毘盧遮那考察(2)

節分でしたね、旧暦で正月に当たりますので厄除け祈願をお願いしました!ありがとうございました。2月3日は休日でしたので、昼寝を・・・(笑)して目覚めたら、何かがぽろっと落ちたかのように目覚めがスッキリでした。

さて、梵字を墨書する場合、最初の点「阿(अ)点」を打ちます。どの梵字でもです。全ては「阿字に帰す」といわんかのようです。

胎蔵生曼荼羅には、最初「中台八葉がなかった」と教わったことがあります。その代わり「中心は遍知院の一切如来智印だ」とも。色々読み進めていくと結局は仏像でも尊像でもなく、その「一切如来智印」の象徴が意味することが一番大事(私には「根本仏教」の部分)ということを教わって何か釈然としないけれども、スッキリしたことがあります。そしてその脇には拝火教を捨ててお釈迦様に着いていった「優楼頻羅迦葉」と「伽耶迦葉」が描かれます。密教といえばお護摩ですが、このお二人が出てくるのは何故なのでしょうかね。大日経にはこのお二人出てこないはずで、それを描く方に委ねられているともいえるんですね。

中台八葉院」の中台八葉には毘盧遮那如来と四如来と四菩薩が描かれます。種子は毘盧遮那如来をのぞいて「रं वं सं हं अं अ बु यु」と表現されます。特に四如来は別の種子があり、有名な無所不至の真言では「(नमःसर्वतथागतेभ्यो विज़्वमुखेभ्य सर्वथा)अआअंअः」となります。四つの阿(अ)にはそれぞれ「発心(अ)」「修行(आ)」「菩提(अं)」「涅槃(अः)」が割り当てられます。更に五転阿字といい四つの阿の後に「方便(आः)」を繋げて「五転阿字」といいます。

「発心(अ)」は宝幢如来で「与願印」を結びます。金胎不二に考え方からすれば宝幢如来は金剛界で降魔印の阿閦如来(हूं)と同一とされています。降魔印(触地印)といえばお釈迦様が成道する際の悪魔の声に応えた有名な印です。私にはひたすら発心して(普賢菩薩を目指して)「あなたの願いを叶えたくば、心(識)の瞋恚を取り除け」とよめますがどうでしょうね。

「修行(आ)」は開敷華王如来で大悲の象徴で「施無畏印」を結び、金剛界の宝生如来(त्राः)に相当します。「恐怖をのぞきたくば、心を仏法(宝)を学べ」と。

「菩提(अं)」の無量寿如来は裏も表も同じ阿弥陀如来(ह्रीः)ですね。「定にこそ菩提がある」のでしょうか。

「涅槃(अः)」の天鼓雷音如来は触地印です。金剛界の不空成就如来(अः)です。「諸魔を除けば、心は涅槃に至る」ワケなのでしょうね。

何だか「六根清浄の大祓」を読んでる気がしてきます。

金剛界曼荼羅の五智如来の種子を並べるとこれまた有名な真言で「वंहूंत्राःह्रीःअः」で五大虚空蔵なわけですが、三昧耶会だけは違います。蓮華部心念誦儀軌には「वज्रज्ङनं आः वज्रज्ङनं हूं वज्रज्ङनं त्राः वज्रज्ङनं ह्रीः वज्रज्ङनं अः」となっていて、種子を並べると「आःहूंत्राःह्रीःअः」となります。五転阿字で「आः(方便)」が金剛界でも胎蔵生でも毘盧遮那如来となるわけです。

そして「五智の宝冠」をいただきます。その三昧耶の姿をもうひとつの形でみると「瑜祇塔図」で表されます。

この二つは「आः(方便)」の形で「理知不二」を言い表しているといってもいいんでしょう。更に蓮華部心念誦儀軌の真言をあさってみると「आः」を「阿」と書いているものが散見されます。結局「अ」は地大として解釈もされますが「宇宙」=「曼荼羅」なんでしょう。

摩訶毘盧遮那如来は「曼荼羅」をも含めた象徴なワケですが弘法大師は高野山に密教道場として、曼荼羅をおいています。それは「高野山蓮華曼荼羅図」として読み取ることが出来ます。

さて、「密教」は弘法大師の造語だという解釈があるのを聞いたことがあります。「秘密仏教」なわけですが、敢えて、「密」の字を使ったことがうかがえます。「密」の字を調べると「すきまもなく集まっている。きめが細かい。」様なワケです。そして大師は「菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便を究竟と為す」と敢えて「大日経」から言葉を選んでいます。はじめは何でもいいのかもしれませんが、曼荼羅にせよ梵字にせよ、探求していくと結局「隠された根本」にたどり着くようにできてます。まさに「密」なる教えなんですよね。

泥の中から蕾を伸ばして(泥という名の厄をはらって)、大輪の蓮華の花をバーンと咲かせる日が来ることを願って・・・結局は心と葛藤することが大切な気がします。