Wikiの公開

散策記録などまとめたWiki(遊行脚譚と題してみました)公開します。今回はローカルな八十八ヶ所ですが、利根運河大師霊場をメインにまとめています。今後も別の所もまとめますが、まだ中途半端で公開に後悔しそうです。とりあえず、今月のはじめには満行したところなのですが、データ化をたんたんと進めるだけなので途中経過だけでも形にと思った次第です。

コロナ禍の昨今いかがお過ごしでしょうか?私は「なるときはなるでしょ!」と投げやり・・・なのか『まな板の鯉』の覚悟を決めて日々を送っております。サンガの皆さんはゴールデンウィーク以来ですかね。私は未来が見える(嘘ですが)ので「お盆休みの頃はそのときの状況に応じて(・・・状況変わらないだろうな・・・)、せめて治療方法の確立されていたら」と予言が本当になりつつありますね(未来が見えるのも予言も嘘です、経験的推論ですよ(笑))。

いずれにしても一般ピープルとしては、私たちは手洗いと嗽など消毒とを徹底するだけなんじゃないかと。

多分、来年のオリンピックが開催できるか否かまでこの一喜一憂は続くんじゃないでしょうかね。私たちの御上(お上)思考を破壊するまでは、政治も頼りにはなりませんから国会議員や内閣は単なる木偶人形にしかみえません(今のままでは政権ひっくり返しても日本の世の中は”絶対”に変わりません)。コロナ禍は社会構造も含めた御上思考と官尊民卑の利権構造による病気に思えてしまう今日この頃。権力って一部の人の為だと思っている方多いと思いますけれど、それってすでに御上思考、支配されるのが「楽」で逃げている自分をしっかり見つめることが大事なんじゃ。権力は私たち一般人が利用するもので、権力に支配されるものではないです。

いずれにしても私たちはやれることを徹底するだけなんじゃないかと。

最近、明晰夢みるんです。明晰夢ってコントロールできるみたいですね。個人的にはそうまでするより、見た夢がどういう心理状態、無明の種と思っておいしくいただこうと思ってます。唯識では、我痴・我見・我愛・我慢を末那識の煩悩として捉えます。これらは阿羅漢になるまで絶対になくならないそうですから安心して付き合うとして、五感及び意識と深層意識(阿頼耶識)の橋渡ししているのが言語が生み出したとされる末那識でここを通るとなぜか「我」・「私」が出来上がってしまう困ったちゃんなんです。貪瞋痴の三毒以外に、慢、悪見、擬が根本煩悩としてあり、部派仏教時代には成立していた概念ですから比較的お釈迦様オリジナル仏教に近い理法といえます。特に最近は「慢」だけに注目していたて気がつくのですが「吾我」を認識した直後に比較が始まることから、末那識の存在の意味がやっと理解できたという。

まぁ、坐ってよく観て識らないと意味がないので坐るのも続けるしかないんでしょう。

知識があっても智恵にならなければゴミ同然というのが私の昔ながらの考えというかスタンスなんです。「空」理論によ、唯識にせよ、体現しなければ知識というゴミ同然です。夢もそうですが、占いも同様、「根拠がない」んです。勝手に想像すれば大乗仏教的に「法」それ以外、「根拠がない」んです。占いは私は結構好きでかなり勉強しましたが、そこに無明の種をみつけられないならばどんなに崇高なものだろうと、過去世だろうと来世だろうと、ゴミです。ましてそれに縛られて同じ失敗を繰り返すなら、ゴミ箱に捨てた方がなんぼかまし、いらないです。目的は「何も無くなる」ことならばなおさらです。社会って思考的影響を及ぼすわけですが、未だに占いだとか宗教だとか「根拠がない」ものにしがみつくのは、科学だの実証世界が、何も解決していないからの逃げのようでもあると思えるんです。だから、「如実知自心」が必要なわけで、同じ失敗を繰り返さない為に知るわけで、活かさないなら「根拠がない」無用の長物、しがみつくなら単なる執着、悪い無明の種を育てるだけになってしまうと思えます。占いと言ったこういう類いに、好きな反面、厭い嫌うに至ったのは今に始まったことではないのでいずれ書くかもしれません。取り繕う必要もないわけで、誤解の無いように書きますが「占い」は楽しむにはいいと思いますし、失敗を犯さないための指針(私心)にするのも”あり”だと思います。けれど、「根拠がない」ことには変わりありません。

手段や道具って使い使われなければゴミなんですよね。手洗いと嗽・消毒などは徹底する事こそ難しい、まして継続するのは至難の業なんですが、手段として徹底して続けていくことでしょうね。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」の考え方と一緒だと思いますです。