意馬心猿

心の中で煩悩が騒いで「無常」であり、コントロールの効かないということは「無我」なのですが、こういう「馬が奔走し猿が騒ぎたてるのを止めがたいように、煩悩・妄念などが起こって心が乱れ、抑えがたいこと。」を『意馬心猿』というのだそうです。「心猿」ともいうそうです。

つまり、「五蘊」も「無常」で「無我」で「苦」なわけです。「蘊」という内外の物質世界の「法」、「蘊」という心の「法」・「蘊」という、意識の中の「法」は「無常」で「無我」で、「苦」なんですよ。『五蘊が仮に集まってできたものであるということを五蘊仮和合』というのですが、この五蘊というのも『仮名』で概念であって「実体のないもの」ともいえるのだと思えます。少なくとも自分という「色」はあるといえるんですが、自分の身体だと思い込んでいるにすぎないとしたら、これも我という「実体」も壊れますよね。すると、外界の物質世界も同時に壊れます。自他の区別自体おかしな事になってしまうんですよね。

でも「私がいるじゃん」生きてるじゃん、なわけですが、死んだらどうなるか、これ面白い説があります。あくまでも仮説ですが、もし科学が好きなら「ボルツマン脳」を調べてみてくださいませ。脳が勝手に自分に必要な情報以外をブロックして選択していたら、肉体が滅びたらブロックする物自体が壊れますから、連続性が失われランダムに形成されている原子からの情報が一挙に流れこんできて、情報に埋没してしまうことは想像できます。まぁ、『意馬心猿』どころではないですね。ただその前に集合統合していた意識の方が先に崩壊してしまうかもしれませんが。ただ「転生」が前提であったら崩壊してくれないかもしれませんね。いずれにせよ、単なる言葉遊び空想のお話です。

科学的視点という極論を私はよく使います。私は頭よくはない(?)ので・・・お釈迦様や大先達の様な膨大な理解力を有していない・・・自分だけで手一杯なんだと思います。そして、納得のいかない・腑に落ちない点を府に落とすための安心材料や「ものさし」なだけで、そこは人によってその「ものさし」に何を使おうがよいのだと思います。逆に知らない人にとっては、難しい話になってしまっているんですが、私流の言葉遊びと思っておつきあいくださいませ。昔、学友で「心理学」専攻だった方がいまして、何を学んだか話してくれたことがあります。「ただ先生の手足となって様々な情報を集めて、レポート化していただけで学ぶところが無かった・・・」と、同時に「その代わり、エクセル(パソコンにのってる表計算ソフトウェア)と統計学は得意になったよ!依頼主の”都合のいい統計”が出せるぐらいに」・・・って(笑)。統計ってアレですね、GDPとか信用度調査とかよくニュースでも流れてますが・・・アレです、どっかの都合のいいデータ加工がされたアレですね。いやぁ、そうなんじゃないかと思ってましたが、やっぱり・・・と言いたいところですが・・・それは置いて於いて、エビデンスに基づいて、少なくとも同じ前提条件さえあれば連続性もあって同じ結果を出しやすいという意味ではこれもありだと思います、言葉で表現し続ける上では。つまりは喩えだったりしますが、同じ結果をもたらせるという意味では役に立つものですね。ただ、「ものさし」でしか無いんですよね。しかも不完全な科学という「ものさし」なのですが。

少なくとも「ライフハック」なんかもとても役に立ちます。最近読んでいて気になったのは『人が「変化」を恐れる理由とその対処法』ってやつです。前提条件として『「人が変化を嫌う」のは何故なんだろう?』で調べていてたどり着いた記事です。極論「『変化』を前向きに受け入れましょう」というところでしょうか。また、賢すぎても色々デメリットがあるんだそうで、愚者であればストレスも減りますしホントお馬鹿でよかったよとも思えるわけで。

お釈迦さんもおっしゃってます。

自分が愚か者でありながら賢者だと思う者、これこそ愚者なのである。自分が愚者であるということを知っている者は賢者なのである。(別訳:もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる)「ダンマパダ63」(中村元著 原始仏典67頁/中村元訳 ブッダの真理のことば 感興のことば19頁)

孫子の兵法でもこんなこと言ってますね。

知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戰必殆。(彼を知り己を知れば百戦殆ふからず。彼を知らずして己を知れば一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば戦ふ毎に必ず殆ふし。)

結局、「如実知自心」というところまでたどり着きます。

「ものさし」と同じで、私を知るには役には立たないかもしれませんが、そう、今の私はお馬鹿でエロで・・・(笑)、昔、小学生の頃、「自分はバカでありたい」、と本気で思っていた人で(だから覚えているんだと思いますが)、そのまんま大人になってしまったわけでお恥ずかしいんです。多分苦しかったんだと思うんです、それなりに何かに。今では原因がとんとわからないんですが、何か(「苦」)に怯えていたんでしょうね。今思えば「笑顔でいられるように」が願いだったんだと思います。コントロールできないからコントロールし続けるのに「みんなハッピー」になるのがこれだったのかと。というわけで、「う○こ」でした(笑)。

