とある経典の一文を求めて色々読みあさってみていて見つけた一節。
姿や形だけで仏を求めてはならない。姿、形はまことの仏ではない。まことの仏はさとりそのものである。だから、さとりを見る者がまことに仏を見る。
世にすぐれた仏の相を見て、仏を見たというならば、それは無知の眼の過ちである。仏のまことの相は、世の人には見ることはできない。どんなにすぐれた描写によっても仏を知ることはできないし、どんな言葉によっても仏の相は言い尽くすことはできない。
まことの相とはいっても、実は、相あるものは仏ではない。仏には相がない。しかも、また、思いのままにすばらしい相を示す。
だから、明らかに見て、しかもその相にとらわれないなら、この人は自在の力を得て仏を見たのである。「仏教聖典(仏教伝道協会制作) 第三章 仏の姿と仏の徳 第一節 三つのすがた」より
言いたいことを言い当ててくれています。問題はこの先・・・典拠元に「こんなんあったっけ?」とちらちら調べてみたんですがよくわからないで終わってしまいました(苦笑)。「華厳経 如来光明覚品」であるならば、以下の部分でしょうか。
若以色性大神力 而欲望見調御士 |
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是則瞖目顛倒見 彼爲不識最勝法 |
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如來身色形相處 一切世間莫能覩 |
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億那由劫欲思量 妙色威神不可極 |
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非以相好爲如來 無相離相寂滅法 |
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一切具足妙境界 隨其所應悉能現 |
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諸佛正法不可量 無能分別説其相 |
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諸佛正法無合散 其性本來常寂滅 |
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不以陰數爲如來 遠離取相眞實觀 |
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得自在力決定見 言語道斷行處滅 |
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等觀身心無異相 一切内外悉解脱 |
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無量億劫不二念 善逝深遠無所著 |
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普放妙光明 遍照世境界 |
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淨眼一切智 自在深廣義 |
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一能爲無量 無量能爲一 |
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知諸衆生性 隨順一切處 |
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身無所從來 去亦無所至 |
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虚妄非眞實 現有種種身 |
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一切諸世間 皆從妄想生 |
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是諸妄想法 其性未曾有 |
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如是眞實相 唯佛能究竟 |
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若能如是知 是則見導師 |
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仏教聖典の部分が該当するとなると、随分意訳しちゃっていることになりますが、言い得て妙なるものに書き換えられてますね(和訳は「経典散策・大方広仏華厳経」より引用させていただきました)。
少なくとも、私たちが求めている「仏画」や「仏名」は佛陀ではないし、お釈迦様は「法の相続者たれ」(南伝 中部経典 三 法嗣経、漢訳 中阿含経 八八 求法経)といい「中道」を説かれ「八正道」を語られています。
現代で「中道」を学ぼうとすると、「中観派」つまり龍樹菩薩に始まる般若系の中論にたどり着きます。日本においては南都六宗の「三論宗」となり弘法大師の密教伝来と共に密教に融合していきます(実はその「三論宗」の中興の祖は聖宝尊師=理源大師とされている。また、寓宗に「成実宗」)。もうひとつの流れで「唯識派」によってヨガ(瑜伽)は伝承され、日本においては「法相宗」(南都六宗の一つ、寓宗に「倶舎宗」)となり、更には「行基」が学び、東大寺大仏(毘盧遮那佛)開眼供養の導師を勤めたとされています。ちなみにこのインドの学派の中観派と唯識派は対立していたとされています。今においてもこの色(中観派と唯識派)は濃く反映されていると思います。ただ、南都六宗の時代、学僧達は互いの学派を学びあう役割が強かった為か、インドの学派のと似たような道を通り、華厳宗・法相宗・律宗が残り次第に統合されて分派していったように思えます。
さて、東大寺の毘盧遮那佛は「華厳宗」だったりします。この華厳宗の教学(佛の見地に立ってみた「理」)に「重々無尽の縁起」があり、「無自性空」です。
弘法大師の思想はこの華厳宗と三論宗の影響が強かったんだろうと思います。空の思想も大乗仏教では「我空法空」ですが、「秘蔵宝論」で、第四住心(唯心無我心)と第五住心(抜業因種心)の辺りを読むとわかりますが、法空としているのは「五蘊が縁をあって仮に和合して(集まって)いる」と考えられるかどうかの違い(ただそれだけではありませんが)があるようです。つまり、色受想行識が因果関係(縁)によって成立・集まっているのであって、先日の坊さんブログの「現象よりこころに残ってるもの」に甚く感動したワケです。それらの「色も空だよ」と、「色即是空」だということだったり、現象って作り出すことも・・・可能かもというところに行き着きますものね。で、もうひとつの種子をだすと「हूं(吽)」字で字義は「因業不可得」です。「अ(阿)」字の「空」相がわかると、因果の法則まで変わってくるって事でしょうかね。
「हूं(吽)」字は金剛界で金剛薩埵、「吽字義」では大日如来の種子として語られています。