毘盧遮那考察(4)

とある経典の一文を求めて色々読みあさってみていて見つけた一節。

姿や形だけで仏を求めてはならない。姿、形はまことの仏ではない。まことの仏はさとりそのものである。だから、さとりを見る者がまことに仏を見る。
世にすぐれた仏の(すがた)を見て、仏を見たというならば、それは無知の眼の過ちである。仏のまことの相は、世の人には見ることはできない。どんなにすぐれた描写によっても仏を知ることはできないし、どんな言葉によっても仏の相は言い尽くすことはできない。
まことの相とはいっても、実は、相あるものは仏ではない。仏には相がない。しかも、また、思いのままにすばらしい相を示す。
だから、明らかに見て、しかもその相にとらわれないなら、この人は自在の力を得て仏を見たのである。

「仏教聖典(仏教伝道協会制作) 第三章 仏の姿と仏の徳 第一節 三つのすがた」より

言いたいことを言い当ててくれています。問題はこの先・・・典拠元に「こんなんあったっけ?」とちらちら調べてみたんですがよくわからないで終わってしまいました(苦笑)。「華厳経 如来光明覚品」であるならば、以下の部分でしょうか。

若以色性大神力
而欲望見調御士

もし、色性と大神力とをもって、しかも調御士のお釈迦さまを望見したいと欲せば、

是則瞖目顛倒見
彼爲不識最勝法

これはすなわち、眼病の目による、さかさまに倒れて見るものです。彼は最勝の法を識らない者です。

如來身色形相處
一切世間莫能覩

如来の身の色や形の相う処は、すべての世間ではよく観ることはできません。

億那由劫欲思量
妙色威神不可極

億那由のきわめて長い時間に思量したいと欲しても、妙なる色の威神は極めることはできません。

非以相好爲如來
無相離相寂滅法

仏の姿や顔つきをもって、如来と為すのではありません。相が無く、相を離れた寂滅の法です。

一切具足妙境界
隨其所應悉能現

すべての、つぶさに足り、妙なる境界は、その応じる所に随って、ことごとくよく現れます。

諸佛正法不可量
無能分別説其相

諸々の仏の正法は、量ることができません。よく分別してその相を説くこともできません。

諸佛正法無合散
其性本來常寂滅

諸々の仏の正法は合ったり散ったりすることはなく、その性は本来は常に寂滅です。

不以陰數爲如來
遠離取相眞實觀

色受想行識の集合である肉体をもって如来となしてはいません。取る相を遠く離れて真実を観ずれば、

得自在力決定見
言語道斷行處滅

自分の思いのままの力をもって決定して見ることを得ます。話にならず言語道断にして行うところは滅します。

等觀身心無異相
一切内外悉解脱

身の心に異なる相が無いことを等しく観察し、すべての内外はことごとく迷いより解りへと脱したならば、

無量億劫不二念
善逝深遠無所著

量ることのできない億のきわめて長い時間にも不二の念、善逝と言われるお釈迦様の深く遠いとらわれる所がなくなります。

普放妙光明
遍照世境界

あまねく妙なる光明を放ちて、遍く世の境界を照らし出せば、

淨眼一切智
自在深廣義

浄眼のすべての智にして、自分の思いのままに深く広い義です。

一能爲無量
無量能爲一

一つのよく量ることのできないものと成り、量ることのできないよく一となり、

知諸衆生性
隨順一切處

諸々の迷えるこの世の人々の性を知り、すべての処にすなおに随います。

身無所從來
去亦無所至

身は従来するところでななく、去るもまた至る所ではありません。

虚妄非眞實
現有種種身

虚妄は真実ではなく、種々に身があることを現します。

一切諸世間
皆從妄想生

すべての諸々の世間は、皆、妄想に従って生じます。

是諸妄想法
其性未曾有

この諸々の妄想の法は、その性いまだかつて、有ることはなく、

如是眞實相
唯佛能究竟

このように、真実の相はただ仏のみ、よく極めるところです。

若能如是知
是則見導師

もしよくこのように知ることができれば、これはすなわち導師を見ることです。

仏教聖典の部分が該当するとなると、随分意訳しちゃっていることになりますが、言い得て妙なるものに書き換えられてますね(和訳は「経典散策・大方広仏華厳経」より引用させていただきました)。

少なくとも、私たちが求めている「仏画」や「仏名」は佛陀ではないし、お釈迦様は「法の相続者たれ」(南伝 中部経典 三 法嗣経、漢訳 中阿含経 八八 求法経)といい「中道」を説かれ「八正道」を語られています。

現代で「中道」を学ぼうとすると、「中観派」つまり龍樹菩薩に始まる般若系の中論にたどり着きます。日本においては南都六宗の「三論宗」となり弘法大師の密教伝来と共に密教に融合していきます(実はその「三論宗」の中興の祖は聖宝尊師=理源大師とされている。また、寓宗に「成実宗)。もうひとつの流れで「唯識派」によってヨガ(瑜伽)は伝承され、日本においては「法相宗」(南都六宗の一つ、寓宗に「倶舎宗)となり、更には「行基」が学び、東大寺大仏(毘盧遮那佛)開眼供養の導師を勤めたとされています。ちなみにこのインドの学派の中観派と唯識派は対立していたとされています。今においてもこの色(中観派と唯識派)は濃く反映されていると思います。ただ、南都六宗の時代、学僧達は互いの学派を学びあう役割が強かった為か、インドの学派のと似たような道を通り、華厳宗・法相宗・律宗が残り次第に統合されて分派していったように思えます。

さて、東大寺の毘盧遮那佛は「華厳宗」だったりします。この華厳宗の教学(佛の見地に立ってみた「理」)に「重々無尽の縁起」があり、「無自性空」です。

弘法大師の思想はこの華厳宗と三論宗の影響が強かったんだろうと思います。空の思想も大乗仏教では「我空法空」ですが、「秘蔵宝論」で、第四住心(唯心無我心)と第五住心(抜業因種心)の辺りを読むとわかりますが、法空としているのは「五蘊が縁をあって仮に和合して(集まって)いる」と考えられるかどうかの違い(ただそれだけではありませんが)があるようです。つまり、色受想行識が因果関係(縁)によって成立・集まっているのであって、先日の坊さんブログの「現象よりこころに残ってるもの」に甚く感動したワケです。それらの「色も空だよ」と、「色即是空」だということだったり、現象って作り出すことも・・・可能かもというところに行き着きますものね。で、もうひとつの種子をだすと「हूं(吽)」字で字義は「因業不可得」です。「अ(阿)」字の「空」相がわかると、因果の法則まで変わってくるって事でしょうかね。

「हूं(吽)」字は金剛界で金剛薩埵、「吽字義」では大日如来の種子として語られています。