薫習

「渇愛」が「再生」的な意味であると言う事をつい先日教えて戴いてすっきりしたのだった。
元々私が仏教を一旦捨てたのには「一切皆苦」であった。
全ては苦痛というのは実際人として生きていて、一瞬すごく楽しかったり嬉しかったりという時間がある事自体「苦」ではないし、それを思い出になった瞬間から、思い出している期間というのは楽しいわけで「苦痛」とは言い難いわけで。

そんな私を仏教という学びの世界に呼び戻したのは、父との出来事だった。たまたまその日休みで、朝方大騒ぎして母に連れられて父は出かけて行った。父の死の前日まで大げんかして、怒りやまぬ私自身は心中「もう帰ってくるな!」と思ったわけで、そのまま本当に帰らない事になるとは思いもよらなかったわけだ。
取り返しのつかない思いにかなり凹んだのを覚えている。

人は「苦痛」を受けると五段階の心理状況に追い込まれていく。
元々「死の受容モデル(臨死5段階モデル)」という精神科医キューブラー・ロスが科学的に捉えたものである。
(1)否認(孤立);(2)怒り;(3)取り引き;(4)抑うつ;(5)受容。
このモデルは死に関してだけではなく、怪我をした選手から、恐らく、不測の事態におかれた時、人間誰しもが陥ってしまうであろう心理課程とも言えると思う。(詳しくはgoogle先生に聞いてもらって・・・一つだけ参考までに「スポーツ障害における心理サポート」→「2,怪我による心理的影響」)
これを紹介したのにはあの時の心理状態を追ってみると、多少なりともあたっているし、近々の事もやはり心当たりがあったりするわけで。

更に仏教だと「十二因縁」と呼ばれるモデルもあるけど、後半「愛-取-有-生-老死」に似ていると思えなくもない。

仏教に言う「苦」は刹那的連続性(時間)の中で「不安定」という意味で、寧ろ「諸行無常」と言っているんではないかと私は思っている。つまり「一切行苦」。こう思ったときスッキリ受け入れられた言葉の一つであったりする。

人間は残念な生き物で刹那刹那の連続性を時間と空間として認識してしまう。本当はただの連続した「空間」なのだと思うが。これが一つの欠点なのだろうし、刹那を完全に受け止める事もできないわけで。

まごまごしている刹那に当然、「無明-行-識-名色-六処-触-受」が起きてしまう。既に「識」の段階で好きとか嫌いとか識別作用が生じて、怒り乃至負の感情を生んでしまっているわけで、構造や何かを知っていようがいまいが、また同じ失敗を繰り返してしまう。そう、「あ」っという間に「う~む」と呻る結果になるわけでいかんともしがたい。つまりは「再生」で始まりが終わりで「再生」が繰り返されてしまうわけですわ。

そんな今日は仏滅なので勤行お休みするデーに決めてるんです( ̄ー ̄)ニヤリ おやすみなさい。