先に、ご気分を害し方や関係者の皆様にはお騒がせして申し訳ありません。こんな私ですが、末席を汚させていただきます。
すでに解決済みのことではありますが、内容を残してほしいとの要望があり、掲題のごとく「私信」として残すものです。どうぞ読み飛ばしてください。
以下は、先日のブログに書いていた削除部分です。少し手直しもさせていただきました。
さて、10月の末にとある立場として誘いを受けた際、断酒中であるにもかかわらずかなり酔われているように思われたため、問いただしましたが「飲んでない」とおっしゃっていました。あれだけ呂律の回らない状態でのお話で意識変容や酩酊状態であるなと受け取りました。幾つかは目をつむろうと思いますが、そのような状態でのお話でしたので「酒の席の無礼講」のお話とするのが適切だと思いました。
あのとき以降、他の方とも話して感じたことを書きます。
前述のとおり私はお酒に対してかなりトラウマもありますが敏感です。それでも、一般論としても呂律のまわらない状態でしたし「飲んでませんか?」と伺った答えに「飲んでない」というのを信じるしかない状態です。
当初から外部きたような私には「前世話は「裏切り者」と一緒の「悪いお山」にいたんじゃないか?」ということを伝えられ、「過去世」の記憶なぞない私は正直に「わかりません」とお伝えし続けてきました。その「悪いお山」にいたということにしたかったようで、度に「「悪いお山」にいたんだよね」と押しつけられ続けてきました。当然拒否し続けてきましたが。そうに感じられましたから「前世もそうだったし修験でいいだろ」的にお話されていたのには毎度毎度ながら傷付きました。そう考えるとブログで散々「50代から〜」が私に対するものであるならば、世間様に申し訳ないですし、他人に対して真心のない誠意のないことであり、嘘つきの片棒を担がされるのはごめんです(言い過ぎだとしてもこれに近い思いで続けなければいけなくなる)。自らも認めていらっしゃったように僧侶たちは修験者を下に格付けする傾向があるそうで、上下関係を作りたかった願望が見え隠れしていました。
私は一度もその「山」にいたことに同意はしておりません。どうしてもそこに押し込めたい理由は、「カテゴライズ通り、説得失敗したも、出ていく人間として扱えば、内輪には丸く解決(納得)するという読みがあってのことなんじゃないか」と勘ぐれてしまっていました。逆に競争意識・自己顕示欲・承認願望などもない(殊、修行の上で)私には過去世話に対しては、そう思うぐらいトンと興味も執着も生まれてこない話だったります。よって今後私が灯明としていない=納得していない「前世話(過去世話)」も受け取りませんしお断りします。
ただし、私には見えないのですが、他の人の過去世話を否定したり中傷したりするつもりは全くありません。とらわれすぎるのも執着ですが、その方々にとってはとても大切で貴重なものだと思われますので大切にしてください。しかし残念ながら「前世話(過去世話)」は私は灯明ではなく、聞き流せても、私に関する事柄を共有することは不可能です。私の納得しない私への決めつけに対して受け取りませんし今後お断りします。そもそも見えないには理由があると思います。
本来「達磨(タンマ)」とは「苦」を滅したら終わりで、それを「達磨(タンマ)」と呼びます。「苦集増」は「達磨(タンマ)」ではないので私には関係ない不要なものです、全く役に立ちませんでした。
また占いを勉強したことがある私からは一つ一つの象徴を見ていくと(傍から見ていてこう読めます)、仮に「三つの山に割った人がいてそれを悔やんで無明に残った」補特伽羅で転生したというストーリーが浮かんできますが、過去世の記憶とお持ちの方がそうでないことを証明すればいいだけです。何度も言いますが私にはそのお山の過去世の記憶はまったくありませんので、この「前世話(過去世話)」にしがみつく理由もないと思います。腹をくくって人を育てて該当ポストに人を入れるのが良いでしょう。私はサンガには付かずはなれずである程度距離を保ちつつ今までどおりでいようと思っていますが、すでに私は一人で修行することになったとしても自分のための修行なので全く気にしません。分割で追い出す理由も「過去世話の裏切り者の悪いお山」の人がこうして書くと、まんまとそのストーリーにハマってくれたことになるであろうと思えます。そこでの地位も名声も興味のない私としては、追い出そうが何しようがおまかせしようと思います。