ワクチン接種2回目

とりあえず1回目から21日以降で3日遅れで打ってきました。これであと2週間もすれば発症リスクが減るに十分な免疫が出来る事でしょうね。今回は1回目2回目ともフィザー製ですからmRNAワクチンでした。1回目は発熱こそはなかったんですが2日目虚脱感がでて3日目前日の虚脱感こそは残らなかったものの5日ぐらい体調はっきりしませんでした。数日後にうけた奥方は1回目は「大丈夫~♪」といいつつも3日目以降の元気さ(状態の良さ)から「2日目はやっぱりすごくおかしかった」ぐらいの状況だったそうです。2回目は発熱しないといいなぁというところですが、虚脱感の出てた人なので疑わしい感じですね。これまで使わないで余っている伝家の宝刀「カロナール(アセトアミノフェン)」様を使おうかと思います。私が遅れてずれた分、丁度3週でとれた奥方が明後日だったかなぁ、それまでに熱出るなら出て下がっているといいなぁというところです。2人して基礎疾患持ちなので順番早いのですが、足らなくなったとか色々騒いでましたけど、新規受付しないことで絞っていたみたいで、無事くぐり抜けましたというところです。

普通に考えれば、発症リスクが下がっただけで、実際的には「感染予防」ではないですし、感染して無症状キャリアなんて事もあり得るわけで下火になるまでは今までどおりの予防対策(最低限の予防策(手洗い、うがい、マスク装着)とソーシャルディスタンス)は続けるのが良いのだと思われます。小旅行ぐらい許して・・・(すでに家族は我慢の限界ですね)という風潮ならまだいいんですが、すべて解禁となってノーマスク・無消毒・無除菌・超過密や外呑みとかあり得ないワケなので、やはり「なんチャラ事態」だの「宣言」の有無に関係なく不要不急の外出は避けて行っても近郊までに止めておくのがよいかもしれないですね。ちなみに近郊都市のあおりをあまり受けないで微妙な増加で「ニブチンだなぁ」と思っていた居住地域(県)は本日これまでの最多となりました。まぁ、県内の移動が不便な地域なので広がりにくくターミナル都市からの広がりも「ニブチン」ですんでいただけだと思うのでお隣(都)を見れば分かるとおりいつ崩れてもおかしくないんで、気を引き締めていくしかなさそうです。

ワクチン接種1回目

昨日、コロナウィルスワクチンの一回目の接種行ってきました。接種後打った左肩が痛かったぐらいで腕も全然上がるしでしたが、今朝起きてから・・・全身だるい!倦怠感すごいですが、発熱はありませんでした。次もありますし不安はありますけど、織り込み済みの範囲で、今のところ一般的にいわれている事(厚生労働省:ワクチンの安全性と副反応)以外は起きていないのです。

コロナ禍イレギュラーで今年の初詣は前日に済ませましたけど、変わった御朱印、特別祈願なのでしょうけど「疫病退散」いただいてきました。共通の念いで「志」はそれぞれ違うけれど少しずつ集めつつ教えを広めていく(知ってもらう)、考えてみるととても仏教的ですよね。こういう困難って淡々と出来ることをやっていくしかないように思えます。何百年かすると今やっていることがまるでオカルトのようになってしまうかもしれませんけれども。

ちょっとはめ外して適当投稿しちゃいましたがたまには毒吐きお許しを。

気にかけていただけて光栄です

というより、10日遅れですが、静恵先生ありがとうございます。

奥方と知り合って、もう、15年目なんですね。会社という出会いの場があって、ちょっとだけ遠距離交際で始まり、遠距離といっても会社を中心に帰宅は真逆なので2時間コースで、まぁ、会社帰りか休みの日デートというと真ん中をとって都心でよく会っていました。その間、色々ありました。霊感強く経行の記憶(夢?)が恐怖で仏教が苦手なのに、私の得度を認めてくれたり、殆どすべてを失いかけたり(mixiから最近日記一部移植しました)、そこから這い上がって来るのにいつも優しく差し伸べてくれた人なのですよ。なのでキャラクター(笑)以前に、私も頭が上がらないのです。