毘盧遮那考察(8)

台風17号が過ぎていく、頭痛持ちの私にとってはこの気圧の変化と急にモワッと蒸しっ返すような変化は結構きついので、仕事中なら迷わず「頭痛薬」だけど、休日なので今日は飲まないのです。

ミステリーって結局は「極論(極端)」なんだよなと思うし、科学的根拠も同じく「極論(極端)」なのでしょう。

お釈迦様は、苦行という「極論(極端)」を捨てて、坐って(おそらく心の中を)観ていって、徹底して考えて、「苦しみ」の根源を明かしていったのだと思っています。

先日(といっても結構前ですか)、『大ラーフラ教誡経』を紹介して頂いて、かなり感動したのは、密教には様々な観法があって解釈(流儀)があって弘法大師が何を考えてそのお手本(次第)を残していったのか考えることもあって、アーナパーナサティスッタに従って第一禅定への修習では、「全身を感受」(身行)においては、徹底して五大にこだわって観察してある一定の答えを導き出したその矢先の事だったので、とてもありがたかったんです。

実際、アーナパーナサティは毎回16行程を次第の通りに進めて行くというのが私の教わった(学んだ?)方法でもあるので、坐る度に必ず毎回「全身を感受」するわけです。ここは「不浄観でも要素観でも何でもいいよ」なママに、五大(四大)を割り当てて観察していくわけです。でも、結局呼吸を観察していくと「空界」がつまり「穴(孔)」があって、それがある(通過する)ことによって、身体内と外界の境がないことに気がつくんです(私には)。結局、縁起によってこの身体は成り立っていて四大なはずなのに、要素観なら第一禅定に入る頃には五大になってしまうわけです。(大師の言うとおりに)端っから、अ、व、र、ह、ख、それに尽くしてみようかと思って始めたことだったりしたんです。もちろん梵字という原点に返れば字義や字相も大事なのですが、尽きなければ「菩提点」は付かないので、अँ、वँ、रँ、हँ、खँ、ではないともいえます。尽きれば「空」ですので、梵字において空点を菩提点というのは最もな話でしょうね。もっと言えば、結局、坐る(観)上では、心(識)の中の事で、外は考えなくてもいい、唯識的な思考になっていきます。

その間(実習しているこの何ヶ月)、いろんな事を考えてました、当然、志那で成立した東洋医学に通じている私は「五行」の思想がこびりついてますから、五行という「象(すがた)」を佛教的思考に持ち込むのを躊躇したり、「ならば、アーユルベーダआयुर्वेद)、インド医学だよな」と、もう一回教科書を開こうかとまで思っていた矢先でした。佛教では「すがた」は「相」と言う文字を当てますから、実体(「相」)と働き(「象」→「行」)では違いますし、体験的知識(?)に捕らわれず、「あるがまま」にすがた(相)を観ていくと、『大ラーフラ教誡経』に説かれるがママの「解答」になっていたので、ほぼそのママ、正誤訂正も出来て感謝々々だったわけです。大綱の謎なままにしておいて、詳細はここでは書けませんし書きません(言説不可得ですから)が、『やっぱり「縁起」という法(ダルマ)が大きくここに関わっているのだな』と思えました。というか、訳した人達すごいですわ。北伝仏教は「志那化」仏教なんて言われていますけれど、そんなのは仏教的にはちゃんと見極めて捨てていけばいいだけで、訳した人達もちゃんと使い分けてくれているんですよね。って駄文が長くなってしまってきましたので〆。

さて「極端」の話ですが、増谷文雄先生訳を掲載しているサイトがあったので紹介させていただくと「阿含経を読む」から、「カッチャーヤナ(迦旃延)」というのがあります。ついでですので、中村元先生の別訳も載せますと

カッチャーヤナよ。この世間の人々の多くは、二つの立場に依拠している。それはすなわち有と無とである。もしも一が正しい智慧をもって、世界(世の人々)のあらわれ出ることを如実に観ずるならば、世間において無はありえない。また一が正しい智慧をもって世間の生滅を如実に観ずるならば、世間において有はありえない。
カッチャーヤナよ。あらゆるものが有るというならば、これは一つの極端の説である。あらゆるものが無いというならば、これも第二の極端の説である。
人格を完成した人は、この両極端の説に近づかないので、中道によって法を説くのである。(『サンユッタ・ニカーヤ』第二巻十七ページ)
中道を尊ぶ立場「原始仏典(中村元)64頁 ちくま学芸文庫」

