私の場合はあくまで、酒害家族であった点を考えて、自助グループとしてAl-Anonだったわけだが、他にもACAやACoAなどもある。Al-Anon自体はアラティーン(Alateen)なども含まれ、AA(アルコホリクス・アノニマス)とは別団体である。
12ステップについては、勉強になるサイトを紹介しておく。
「12のステップ」に多少の違いがあって、
- 「無力」な対象が「アルコール」なのか「アディクションの影響」なのか
- 旧訳なのか新訳なのか
という違いである。以下はAl-Anonグループでの「12のステップ」となる。
1. 私達はアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。
2. 私達は自分より偉大な力が、私達を正気に戻してくれると信じるようになった。
3. 私達の意志と生命の方向を変え、自分で理解している神、ハイヤーパワーの配慮の下に置く決心をした。
4. 探し求め、恐れることなく、生きてきたことの棚卸表を作った。
5. 神に対し、自分自身に対し、いま一人の人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた。
6. これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを、神にゆだねる心の準備が完全にできた。
7. 自分の短所を変えて下さい、と謙虚に神に求めた。
8. 私達が傷つけたすべての人の表を作り、そのすべての人達に埋め合わせをする気持ちになった。
9. その人達、または他の人々を傷つけない限り、機会あるたびに直接埋め合わせをした。
10. 自分の生き方の棚卸を実行し続け、誤った時はただちに認めた。
11. 自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、神の意志を知り、それだけを行っていく力を祈りと黙想によって求めた。
12. これらのステップを経た結果、霊的に目覚め、この話を他の人達に伝え、また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。
旧訳であることがわかるのだが、翻訳改訂に伴うアラノンとの関係の変化があり、出版物との絡みもあると思われるが袂を分かつ結果となったようだ。一見すると迷惑な話だが、実際参加できる団体など近隣にあるかないかスケジュール都合にあうかあわないかで、参加者側の選択肢も必ずしも容易ではなく、まさに「こ゚縁」でしかない状況かもしれない。
またACAなどアディクション(addiction)は中毒・依存症・耽溺として、「アルコール」と置き換えていて、更には日本では新訳を採用している。私自身の今の状態を考えるとACoAが最も適しているのでは?とも思う状況である。
一見すると「神」だの「ハイヤーパワー」だのと、日本が基盤ではなくアメリカらしいサブカルチャー色が強いが、「あなたの信じる神や高次元の存在という意味でよいよ」というのが共通認識として聞く。特定の宗教を意味することではないしている。私的には仏教徒なら仏陀や〇〇大師、〇〇仏や菩薩、明王でも権現でも良いと思う。
実際に通っていた数ヶ月の間には変に思うような(?)誘いなどはないし、発祥がアメリカで団体によっては伝統的にボランティア精神のあるキリスト教会を借りる(貸してもらえる)ことが多いのかもしれない。特定の宗教団体とのつながりはなく、むしろその団体こそが自立性を持ち「源」だと思えるフシもあるが結論として宗教ではないし宗教団体でもない。(『また、その他宗教を排斥するものでもない』と書きたいところだがそれをいいことに新興宗教など持ち込む輩もいるかも知れないので、そこは書くのを止める。)
実際、自助グループ参加時にはこの12ステップを一つ一つ勉強しながら、これを軸に「言いっ放し」ミーティングを行っていく日がある。やってみると自分がどの段階にあるかよく分かる。私的正義に置き換えて思索してみると、実際「悪の根源」が「アルコール」であって「毒親」そのものではないということが言える。しかし残念ながら、結局、心の弱い大人が「アルコール」依存して溺れてしまい、自我を保てず、「家族」という周りの「人」に悪影響し依存が生まれ、連鎖していく事(下手したら「社会」にも連鎖)、その元凶には「アルコール」でそれへの溺れる心の弱い人の「依存」が結局は壊していくという構図だ。
神さま 私にお与え下さい
自分に変えられないものを
受け入れる落ち着きを
変えられるものは
変えていく勇気を
そして二つのものを
見わける賢さを
この祈りに従うなら、私の場合思うのは、元凶は「アルコール」で問題の「泥酔」を「繰り返し」その「依存症」ということになる。また日本の社会文化のレベルと医療的解釈との解離は大きいかもしれない。私が社会に出始めた頃は段々と「無理して飲まなくてもいい」風潮が少しずつ育って変わってきたとはいえ、あいも変わらず、現在でも「泥酔」して「記憶が飛ぶ」(「ブラックアウト」という)事と「依存」という事をイコールで結べない人が大半で、未だに道に転がっている酒臭い輩も多い。少なくとも私の過去において家では、「父が泥酔でブラックアウトしていない日はなかった」ほどだった。未だに「記憶に残っていない」のは絶対「嘘だ」と思っている私もいることをここに書いておく。