愛情は必ず終わります。気持ちは必ず変化します。無常です。それが分かっていることからこそ、絶対に自分を裏切らないで「今」を相手に感謝を貫き通して原点からの筋を通す・・・菩提心に似てます。どんどん変化していいんです。今日あった会話、今あったしてもらったことや一緒にいてくれていること、善し悪し受け入れて「感謝」して尊ぶ、愛は一方通行でいいんですよね。けれで一切見返りを期待もしないし、「形」を求めたりしない、マダム・ジーナが時空を超えて仰ってます(謎)。

悲しいことに私の心にも起きます。たとえ間違った道であったとしても、それがアイデンティティなんで、それを実現したたっちゃんが羨ましかった。私は50歳を超え残り10年、お暇出来ないうちに、1年1年減っていく中、事もあろうか

(奥さんが先に逝けば・・・チャンスあるかもな・・・)

(我に返って)・・・(自我に欲と業の深さに)・・・ザッケンなー!(怒涙)

少しでも頭の片隅に思ったことをものすごく後悔しました。我にエゴに執着に憎しみが・・・憎くて憎くて、こんなにも情けないエゴに厭いました。恨んでも憎みきれません。

そして・・・諦め(明め)が強くなりました。最近はとうとう最期にむけて僧侶になれないのであればの阿羅漢にはなれないのですから、もう遅く、私個人のことは阿弥陀様に委ねようと思ってます。弘法大師がアレだけ形を整えたのに代を重ねて弟子も阿弥陀仏寄り、高野聖は極楽を目指す(阿弥陀信仰だけでなく、高野山の弥勒浄土を願って)いた人たちが集まったのも当然の理かなとも。これは堕落ではないんですよ。簡単な法門に形を変えてきたこと私には堕落にも思えてましたが、立場近くなるといいたかったことが分かります。それしか手がなかったのだろうなと、当時の思いも想像つくように思えます。

まぁ、考えてみるとそもそも龍樹菩薩ご自身も阿弥陀仏を尊ばれた形跡がありましたよね。

エゴって自分とそれ以外を分けたら、たとえ相手が良かろうが悪かろうが、優越をつけてエゴは潜むんです。「戦争なんてあり得ない、そういう道具作ること自体がおかしい」、それがアイデンティティであり立派な執着なんです。認識して使う人間次第なんです。言葉にだまされすぎていますよね、悲しいほど、形にとらわれすぎてますよね。そうやって優越をつけてエゴは密かに肥えていきます。思考や常識とかの執着ならまだかわいいです。民族や国家という文化といった染みついた常識慣例法律儀式政治経済「お金」アイデンティティ全部あなたのエゴの一部で根が深いです。人によって根の深さによっては国家は敵だと感じるでしょうね。「やれ、強権だ」「権力行使だ」「死刑反対」・・・あなたの決めつけだけのただ幻です。言葉で形をもたせている「権力」は平等に利用するモノです。ごく一部に独占されないことを監視すること以外に平等にアクセス利用できることが理想型なんでしょうね。歴史観も併せてとても根が深いです。

エゴ執着はかといって、私のように怒りをぶつけても憎んでも(現代用語で)厭い嫌っても、エゴは優劣や執着によってブクブク肥えていきます。憎んでも嫌っても効果なく増強するだけです。じゃぁどうすれば?観察するだけです。エーカッガター(ekaggatā=一境性)って「頂点」の意味もあるそうで、保って観察して「あぁ、またエゴ(我)だな」と。喜悦には入れることより、このエーカッガター(ekaggatā=一境性)が大事だということにやっと納得しはじめてます。ほかにも大事なこともあります。これについてはまた何れ。

「楽(shuka)」について触れたら、いいんですが、ちょっと先に進めようかと。折角先生が紹介してくれたのですから、アーナパーナ瞑想基礎に戻ってみたいと思います。大乗的ヒントですがこの身体は宇宙世界の表示の一つです。執着は同一化を図ります。それがエゴ(我)の実体だと思います。掃除するのも大事、ですがなくならないなら、アプローチを変えてみるのに、最大のヒントが「空」論です。

そして、瞑想が終わるとき「私」に対して客観的に「あなたが今感謝しているのはなんですか?」問いかけてください(此はまた別の話でもありますが)。