毘盧遮那考察(5)

いや~、うん○

え?どっかに染まっている?いやいや、気のせいです。当たらずとも遠からずなので。さて「どっか」といえば・・・坊さんブログの「クズでもオッチャンは)」を読んでいて『心痛むな』と思う今日この頃です。

身体を観察すると思うに内部恒常性(ホメオスタシス)といって、外部の環境に内部環境を一定に保とうとします。そういう外部の刺激に内部(身体)を一定の状態を保とうとする無意識の選択からすると、「変わりたくない自我」いても必然、開き直って「グズ(愚図)」なんですよね、自戒を込めて書くと。

さて、「うん○」ですが、お釈迦様は「またその九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、(一九七)鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。(一九八)」(『ブッダのことば』(中村元訳)第一「蛇の章」一一「勝利」)といい、他には「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執、嫌悪、貪欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。(八三五)」(『ブッダのことば』(中村元訳)第四「八つの詩句の章」 九「マーガンディヤ」 )と語られている。後世、この身体を「糞袋」や「九穴の糞袋」なんて表現しているのも真理なんです。昔私の時代なんかでは「アイドルだってうん○する」なんて言ったものです。私たちの身体は、現代的には「うん○製造マシン」ってところでしょうか。

大まじめに「うん○」を分析してみると、古くなった赤血球などを脾臓で分解した時に「ビリルビン」が代謝物になり、肝臓に送られ更に胆汁となって、更に腸の中で「ウロビリノーゲン」になり黄色から茶褐色のあの色になります。アミノ酸が分解されてインドール(C8H7N)スカトール(C9H9N)などがあの匂いですが、実はその匂い微量ですとジャスミンやオレンジなど花の香りに含まれています。内容物はと言えばたった5%の食物の残渣と、10~15%の腸内細菌の死骸、15~20%の腸壁細胞の死骸と、60%の水で出来ているそうです。とっても効率のいいことです。話はぶっ飛びますが、日本人の腸は欧米人に比べて少し長いんだそうです。欧米人にとって吉牛などの牛丼が「おやつ」というのも納得でその分日本人は吸収効率が更にいいんですね。昔の日本人が少しのおかずと沢山のお米で生活していたなんて話もありますから、その過程で腸が長くなったんでしょうかね?!どっから出た話かもわからないので置いておきますが。食物の残渣は消化の過程で溶けなかった植物由来の細胞壁などだと言われています。サラダでダイエットなんていいますけれども先にサラダを食べて、絡めて出そうなんて言うのも「うん○」の原理を考えるとなるほどな話ですね。でも、95%は身体になっていき、新たな不浄物を産んで、掃除も頑張るわけです。必要以上なら肥えるし、そこはサラダを増やして量を調節しつつ・・・結局そこは小欲知足も必要なんでしょうね。

話は戻って、「うん○」の「うん」は「हूं(吽)」だとすると、梵語として日本に弘法大師が請来したわけです。「ん」の字を五十音にせよ、いろは歌にせよ、最後に加えたのも御大師様だったと聞いたことがあります。その時代をうかがい知ることは結構困難ですが、少なくとも貴族達の生活は文学の中でうかがい知ることが出来るかと思われます。ちなみに「ちん○」は・・・諸説あるなかで、昔、天皇猊下が御自分のこと「朕(ちん)」と称されていて・・・「朕子」・・・長くなるので止めましょう・・・、ある意味それと同じように、「うん」+「こ(○)」を付けていたのは、あながち疑わしくもなく勝手に納得している私でした。

どんなに美食の限りを尽くそうともどんなに綺麗に美しく盛り付けた食事も、結局最後は「うん○」になるので、「हूं(吽)」は「終わり」を意味しているようにもとれます。弘法大師の著された「吽字義」を読んでも、「う~ん」と考えるだけでなかなか筆が進まない私はその「終わり」の意味や「死」・「滅」への言語的表現に、ほとほと困り果ててしまったことも、結構長く更新できなかった理由でもあります(単純に忙しくなってしまったのも最大の理由ですが)。「吽字義」に書かれていることはどちらかというと「密教」の教えの解釈論の中の入り口のように思えます。つまり、実践の過程で説かれた原始教典をはじめとする経典群のようなもので、弘法大師が請来した「密教」の内実を「梵字」を借りて説いている様にも読めてしまいます。そこにブログで書けるような答えはないんですよね。そんな簡単に解ったら1200年もの間、口述や伝統を借りて一見すると仏教という宗教という形を借りて、もっと言えば、お釈迦様が入滅されてから2500年進化を辿りながら続くわけないんですね。お釈迦様達はおいておいても、私たち的には、はじめは『裕福になりたく』てなのかもしれないですし、『幸せになりたい』かもしれないですが、そんな入り口も、その根源には「苦しみ」からの「解放」であって、それに対するものの見方の訓練として「死随観」などから始まり、生活を通じて「実践」を行い「取捨」し選択し「四無量心」やら慈愛と共存を学び・・・、ライフワークですね。でも共通しているのは「菩提心」で「苦しみ」からの「解放」は自分の成長次第でもあり。悪い譬えで「一攫千金」の譬えで「宝くじは買わねば当たらない」わけですが、当たる率だけで考えていくと、買う宝くじにどれだけ大枚をツッコまねばならないか、儲かるわけないわけです(笑)。けれど真理で「買わねば」(実践)「当たらない」んですよね。そもそも「お金」が「幸せ」なのか?とも色々考えていく必要がありますね。思い描く「幸せ」の中にもっと沢山の「お金」が必要とも解せられますね。けれど手にしても止まないのは何故でしょうね。

道を学ぶには実践も必要で、取捨して道理も知って智恵にして・・・その根源・・・菩提心・・・「苦しみ」からの「解放」を望む心=大願として悟りたいという切実な想いとそれに向かう力の根源・・・とでも言えばいいのでしょうか、これだけが残ってくるんですよね。でも、人間ですからあれもこれも捨てきれない想いも背負いつつ。つまりは「いや~、うん○!」だったわけです。

ちなみにお釈迦様の出家前の名前はゴーダマ・シッダールタ(गौतम शिद्धार्थ)ですが、漢写で「瞿曇悉達多」なのですが、『目的を達成した方』、『義を成就した方』という意味なのだそうです。密教経典でのアナグラムでしょうか、「一切義成就菩薩」として出てくるのは他ならぬ、成道以前の「シッダールタ」を指して菩薩としているようでしょう。一般的にはこの「一切義成就菩薩」は普賢菩薩=金剛薩埵と解されていますが、初会の金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)で金剛界法のキモとして五相成身観を修する主人公はこの「一切義成就菩薩」ですし、理趣経にも「一切義成就金剛手菩薩摩訶薩」として登場しています。その普賢菩薩=金剛薩埵の種子こそが「हूं(吽)」です。

お釈迦様は出家修行を通じて釈迦如来になられたように、私たちが金剛薩埵になって、実践を通じて大日如来(摩訶+毘盧遮那+如来)という架空の人格を設定して(なぜなら、私は「ゴーダマ・シッダールタ」ではないので「釈迦如来」にはなれませんし)、華厳経の中の登場人物のように菩薩道三昧実践しましょうとも。「吽字義」に説かれるように「हूं(吽)」字に一切がに含まれる結局「अ(阿)」に還るのも、何度も弘法大師が「大日経」を引用して、「菩提心を因と為し、大悲を根と為し、方便を究竟と為す」と説くのも、答えを言ってるんですよね。ただそこに、愚図っている私がいる。そんな「うん○」なお下劣話題ですみません。