台風17号が過ぎていく、頭痛持ちの私にとってはこの気圧の変化と急にモワッと蒸しっ返すような変化は結構きついので、仕事中なら迷わず「頭痛薬」だけど、休日なので今日は飲まないのです。
ミステリーって結局は「極論(極端)」なんだよなと思うし、科学的根拠も同じく「極論(極端)」なのでしょう。
お釈迦様は、苦行という「極論(極端)」を捨てて、坐って(おそらく心の中を)観ていって、徹底して考えて、「苦しみ」の根源を明かしていったのだと思っています。
先日(といっても結構前ですか)、『大ラーフラ教誡経』を紹介して頂いて、かなり感動したのは、密教には様々な観法があって解釈(流儀)があって弘法大師が何を考えてそのお手本(次第)を残していったのか考えることもあって、アーナパーナサティスッタに従って第一禅定への修習では、「全身を感受」(身行)においては、徹底して五大にこだわって観察してある一定の答えを導き出したその矢先の事だったので、とてもありがたかったんです。
実際、アーナパーナサティは毎回16行程を次第の通りに進めて行くというのが私の教わった(学んだ?)方法でもあるので、坐る度に必ず毎回「全身を感受」するわけです。ここは「不浄観でも要素観でも何でもいいよ」なママに、五大(四大)を割り当てて観察していくわけです。でも、結局呼吸を観察していくと「空界」がつまり「穴(孔)」があって、それがある(通過する)ことによって、身体内と外界の境がないことに気がつくんです(私には)。結局、縁起によってこの身体は成り立っていて四大なはずなのに、要素観なら第一禅定に入る頃には五大になってしまうわけです。(大師の言うとおりに)端っから、अ、व、र、ह、ख、それに尽くしてみようかと思って始めたことだったりしたんです。もちろん梵字という原点に返れば字義や字相も大事なのですが、尽きなければ「菩提点」は付かないので、अँ、वँ、रँ、हँ、खँ、ではないともいえます。尽きれば「空」ですので、梵字において空点を菩提点というのは最もな話でしょうね。もっと言えば、結局、坐る(観)上では、心(識)の中の事で、外は考えなくてもいい、唯識的な思考になっていきます。
その間(実習しているこの何ヶ月)、いろんな事を考えてました、当然、志那で成立した東洋医学に通じている私は「五行」の思想がこびりついてますから、五行という「象(すがた)」を佛教的思考に持ち込むのを躊躇したり、「ならば、アーユルベーダ(आयुर्वेद)、インド医学だよな」と、もう一回教科書を開こうかとまで思っていた矢先でした。佛教では「すがた」は「相」と言う文字を当てますから、実体(「相」)と働き(「象」→「行」)では違いますし、体験的知識(?)に捕らわれず、「あるがまま」にすがた(相)を観ていくと、『大ラーフラ教誡経』に説かれるがママの「解答」になっていたので、ほぼそのママ、正誤訂正も出来て感謝々々だったわけです。大綱の謎なままにしておいて、詳細はここでは書けませんし書きません(言説不可得ですから)が、『やっぱり「縁起」という法(ダルマ)が大きくここに関わっているのだな』と思えました。というか、訳した人達すごいですわ。北伝仏教は「志那化」仏教なんて言われていますけれど、そんなのは仏教的にはちゃんと見極めて捨てていけばいいだけで、訳した人達もちゃんと使い分けてくれているんですよね。って駄文が長くなってしまってきましたので〆。
さて「極端」の話ですが、増谷文雄先生訳を掲載しているサイトがあったので紹介させていただくと「阿含経を読む」から、「カッチャーヤナ(迦旃延)」というのがあります。ついでですので、中村元先生の別訳も載せますと
カッチャーヤナよ。この世間の人々の多くは、二つの立場に依拠している。それはすなわち有と無とである。もしも一が正しい智慧をもって、世界(世の人々)のあらわれ出ることを如実に観ずるならば、世間において無はありえない。また一が正しい智慧をもって世間の生滅を如実に観ずるならば、世間において有はありえない。
カッチャーヤナよ。あらゆるものが有るというならば、これは一つの極端の説である。あらゆるものが無いというならば、これも第二の極端の説である。
人格を完成した人は、この両極端の説に近づかないので、中道によって法を説くのである。(『サンユッタ・ニカーヤ』第二巻十七ページ)
中道を尊ぶ立場「原始仏典(中村元)64頁 ちくま学芸文庫」
その極端な思考を止めて正しく観なさいって事だと思います。八正道の「正見」ですね。坐った体験から色々考えることもありますし、その中でどれがいったい正しいのかってことですね。別のいい方をすれば「中道」ってことになります。個人的感想も踏まえると、お二人の先生の訳の違いも面白いところですが、原始経典を読んでいますと、どうしてもお釈迦様というお人が偉大な人なのですが「人間」としてのそのありありとしたおすがたを感じるのです。それと共に、「相」も感じますし、「象」も感じるわけで、お釈迦様の言葉であるのにもう一つの人格=「如来(人格を完成した人)」と言う立場から説いているというのも、よくあるパターンなので面白く、後の世で「釈迦」→「如来」→「毘盧遮那如来」→「大日如来」と大乗で変容していったのも何か解るような気もします。多分、奉り上げて行ってしまって、神のような存在になってしまったお釈迦様を人間に戻すのが大乗や密教の教えなのも面白いかなと思います。これも「中道」、「正見」というところなんでしょうか・・・世からいなくなってしまったお釈迦様を数百年で神格化していった時代があったものと思えますが、今「目の前」的に言えば、現世利益をお釈迦様に求めるのも筋違い(極端)ともいえますね。確かに「法(ダルマ)」は存在していて、それを見つけても見つけなくてもいずれ誰か(如来)が解いたであろうし、そのうちの一人が偶々お釈迦様だったというのも原点なのかもしれませんけれども・・・、と、またまた、話がそれたので一旦〆。
さて、この「中道」と言うキーワードを使って原点回帰しようとしたのが、ナーガルジュナ(龍猛菩薩(龍樹))と言う人で、これまた数奇なミステリアスな人であったようです。大乗仏教のほぼ全てはこの方を祖としています。上で紹介した「有」と「無」を軸に、以前にも書いた「三世実有」など、ひっくり返してしまった方でもあります。すでに成立していた大乗経典がベースとなって「空」について説いた方でもあるのですが、「空」が全くの「空論」でもなかったのかもしれないというのも、重箱の隅をつきつつ、やっぱり「縁起」をベースに読み解けるのも、言葉で知るんではなくて、体験的に経験的に坐って感じていくのも大事なことなんでしょうね、言説不可得ですし。実践主義というとやっぱり御大師様なのですが、原始仏教とかけ離れていて膨大な中から根本を探し当てていかなければならないのも、長い旅だなぁと思える今日この頃です。