その極端な思考を止めて正しく観なさいって事だと思います。八正道の「正見」ですね。坐った体験から色々考えることもありますし、その中でどれがいったい正しいのかってことですね。別のいい方をすれば「中道」ってことになります。個人的感想も踏まえると、お二人の先生の訳の違いも面白いところですが、原始経典を読んでいますと、どうしてもお釈迦様というお人が偉大な人なのですが「人間」としてのそのありありとしたおすがたを感じるのです。それと共に、「相」も感じますし、「象」も感じるわけで、お釈迦様の言葉であるのにもう一つの人格=「如来(人格を完成した人)」と言う立場から説いているというのも、よくあるパターンなので面白く、後の世で「釈迦」→「如来」→「毘盧遮那如来」→「大日如来」と大乗で変容していったのも何か解るような気もします。多分、奉り上げて行ってしまって、神のような存在になってしまったお釈迦様を人間に戻すのが大乗や密教の教えなのも面白いかなと思います。これも「中道」、「正見」というところなんでしょうか・・・世からいなくなってしまったお釈迦様を数百年で神格化していった時代があったものと思えますが、今「目の前」的に言えば、現世利益をお釈迦様に求めるのも筋違い(極端)ともいえますね。確かに「法(ダルマ)」は存在していて、それを見つけても見つけなくてもいずれ誰か(如来)が解いたであろうし、そのうちの一人が偶々お釈迦様だったというのも原点なのかもしれませんけれども・・・、と、またまた、話がそれたので一旦〆。

さて、この「中道」と言うキーワードを使って原点回帰しようとしたのが、ナーガルジュナ(龍猛菩薩(龍樹))と言う人で、これまた数奇なミステリアスな人であったようです。大乗仏教のほぼ全てはこの方を祖としています。上で紹介した「有」と「無」を軸に、以前にも書いた「三世実有」など、ひっくり返してしまった方でもあります。すでに成立していた大乗経典がベースとなって「空」について説いた方でもあるのですが、「空」が全くの「空論」でもなかったのかもしれないというのも、重箱の隅をつきつつ、やっぱり「縁起」をベースに読み解けるのも、言葉で知るんではなくて、体験的に経験的に坐って感じていくのも大事なことなんでしょうね、言説不可得ですし。実践主義というとやっぱり御大師様なのですが、原始仏教とかけ離れていて膨大な中から根本を探し当てていかなければならないのも、長い旅だなぁと思える今日この頃です。

下総国葛飾郡より

ここ(今住んでいるところ)に来て三年か、更に今の場所に引っ越してから丁度一年が過ぎました。そんな一年が過ぎたとたん、このひと月ほど、(冗談半分に)様々な怪奇現象・・・ミステリーをまとめてみます。

越してきた頃から気になっていたことなんですが、磁界が・・・そこは、持仏棚(仏壇)のある付近を中心に、富士の樹海に紛れ込んだかのようにコンパスが効かなくなるところがあるんです(がくぶる)。といってもコンパスがくるくる回りませんが(笑)、北をさす方向が違うんですね。・・・・仏様のせいで・・・ここは空間が曲がっているのかもしれません!。・・・いやいや・・・どっかに磁場でも狂わすモノがあるんでしょうね。「ハッハッハ、んなばなな」な方もおられるでしょうからタネを明かすと、コンパスもって、そうですね。。。冷蔵庫のそばにいってみてください!「あれ?」な事がおきます。最初は裏に配電盤があるのでフレミングの法則(右手の法則や左手の法則)を思い出して「んーこれかなぁ?」と思っていたんです。で、休日、コンパスもって歩き回ってみて、風呂場や洗濯機などが最も強い原因というところ。まぁ、面白いことに自然に本尊のそばは綺麗に北をさすコンパス、偶然の一致にしては面白すぎること、だって別の所からそのままの状態とはいえ越して持ってきたんですから、偶然の一致にしては希な事ですし。そして坐るとホントは真北じゃないけれど、磁界・・・コンパスの上では北になるので、「ま、いいか」なことです。なんか曼荼羅みたいですね。

そんな持仏棚の目の前にはベランダがあります。いつも帰ってくるとはいえ、この数週間、ベランダを開けることがなかったんです。先週のよく晴れた日、ふとベランダに出たんです。目の前にバッタが・・・死んでました。確かに雨樋もありますが、ここ3階なんですよ、まぁ、ここひと月ほど前、コオロギが部屋に入ってきたこともあるので・・・最初は黒い影、「G」かと思いましたが・・・殺虫剤なんてないので、捕まえて外に逃がしたりもしていたんですが、コオロギの恩返しでしょうか?!・・・タネを明かすと、先日の台風15号の爪痕だと思われます。羽に乱れもないので、どこかに叩き付けられたわけでもなく、そよそよ風の赴くままに巻き上げられてきたのかもしれませんが、力尽きたのがここだったのでしょうね。しばらく1週間ほど放置(ただ構っていられなかっただけ)していたんですが、コンクリートジャングルだから本来は虫すら立ち寄らない所でもありますけれど、なかなか腐敗が進まなかったので、若かったのに偶然の事故にでも遭われたのでしょうかね。

