坊さんのブログ(静恵先生)で「ツラかったこと」を読んでいて「残されたものへのフォローがツラかった。」に心打たれていました。
今でもしょっちゅう「死」について考えることが多いですが、どちらかというと私自身に対しての「死」に関しては、楽天的に「いつ終えてもいいように今を一所懸命生きよう」とぶれないようにポリシに従うことにしています。ツラい現状は「明けない夜はない」し「止まない雨はない」からです。そして今「出来ること」をする。
インターネットが流行りだした頃、今のようにSNSだとかない時代、こぞってホームページを作り、個人ページの掲示板やチャットを設置して交流する形が主流で(まだアングラ(アンダーグラウンド)サイトがちょこちょこあった時代ですから20世紀最後のあたりでしょうか)、とある個人ページの掲示板で知り合ったウェブマスターさんと仲良くさせて頂いていました。何かの話題から自死(自殺)について聞かれて答えたことがあります。
私は「もし、「死にたい」と考えることがあるなら、私は自分の親兄弟や友人に置き換えて相手の立場・気持ちになって、私の死を知ってどう感じるか考えてみるんです。悲しむ友人や親兄弟、それを考えるととても死ぬ気にはなれないです」と(だいたいこんな感じだったかと)。
そして死に別れた「親」や「友人」とは二度と語り合うことも、まして喧嘩することも叶いません。相手の立場になったつもりで泣き叫び苦しんで居る姿を想像してください。自分のために周りの人たちに苦痛を味あわせるなんて・・・多分、苦しみのどん底で何も見えなくなっているのだと思いますが、目を見開いて感じてみてほしいです。
私が父と最後に交わした会話は些細なことでの「大喧嘩」でした。病に侵されていた父は、その翌日、フラフラでして母と大喧嘩しながらタクシーで病院へ連れて行かれました。怒りが冷め切らない私は心の中で「二度と帰ってくるな、二度と顔も見たくない」と思ってました。そしてその日の夕方、本当に帰らぬ人となりました。あとで悔やんでも二度と交わせる言葉はありません。お互いがお互い尊重しあえていたら、些細なことでの喧嘩なんかなかったはずです。全ては「時遅し」ですね。
後に私は怒り憎しみの闇に覆われていて捕らわれていたことで、非常に尊敬していたことを見失ってしまっていたんです。ただそれまでは普段顔を付き合わせているとそんな事は微塵も感じないもんです。
でも、今考えてみて欲しいです。この一瞬が一期一会ならどうなのだろうと、この一瞬が偶然なのだったらどうなのだろうかと、実は「この一瞬」は奇跡のでもあるんですね、よかれ悪しかれ。よかれ悪しかれ、我の「業」なのだと思いますし、そこには我の「因」があったはずなんです。縁起にたって考えれば、悪しき因や悪しき業なら二度と繰り返さないようにすればいいだけで、簡単なようで非常に難しい。だってそもそも「我」は「存続しようとする」んですから。私は「我」として居る限り、やがてその「我」は一人歩きするんです。そして周りの環境や恵まれた境遇はたまた苦しみのどん底も「我」の中で「渇愛・妄執」「執着」してしまうんです。本当は現状こそが奇跡なのかもしれないのにです。当然「執着」に当たり前になると感謝の念もなくなります。「渇愛・妄執」「執着」は言い換えれば十二支縁起の「愛」(=渇愛・妄執)「取」(=執着)に置き換えられます(十二因縁ってやや複雑で難しいので言及はココではしませんが、静恵先生曰く「渇愛」は再生ほどの意味と言います)。たった一言「ありがとう」と言えれば、たった一言「ごめんなさい」が言えれば、唯一人相手を尊重することが出来れば、たった一瞬でも相手を思いやれればと。
数十兆個の私を組織構成をしている細胞は少なくともそれぞれの使命(プログラムされたとおりに)を熟して今の一瞬を存続しているだけなんでしょうね。少なくとも「生き」「死に」なんて考えてないと思います。そして細胞レベルで既に「自己」(HLA/MHC)を識別までしているんです。根本レベルで識別能力を持ってる私たちは、自己を識別して自他を分別することはもう逃げられない宿命なんでしょうかね。
「真我(アートマン)」だの「霊」や「魂」があるともないともいわない、だって議論そのもの不毛のことですから。その人の中に答えがあってそれぞれが真実で他者からすれば真実ではないのかもしれないんですよね、本人じゃないから解らないんですよね。仮に個体として生まれて自分の肉体としての実体があり生きていて「我」と認識していて、他者と共有できる心はホンの一部、言葉だったり表情や行動だったり。他者と共有できるのはたった一部です。
私にはどうしても「一切皆苦」が理解できなかった時代がありました。「一切行苦」の表現があることで氷解したんですよね。事象の喜怒哀楽は不安定に変化し続けていくわけですね。
上で言う「苦」は漢訳をした際「दुःख」を「苦」としたわけで、漢訳経典をまっすぐに受け止めて、且つ現代的に「苦」の意味で「一切皆苦」を理解しようとすると理解不能に陥ってしまうかもしれないですね。
つまり上で言う「渇愛・妄執」「執着」は自我においての当たり前は我が儘な勘違いなんですよね。全部は「無明」から来ることです。
追記:実は下書きを11月末日に書いていたのですが、一部負の意味での「当たり前」と言う言葉で表現していて、「坊さんのブログ」で同様に「当たり前」の言葉が散見されたので敢えて封印しようかと思っていたんです。その矢先12月1日どうしても都内(渋谷)に出る用事があって、暫く1年以上お参りできなかった八幡大師大日寺にお邪魔したところこの(大日寺さんに参拝のお許しを連絡しました、ありがとうございます)書きかけの投稿記事にさらなるヒント(「こころの修行塾・じっくりコース」にて途中参加させて頂きました)を頂けたわけです。「お大師」のお導きと思い、『当たり前』を『「渇愛・妄執」「執着」』と置き換えて公開する事にしました(わかりにくくなっていてすみません)。実は今月の行事のご案内が切り替わっておらず、その日に行事があったことを知らないで訪れたんですが、派は違えどやはり「南無大師遍照金剛」ですね。