「?」

お怒り・お叱りマークですね。もしかしたら単なる文字化けかもしれませんけれども(一応括弧で括っておいた)。別に怒ったりしているわけではないんです。ただ、とてもひらめきました、その印だったりします。

あれから相変わらず大乗経典なぞどうでもよくなってしまっていて、ふと手に取った本(といっても大乗の思想なんですがね 『ゴータマ・ブッダ その先へ 思想の全容解明』(羽矢 辰夫 著[春秋社]))にやられまして、単語が入ってこなくなっちゃいました。入ってこない単語というのが、サンカーラ(Saṅkhāra)=行です。調べれば調べるほどこれについては訳わからないことが書いてあります。”作り上げられたもの、作られたものの因、作られたものの結果、作られるもののプロセス、条件付けられたものはすべて「行」という”なんのこっちゃ、というところですが、上の本では「自他分離的自己形成力」とか表現していて、あぁと腑に落ちる表現だなぁ、けど、余計入らなくなってきたと。悩んでいる事柄自体はどうにもならんしどうにかしてどうこうするしかないわけですが、内容自体はどうでもよく客観的に見ていると、その一瞬で「我」が成立しているのが見えてくるんですよね。よーく観察していると、「我痴、我見、我愛、我慢」一瞬かつランダムに四煩悩に繋がって記憶へ縁起するというか接触していくというか引っ張り上げられるというか表現できないんですが、ずーっとこれが表現できないでしたんですが、それを「行」というと簡単なんですね。束ねて形成してしまう。「五蘊」とか言って、また別にもまとめてましたけど、「蘊」の字は草冠(艸)に「」=繊維なんですが形変われば布絡んだままで綿の様にこんがらがってしまいますね。その本書いた著者も相当に困ってしまっていたんだと思いますし、私には腑に落ちたのが、それが「?マーク」、「行」という象形文字でした。イメージでした。ひと文字で組合・ギルドなんて言う組織の意味もあるんですね。で、やっぱり、龍樹は「戯論」という言葉による形成というポイントを突いていたわけで、「我」が定まると確定すると途端に他が分離されて、事象が形作られていくんですよね。ごちゃごちゃと、バッカみたい、けれど現実に何にも解決しないけど(笑)。大師も「五大皆響き有り十界に言語を具す六塵悉く文字なり法身は是れ実相なり」と言ってますわね。万事解決です。

ちなみに、「六塵」は「六境」、「色声香味触法」ですね。眼耳鼻舌身意が外界と触れて感覚というシンボルを作ってしまうんですが、甘かったり眩しかったりヌメッとしていたり臭かったり不快感なのも、意識をのぞいて実は五大に分けられるんですよね。間違っても志那化(東洋思想化)しない方がいいかもしれないです、後々困るかもしれないので。でも所詮、「行」を見極めるシンボルなので、どうでもいいことかもしれませんが。それぞれの感覚器と五大との相対は「眼覚」は「火」、「聴覚」は「空」、「嗅覚」は「地」、「味覚」は「水」、「触覚」は「風」だそうで、当てはめてみると、そう、その通りと思えるかもしれません。そのお釈迦様のいた時代の科学というか文化の中での認識が仏教のベースになっているであろうことは想像に苦しくなく、その五大の相対はアーユルヴェーダがヒントに・・・当時の科学に近かったんじゃないかと思えてます。そもそも上の五大と感覚器の相対は禅宗かどこかの方が書かれていたのをメモっておいて見直してみたらスッキリと受け入れられたワケです。「小空性経」並のスッキリ腑に落ち加減でした。腑に落ちれば何でもいいのであくまでもヒントと言うことにしておこうかと思いますが、拘りすぎても単なる執着なので、適当にメモして試してみる程度で納得いかなきゃ捨てていい話(自灯明法灯明)でした。