一段階目「長い息を知る」

「長い息を知る」これだけです。

大前提として、アーナパーナーサティは第一段階の「長い息を知る」から毎回毎回一坐の度に順番を変えることなく修することとなっている。段階を深めていけば理由も自ずとわかってくると思われるが初禅の四段階から毎度繰り返すことになる。面倒なので飛ばすということはオススメしないし先を急いでしまうこともオススメはしない。やってはいけない毎回最初っからやることといわれている(「と記載してある」というのが正しいか)こともあるが、実のところ私の経験からいうと毎度修すことで毎度新たな発見がある可能性があり、先の段階でも発見があると初期の段階の理由が変わって(わかって)くる可能性もあるためである。ついでで、先の段階にはリアルタイムで行っている場合は「先へ進めない」のであえて書かなかったが、段階を追うというのも結構大事なヒントになっていることがあるので、ガマンして練習も大事なのでとりあえず順番に進めること、また先の段階が明らかでなくてもそこで終わりにするのがオススメである。ちなみに私はそうしていてあまり問題がなかった。終え方にどうしても心配があるならば、「願わくば此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん(ことを)」でも、回向文をとなえるでも、「今日を、今を、この瞬間を、ありがとうございました。関わった方々が幸がありますように」とかでよいかと(この二段落目後日追記)。

前置きに、プラーナヤーナだということだと書いたかと思いますし、ヒントはいくつか書きました。練習しながら試行錯誤の開始となります。

ただし、身体を感じること以外は原則すべて無視します。身随観とはカーヤヌパッサナーといわれます。カーヤ(kāya)は「集まり」という意味です。「今日当たり前」の「物質の集合体(身体)」を観察するわけです。身随観で四念処の最初です。体表の「痛み」であっても「痛み」として感覚に上がった後は既にそれは受随観や心随観の領域でしょうし「受随観」なら体毛や自由神経終末といった皮膚の感覚器によって生じた(受)「痛み」やその「伝搬(神経)」やそれによって生じた「不快(認知)」などは、身随観の領域ではないので観察対象にはならないと思います。五蘊でどうだったか思い出すと色受想行識の「色」です。五感でなく五官(六処といいたいところですが「意」は違うのであえて。この単語は恐らく東洋思想の言葉ですね)の眼耳鼻舌身で物体で、更にはそれぞれが物質でできた器官です。この器官に外界にぶつかる刺激(接触)が「触」で「受想行」が起こります。生身の身体という情報外はすべて観察対象外と考えていますのでここではこれ以上は触れません。しかし現代科学生理学的に酷似して考えても結局は物質の集まりという「カーヤ(kāya)」という表現に私は異論どころか激しく同意してしまいます。

プラーナヤーナという言葉も出てきましたが、次の段階へのヒントもにもなってきますが「長い息」で「どのような影響がある」かを知ることで、「身体に威力がどんな」に「どのようにあるか」です。気持ちが落ち着くのか怒りが緩まるのか苦しいのか何が苦しいのか苦しさをとる「長い息」はどんなかです。呼吸は今の段階ではある程度「意識的」に調整しなければならないはずで次の段階を通してとあることが見つかるまでは呼吸を調整しつつ眺めていきます。意識していても呼吸がついて行かないならばそれを知らなければならないと思いますし呼吸を任せるのはまだ先です。もし意識的に調整している中で呼吸と身体にギャップが生まれたならばこれ幸いと思ってその二つを比較します。今回はそのことについては触れましたがこれ以上は書きません。どのようになるか「長い息を知る」段階です。

前段階として昔私が習ったのはただ観察する方法の一つは、さらさらと若しくはふわーと流れていくのか流れていくならその空気はどこからどこへ流れるのかいきわたるところすべてを観察する、鼻と口から出た息は胸の前を下って身体の中では胸にとどまらず胸の周りに広がっていき、また丹田あたりまでふわっと流れ込み、吸う空気は頚の横を伝ってまた周囲から集まってくる、そんな空気がどう流れるかどう伝わっていくか体表に感じる空気と体内を流れる空気いろんな視点から感じることが出来るはずです。「長い息」でどのようか体験して知ります。

