毘盧遮那考察(3)

「अ」字は大日経具縁品や般若経四十二字門もかもわかるとおり「一切諸法本不生」とします。「不生」は般若心経の「是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減」であり、つまり遠回しに「空相」であると言っていると思います。

少なくとも御大師様が著された「般若心経秘鍵」では「分別諸乗分」の「絶(文殊菩薩の無意味に議論を絶つことを説かれる教え)」と仰って「無戯論如来の深い悟りの境地」としています。

更に「無戯論如来」の「無戯論」とは「離戯論」と同義ですから”言葉では表現しきれない”真実の論、ということでしょう。「वं(鑁)」字言説不可得とうかんで腑に落ちてしまいます。

御大師は「御遺告」で「阿含経」の名前を出されていますから、当然のこと、元々お釈迦様が「地水火風」の四大は触れて弟子達にお話しされていて、その当時の思想に「空」の概念が含まれていなかった事は知っていたのでは?と思ったりもします。それでも「空」を追い求めて探って私たちに示してくれているように思えます。

根本仏教で「空」は「我空法有」といい、大乗仏教では「我空法空」としています。「我」とは「真我」や心奥に住す「神」や「魂」なのでしょうが、三法印でいえば、「諸法無我」です。根本仏教でも大乗仏教でも共通しているわけですが、「法空」や「法有」の「法」は「色受想行識」・・・つまり「五蘊」が「有」のか「空」なのかという問いだったりします。物理世界としての「自己」はどう否定しても「有」ので、「我」はどうも「自我」を指していると捉えるのがいいように思ってます。「自己」は客観的存在、「自我」は主観的存在とでも置き換えたらわかりやすいのでしょうか。その中でも「貪」・「瞋」・「痴」の「三毒」に起因する「自我」が問題なのであって、自身を否定するよりは、起きている事象のなかで客観的に「三毒」のいずれかか、複合されているか、自省して、自分を自分でコントロールすることが必要なんだと思えます。自分が救われる道に他者をコントロールするなんて、自分さえコントロールできないのに可能だと思います?そんな自分勝手なお願いが叶うと思います?私はあり得ないと思って、現在に至っています。前にも書きましたが「自己同一性」を病気のようなこととしてでなく、自身で自分の為にコントロールする為に行う・治して正すっていう意味で、そのままなワケですが。。。自分が変わればいいということなんではないでしょうか?さて、「空」を小難しく考える必要もありますが、根本に戻って「空虚」や「空っぽ」と簡単に割り切って心の中(識)の「自我」が「空っぽ」でも「自己」は存在し続けます。

昔、エンジニアを生業にしていた頃、コンピュータを使う上でプログラムを書きます。関数という「器」を人間様が宣言して、コンピュータ(のOS)にお任せでメモリを割り当てます。

int var = 0;

宣言と同時に初期化も行っていますが、初期化をせずに「器」だけ、宣言したらどうなるでしょう?・・・「答え、そのメモリ上に書かれていた数値を使う」です。ですから、「初期化をしましょう」って話です。更にはみんなお行儀がいいのでプログラムを終了する時に「0」に戻しておいてくれたり、OSがそうしてくれる場合もあります。

人間の感情はコンピュータほど簡単なものではありません。皮膚の細胞に至っては物理的な免疫・・・体内を保護しますが、もしかしたら「隣とくっついている」だけの使命を果たしているだけかもしれません。その塊が集まりに集まって、60兆、皮膚となり、内臓となり、骨となり・・・生き物を形成しているわけですが、そこに「心」という「識」を総合的に集まって形成しているとも言えます。当然、最初は小さな使命で繋がっているだけかもしれませんが、やがて「生きる」ことを考え、「欲」が生まれて、「貪」・「瞋」・「痴」と共に生きることになってしまうという構図ですね。そこに気がつくことを、私的に表現すると「空」はその上で説明した「関数」という「器」だけの状態に似ているなと勝手に思っています。ちゃんと初期化さえしてしまえば、あとは実は自由に定義できるし、自由に使っていいものだったりしています。初期化しないメモリは、所謂、慣習や常識などに雁字搦めにされた集団意識・社会にポンと自分がおかれた時に、何かの行動をとると、初期化が済んでいない自我がその雁字搦めの落とし穴に填まる(全てではないにせよ「悪業を積む」ことにもなる)という構造に似ているなと思います。更には最近は複雑で、ダブルスタンダードの中に於かれているものが沢山あります。いずれを選ぶとしても「自分を満足」させる為に「自分の都合のいい」選択をしていることが多々あります。自戒を込めて書けば、そういう「誰かが言ったこと」に「疑い」を持つのも大切なにかもしれません。そもそも「不生不滅不垢不浄不増不減」なはずの話です。断っておきますが、社会に反骨する事でも乱すことでも、逆に八方美人になることでもないですが、仏法・中道を選択するとある意味「マイノリティ」は避けられないかもしれませんが、大体はそうならずに済むと思います。

実践して体験して納得したのはこの程度の「空」でしかないので、それもここに書けるのはごく一部ですし、実践し切れていないのが現状で、まだ入り口・玄関に入っているに過ぎません。玄関はその奥があるということでをれを明らかにすることが、私の由来だったりします。物質が量子の世界に入って・・・原子が「不確定性原理」においても静止せず一定の振動があるとされていますが、「ゼロ点エネルギー」(略してZPE、URLの由来です)は、いうなれば「あがき」のようなものなのかもしれないですし、結局は「苦」の根源を除きたいという一点に帰りたちます。何でしょうね?「菩提心」だと思います。

この「空」の思想・思考は、弘法大師がお名前に「空」の字を入れたのも、御大師にとってこの「空」の思想がとても重要だったから命がけで求法の旅に出られたのかなと私は勝手に想像してしまいます。奥が深すぎて私のような凡夫には計り知れない・・・ですよね。

元の話に戻りますが、「अ(阿)」字「本不生」、「空」相や「有」、梵字では「本初」です。赤ちゃんが生まれて最初にするのも「あ~」って泣くわけで、入り口です。「空」ですら入り口なのですから「अ(阿)」字を二編でも足りないワケです。

さて、大乗って何でしょう?「十牛図」では俗世に戻ってくる必要性があります。返本還源にも至ってないので、こんな、他愛のない話ですみません。そんなのでも「ブログやってみれば?」「法を説いてみれば?」なんていって頂けた先生には申し訳ない内容・・・拙い文ですが・・・ありがとうございます。