死の王

前回の続き、スッタニパータ「第五 彼岸に至る道の章 学生モーガラージャの質問」より、元々、バラモンのバーヴァリのお弟子のモーガラージャ(Mogharāja摩訶羅倪、面王)の質問ですが、『死王』(maccurājā)とはなんぞや?だったりします。別訳があるのでそちらも参考に

同じく『死王』についてスッタニパータと同じくこのように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。(Evaṁ lokaṁ avekkhantaṁ, maccurājā na passatī)」といつ一文でダンマパダで発見できますが、併記してみると。

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」(ブッダのことば―スッタニパータ  中村 元訳 (岩波文庫))

「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。(ブッダの真理のことば 感興のことば  中村 元訳 (岩波文庫))

本来「空(suñña)」「空性(suññatā)」の事でしたのでここから読み解けるのは勘のよい方なら言わずとも、読み解けてしまうと思います。後者の『泡沫のごとし』『陽炎のごとし』は大乗経典で「空性(suññatā)」のキーワードとして使われています。

こうやって併記して考えていくと『死王(maccurājā)』という表現は、どうしても克服できない「死への恐怖」ぐらいの意味(死苦)を比喩しての表現だったのかもしれませんし、本当に当時『死王(maccurājā)』を信じられていたのかもしれませんし、定かではないです。しかし面白いですね!こんなこともあって、前回、スッタニパータとダンマパダがごちゃごちゃになってしまった私でした、お恥ずかしい(苦笑)。先生にご指摘頂いて速攻で直したのですが、「残しておいた方がいいよ」というのもあって訂正線で処理させて頂いてます。

さて、「空性」のキーワードは、「諸法無我」と結びつき、更に発展していって十縁生句となり、所謂「大日経(大毘盧遮那成佛神變加持經)」で

深修觀察十縁生句。
當於眞言行通達作證。
云何爲十。謂如幻。陽焔。夢。影。乾闥婆城。響。水月。浮泡。虚空華。旋火輪。

となっていったのでしょうね(つまりは、縁起)。

「自我に固執する見解をうち破る」といえば「無我相経」(雑阿含経 求那跋陀羅訳)や「五蘊皆空経」というのがあるのですが、経題からして、般若心経とリンクします。初っぱなで「五蘊皆空」と出てきているのは、『空(शून्य 梵:śūnya/巴:suñña)』で「法空」、般若心経の残りの「空」は『空性(शून्यता 梵: śūnyatā/巴: suññatā)』なのも意味があるのでしょうね。

「いや~、うん○!」な駄文で補足となりました。