我慢すると退屈が生まれ面倒くさくなりますが我慢する必要もないと思います。今目的を持って目標がわかって観察しているはずで、痛みやかゆみやよだれは「掻いて」「飲んで」除去すればいいです。ただどのようによだれが生じているかは「観察していい」と思います。ヨダレは副交感優位になれば必然的に誰でも出ます。リラックスしている証明でもありますし、そう捉えれば十二分にリラズゼーションの効果はあると言えそうですね。我慢しろとかいう人もいるかもしれませんが、私はそんなもん「飲んだら」いいんですと思います。「掻いたら」いいんです。「お釈迦様は我慢した」かもしれませんが「我慢」したのはおそらく観察するためで観察し終わったら対処したであろうし対処すればいいし「痛みが消えるまで」云々は私は考えません。ただ、「観察するんだ」(「練習」ということ)ということだけ今は知っておけばいいです。

吐く息を徹底して長くしたければお経唱えてみたり真言繰り返したりすると一息で1分とか可能かと思います。その一本長ーい呼吸の練習もありだと思いますし、私のように体表と体内の空気を観察しながら、様々な呼吸法の中からチョイスしたものとして「4-7-8呼吸」でどこまでゆっくり出来るかや丹田呼吸など練習して試してみてもいいでしょうし、「膨らみ・縮み」をラベリング練習もしてもいいでしょうし。流儀が色々あるようですがラベリング方式は多分気が散るのを最小に収める効果はありそうな気もします。が、そのラベリング方式に納得いかないなら他に当たる方がいいと思います。形を伝承しなければいけない場合は徹底して伝統的な方法に従いそれを練習しなければならないと思いますが、結局はそれをベースとして「練習する」のはあなた次第です。今は「伝統」を習うんではなくて「経験」(自ら自らのこと)を学ぶので、しっくりいかなければ、絶対的な権威や伝統が邪魔だとすればチョイスするなり一時的に外すなりどっちでもいいと思います。

逆にあれこれ制限も書かれていないのが特徴かもしれませんが(それだから難しい)、ただ「長い息を知る」ことしか書かれていません。意識ではなく客観的に捉えていくしかないと思います。

まず坐る準備 その2

まぁ、そろそろ飽きてくるだろうということで、1週間しないけれど更新してみます。ただ一つ間違えないで欲しいのは続かないのは飽きるのは中断してしまうのも「みんなそうだから」です。私もこのことを忘れていた時とか結構ひどい日もありました。スペシャリストの人や大先生や先師達も最初はそうだったはずで、なかなか「そんなもんだよ」とかいってくれる人はいないので(ハードル上げられすぎてると思いますが)、安心して「できない」ことを受け入れて、出来なくて練習してるんだからいいんだとあきらめてみるのもいいかもしれません。それで私は、はなっから「練習」といってます。例えばこれで「今日は本番」と決めて坐って散々だったように、基本「なーんもない」です(笑)。

ただ「退屈」なんです。

「退屈」は「瞋恚」です。

瞋恚=怒りは嫌でストレスですから、やらなくなるのは当たり前です。途中で止めるのも、続かないのも当たり前なんで。だから身にしみた言葉(=練習)だったりしているわけです。

退屈な事なんだとわかったら・・・退屈を眺めて楽しんでいる人もいるようなので視点を変えれば楽しめるモノなのかもしれません。実際尺度が色々違う退屈があって、もう総合して怒りなんですが、これ、どうにもなりませんよね。まぁ、それでもとなると忍辱と精進だとか精神論ですよね、まんま書いてありますが。あわないのはしょうがないので視点を変えてみるしかなさそうです。

こんな話のために追加したんでは実はなくて、この坐るのはプラーナヤーマだという視点もあります。ターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘の『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』においてプラーナヤーマだとおっしゃっています。ヨガの言葉なのでしょうがその当時のヨガが現代のヨガに繋がってくるはずなので何らおかしいことでもないはずです。著書では呼吸法などは紹介されていなかったところから現代のヨガのようにする必要はないでしょうがざっくり上げておきます。

腹式呼吸
胸式呼吸
ウジャイ呼吸
カパラバティ
シータリー呼吸
丹田呼吸

ちなみに、片鼻呼吸(ナーディショーダナ)なんかは結構動画見たことある人もいるんではないでしょうか。こういうヨガの呼吸法とかいうと、なんか私には苦しいイメージしかなくて遠ざけたいところですが、別の視点から見ると面白くも見えてきます。ちなみに紹介はしましたが、吸気の際に丹田に気が落ちて溜まっていくようにイメージしながらやる所謂「丹田呼吸」以外は「ほぼ」不要だと思います。しかしやったことがなければまねごとも練習してみたりするのもありじゃないかと思います、飽きませんし実践して体験してみるというのは肥やしになります。そういう私は「4 – 7 – 8 呼吸法」と「ボックス呼吸法」をしょっちゅう取り入れています。普通に考えればわかりますが、カウントするだけで集中力をもたらすのに十二分だったりしますし、自律神経調整によってストレスを緩和するなどの効果もあるとされていたことと共に確かに集中力もさえるように思います。「4 – 7 – 8 呼吸法」についてはわかりやすい動画もあるのでそちらを参考にしてみてはどうでしょうか。英語で何言ってんのかわからない人(私)も見ながら一緒にやればコツはつかめるかと思いましたのでリンクもつけておきました。

