【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:NRSによる気分評価

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。


NRSによる気分評価しようとすると気持ちに何かしら心でブロックがかかっているように思えました。今から考えると「正直に眺めなければ」ならず、幼少から「いつわらざるえなかった心」の習慣はおとなになっても続いていた悲しい側面が、「NRSによる気分評価」現れているんじゃないかと思えます。「親(養育者)の目」という「〇〇すると嫌われてしまう」という思考フィルターでもう一回今の心の状態を再評価しようとするわけで、「そうしないと己の存続が脅かされる・存在が許容されない/否定される」と本来いらない思考が先に走ってしまいます。本来足元にあるべき「自己」という「個体」ではなく「他人軸」、「親(養育者)」からせっかく離れてもその対象が「世間」など「周りの人」に置き換わっているようで、それを知った今でも、そもそも本当の「私の気持ち」にたどり着くには時間を要します。
付け加えると、単純に「気分がいい」「気分が悪い」で評価できるものではなく、「楽しい」「好き・嫌い」「驚き」「欲しい・執着・興味ない」など複合した状態を一元的に「気分がいい・悪い」に当てはめるので、そこには負の感情ももちろん含まれるわけで「楽しい」けど「怖いな」そして「心配」などスケール化しにくいものも出てきます。AC的には負の感情ほど「~ねばならない」「~べき」で潰されて隠してしまって掘り起こす際の「蓋」が当時何であるかわからなかったこともあります。「トラウマ」段階の傷でなくなってしまっているのかよくわかりませんでした。


《インデックス》   →次へ

【AC・トラウマからの開放を目指して】NRSによる気分評価

当初「トラウマ」をピックアップしていく過程で一番最初に引っかかる不思議な心理がこれでした。

元々医者から行動認知療法をしていく際、「いつは何をした」+「気分はどうだった」で状態を評価していくのですが「よい」「悪い」「どちらでもない」的な評価が可能だったのだが、NRSによる気分評価の際の数値化しようと、詳細に評価しようとすると何故かパニックになってしまいました。

《認知》イライラ、五里霧中、雲がかかった感じ
《気分・感情》不安、心配、苦痛
《身体反応》血の気が引く、脱力
《行動》思考停止、やる気の低下、負のループ


《背景》←   《インデックス》   →次へ

【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:旗竿地

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

母には長兄と姉と妹がいて、戦時中の昭和のお家の時代でもあり、子どものいない家庭に養子に出すということが珍しくなかった時代の人で、一番無難な立場にいた母は「I」家に養子にでている。そんな「I」家の養子で収まればまた違った人生になったのかもしれないが、「I」家に跡継ぎができ、出戻ることになる。「一番無難な立位置」とはいえ、戻った家で微妙な立場となり確執が生まれていたようでかなり卑下していたという。
姉は一見すると自由奔放であけっぴろげの少しおかしな人に思わせるが、内実ものすごく外部と壁とはみせない僻地を保っていてあるかのような人で、家出することで酒宴(酒害)から離れた人だった。
早々にこの「駒」から脱出した人なわけだが、距離の取り方が極端なのは酒害に関してはかなり傷を追った人でもあろう。酒害がなく家にいたとしても、「駒」のような役割、変な話だが母の足らない部分を補完した存在でもあったことが、後で分かる。
G案件の数年後、私は不登校になってしまったのだが、この引き金は「酒害家庭」だけではなかったのでは?と思う。少なくともいい意味で「やなこともやらなきゃならない」「債務・仕事・責任の肩代わり」社会は「共同責任」とやらで学びになったとしても、担任G教員のしつこくストレスを継続的に掛け続けることが”全く正しい”とは思わない。「自らを裁かれることはない」と豪語した担任G教員もどこかで折り合いをつけねばならない時が来るのだろうし放っておけばよい。
様々な「教え」では救えない、還される時間もない中、私の中でどう折り合いをつけていくか、一つの事例であり、家も学校も逃げ場がなくなり継続され続けたストレスに私が負けた弱い人間だと決めるのならばそれもいいと思う。それを覚悟の上で【AC・トラウマからの開放を目指して】を書き始めたので好きにすればいいという思いはここに残しておく。
ちなみに姉は「酒害家庭」の責任が自分にでもあったかのように私の不登校を自分の責任と思って、沢山の子どもたちの将来へ導こうと、有名小学校合格請負人の如く子どもの絵画教室をすることとなる。


