有名な三力偈「以我功徳力 如来加持力 及以法界力(我が功徳力と如来の加持力を以ち及び法界力を以て)」、五蘊は仮和合で「空」なのですが、結局は因や縁によって生じています。様々な因や縁の扶助を以って、衆生の平等に具有する法性の界の相互扶助によって物事が成り立っています。・・・「縁起」・・・「お陰様」の関係なワケですね。
この間(・・・と言ってももう数ヶ月前ですが)職場で、「一時停止で捕まったんだよね!」なんて話で盛り上がったんですが、そもそも私が四面楚歌な状態で事故っちゃいまして(物損ですみましたけど)笑えない状況だったんです。まぁ、そんな中、安じてくださったのでしょうか、そんな話題となったんです。交通ルール=道路交通法+慣習等なので「法」は「法」でも「法律」な話に飛んでしまいますが、車で走っていて思っていたんですが、「一時停止線」で止まって眺めていると、面白いことに気が付きます。比較的大型の車両(中型のトラックなど)が曲がってきた時、かすめもせず曲がっていけるんですね。大型のトラックが曲がれないところは「大型を除く」なんて書いてある道もあると思います。まぁ、考えて「一時停止線」引いてるんでしょうがそれを守る限り、まぁ、周りもある程度の安全は保証されるとでも考えればいいでしょうか。もっといえば、オーバーランするくらいなら「黄色でアクセル踏む」(ダメ(笑))のもやむを得ない場合だってあるかもしれませんが、そもそも予測していたら、それも防止できるかもしれませんし、体調や四面楚歌な環境や予測不能な状況や・・・キリがないです。
いずれにしても、雁字搦めに拘束される為の「法律」なのか、法律を利用して安全をとるのか、考え方視点で変わってくるとも言えます。
唯識には三性説という考え方・視点があります。「一時停止線」で止まる自分を「遍計所執性」としたならば「一時停止線」を無視するのも「遍計所執性」といえます。他車(者)の安全確保できているか否かは「依他起性」、その他の空間全体から見て往来が何事もなく流れているのも事故などで渋滞するのも「円成実性」なんて見方も出来るかもしれません。交通と規範に関しては日本は周りにあわせてギリギリラインを判断する(例えばスピードなど)し、ドイツなんかは規範を重視して個々が徹底するんだそうで、スピード違反は逆にあり得ないそうで、国によって慣習も違うなんて聞いたことがあります。まして、規範など決まり事は結局個々に委ねられている(スピード違反で免停食らうのも自己責任という意味で・・・周りからすれば迷惑の場合も多々ですよね)ともいえるので、どっちをとるかの話かもしれません。
またある時、相方が誕生日にはよくミュージカルに招待してくれるんですが、演目の中感動して幕を閉じて、ふと夢から覚めて思ったんです。「アレ?ここは舞台に上がらないでくださいなんて書いてないなぁ」とか「皆さん当たり前って凄いな」と、そもそも、演劇楽しみにきて、舞台に上がってむちゃくちゃにする人はいない・・・(最近そうでもなくなっちゃってきているような気がしないでもない)・・・と思いますし(遍計所執性)、逆をいえば、相互の信頼関係で成り立って(依他起性)いて、無事公演出来ているて観客演者ともによい時間を過ごせる(円成実性)ワケなんですよね。
インターネットのプロトコルもそうで信頼関係で成り立っていますし、法律やなんかの規範も結局は信頼関係を保つために利用するものでしかないのでしょう。まぁ、究極の処、日本に於いては法律はお金で解決する(罰金や慰謝料など)ので、究極的には「守ることが正義」なんていうのは「まやかし」に近く、思考的には「守らなければ罰せられる」「罰せられなければ何でも自由」という考えに陥ってしまいそうで「戒め」の効果はある一定以上は望めない・・・最近テレビのニュースやネットニュースで騒がれているのは、違法性はないものの慣習だったり常識だったり、「世も末なのかな」「残念なお話」なんて思うこともしばしばかもしれません。はたまた「他人事でない」というのもあったりもします。自戒を込めて書けば、まして、「法律は破るためにある」と考えるのは、そういう信頼関係を・・・因や縁を大切に思っていないというか、自己に執着して「業」を作るようなものなのかもしれないです。
習慣や常識なども同じ事が言えます。様々な答えの出せる環境で習慣や常識に則って答えを出すにしても、縛られ過ぎてはダメだと思いますし、単に自己の正当化手段に用いるなら習慣や常識など端から見れば「クソッ喰らえ」・・・単なる自己防衛で終わってしまいがちです。社会で生活していると、ほぼ、これに当てはまってしまいます。
