しかし、心の実相というのはとても難解で引っぺがすにしても直すにしてもとてもつらいものがありますね。
怒りの根底を探ってみると、自他が分けられたその時点で、我に不利益であったり都合が悪かったりすると、その時点で「生存欲(自己保存欲求)」だったりが引き金になって、「怒り」が起きていたりするのが解るワケでなかなかそこから離れることが出来ない。「渇愛」も元々は「再生」程の意味だったとのことを静恵先生から教えて頂いたわけですが、結局「渇愛」も「生存欲」「快楽欲」「破壊欲」がへばり付いている限りは、何度も反省して考えを改めようと、また襲ってくる(=「再生」)という、確かに消えることのない亡霊のようなものだったりする、そんな思いをする毎日だったりしてます。
さて、それでも「悟りたい」想いを原点(発心)に心に張り巡らし、維持し続けるのも結構つらい思いも、フッと上で書いたようなことが解ると少し安堵と同時に、もう一回原点に戻ろうと保ち続けるわけだったりする。普賢十大願では四番目に「四者懺悔業障」といい、悪業を悔い改めようと願いを起こすわけですが、見習って・・・続けるというのは結構大変です。
普賢菩薩というと、「金剛峯樓閣一切瑜伽瑜祇經」では、普賢一字心として「वं」としています。この普賢菩薩とは結局、金剛薩埵であり、金剛手菩薩です。さて、金剛界の一印会のお姿を見ると大日如来(वं)ですが、『金剛頂経』によれば「金剛薩埵(一切義成就菩薩)」がそこに描かれるはずです。つまり、金剛薩埵が成道した姿が「金剛界如来」で、それを大日如来(वं)としたのであろう思えます。後期密教では大日如来(वं)とは別に持金剛仏が立てられています。ヒントはそこにあるとも言えるのかもしれないです。
「वं」は五輪塔の「水輪」でもあります。仏教においての「水」といえば、「閼伽水」として供養に用いるわけですが、「布施」波羅密を意味しています。「水」って、空気中に水蒸気となっていますし、もっといえば人体の60%は「水」です。海水に始まり、お日様に温められて、蒸発して雲となり、雨や雪として地上に降り、川となって流れて、また海に注ぐわけですが、生き物を育て、ほんの一部を一時は「あなた」や「私」の一部となりますが、不要になれば、また循環に戻るわけで永遠にめぐり続けます。
お浄土にも水(八功徳水)がありますし、摩訶毘盧遮那仏の住む世界にもその「八功徳水」は瀰漫しています。きっとそれも役目が終われば循環に戻ってくるのかもしれないわけですが、次元が違えば解りませんけれども。大日如来の密厳浄土は現世ですから、循環に戻ると言えます。
そんな「水」のほんのわずかの一部を「閼伽」として供えて役目が終われば循環に戻って・・・(廻向)・・・戻れば他の「水」と差別はありませんし、少なくとも全体において「あなた」や「私」もないとも言える・・・ませんかね。「お布施が大事!」てこういうことなのかもしれないですね。水って実体が液体なのでつかみ所ありませんが、「計測」することが出来ます。ということは一種のエネルギー(風)でもあり得ます。更には東洋医学では「水毒」といって取り過ぎに注意を促しています。つまりは器に合った適量ということ、小欲知足ってことですね。器次第なのでしょうね。
更には知恵を使えば「水」は汚れを洗い流せます(智恵)。汚れは「水」に溶解しなければ沈殿して、「上澄み」はまた綺麗な「水」に戻ります。心の垢も流せるといいんですがね。
ちなみに、「空」という概念を伝える為に「金剛般若経」では「水」を譬えに使っています。ただ、そんな「水」も「空間(अ)」がなければ存在できないわけですが・・・つまり「宇宙」。元々「瑜伽」はヨガなわけですが、ヨガは宇宙と一体になる、「अ」字(宇宙)にダイビングってことでしょうか。
ちなみに、「वं」の字相は「言説(ごんせつ)」ですが、字義は「言説不可得」です。ホントに語り尽くせませんね。
ところで入定大師のお姿って何かに似てませんか?
質問ばかりで答えがありませんが、感じ取ってみることが大切なのでしょうね。