「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。
母には長兄と姉と妹がいて、戦時中の昭和のお家の時代でもあり、子どものいない家庭に養子に出すということが珍しくなかった時代の人で、一番無難な立場にいた母は「I」家に養子にでている。そんな「I」家の養子で収まればまた違った人生になったのかもしれないが、「I」家に跡継ぎができ、出戻ることになる。「一番無難な立位置」とはいえ、戻った家で微妙な立場となり確執が生まれていたようでかなり卑下していたという。
姉は一見すると自由奔放であけっぴろげの少しおかしな人に思わせるが、内実ものすごく外部と壁とはみせない僻地を保っていてあるかのような人で、家出することで酒宴(酒害)から離れた人だった。
早々にこの「駒」から脱出した人なわけだが、距離の取り方が極端なのは酒害に関してはかなり傷を追った人でもあろう。酒害がなく家にいたとしても、「駒」のような役割、変な話だが母の足らない部分を補完した存在でもあったことが、後で分かる。
G案件の数年後、私は不登校になってしまったのだが、この引き金は「酒害家庭」だけではなかったのでは?と思う。少なくともいい意味で「やなこともやらなきゃならない」「債務・仕事・責任の肩代わり」社会は「共同責任」とやらで学びになったとしても、担任G教員のしつこくストレスを継続的に掛け続けることが”全く正しい”とは思わない。「自らを裁かれることはない」と豪語した担任G教員もどこかで折り合いをつけねばならない時が来るのだろうし放っておけばよい。
様々な「教え」では救えない、還される時間もない中、私の中でどう折り合いをつけていくか、一つの事例であり、家も学校も逃げ場がなくなり継続され続けたストレスに私が負けた弱い人間だと決めるのならばそれもいいと思う。それを覚悟の上で【AC・トラウマからの開放を目指して】を書き始めたので好きにすればいいという思いはここに残しておく。
ちなみに姉は「酒害家庭」の責任が自分にでもあったかのように私の不登校を自分の責任と思って、沢山の子どもたちの将来へ導こうと、有名小学校合格請負人の如く子どもの絵画教室をすることとなる。