小ネタですが「ボックス呼吸法」はリンク辿っていただければわかりますが、”Navy SEAL”(アメリカ海軍の特殊部隊)とかおどろおどろしい名前が並んでいますがまんまなようで、タクティカル・ブリージング(戦術的呼吸)とも呼ばれます。スナイパー(狙撃手)など高度なプレッシャーの中で『戦術として使う呼吸法』なんだそうで、たくさんの返り血をすすってきた呼吸法なので”そこ”の”あなた”はやらないように!同じ穴の狢に落ちます(冷笑)。ちなみに私はどんな暴力装置であろうと「道具」は所詮「手段」であり使い手の心次第だと思います。だから心を鍛えるわけですので、そしてあえてこう書いてみています。例えばノーベルさんは強力な爆弾を作って「平和」をうたいますが、正直言ってお馬鹿な私には理解出来ませんでして、しょっちゅうお題として考えるネタの一つです。真面目に考えてハゲるくらいなら使わないこともありだということです。また逆に用意された道具ならいかに心して使うかもアプローチの一つだと思います。

もう一つの小ネタで「4 – 7 – 8 呼吸法」は桜サクラとあの嫌われ前首相も好んで練習したとされています。私は寧ろ(前首相に対しては)つらい身体を引きずって官僚のロビー活動(説得工作)によく耐えてやりきってくれたなぁと思ってます。ストレスも半端じゃななかったろうと思いますし、鳴り物入りの反対政党ですら最後にへたった説得工作ですから並の神経じゃ渡れないだろうなとも思いますので。

いずれの小ネタも本当は普段は微塵も思っていませんが、思いつきのママに、ググると本当にゴミ情報も多くて毒されますねぇ。先入観ほど危ないものはないかと、あまり期待せず(期待したところで効果はないと思う)やってみるのもよいだろうと思います。集中力という点以外は私は期待どおり何もありませんでした。ただし丹田呼吸は様々なヒントと符合することが多いので練習しておくことをオススメします。

まず坐る準備 その1

さて、この数ヶ月とあるマインドフルネス講座に参加したりもしている。やっぱりそうなのかとなるほどねぇと納得する部分もあり、ちょこちょこと「発見」と「学び」が多い感じだ。巷にいうマインドフルネスとはいえアーナパーナーサティは解釈は変わり得るがベースや次第は変わりはしないので、初禅までを書いてみようと思う。とりわけ

①アーナパーナーサティはターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘の『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』をベースとして、「観息正念」というインターネット(アジアのお坊さん)で入手可能な書籍を副読本を軸にしている。
②とりわけ大乗仏教に偏っているところもあり、在家でできる仏教・仏道と考えたい。方法や説については可能な限りリンクで補うが口で聞いた事もあり典拠不可なモノもある。
③すべては「猿まね」から入ったとしても所詮はやり抜いて自分のモノにするまでのことで続けることだけを目標とすればよいと思う。

③はとても大事だなと思い直した事として、他者のやり方で参加してみるというのは一つの意義としてあると思うし、実にほとんどの人は「ひとりではできない」か「ひとりではつづかない」ので、そういう勉強会や座禅会は参加するという形で態勢を作るには一つの手段だと思う(私の場合は医療目的のデイサービスですが)。ある意味シュールな絵柄も「先生」達には不要なのだろうけど「私」達には必要な手段だし、そこに価値を見いだそうが(お金を払って受けるなり無償なりは好き好き)見いださなかろうが、ただのきっかけなのでそこからゆっくり歩めばよいのだと思う。特に他者を評価する(したがる?)ところもあるだろうが、寧ろ、本来は「気づく(注意・集中)」ことと「評価」は真逆のことで「評価はしない」ことが肝要だと思う。逆にそういう評価して欲しい承認欲求なのでいずれは捨てればよいことだと思う。続けるにあたっては自分にあったモノ(納得のいく・腑に落ちた方法や手段)を選択する方がよいなと思った。なのでその手段や方法、コツを含めて書いていきたい。