更には、”比較的”、夫婦円満な二人暮らしですが、つい先日大げんかとなりました。私は原則、引っ張る方ではないので、私が一旦家出するも、数時間後には奥方が「食べたい!」といっていた「焼き芋」をゲットして帰宅。気にはしつつも、のほほんとしてましたが、奥方は一回は完全ピークに達してしまったので甄権恐々としていたんでしょうね、「ぷんすか」しつつもお互い気を使いながらも翌日には普通におしゃべり。しばらくすると「まだ怒ってるんでしょ?」と言われ、「うううん」とそれとはなく。基本「自由人」な奥方も、会社にはこっそり転職活動していたり(なかなか進まず)、気候の変化やらで、結構気疲れしていたんじゃないかと。本人自覚はなかったようですが、そう伝えると何か思い当たるモノがあったのか・・・かくいう私自身がそう自覚していた事も話をしました。仕事柄、合う方々を総合してみると、やっぱり「夏」が終わり「秋」に入って「台風」が来て・・・そんな時は「認知症」の方は起伏が激しいし、ご高齢の方は体調も下降気味だったり、または「揺り戻しうつ」の様な方が増えていたので、まぁ、そんなところじゃないの?と、犬も食わない夫婦喧嘩に至っていたりしました。

そして、パソコンも一台壊れました(笑)。ファイルサーバ兼録画用パソコンだったんですが、越してきた時、一台余っていたハードディスクをテレビに外付け増設したので、奥方も簡単に録画できる環境が整って、私自身も坐って瞑想する内に、時間も無いし、録画して見るものも単なるコレクション化していたのも事実で志向もズレ始めていたのを気付いていたので、今は他が動いているならいいかって事で、そのまま諦めることにしました(苦笑)。時期も丁度台風が来てパソコンの空冷方法も考えつつUSBファンを設置したりなんてした後で、そのパソコンは放置していたんですよね。夫婦喧嘩のその前日だったかひどい落雷のある日もありまして、近くの地域では瞬間停電もあったそうで、過電流かな、火を噴かなくてよかったのかも。

色々、謎も、わだかまりも、「融(解)け」て、まぁよいかなと。

そうそう、最近ひとつだけ嘘になっちゃっていることもあったんで告白すると、「仏滅」はナイトスタンドブッディストお休みデーとしていたんですが、そういう時に限ってなんかしら、「やらねばのぅ」な事がおきて坐ることが多くなってきました。なので、「仏滅」に限らず休みは不定期とします!(単に気分)。「仏滅」で思い出しましたが「大安」って「泰安」って書いてたんだそうで、字からすると、個人が大安の恩恵なんではなくて、大抵「大安」の日はイレギュラーな珍事が多く、まぁ大抵は丸く収まって皆さん笑顔を見ていることから、社会や地域にとって「泰安」なんじゃないの?、つまりみんなハッピーデーって事なんじゃないの?と思う今日この頃です。ま、占いなのでどうでもいいことなのかもしれませんが、まぁ、欲をかいて動いても何になる日でもないんじゃないかということ、それより周りに好くなるように行動するための日なんじゃないかと。こういうのって験担ぎってのあるので。

台風15号、下手すると昨年の引っ越しの時期に、足の踏み場・・・コマ間違えると、上総国・安房国あたりに飛ばされていたかもしれないので、今頃とんでもない目に遭っていたかもしれません。今だ困っておられる方もおられるらしく早い復旧お祈りすることしかできませんが、正直、人ごとじゃないですね。当日、倒木やらあって道がふさがれていたりしたこともあったんです。よくいく施設の目の前には神社があるんですが、社の裏の大木の枝がポッキリ折れてしまったりと結構いろんな所に爪痕が残っていました。落ち着いた週末、そこの神社に紙幣一枚奉納してきましたよ、早い復旧を願ってお役立てくださいと。いつも願うこともないまま「無事過ごせました!ありがとうございます!」と思いつつ「祓え給い、清め給え、ながら守り給い、え給え」と手を合わせてくるところなのですが。。。痛々しいじゃないですか、地域守って鎮座されているのに、もしかしたら周りを守っての一本だったのかもしれませんし。「風吹けば桶屋が儲かる」なんていいますしね。そんな事を心の鏡に映して思いはせると、まぁ、気づかないうちにしょわされていたモノも少し見直してもいい時期なのかもしれませんね。ま、お暇はありませんがね(遠い目)。