《インデックス》   →次へ

【AC・トラウマからの開放を目指して】旗竿地

【AC・トラウマからの開放を目指して】検証結果とは関係なく

共同所有になっていた土地は、すでに母の一存でどうにかなる状態ではなく、兄の反対により、更地にしても母屋を立て直すことすらできない、負の資産となる。更地になると税金もたいへんかかるわけだが、あわよくば全部せしめようとしたのが元々の兄の画策だったようだ。
複雑な状況になっていた土地の権利は結果的に弁護士さんに頼み、解決への道へ一歩踏み出すことになる。
・兄に一部の土地を買わせることで複数人の共同所有となり、連帯保証から回避
・兄夫婦の口座に110万ずつ何年かにわたり返済し済みである
・弁護士が立ち係争中であるにも関わらず足繁く兄嫁に会いに行きご様子ご機嫌伺い
そこで「なぜこうなったのか?」から始まり旗竿地にして私道を設けることで分割し、出入りのしづらい、「まぁ、残った2人に分割できない形」にしてそこをとる羽目となったわけだ。
こうして 母 vs 兄+義姉 の構図は 兄+義姉 vs 母 vs 姉+私 という形に置き換わる。間には弁護士を介して提案し、弁護士同士の話し合いとなって係争していくことになる。
さすが母である、ただ自分が満足すればいいから、その旗竿地を更に分割することなんぞ考えていない。「あとは好きにしたら?」というわけだ。
考えてみれば、いつもこうであった。さも、私に与えられた選択肢は私が選んだかのように見せ結局は母のわがままを押し付けられる。全ては八方美人のわがままを押し通す母ご自身のための旗と竿・・・つまりは担がされる「駒」だったわけである。

