欠失

歯が抜け落ちて失ってみると、結構学べることがあるのに気がつきました(実は昨年末の事)。数年季節の変わり目に鼻の奥がぐずつく時に前後してか歯茎まで腫れることが多くなってきたなぁと思っていたのでした(要は歯根嚢胞で”その内抜歯対象”の様な状態で結論として大事に使って10年は保ったわけで)。

昨年末、暫くはジンジンしていたんですが、朝起き掛けなど「無い」ということを認知するんですよね。患部のジンジンする感覚や口腔粘膜や舌の触覚やだったり、(そもそも四肢などを失ったときなどの幻肢痛等のように担当していた神経(脊髄神経など中継役がいるわけではなく)が宙に浮いた状態になるわけではないので比べものにならない「へ」にもならない話とはいえ)、そういう触覚の束が自我の肉体を認識する過程に含まれていて、仏教的には「六処~触~受~愛~取~有~生~老死(欠失による苦)」への流れと「無明~行~識~名色」への流れ・・・狭義の意味の「触」により起きる(特に)「受蘊」と「行蘊」の観察がよーっくわかりました。服の擦れる肌の感覚や体毛に接触して生じる触覚、こんなことで「我」の『殻』を作っているわけで、確かに『真我』と勘違いしやすく永遠にたどり着けない迷宮行きとなるわけですね。その一瞬のなんでもない「当たり前」の感覚が「あなた(私)」を形成しているというその一瞬と、そして全く以て思い通りにならないから「失った」「元には戻らない」という事実(認知)もまた、「うわ、くっだらねぇ(と私は思っているけれども神秘でもありすっごいことでもあります)」というその一瞬がよーっくわかります。

舌でペロッと感覚を認知するとき、普段は意識はしなていないだけで、常に認知を次々としていく中で「無常」な部分をピックアップして覚知するわけです。記憶されている認知(「無明~行~識~名色」)もシンボリズム(種子)ですから、結局それがたまっている阿頼耶識に肥やし(蔵と種子)になっていますよね。言い換えれば「条件づけ」の一つで「ものごと」は形成されていますが、そもそも「思い通り」&「記憶と一緒」&「たよりにしているもの」=「常に有る」な事がそもそもの「間違い」で「変化している(苦)」ことが正常とでもいえばいいんですかね。その中でも「我」の覚知・認知はやっかいで結局絶対になくならないであろうし(無分別智でも分別はできるそうで、そこから考えうるに)否定してもどうにもならないので、観察して注意して自覚して三毒(貪瞋痴)か他者を煩わせるものかを照らし合わせていく必要があるのであって、喜悦後に顕れる「一境性」をどう保つか(要はニミッタ出現後の十分な三昧に入った状態の話で)、もし保てないなら(お釈迦様が)、思考をどうやって調伏していくか、な・・・「我」を知覚して分別が始まる瞬間を注意して気づいて「触」が起きた瞬間「行」自覚してあげると自動思考の暴走を止めることが可能ということだけが残っていくわけでした。

視覚から妄想が起きている場合など「色」と「念(サティ)」を入れてあげると、妄想の呪縛から解き放たれるので、よく「念(サティ)」を活用するワケですが、適確な「キーワード(シンボリズム)」・モノならなんでもいいと思う、・・・私の場合は「色」=「糞袋」的なところがあるので、視覚的な囚われなどから離れるときに有効な「キーワード(シンボリズム)」であればなんでもいいと思うし・・・繰り返しでも適確なのが見つからないときは有効だと経験しているし、四聖諦に則れば「触」を滅して「行」を滅していくとなると、「念(サティ)」を入れる事がベストなやり方なんだと思えてきますので、六境(十八界)の早い段階であればあるほど次のフェーズの入り口(門(生門))で断ち切ることができるのではないかと思えます(「簡単」な「生き方」ではないですけれどもね)。少なくとも日常では殆どは認知評価方法が変わるのでワンクッション反応の遅れて認知していくわけですが、結局はそれを享受するしかなさそうです。

ちなみに、呼吸に注力して身随観・受随観・心随観とすすむ内にできあがる身体のイメージは、成就法のヤブユムそのもので、明妃の顔の位置は瞑想時の集中する視点で、知覚する余地である仮に最低限の「記憶」と「智慧」にをそこに残しておくようなイメージでその明妃の身体は呼吸している空気を追ったとき仮によく言われる「プラーナ」とか「気」だとかだとすると納めていく位置に相当します。こういうやり方になったのは法随観に入ったときに思考停止まで起こしてしまうという結果から試行錯誤の末です。最低限の情として自分をも大切にする慈愛もそこに置くイメージなので、明妃の頭部はいろいろ詰まっていますね(笑)。そこから、例えて客観的思考で「我」を眺め観察し注意して「念」を入れます。

インドタントリズムの影響で後期密教では明妃の事もダーキニーというそうで日本ではそれほど流行らなかった緑度母(グリーン多羅)にも喩えられ、漢訳で「空行母」というそうで、少なくともあなたの2D or 3Dのリアルの本意の「女子」ではないことが解ります。「プラーナ」とか「気」だとか幻や炎の如く「空」を集めて形成した「行」の生み出す源としてパートナーという「母」の概念上のイメージがダーキニーの正体でしょうね。日本の確定したダーキニーの概念としてのお稲荷さまなのですが、ちょっと失礼無礼に当たりそうで荼枳尼天と呼びたくはないのですが、少なくとも私が習った内緒のこととして例えると「曼荼羅を身体に構築する」のであるならば、こういうパートナー的な意識の仮置きという暗喩なのだろうと思うのでした。

理趣会曼荼羅の触金剛女(計里計羅金剛)が何故「抱金剛薩埵」の印をする(「五秘密儀軌」)のか、別名に「金剛喜悦」というのか、そもそも何故女尊が金剛界曼荼羅にいるのか自然な形として自然な営みを模して他人に訴えかけるか探求して土台として練った結果、後期密教で成就法の「ヤブユム」の姿として描かれるようになったのだと思えます。所謂「性的タントラ」という意味では決してないのが垣間見えた今日この頃です、「あぁそういうことか!」と手を叩く感じで納得しました。また日本では歴史的に権力からの追及もありますし性的な意味に思われないように必死に方便を重ねた結果こういう形になったが、十七清浄句だけは残ってしまったのでしょうね。

さて、タイトルの「欠失」ですが「欠損」や「損失」のように「損」あったっけ?ということで言葉遊びをしてみました。