分かれ目は、摂取の習慣化で「コントロール」を失っていき「泥酔」と「ブラックアウト」の異常さを自ら認められない、つまりは「心の弱さ」(依存症)で、タバコの依存よりハードルは低いと思われる。更には離脱症状でその明暗は言わずもがなというところだと思う。私は飲まないので知るところではない、しかしタバコも好きなママで禁煙に成功していて(刺激の強いメンソールの軽いタバコに変えて電子タバコにして最後は、ほぼマインドフルネスがきっかけで禁煙)、そうとはいえ普通にイライラして何かしらを求めることもないわけではない。アルコールだと「ノンアルコールビール」ようにそれっぽいもの(「NICOLESS ニコレス」とか)で行為を思い出すとそれで一時満足できることから、行為も依存の範疇で、口寂しいから食の機会が増えてしまったりもする。禁煙から5年以上経つがそれとは別にここ数年加齢から体壊し始めて(加えてベンゾジアゼピン系の薬剤の長期服用と副作用もあってか)メタボリックシンドロームにカテゴライズされていた。医療の進歩とともに病気も増える(分類が精細になって種別が別れて数が増えているという意味)し、いずれにしてもコントロールも多様性の時代だと思う。そんな今は加齢という気付きから、摂食のコントロールと運動で戻しつつあるが保っていられること自体いつどうなるかはわからないと思う。
ちなみに、アルコールを敵視しているように取られるだろうが、私の妻は酒飲める人(周りからすると結構「大酒飲み」らしい)だが「呑まれない人」だったりする。「泥酔」「ブラックアウト」がなく、この辺りは自らコントロールしているとのことだ。そして「泥酔」「ブラックアウト」否定派であり、コントロールできない人への目は冷たい。そんなコントロールができる人でも悪酒をしたら「嫌味」を言うと(私が酒害家庭で育った事情も知っているので)文句を言いながらも気をつけているようだ。悪酒も泥酔の一歩手前なのかもしれないが、そもそも酒が好きというわけではないらしい。そんな妻を尊敬している。今後も頑張って(?)自省自制して欲しいところである。
いずれにしても、やはり、自助団体もAAから始まっているように「アルコール」と「依存症」から始まっているという結論になる。だから『1. 私達はアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。』なのだろうし、間接的に「被害者」ともいえる。つまりAl-Anonである。まして子供の頃で周りの人間から「不信感」を育てられ「自己信頼」を失わせ、「自立性」を失わせ「自尊心」を傷つけられて、自我が著しく損なわれ基本的信頼感の欠けたママ育ち、当然人格レベルで壊れているのも当然かもしれない。つまりは社会的自立しているのに実際は何かに頼らざる得ない状況にまで陥ってしまうわけで、諦めかもしれないが『2. 私達は自分より偉大な力が、私達を正気に戻してくれると信じるようになった。』と信じるられるのであれば、どんなに幸福だろうか。そしてどっかで信じているから行動してみるのだけど現実は足元もないわけで怯えて生きている状況だったりする。行動の方向が違うのかもしれないし、そういう意味でのコミュニティの存在は大きいと思われる。そういう意味では、
仏教が信仰として、アダルトチルドレン自体やトラウマ自体・うつ自体を救えない
だったのだ。「自己信頼」を失った私的には信じることは難しいが、信じてみることも自分で動き出す車輪にはなるということで、客観的に見る機会を持つのは意味のあることだと思っている。そういう意味でも同じ目線を持つ自助グループというコミュニティの存在は大きい。そして、自分を客観視したときの「私」は少なくとも「自分」より多少「大きい」存在かもしれず、偉大ではないが確実にそんな自分もまた『「不信感」を育てられ「自己信頼」を失わせ、「自立性」を失わせ「自尊心」を傷つけられて、自我が著しく損なわれ基本的信頼感の欠けた』存在の判定ということだけは確かだ。つまりは向上心や治りたい思いがある限りは「もっと自分を信頼していいんじゃないの?」ということだとも言える。
そういう意味では逆に自己の放棄かもしれないが『3. 私達の意志と生命の方向を変え、自分で理解している神、ハイヤーパワーの配慮の下に置く決心をした。』というのは、更に深層で投げ出してしまうというのは、一見すると社会的に見て褒められた話ではないが、そこまで放棄しないと日常の悩みで覆い潰されて回復どころではないと、「腑に落ちた」のだった。やはり「現実的には・・・」というところが多く、例えば逆進性の高い社会保険料だ税金だなんだと頭を抱えることが増えていたし、まして診断書代すら払えなかったし(一時)、そこから逃れられないがために更に気持ちも重くのしかかっていく現実は拭えない。「他力本願」だが「ある分でやっていく」立て直しや時期と時間と余裕が必要であるのは間違えなかった。残念ながらここは自助グループでは任意であっても寄付を払わないとならなかった雰囲気は少し負担に思っていたことをここで表明しておき、「寄付は任意」は詭弁であったなぁと思う。それぐらい追い込まれていく話だったりするし、この罠は今後どんどん厳しい現状が待っているワケで、「勝手に生んでおいてホントに無責任だよな」と言い放って放したいほどなワケだ。
ちなみに仏教的には「望んで人間に生まれてきた」とされたりすることもあるし、こんな苦しい思いをするなら「もう二度と生など御免である」とも言える。だからこそ子供にそんな思いを継がせたくはないから子供は作っていない。絶望な世の中に作りたくないのだ。
また残念ながら前世の記憶も過去世の記憶もないので肯定的に捉えることはできない。が、無数の犠牲の上に今生きていることだけは確信できる話だ。
こんな状況で「恥」であることがわかっていて自分の持てるコミュニケーションツールを使って棚卸しをしながら開示したというわけである。話も大きくそれたりもしているように思えるが、12ステップに従うとこれからもまだまだ問題を抱えていくこと乗り越えていくしかないのだと思っている。