しばらく我慢し、傷は深く遅かったかもしれないが、やっと姓も捨てて私は家を出ることにした。


《背景》←   《インデックス》   →次へ

【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:検証結果とは関係なく

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。


あとから考えると、彼が土地分割で生前贈与するまでもめにもめる機会を提供し、私を口止めするには良い口実だったのか「火災出したお前は黙ってろ」とまで言われたのが現実だ。それから数年、その火災現場に工事が入ることもできず、数年別の場所で一人ぐらしをしつつ、卒業までこぎつけ、近くのUR住宅へ引っ越し母と姉と3人で暮らし始めた。
母と兄は互いに弁護士を立て、それまでの母の裏切り、兄との裏取引なども表沙汰になっていく。もともと土地は母方の祖父から分けられた土地で、祖父はちょっと有名な医者で文京区に土地とビルを持っていた。この事件の起こる10年ほど前だろうか、賃貸ししていたそのビルも立ち行かなくなり、母方の兄が家長を引き継いでいたため、その兄の子供の画策で借金が返せず持ち逃げ倒産をされ、連帯保証人だった母などの姉妹に矛先が向くことになる。一人(母の姉)は都内の家を手放し、もう一人(母の妹)は計画的に子ども一人だった為、相続関係をうまく使い回避し、我が家は兄に一部の土地を買わせることで複数人の共同所有となり、連帯保証から回避が成功し、裁判も終わっていた。実態として父母は確かに兄夫婦からお金を受け取り共同所有としてそれを証拠とした。ところが、そのお金は父と母が話し合い、兄夫婦の口座に110万ずつ何年かにわたり返済したという。実兄は実質ただで共同所有となろうと一時的に助けたのは事実で登記は残っているのから、それを使い有利な土地分割を目論んだわけだ。3年、弁護士はさんでの話し合いに時間を要し生前分与という形でカタがついたわけである。さてこんなにも騒いだ裏には別の事実があったらしく実兄は泡銭から博打に手を染めたらしく借金もあったということだが、手に入れた土地を売っていないところから彼が生きている間は実家の分割された跡にはアパートが建ち続けるのではないかと思われる。
相続だの贈与だの、天から降ってくる話、このことは私にとってはどうでもいいことで、うんざりしていた。しかしその3年色々気づいたこともあった。
その一つは、私は確かに生前の父が嫌いだったが、同時に母も嫌いだったことに気がついた。URマンションに住んでたときに思ったのは、私の帰るべきうちはそこではないということ、そこが嫌いであること、そして、母の無言の「押し付け」にうんざりしていたこと、そして、やっと、苦しかった酒宴に始まり母の無言の「押し付け」に抵抗するとを禁じられてきた現実から離れるには、家を出ることが先決だということに気がついた時間でもあった。
どうせ死んだ人間だ、もうここから離れようと自由になろう思った。もれなく親不孝者の看板も背負わされることとなったわけだが。
また、幼少期ではなく学生になってたとはいえ父の酒宴のよいおもちゃとして肴にもされてきた兄もまたACかそれに近い人格障害を起こしていたと想像に苦しくなく彼も被害者なのかもしれない。
ちなみにこの家5人の家族の内、父以外酒を好む人間はいない、兄姉弟がアルコールが怨みの対象でしかないことを付け加えておく。


《インデックス》   →次へ

【AC・トラウマからの開放を目指して】検証結果とは関係なく

【AC・トラウマからの開放を目指して】火災にあう

鎮火し、現場検証の始まる頃には実兄も到着していて、現場検証の際には金魚のフンのようについて回ってきた。紙にある程度書いて「ココに本棚、ココにはパソコン、出火場所の前にはプリンターとかおいてある棚・・・説明して回る。火の手が見えたので水をこの辺にぶっかけた消化液も近くにあったのを使った」・・・など洗いざらい正直に話して、腑に落ちなかった部分も何度も話して焦げの強い部分と実際に消火した部分との違いも説明した。状況証拠と私の証言から警察と消防との話し合いも行われ総合して、「自然発火」だねと。金魚のフンもそれを聞いていたはずで、にも関わらず彼は別の答えを出していたようだ。
後日子どもを連れて火災現場を見たいという。私は何かの事情で行けないと断ると、「お前が出した火災なんだから犯人のお前がいないと説明にならないだろう!」と罵られる。
「はぁ?自然発火だろ!聞いてただろ!」。誹謗中傷も良い所だ。
焼け死んでいたら、「ここが火災を出した犯人の寝ていた場所だ!」と自慢げに話したのだろう。
さて、こんな人間達に火災時に頼ったことがいかに馬鹿だったか。いっそ焼け死んだ方がなんぼかマシだったようにすら思った


