四段階目「呼吸を落ち着かせる(静める)」

三段階目で呼吸を追い掛ける事、ここから続いて「5つの方便」を使ってイメージ力を働かせながらニミッタを落ち着かせてサーマディに入り「5つの要素(禅支)」を確認できれば四段階目も終わりです。

5つの方便
①呼吸(の調整役)を追い掛ける
②点を決めて呼吸を見守る
③見守る点にイメージを置く(ウッガハニミッタ(取相))
④イメージを操り(パティバーガニミッタ(似相))集中を磨く
⑤イメージを固定して、呼吸を静め落ち着かせ、専念して観察する

実のところ、呼吸を追い掛ける事にある程度集中が出来ていたら、既にニミッタも顕れて喜悦を体験出来ている人もいるのではないかとも思われます(私がそうだったので)。読み進めて実践してみて、上でいうイメージとはニミッタのことで、先に想像して作り出す・作り出してもいいというのが「5つの方便」の内容でした。

・・・実際のところ三段階目で適度に集中が出来て、途端に喜悦に入って三昧に入ってしまうので、三~四段階目は前後入り交じってしまい、何が間違っているのかわからなかったんです。私は一段階を最低三日ずつと決めて一段階ずつ内容を確認しながら味わって進めていったので最初は四段階目に入る前に既に喜悦が入っていたので読み進めるとかみ合わず、むしろこの辺は混乱して前後めちゃくちゃのまま、最後の状態だけ取り繕って(「5つの要素」を確認して)すすめる羽目になっていました。よって単に「静める」ことがこの段階だと思っていました。方便を使わずとも既にニミッタが出て喜悦に入ってから、集中を保ちつつ感覚の落ち着きを取り戻せる人は、身随観の初禅はほぼ卒業ってことで、もう既にこの段階で、禅定には入れている人も出てておかしくはないです。三段階目ではそれで、あえて「呼吸を追い掛ける」で書くのを止めました。同じ轍なので・・・

そして静まった状態で5つの要素(禅支)が確かめられたら「初禅の定(jhāna/dhyāna)」、で要素が揃っているのがわかるはずです。

5つの要素(禅支)
①喜悦(ピーティ pīti)
楽(スカ sukha)
③尋(ヴィタッカ vitakka)
④伺(ヴィチャーラ vicāra)
⑤一境性(エーカッガター ekaggatā)

逆に5つの要素が確かめられなかったら初禅の定ではないといえます。「喜悦(pīti)」によって「楽(sukha)」が成り立ち、「一点集中(一境性 ekaggatā)」によって、「注目(尋 vitakka)」が生じ、次いで「感知(伺 vicāra)」することができる。

その「注目」を「尋(vitakka)」といい「対象を記憶する事」と言い表す(認識対象把握)として、不定法では推究的で粗大な心の動き、といったり、唯識では「心や言葉で万事を浅く推量する心」とし不定心所の一つとしている。

そして「感知」を「伺(vicāra)」といい「心の経験をする対象」と言い表す(認識対象維持)として、不定法では観察的で微細な心の動き、といったり、唯識では「心や言葉で万事を深く推量する心」とし不定心所の一つとしている。

唯識学では、「尋(vitakka)」「伺(vicāra)」を併せて、「どうしてこうなってんのかな」としてしまう「所知障(外界のものに対する執着)」だといってます。実際、第二禅の受随観で「尋(vitakka)」「伺(vicāra)」を解放させます。

ですので、この段階での「一境性(エーカッガター ekaggatā)」は不完全である事がわかりますが正定の第一段階の入り口ということもいえます。喜悦からの満足によって心の中でヌッと現れた無思考空間で、一時的に思考が停止した状態です。身随観の完成であれば「身体ってそうしてそうなってんのか」の器が出来上がったとも言えます。まぁ、深くとらなくてもいいですが、まだそれが「我」だと思っている思考「そのもの」かもしれませんが。少なくとも肉弾道場のできあがりです。

「喜悦(pīti)」では光のイメージが顕れますがそれをニミッタというんです。どうも私の知る限り皆さん共通のようですが、上昇の指向性を持っているので足下のホワホワな感覚だったりモヤモヤだったり意心地が悪いような感覚でした。

