佛法僧

つらつらと書きつつ、一応、必要に応じて「旧字」を使うことがあるのは、敢えて省略されない「字の元の意味」に帰る気持ちを込めて「旧字」で書いていたりします。(あくまでも私の認識していて解る範囲で)一つの法則性を出来るだけ保つ様にはしていますが、なかなか全部は難しいものです。校正の作業って大切なんですよね、多分。

『空性』を読み解くのにいくつかの経典を指し示してみましたが、様々な邦訳のある『小空性経』については今一歩どれ(「光明寺経蔵」様訳「マニカナ」様訳)も納得(合点)のいく内容で訳されていないなぁという違和感を持ちます。あ、否定しているのではなく、ここまで訳してくださったことに本当に感謝しているのですが、言葉遊びだったり哲学だったり、何かが足りないな。。。と思えてしまうのはアプローチの違いなのだと思います。物語のように読むと「釈迦」と「阿難」とのキーパーソンが出てくるのですが、大抵の訳されている経典の邦訳や漢訳をみると、キーになる「質問」ないし「設問」に韻を踏むように「偈」の様にして返してお釈迦様は答えていることが多く見受けられます。(原文ないし訳者が思う)大事なところを印象づけるためなのでしょうね。少なくとも小学校の国語の成績は「アヒル」(=「2」)の人なので私の戯言でしかないでしょうが(笑)。今思えば、詰め込み勉強・・・嫌で嫌でしょうがなかったですわ。

ここに気がつくのはそれぞれの原文(「光明寺経蔵」様)と漢訳との対比と邦訳を眺めてみると長短や余計なつけたしがあったりと(おそらく当時の理解上必要だったとも思える)、合点がいくのではないかと思いますが、少なくともこれらの付け足し・・・方便が解釈の仕方で様々な歪みも後世生んでしまったのか・・・核心は同じだったはずなのに、様々な部派や宗派が生まれ・・・、核心から外れたものを尊んで・・・、『歪み』のようなもの・・・、まぁ、そもそも論で、本職でもない、学者でもない、途上にいるかすら解らない、私の言うこと、そういう「う○こ」な戯言なので気にとめてもしょうがないでしょ、ってことで。

さて本題。

対比には「光明寺経蔵」様訳「マニカナ」様訳は分類とつじつまなど、それぞれ、よくまとまっていて、詩句のように読んでいって、そういう読み方の中で、核心部分に違和感があったのでさらってみると、所謂、「教科書読み」の方法で結論をかいつまんでみると『小空性経』からは間接的に、三宝、つまり「佛法僧」の文字が浮かんでくるともいえる。

原文の「すなわち」(yadidaṃ)を追ってみると(ここでは、「光明寺経蔵」様訳に拠って、「マニカナ」様訳の段落分けに拠ってみます)

閑林想
176-13.比丘僧伽による単一性が。
176-18.閑林想による単一性が
176-20.閑林想による単一性が

地想
177-8.地想による単一性が
177-10.地想による単一性が

空無辺処想
178-4.空無辺処想による単一性が
178-6.空無辺処想による単一性が

識無辺処想
179-5.空無辺処想による単一性が
179-7.識無辺処想による単一性が

無所有処想
180-5.無所有処想による単一性が
180-7.識無辺処想による単一性が

非想非非想処想
181-5.無所有処想による単一性が
181-7.非想非非想処想による単一性が
182-5.まさにこの六処ある身による、生命を縁とする〔煩いが〕
182-7.非想非非想処想による単一性が

無想心三昧
183-11.まさにこの六処ある身による、生命を縁とする〔煩いが〕
183-13.まさにこの六処ある身による、生命を縁とする〔煩いが〕

そして、最上の空性に至るワケなんでしょうが最初に「比丘僧伽による単一性が」の説明は非常に浮いた始まりですよね。もう一つの訳に拠ってみても同じで「単一性が」が「独住が」に置き換わるだけです。そう感じるのは私だけなんでしょうか?。漢訳を参照してみるとはっきりしてきますが、「唯比丘衆」といっているだけなんですよね。三昧に入って住しているといいたいところなんでしょうね。

つまり、「僧伽」に始まり「法灯明自灯明」で「法」に触れ最上の「空性」を以て解脱に至る「佛」に向かう指向性を導いている「三宝」のお経なんだなぁ、と勝手に解釈していました。つまり、空性にも段階があると。段階があってだんだん育っていく菩提心のように。

苦しいなと思って方便に触れてみたけれども、苦しみは解決されずその方便が「法」ではないと気がついて、いったい何が本当のことなのかと、身体を観察して、心を探ってみるようになり、最初に戻って足りないものを補完して、更に心を探究してみると、結局「欲」にぶつかり「三毒」が原因であることに気がつき、わだかまりを溶(解)きつつ、また心を探究してみると、強い「我執」に突き当たり、複雑に絡み合った「自我」との向き合いから、全く以て自分だと信じていたものが「思いどおりにならない」無常無我だと気づき、心もまた「かりそめ」の仮名で「無常無我」を確信して・・・、まさに

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 従身語意之所生 一切我今皆懺悔

残念すぎるほど最初は全く解らないけれども過去も解らないけれども三業で作り出された悪業にまみれて生き、世間の慣習だ常識だ道徳だの無明にまみれて、それを繰り返し続ける「輪廻」のようなもの・・・ですね。自分のものでもない水やミネラルやタンパク質などでできあがったこの身体も、科学の目で見たら絶対に解けない「我」というプログラムで執着し続け、自他を切り分けて勝手に世間のものさしで割り当てて分別し・・・絶対に苦しみの原点を捨てきれない、まさに絶望してしまいますよね。私のように弱いものは、本当はちゃんと戻るべき場所として「佛法僧」が必要なのか・・・と思えた経典でした。

その当時、物語に戻って阿難が釈迦に質問した時の段階に自分が達しているかも怪しいなと思えていますし、唯、先に必要な気づきのポイントを指し示しているのはよく解るようになっていると思うんですよね。一応知られている史実ではお釈迦様が生きてらっしゃった時は阿難は悟りにいたっておらず、根本分裂が起こる遙か昔、第一回結集で経蔵がまとめられる時になんとか間に合ったという物語があります。あ、ちなみに巷に言う「空無辺処想」にすら、ちゃんと私は達していない(理解できていない)と思ってますので誤解のなきよう。。。