【AC・トラウマからの開放を目指して】旗竿地

【AC・トラウマからの開放を目指して】検証結果とは関係なく

共同所有になっていた土地は、すでに母の一存でどうにかなる状態ではなく、兄の反対により、更地にしても母屋を立て直すことすらできない、負の資産となる。更地になると税金もたいへんかかるわけだが、あわよくば全部せしめようとしたのが元々の兄の画策だったようだ。
複雑な状況になっていた土地の権利は結果的に弁護士さんに頼み、解決への道へ一歩踏み出すことになる。
・兄に一部の土地を買わせることで複数人の共同所有となり、連帯保証から回避
・兄夫婦の口座に110万ずつ何年かにわたり返済し済みである
・弁護士が立ち係争中であるにも関わらず足繁く兄嫁に会いに行きご様子ご機嫌伺い
そこで「なぜこうなったのか?」から始まり旗竿地にして私道を設けることで分割し、出入りのしづらい、「まぁ、残った2人に分割できない形」にしてそこをとる羽目となったわけだ。
こうして 母 vs 兄+義姉 の構図は 兄+義姉 vs 母 vs 姉+私 という形に置き換わる。間には弁護士を介して提案し、弁護士同士の話し合いとなって係争していくことになる。
さすが母である、ただ自分が満足すればいいから、その旗竿地を更に分割することなんぞ考えていない。「あとは好きにしたら?」というわけだ。
考えてみれば、いつもこうであった。さも、私に与えられた選択肢は私が選んだかのように見せ結局は母のわがままを押し付けられる。全ては八方美人のわがままを押し通す母ご自身のための旗と竿・・・つまりは「駒」だったわけである。

しばらく我慢し、姓も捨てて私は家を出ることにした。


母には長兄と姉と妹がいて、戦時中の昭和のお家の時代でもあり、子どものいない家庭に養子に出すということが珍しくなかった時代の人で、一番無難な立場にいた母は「I」家に養子にでている。そんな「I」家の養子で収まればまた違った人生になったのかもしれないが、「I」家に跡継ぎができ、出戻ることになる。「一番無難な立位置」とはいえ、戻った家で微妙な立場となり確執が生まれていたようでかなり卑下していたという。
姉は一見すると自由奔放であけっぴろげの少しおかしな人に思わせるが、内実ものすごく外部と壁とはみせない僻地を保っていてあるかのような人で、家出することで酒宴(酒害)から離れた人だった。
早々にこの「駒」から脱出した人なわけだが、距離の取り方が極端なのは酒害に関してはかなり傷を追った人でもあろう。酒害がなく家にいたとしても、「駒」のような役割、変な話だが母の足らない部分を補完した存在でもあったことが、後で分かる。
G案件の数年後、私は不登校になってしまったのだが、この引き金は「酒害家庭」だけではなかったのでは?と思う。少なくともいい意味で「やなこともやらなきゃならない」「債務・仕事・責任の肩代わり」社会は「共同責任」とやらで学びになったとしても、担任G教員のしつこくストレスを継続的に掛け続けることが”全く正しい”とは思わない。「自らを裁かれることはない」と豪語した担任G教員もどこかで折り合いをつけねばならない時が来るのだろうし放っておけばよい。
様々な「教え」では救えない、還される時間もない中、私の中でどう折り合いをつけていくか、一つの事例であり、家も学校も逃げ場がなくなり継続され続けたストレスに私が負けた弱い人間だと決めるのならばそれもいいと思う。それを覚悟の上で【AC・トラウマからの開放を目指して】を書き始めたので好きにすればいいという思いはここに残しておく。
ちなみに姉は「酒害家庭」の責任が自分にでもあったかのように私の不登校を自分の責任と思って、沢山の子どもたちの将来へ導こうと、有名小学校合格請負人の如く子どもの絵画教室をすることとなる。

 

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