当初「トラウマ」をピックアップしていく過程で一番最初に引っかかる不思議な心理がこれでした。
元々医者から行動認知療法をしていく際、「いつは何をした」+「気分はどうだった」で状態を評価していくのですが「よい」「悪い」「どちらでもない」的な評価が可能だったのだが、NRSによる気分評価の際の数値化しようと、詳細に評価しようとすると何故かパニックになってしまいました。
《認知》イライラ、五里霧中、雲がかかった感じ
《気分・感情》不安、心配、苦痛
《身体反応》血の気が引く、脱力
《行動》思考停止、やる気の低下、負のループ
NRSによる気分評価しようとすると気持ちに何かしら心でブロックがかかっているように思えました。今から考えると「正直に眺めなければ」ならず、幼少から「いつわらざるえなかった心」の習慣はおとなになっても続いていた悲しい側面が、「NRSによる気分評価」現れているんじゃないかと思えます。「親(養育者)の目」という「〇〇すると嫌われてしまう」という思考フィルターでもう一回今の心の状態を再評価しようとするわけで、「そうしないと己の存続が脅かされる・存在が許容されない/否定される」と本来いらない思考が先に走ってしまいます。本来足元にあるべき「自己」という「個体」ではなく「他人軸」、「親(養育者)」からせっかく離れてもその対象が「世間」など「周りの人」に置き換わっているようで、それを知った今でも、そもそも本当の「私の気持ち」にたどり着くには時間を要します。
付け加えると、単純に「気分がいい」「気分が悪い」で評価できるものではなく、「楽しい」「好き・嫌い」「驚き」「欲しい・執着・興味ない」など複合した状態を一元的に「気分がいい・悪い」に当てはめるので、そこには負の感情ももちろん含まれるわけで「楽しい」けど「怖いな」そして「心配」などスケール化しにくいものも出てきます。AC的には負の感情ほど「~ねばならない」「~べき」で潰されて隠してしまって掘り起こす際の「蓋」が当時何であるかわからなかったこともあります。「トラウマ」段階の傷でなくなってしまっているのかよくわかりませんでした。