《背景》←   《インデックス》   →次へ

【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:火災にあう

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

得度式からは3年後(平成21年だったようだ)、また父が他界して(その時は会社員だった)まだ数年も経ったわけでもないが、心機一転、人生を立て直そうと会社をやめ勉学の道に入って1年目の2012年9月のことだった。
その前の年には終わらない夏というか異常気象というか、35度超えの夏が当たり前のようになり始め、家族(主に母だけ?)に「最近昼間暑いせいか壁からベコベコ音が聞こえるんだよね」と話ていた。そこはコンセントもありまた雨戸の戸袋になっており、暑さのせいか骨組みとなっている木材が軋んで、音を出しているのは知っていた。そんな場所からの出火だった。オレンジ色に光って見えたのは戸袋の中か外っかわの壁なのだろうが、現場検証の際、出火の一番焦げている場所はコンセントから離れた場所で床と壁の境辺りだという指摘だった。確かにそこを消火した覚えがある場所だったのだが、オレンジ色に光っていたのはそこから50cm程上の場所の壁の中だったように見え、全く腑に落ちなかったのを覚えている。
前日偶々、夫と死別して近くで仕事をし始めていた姉が帰宅しており、2階の部屋は私一人の占有となっていたため、客間に姉は泊まった。朝には出かけていたらしく、母はコミュニティセンターのボランティアで出かけていた。そんなタイミングで偶々私だけがいた目の前でおきた火災だった。
生き残ってしまったがために兄という身内から犯人に仕立て上げられ不幸のどん底に突き落とされるとは思わず、いっそ焼け死んでいたほうがよっぽど良かったのかもしれないと今でも思っている。数年間、実家の土地の件で悩まされることにもなった。
現場検証では伏線がある。火災の鎮火の際、すでに救急車も駆けつけていて、煙を吸ってしまったことから、消防の勧めもあり近くの病院に運ばれ煙を吸った方は異常がなく小さいが重度の火傷で済んだ。
病院からの帰りがけ、私は兄を頼ろうと電話をした。
私「実は家が焼けて火事にあったんだ」
兄「あん?また金か!?」
私「は?まぁそれはわからないけど・・・(この人なんの話をしてる?狂ったか?話を変えよう、今日中間試験だったわ)」
私「今日中間試験だけど、これじゃぁ行くこともできなさそうだから、いくのやめようかな」
兄「おまえは試験は受けにいけ。とりあえず行くわ」
私が生きていたことは別にどうでもいいようなことだったらしく、火災はすでに彼の中では「私が起こしたもの」というストーリーとなっていたようだ。詳しくは先に進める。


《インデックス》   →次へ

【AC・トラウマからの開放を目指して】火災にあう

2012年9月6日の火災は大きな分岐点となった

9月6日


秋だというのに夏の暑さを引きずった日、人生の折り返しのつもりで勉強に励みだした半年、試験前で徹夜のきかない私は早朝就寝し、目覚めたのが昼頃であったろうか、異変に驚く。焦げ臭く、「くすぶり破裂する」ような異常音に目を覚ますと、壁の中の一部がオレンジ色になっていた。
「え?煙硝?」とばかりに消火に挑戦するも、鎮火したと思いきや吹き返すというよく話に聞く火災というものを実体験することになっていた。恐怖と戦いながら人の助けを借りて何とか消防へ連絡がついた。
何故か電波悪く自分の部屋では携帯電話から119番が繋がらなかったのだ。慌てて外に出ると、そこは「昼間は外出したひっそりと帰宅を待つ住宅」が並ぶ町で偶々仕事で歩いていた職人さんの団体さんが道角向こうから歩いてくるのが見え大声で「すいませーん、火事なんですー。消防呼んでくださーい」と叫んだ。こんな思いで消防を呼んだわけだ。
長く待たされ途方に暮れ鎮火まで相当時間を要したと思う。道端で座り込み、バチバチと炎の上がる音に怯え泣きそうな思いで、再度、携帯電話から119番し状況を問い合わせるなどした覚えもある。掛からなかった電話機は道端では通話できる状況だった。いつも部屋で恋人にかけている電話機なので繋がらないわけはないのだが、何故かあの状況で使えなかったという。
鎮火後、警察と消防での現場検証の結果証言と状況から「自然発火」だと言われた。

《認知》「過去を焼き尽くしてくれたらどんなに良かったか」生き残ったがゆえの不幸の分岐点
《気分・感情》恐怖、不安、緊張、頭の中真っ白、怒り
《身体反応》ドキドキ、ハラハラ、心臓が押しつぶされそうな下腹が痛いような穴の空いた感じ。こわばり、余計な力が入る。
《行動》生き残れた。生き残ったが故になのかあんまりだった。思考停止したように動けなくなる感じ。