コレを落ち着けていくのは一点を決めてそこから全体を眺めつつ下へ下へ下ろしていく、丁度、丹田呼吸を二点で上がったり下がったりをしながら観るのではなく鼻の下辺りから上下するのを感じて観察しています。つまり②「点を決めて呼吸を見守る」ですので、一点の玉やドットでいいとされています。それが③「見守る点にイメージを置く(ウッガハニミッタ(取相))」ということです。師匠に「三寸ぐらいの玉」と習った(三密観)イメージが強いのですが、①~⑤の手順は私には月輪観と阿字観そのものに感じてしまい、一点は鼻の下辺りに於いて身体のある辺りに一尺二~四寸(45cm)程の透明の玉(円)から発光されているイメージの月輪観(+日輪)のみになってしまっています。阿字観とか月輪観とかお次第に従って修するのではなくいきなりポンと視覚イメージをニミッタとして想像し置きます。それで充分です。懲りに凝るなら何かの道場観と謂われる観想でもよいかと。正に『「尋(vitakka)」「伺(vicāra)」を併せて、「どうしてこうなってんのかな」』をやっているだけで、パワーがあるとかないとかは私には知りません。ですので、この二つ「尋(vitakka)」「伺(vicāra)」を具現化している部分でもあります。まぁ、そういうことで道場観で喜悦に共通点が多いので興味深いところですがなかなか巧くいくもんじゃないですねぇ。いずれにしてもここは「月輪」程度が私にはあっているというだけで、点や星や太陽(日輪)やドット何でもいいと思います。

さて、色々書きましたが、「5つの方便」というのは再現性のあるテクニックなので、巧くいかなかったとしてもとりあえずそこでサーマディということにしてしまいなさいともとれる内容でした(どれを読んでも)。

前段階から他とは違うことやっていると思いますし、やり方の違いはどこに注目しているかの違いで、ある意味適当な「サーマディ」を持ってきていることから「サーマディが重要じゃない」ということを示唆しているようにも読み取れます。そう、禅定が作れるかどうかですよね。そして、私のように最初っからすっとぱしてくる時もあれば遅れて来ることもあって、結局、落ち着けるということを繰り返さないとならないですので、呼吸の回数と時間のようにどこに落とし所を作るかでもあります。それは各々にお任せします。

ターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘著 『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル
ターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘著 三橋ヴィプラティッサ比丘日本語訳「観息正念」(アジアのお坊さん
ターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘著 9.アーナーパーナサティバーヴァナー

今後その後もということであれば、上記3冊読み比べてみることをお勧めします。ちゃんと経典の訳も『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』には載っています。

最近、この1年殆どニュースサイト以外、ブログは読みません。時間のない中ならば、くだらないブログを読むよりか「ターン・プッタタート の法施図書室  ( Buddhadasa )」の「法話」が面白くてしょうがないからです。「空」の思想をを理解する上座部僧侶、この人しか知りません(「空の話」「空・空の心」「心を空にするには」)。

残念ながらお弟子さんが日本で教授されている話は聞きません。かといって本場を知りに行くほど私には甲斐性はありませんしお金もありません。なので、書籍で知ることしか出来ません。アーナパーナーサティなんてごく一部です。現代に通じるところがありますが、如何せん、仏教以外は古い方なので全てを信じる必要はないといっても、かなり他方の研究もされているので、それだけに飛び抜けた方だったのでしょう、異端扱いもされる時期もあったようですが、様々な試みもなかなかすごいことですね。根本の教えを大乗を否定せず巧く取り込んでいるのはとても感動ものでした。

さて、そんな私ですが、それでもどうしても質問や連絡をということであればウェブサイトのコンタクトを使ったり、コメント(投稿より二週間のみ解放)連絡いただければと思いますが、しかし、伝統宗派以外のサイトで、私がカルトの可能性があるところや他のブログは読んでいないので今はどうでもよいところだったりします。転生については「14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度」を読めばはっきりするほど転生には明確な目的があり第三者の認定が緻密です。間に何に生まれ変わったかわからない転生で記憶なんて保てるわけもありません。利益・権威誘導に使われる可能性があるならまさにカルトです。私はどちらかというと『「今・ここ」における個々人の心のあり方をしめした概念であるとする』という思想を支持します。が、その個人に於いて根拠があるならば、全ては輪廻転生を否定するものではないです、その人の事実だから。ただ、他人相手に強制・強要や押し売り話になりません。あくまでもその人止まりのものでしかないでしょう。

またこのサイトは検索ロボットがスルーするようにしています。それもわざとです。

こんな世の中なので本当に「アーナパーナーサティ」の入り口だけでも完成させて実践に役立ててもらいたい一心で「ピエロ」を演じることにしました。なので先生ではないですし、私には阿難はおりませんし、その他推してくれる人はおりませんし、現代的にはお暇もそれを作るお金もないです。まぁ、もうここまででしょうから今後は出会いがない限りは一人「サイの角」でいようと思います。やるならば方便として通る伝統宗派のみしか(単立とかたくさんあるでしょうが)興味はありません。そんなこんなで私には縁作りまでで、仏法はより深い実践のみでこの世とおさらばしようと思ってます。

その一部も一部を体験を通じて紹介してみました。本編も足りない部分があるかと思うので追記するかもしれませんが、とりあえずここまでで私のアーナパーナーサティについての指南は終わりです。さようなら。

追伸:あ、けどダーキニー(触金剛女)は私に半年以内の死は予告していませんのでご安心を(?)。ま、悟ってないし教えてはくれないか(笑)。所謂ゾクチェンやチベット密教でいうところのダーキニーは半年後の死を告知してくれるそうです。