天狗道

昨晩書いたブログは何点か間違えやどうでもいい部分に気が付いたので少々書き直しました。

さて、皆さんは天狗をご存じでしょうか。高い鼻とカラスのような翼、鈴掛など修験の装束。。。そうアレ、あの妖怪です。験が出る出ないに入れ込みすぎて本来が見えなくなるとその道に堕ちてしまうのでしょうか。恐らく、自身の自戒のためとして云われはじめたのじゃないかとも思えます。

後期密教では成就法という行法分類が加わっていますが、所謂祈祷法ではなく自身の為の修行法だったりします。どうも中期密教ではこの成就法が欠けているというか、加行に入らない限りは一般に門外不出のもの・・・私たち一般人ができるのは阿字観ぐらいかもしれません。また今の御次第を帳面に留め始めたのは弘法大師だといわれていますが、それまでは経典のまま次第もなく行じていたともいわれています。帳面となった次第を行じることで、誓願を立て、懺悔して、菩提心を起こして、慈悲心を起こし・・・三昧に入っていくように導くお次第となっていることに気が付くはず・・・そう思っているのは私だけでしょうか。

坊さんブログの逆パワースポットの話ですが、そこには天狗さんの石像が横にありました。このパワースポットを敢えて知っていた人がそうならないように置いたとも解釈できそうです。つまり「魔縁に気をつけなさい」と受け取れました。先生が行者さんのお相手をしている内にさっさと勤行を済ませることにして、鈍感な私は何も感じることなく受け取らず下山に着きました。受け取っていないつもりで受け取っているかもしれませんが、それはそれ、業として受け止めるよりほかないでしょうし、ジタバタしてもしょうがないかとも。

実は夢の話(寝た時に見るあの「夢」の話です)ですみませんが、旅行出発の前夜、夢の中に「何でも願いを叶えてくれる神様」が出てきました。夢の中、尊像を預かるのですが、丁寧に祀ると、次いで神霊まで御出になって、あなたの願いを叶えようと・・・そこで目が覚めます。もしそんなことが実際に起きたら皆さんはどうするでしょう?まぁ、願望が夢となっているのは誰でもわかるはずで、進むに進めない自分がいて、もどかしさを感じているわけでそんな現実を受け入れるか受け入れない状況にターニングポイントとしてこんな夢をみたとも言えます。夢の中で私は「何でも願いを叶えてくれる神様」に畏敬の念と感謝の気持ちはあれど、何も願う気が起きなかった、ある意味満ち足りているのかもしれませんし、まずは冷静に受け止めようと思っただけかもしれないです。夢から覚めればそれが心の幻影であるのはわかるんですが、それはさておき、ナイトスタンドブッディストとしてその晩、もしそのような神霊がいらっしゃったとして引き合わせてくださった事や守護してくださることに感謝する気持ちがあれど今必要な事以外は全て他の人々のためにそのお力をお使いくださいとも思ったのでした。目覚めてこんな中で一人旅に出て、最後に引き合った眼光の鋭い「霊能者さん」だったのかもしれません。私の業なのでしょうね、紙一重を自認せねばなりませんね。

仏様は尊ぶべき存在ですし、信仰の対象ですが・・・お釈迦様の説いた「法」が最も大事でそれを忘れては、「法の相続者」にはなれないと改めて自戒したいところです。この天狗のお話は書くのを憚ったのですが、こんな危険性の中にいる・・・魔縁とでもいえばいいのでしょうか、紙一重の処にいる自分に自戒を込めて書き加えることとしました。御大師様がその弟子や信者に天狗になってもらいたかったワケではないですし、多分、伝えたかったことの真意を汲むべきだと感じますし、現代に至るまで数え切れないほどの金剛薩埵によって伝えられてきた「伝統」を大切にしていきたいとも感じます。未だ答えは見つからないですが、悟りたいという気持ちを持続すること、その時々で菩提心も書き換わるかもしれませんが、原点を忘れないこと、慢心せず大事に育てたいと思います。