まぁ、「三性説」に強引にはめ込んでしまいましたけど、お許しくださいませ。実際、相手の気持ちや思考、全体の環境や状況などもっと細かに捉えていく必要がありますので、入門的に織り込んでしまっていますので足らないですが、そんな思考もあるということで興味を持ったら唯識も読んでみて欲しいところです。
決まり事のついでで佛教には三学といって「戒・定・恵」を「学」んで修めます。「戒」もまた保つものですが「縛られるべきもの」と考えては修められないものなんだと思います、四向四果の内「預流果」には戒禁取見といい悪見の一つを断じなければならないのが、「学」と区分される一因なのかもしれません。「不殺生戒」なんかはわかりやすいですが、自然界で共存して平等(円成実性)で、お陰様で存在できている(依他起性)からこそ戒として不殺生なんですが、主観(遍計所執性)から見ると、ヘタすれば、ただ「守るべき」なら「学」んで修める必要はないものになってしまうように思います。かといって上の話のように「守る」から「守られる」ワケではないのも事実だったりしますが(遍計所執性)。決めごととしてただ守るのではなく視点を変えて、全体として秩序や体系などよく保たれているのか、周りのためになっているのかも併せて考えてみることも大切だと思ったりします。こんなことを書きながら、致し方なくゴッキーを排除している私も罪深いことなのですが(基本的にこっちに危害を加えない虫ならお外に逃がすのが私のスタンスですが・・・ゴッキーは・・・)。まぁ、害虫と決めているのも人間の偏見なのは承知のことなのですが、ある意味ゴッキーに転生とかヤダなぁ。まぁ、その生に於いて「好い悪い」は感じないでしょうけれども・・・それでもね、この辺りは自我への執着が捨て切れてない証拠でもあるでしょう。
ゴッキーネタで、もう一つ、法律用語の「不作為」の殺生はどうだろうと。例えば知らずに踏んでしまった(有名な「安居」の話にも繋がるのでこちらは割愛)とかならまだしも結局「殺生」になるであろう事が解っていてゴッキーホイホイ置いたらどうなるだろうとか・・・。法律用語で「不作為の殺人」といって、例えば「赤ん坊が餓死してしまうことがわかっていて乳を与えなかった」場合など「殺人」と見なされます。アレはどうなのコレはどうなの?と考えて行くともう収拾がつかなくなっていくのは目に見えていますが、でも・・・殺生戒に限らず戒ってこんな白黒付けるべきものだったのかどうか、三性説に則ってよく考えてみるのも「戒禁取見」に対するテーゼなんだと思います(つまり「学」)。お釈迦様は徹底されていた事も結構あります。その事実しかうかがい知ることは出来ませんし何も語っていただけませんが、思うに、個や法のためだけでなく、僧伽・つまり客観的に見た教団を内的に外的に見渡してそういう徹底した行動をとられていた可能性もあるかもしれませんね。そこまで行くとその行動は「ポリシー」といった方が無難なのでしょうし、そう考えると少なくとも「戒」をどうとかではなく、タイトルの通り「縁」・・・つまり「お陰様」を何処まで考えて行動するかに掛かってくるようにも思えます。
更には弘法大師は「声字実相義」において「五大皆有響。十界具言語。六塵悉文字。法身是実相。(五大に皆響きあり。十界に言語を具す。六塵悉く文字なり。法身は是れ実相なり。)」とか「即身成仏義」では「六大無礙常瑜伽。四種曼荼各不離。三密加持速疾顕。重重帝網名即身。(六大無礙にして常に瑜伽なり。四種曼荼は各々離れず 。三密加持すれば速疾に顕わる。重重帝網なるを即身と名づく。)」なんて仰っています。諸法の実相も、言語化・文字化(符号化とかシンボリズムといった方がいいのかわかりませんが)できるのでしょうね。少なくとも「安居」という習慣や、動作・所作といった「威儀」なども「戒」から学べる、ひとつの回答であるともいえます。そして、「六大無礙常瑜伽」だからこそ法界は「平等性」で「瑜伽」による「円成実性」を学び、「重重帝網名即身」な「依他起性」なこの身と、結局は、一如ということを知らしめてくれているなと思います。まだまだ学ばなければなりません。
以我功徳力 如来加持力 及以法界力 普供養而住。
いつもありがとうございます。内容は個人的主観もあるのでかなり偏ってしまいましたが、お許しくださいませ。