来の遺身の供養のために煩わされないがよろしい。
さあ、アーナンダよ、そなたたちは、最高の善につとめるがよい。最高の善を修するがよい。
最高の善において、放逸することなく、熱心に、精勤にして住するがよい。
アーナンダよ、如来の信をいだくクシャトリアの学者や、婆羅門の学者や、居士の学者があって、彼らが如来の遺身を供養するであろう。

だが、世尊よ、如来の遺身はどのように処理すべきでありましょうか。

それは、アーナンダよ、転輪聖王の遺身を処理するように、そのように如来の遺身を処理すべきである。

では、世尊よ、転輪聖王の遺身をどのように処理すべきものなのでしょうか。

アーナンダよ、人々は転輪聖王の遺身を新しい布で包む。新しい布で包んで、さらに真新しい麻布で包む。真新しい麻布で包んで、さらに新しい衣で包む。そのようにして、幾重にも幾重にも輪転聖王の遺身を包んで、鉄の油槨に入れ、さらにもう一つの鉄槨で覆い、いろいろの香木の薪を積んで、輪転聖王の遺身を荼毘に付する。
そして、大いなる四衢街道に輪転聖王の塔を造立するのである。アーナンダよ、転輪聖王の遺身はこのように処理するのである。
そして、アーナンダよ、転輪聖王の遺身を処理するように、そのように如来の遺身もまた処理するのである。また、大いなる四衢街道に如来の塔を造立すべきである。そこに、華鬘や香料や顔料を供えて礼拝する者には、長い間にわたって、利益と安楽があるであろう。ー

さて、世尊が入滅したクシナーラーで、マッラ族にご遺体の処理を任せることになる。種々の供養し七日目、ご遺体を移動しようにも移動できないなんてことが起きる。長老アヌルッダ尊者は「諸天意向と異なっているから(意訳)」と答えいうことで、さらに天神とマッラ族と共に種々の供養を捧げることになる。処理方法を聞いたアーナンダ(阿難)によって同じ事を、のマッラ族に伝え、荼毘に伏してもらうこととなる。上の通りに安置し、香木に火をつけようとするが火はつかないのだった。

実は長老マハーカッサパが途中で世尊の最期を聞いて、クシナーラーに向かっていた途中だったという。長老マハーカッサパ一行が着いてすぐの話を続けて、

(律蔵 小品 一一 五百結集犍度、四分律、五四、集法毘尼五百人、五分律、三〇、五百人集法、十誦律 六〇、五百比丘結集三蔵法)

ー長老マハーカッサパは、クシナーラーのマクタ・バンダナ(天冠寺)というマッラ族の廟に赴いた。赴くと衣を一肩にかけ、合掌して、三たび香木の薪をめぐり、足より覆いをとりさって、世尊の御足に頂礼した。
そして、長老マハーカッサパと五百人の比丘たちとが、礼拝し終わった時、世尊の香木の薪はおのずから燃えた。
かくて、世尊の遺体が荼毘せられると、その皮も肉も筋も髄も、その灰も煤も見えなくて、ただの舎利のみが残った。
たとえば、ちょうど酥や油の燃えた時、その灰も煤もみえないように、そのように、世尊の遺体が荼毘せられた時、その灰も煤も見えなくて、ただの舎利のみが残った。そして、かの幾重にも幾重にも重ねた衣のうち、最も内と最も外の二重の衣は焼けた。
そして、世尊の遺体が荼毘せられた時、虚空から水の流れが現れて、世尊の香木の薪を消し、また水倉の水が迸り出でて世尊の香木の薪を消した。また、クシナーラーのマッラ族の人々は、七日の間、公会堂において、槍の垣を造り、弓の柵をめぐらし、舞踏や歌謡や奏楽や華鬘や香料をもって、世尊の遺骸を尊び、敬い、崇めて供養した。ー

この後、舎利は様々な部族に八分され8つの舎利塔となり灰などを分けた瓶塔と灰塔を含めると十に分けられたというのが伝説です。さらに200年後にはマウリヤ朝アショーカ王によって「周辺国も含めて8万余の膨大な寺院に再配布」している。

法身の仏陀の言葉などと、生身の仏陀は、この世を去り「舎利」として残り、今ではどれが本物かも解らないような状態と言っていいと思われる。

世尊は「如来の遺身の供養のために煩わされないがよろしい。」と修行を勧めているが、後世立てられた東南アジア諸国の僧院寺院にはストゥーパやパゴダや仏塔という形で舎利塔が建てられているのは興味深いところである。恐らく、歴史的なものから、信者による寄進により、建てられたものなのだろうと思われる。様々な日本の寺院でも五重塔・三重塔・多宝塔など様々な仏塔が建てられている。さらに、密教に興味のある方なら寺院の大壇に舎利塔が置かれているのはみたことがあるかもしれない。

仏教徒とは「信者」なのか「修行者」なのかよくよく考えさせられることになる。少なくとも私は「佛陀釈迦牟尼如来」の「信者」であり、その「法」・「真理」を学び実践したいと思うからこそ・・・「悟りたい」という気持ちが最優先だからこそ・・・行を通じて、その教えに感謝し供養するというスタンスを取っている。

少なくとも、私はまだ俗世の人なので「お金ないと困る~ヽ(`Д´)ノ」のでそういうご利益もあったらいいなとは思うが・・・「小欲知足」でしょ!という気持ちもあり・・・と・・・そうではなく「智恵」というご利益が正しいだろうと思う。だからこその「安楽」であるとも言えると思う。

さて、この「塔」一体どこかでみたことないでしょうか?曼荼羅の三昧耶形で真ん中に置かれる「塔」の中身は何か?

金剛界曼荼羅では、大日如来の種子は「वं」である。が・・・三昧耶会に月輪中の蓮華の上に「五鈷杵」上に「塔」が描かれている。種子は「आः」であり、胎蔵生曼荼羅の中台八葉の中尊と同じなのを気づきませんでしょうか?

12月8日は「みんなのサンガ」で「成道感謝の日」でした(笑)いつもと変わらずご供養と廻向で皆共に成道を祈ったりしていました。サンガあっての「先生」と「菩薩道」でもありますしね。ありがとうございます。