こんなこともあり、この事自体、PTSDのようにフラッシュバックが起きるようになったことの一つでもある。


《背景》←   《インデックス》   →次へ

 

【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:父の終焉

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

「一番風呂に入りたきゃ自分で沸かせ、クソが!」私の返し文句である。少しは懲りてたまに遅まきながら自分でやるようになっては来たもののこっちは急いでいる時もありその場合はとっとと沸かして時間無視でとっとと入った。未だにカラスの行水はかわらない。熱めの風呂が好きなのだが身体洗ってとっとと浸かってとっとと出る。出なきゃいけないような気がせっているのが15年たった最近治ってきた。
私は時間になったら入る派という単純な理由だがいわゆる「タイパ」の問題だったりする。仮に夜19時に晩御飯が食べれたとして2時間おいて21時~22時にお風呂にすることで就寝までの時間を逆算して、その時間をチョイスしていて次の日に差し支えないように気をつけていたわけだ。
父は症状からすると「骨髄異形成症候群」(今では珍しくないのかもしれないが)だったろうか、興味もなく忘れてしまったが、結局、日和見感染で命を落とすこととなる。
笑えない話だが、父の体質にとても似ている私は、今、前立腺肥大になっている。高血圧に関しては気がついたら20代ぐらいですでに上が150mmHg、下が栝樓じて2桁の90mmHg代、脈拍に至っては100前後で早めだったので、歩行程度の運動でも120を簡単に超えるようになっていた。25%という遺伝確率という名の生まれる前から負わされた呪われた世代間連鎖ともいえる。私の最後も自己免疫疾患などからくる日和見感染で命が絶たれる可能性があるということだ。
さて父は、戦時中昭和の家の長男で、「東大出身大蔵省のエリート」という順風満帆な一面だけではなかったようで、吃音症であることを隠しながら頑張った人という一面を持つ。私ももれなくその血をついで軽い吃音を抱えているからわかるが、バカにされまいと必死に取り繕っていたのだろうと思う。物を言うという表現ができない分、「愛情表現が下手」というレッテルを貼られることとなった。またここぞという決めの甘さが出て失敗してしまうことがあるのもその吃音症せいだったのかもしれない。アメリカのマクドナルドで「カフェ」と頼んで「紅茶」が出てきたり、発語にはかなり難アリだったようだ。おまけに失敗もついてくるのでハタから見ると「決まらないドジなやつ」でまるで「伝説級」の笑いものになるときもある。ついでを言うと江戸っ子発音で「ひ」と「し」の区別もつかないのは父が下町育ちだからなんだと思っていたが、山の手育ちの私もそうであるところから吃音の要素を誤魔化せたに過ぎなかったのかもしれない。
そもそも感情が押し殺されて育ってきている私は一瞬思考停止して、自分の感情をスルーしてから考える為、思いつき勝負の口喧嘩が苦手なばかりでなく、さらに吃音症が加わって、自己肯定感も低くなってしまったわけでもある。


《インデックス》   →次へ

【AC・トラウマからの開放を目指して】父の終焉

「戦前の家長制度」の影響か何かは知らないが「一番風呂」を誰が入るのかで争うというくっだらない慣わしがあった。こんなことが日々の口論の口火を切ることになる。
15年前、11月に入った頃、いつものごとく口論となり、今日の酒宴の肴が「風呂の順番」となったのはいうまでもない。
さてその翌日昼過ぎから父母で口論を始め、のそのそ外に出ようとした父に、母は「あなたは馬鹿じゃないの?」「そんなんで行けるわけないでしょ」と散々の罵声を浴びせながら、その日、すでに弱っていた父は搬送先の主治医のいる病院で息を引き取った。
叫喚地獄の日々に終止符が打たれたわけだが、当然前日の「酒宴の肴」の怒りもあり「帰って来るなバカが」の望みがかなった日でもあり、苦い想いを未だに抱くこととなる。

 


《背景》←   《インデックス》   →次へ