基本的に私は「先生」ではないので体験やコツや見聞きしたことは書くが指導は行わない事とする。つまりやりっぱなしの書きっぱなしということでお許し願いたい。もし欲しい答えに誘導したければ参加しておくのも一つの手だが私は「先生」ではない。「先生」という名前が欲しければ自ら選ぶし捨てもする。手段だが方法ではないしダルマでもない。本来的にはダルマは小さなモノであれ「苦(苦痛)が終わった」らダンマの終わりで、それを観察して学ぶことが本筋のことと思う。ただ、他方のやり方として私ならば納得のいく言い回しを見つけて腑に落ちたら解放されたこともあるので「サティ(気づき・注意)」を入れるやり方は指導の範囲ではない様に思われ、千差万別のような気がする。ただ人のやり方などは学びにはなるので多少は明かしていこうと思う。

長くなるので、いったんここで切って、座り方と心構えの話。

坐法については、初心者は安楽坐やあぐら、椅子を使って坐るのもありと思っていますが安楽坐半跏坐からはじめて結跏趺坐を目指して欲しいかと思います。体験を通して半跏坐は体幹が捻れてしまったり気がつかないことがあるので結跏趺坐の窮屈な坐り方は実に安定して体幹がぶれないからですが私には身体硬くて長時間は向かないので深く長時間瞑想に入るなら安楽坐や普段は半跏坐と使い分けています。勉強会などではマインドフルネスのみだったりしますので椅子に座ってやることもありますので一応(少なくとも邪道なんかじゃないと思う)。

視点は1.5mほど先、対象物がある場合はこれに限りませんが、実のところこの「視点」は「物理的な視点」だけどは誰もいっていないのが味噌です。心の視点をそこに 落 ち 着 け て おけばいいというのが私の結論です。集中するのは鼻の下だったり鼻の先だったりするわけですが、最初の段階ではそれは考えずに、ただ「物理的視点」も「心の視点」もそこら辺に落ち着けます。背筋を伸ばします。

目は半眼とよく言われますが、少なくとも弘法大師の説ならば「半眼」は最初の段階で多生緊張しながらでも使ってみるとよいと思います。これについては「後述」。

手は「定印」としますが、私は個人的に親指を合わせて宝珠形(これは単に「仏舎利信仰」だからです(笑))にして少し引き上げて(結跏趺坐で置いた時の高さか丹田の高さで浮かせます)います。もしくは左手の上に右手を重ねて親指で折り合わせます。接客業やったことある人ならばマナーで習ったソレです。少し緩めて指を軽く伸ばしておなかを温めるように丹田にそっとあてます。実は私はおなかが冷えます。特に瞑想中に冷えを強く感じることもあるのでこういう手法をとっています。OKサインで膝におく必要は全くありませんし(やってもいいけど後々どうでもよくなると思う)意味わからずまねするより「定印」手を前に組む手印でいいと思います。よくこの世界との唯一つながりとなるので形に気をつけてなんていう説もあるところから意味に納得したならばソレを採用するといいと思いますね。

さて、よく見たことのある形になると思いますがそれでいいです。

すべて練習です。

腕時計でもいいので目の届く範囲においておくのも別にかまいません。時間を計るのにお線香を使うのが昔からあるやり方なんでしょうがどうでもいいです。ただ、白檀は鎮静効果や抗うつなどに効くともされ、身体の消炎効果や鬱血の除去や咳を鎮める効果も期待でき抗菌作用もあるらしいのでアロマオイルで使うのもありだと思います。その場合は時計をそばに置いておくのですが、後述しますがヒントにするためなので慣れたらもういりません。アロマオイルやお香は好き好きに。私はお線香1本の瞑想時間をとるのを目標にしています。

すべて練習です。

まず坐って呼吸を鼻の下の空気の出入りを観察します。あるいは空気の出入り見つめながら空気の動きを観察します。想像します。体感します。

すべて練習です。

まずは「2分半」の壁を目指してください。もしかするとあなたには「1分半」かもしれませんし「3分」かもしれません。じっとして呼吸を見つめていると飽きてきます。退屈します。退屈は怒りなのですが、気がつくとそれは「2分半」程度です。「よし頑張った」と時間が2分半なら精進してみて伸ばしてみてください。ちなみ「よし頑張った」は結果への「評価」です。今坐っていることで感じたり思ったりするかもしれませんが「評価」はしません。この評価をしないということを忘れないで片隅に置いておいてください。妄想に耽ったら「妄想」とラベリングするのは効果があると思いますし、受動的に感じて思ったならば「色」や「識」と漠然とロゴ付けして観察するも私は後者かもしれませんが、ひどい時は「妄想・・・妄想・・・」と入れている時もあります。

すべて練習です。

呼吸をするに当たって息は吐くのが先か吸うのが先かという問題がありますが、経典では「吸う」→「吐く」の順番になっているモノを見かけます。私もそれでいいと思うんですが、もし、あなたが苦しくなるならば『「吐」かないと「吸」えません』という事実を忘れないでおいてください。

すべて練習です。

マインドフルネスは毎回すべて「練習」ですので「本番」なんかなく、毎回出来も違いますので毎回練習で行うと思ってください。

さて、目は半眼の話ですが呼吸になれてきたら目を瞑ろうが半眼で頑張り続けようが好きにしていいと思います。マインドフルネスでは「瞑目で内観」を意味するので瞑るんだそうですが、初心者には「半眼」を教えます。私はこれ矛盾していると思います。どっちでもいいんですが、座して落ち着くまで半眼、その後、好き好きのスタンスです。ただ半眼のいいところもあります。薄目を開けてますので光が入ります。時には光が眠気を壊してくれます。全く無意味ではないですが、プルプルしてしまうぐらいならあなたの自由な選択でいいと思います。

疲れたら終わり、練習、お疲れ様でした。

今日はここまで習熟しましょう。『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』でも急に先へ先へ進めるのではなく一つ一つ納得しながら進めるように指示があります。実はスワンモークというところでの合宿では細かくチェックしながら進めていくそうです。短気に先に進めるのはオススメしませんので私も従おうと思います。書くのが面倒で怠惰なのも事実ですが(笑)。また私も自分でも何度か読み直しつつ、1週間ぐらい間をおきながらかければいいなと思いますので、ご一緒出来ればと思います。この系統の先生にお会いすることもないしまぁ今は縁がないのでしょうね。ただそれでも『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』と「観息正念」は良本だと思います。

あるかどうかとか知らないけど

2005年ぐらい「地獄少女」という深夜帯アニメだったかと思うんですが、有名な台詞で、「人を呪わば穴二つ・・、いっぺん死んでみる?」・・・いや、マジ怖っ(涙)。15年たった昨今でも本当にどうしたんだろうかと思うよな事件として、外国大統領のわら人形事件が近くでおきてましたんで、えぇ。

神社にプーチン氏写真付きわら人形 72歳を逮捕 器物損壊容疑など

我が儘自在と思っている人たちへの不満、とでもいえばいいんでしょうか.。o○(ちなみに、三日月神社とか蘇羽鷹神社っていうのは昨年にかけて回ったところですね。)

どうにもならんことなので、これくらいの鬱憤晴らしいいんじゃないの?と思えてしまう私もいるのも事実、まぁ、気持ち悪いですし、人様のもんどうこうっていう視点では、なんとも言えませんね、そばでこんなんあると。でも、本当にどうにもならんですもの、自身の心と同様かともいえますが。

そもそも天下太平って「退屈」の意味なんですかね?少なくともコロナ過も終息しつつありなんか産みの苦しみというか膿に苦しんでいるというかの世の中ですが、ある意味では「平和」なわけで「天下太平」ってこんなんだったのかもなと。

昭和のある教室での出来事ですが、「おまえら、○○やったんは誰だ?!申し出ないんだったら全体責任だ!」。私語絶対禁止、給食は黙食、教室から出られると、この拘束の苦しみから逃れられ、廊下に立ってる方が幾分か開放感のある日常でした。そらもう、毎日
(また誰か何かやったのかよ・・・)
(けど、僕なんかやらかしたかな?)
(何だろう?何が犯したのかな?)
(結局、今日もコレか怖いし動けないし辛い)

いろんな意見もあるでしょうけど、小学生だった私にはおかしてもいない罪を自省する毎日の時間の退屈さ窮屈さが恐怖で堪りませんでした。まぁ、お世辞にもできのいい子供でもなかったし寧ろ問題抱えまくっていたんですけれども、それでもあの2年間は一体何だったんだろうといまだに解決できないトラウマですかね。

自分をどうにかいうこと聞かせることもままらなんのに、それぐらいまわりなんてどうにもならないのに、まぁ、笑えますかね。そう窮屈な退屈が本当に嫌いだったんだなぁと思った私のとある今日一日でした。

そして今日は弘法大師の誕生日でもありましたね。南無大師遍照金剛。

そうそう、燃え尽き症候群なのかと思ったら男性更年期障害といって、熟々どうにもならないんだなぁ私って、と思った今日この頃でした(苦笑)。