あれから半年が過ぎてしまいました.。o○
そろそろ眠りから覚めねばということで続いて熟々と綴っていこうかと思います。
書物など「空」を探求すると、膨大になりすぎてよく解らなくなってしまうもので、特に大乗の思考に捕らわれるとギブアップな感じもしてくるワケで、今回は根本仏典から少し整理してみようと思います。
根本仏教で「空」について触れるものとして代表的な仏典に、スッタニパータ法句経(ダンマパダ)と中阿含経の空小経(チューラスンニャタ・スッタ、=小空経=小空性経)とがよく引用されています。
スッタニパータダンマパダ(法句経)では、「第五 彼岸に至る道の章」の「学生モーガラージャの質問」:
モーガラージャさんがたずねた、「わたくしはかつてシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼(まなこ)ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』とわたくしは聞いております。<1116>
この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天(ぼんてん)の世界の者どもも、誉(ほま)れあるあなたゴーダマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。<1117>
このように絶妙な見者(みて)におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」<1118>
(ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」<1119>(ブッダのことば―スッタニパータ 中村 元訳 (岩波文庫))
チューラスンニャタ・スッタ(空小経)からは比較的長いのでピンポイントで以下は一部分をを抽出します:
たしかに、このことは、アーナンダよ、善く聞かれ、善く受け取られ、善く注意せられ、善く知られた。かつて、わたしは、アーナンダよ、そして、今も、空性の住処に、多く住している。
あたかも、この鹿母堂が、空(=中にいない)であるのは、象や牛や馬や騾馬についてであり、空であるのは、金や銀についてであり、空であるのは、女と男の集まりについてであるが、この比丘の教団による独住だけは、空ではないように、
そのように、実に、アーナンダよ、比丘は、村についての想いに集中することはなく、人についての想いに集中することなく、森についての想いによって独住に専念する。
かれの、森についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう
同じく、チューラスンニャタ・スッタ(空小経)を訳したもので、
アーナンダよ、私は以前もいまも、空性の住法によって、しばしば住しています。
例えばアーナンダよ、このミガーラマータル高楼は、象、牛、馬、驢馬について空であり、金銀について空であり、男女の集合について空であり、しかしこれのみは空性ならざるものとして存在しています。すなわち、
比丘僧伽による単一性が。
まさにそのように、アーナンダよ、比丘は、邑想を作意せず、人想を作意せず、閑林想による単一性を作意します。
彼の心は閑林想に跳入し、浄信し、確立し、志向します。(光明寺経蔵>『中部』「後分五十篇」>「空性品」>「小空性経」)
5月の合宿で散々、坊さん(静恵先生)を付き合わせて(今更ながら、ありがとうございました!)この部分お話ししていて思ったのですが、瞑想体験も通じて「やっぱり『空』は『無』ということだよね」ということで一致していたんです(更に深い秘密については言及避けますが)。チューラスンニャタ・スッタ(空小経)も読むと解りますが、「無」といっているのは「○想(邑想、閑林想、人想など)」で、実際に「そこ」に実体の無いものを「無」と言っているので、ダンマパダスッタニパータとチューラスンニャタ・スッタの二つから読み解けるのは、『空』は「空っぽ(英:emptiness, voidness, openness, thusness等)」とか「欠如」とか「無」で、『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』と『空(梵:śūnya/巴:suñña)』を使い分けているのがわかります。
漢訳の経典を見ると全てではないですがこの二つをあまり使い分けず、『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』も『空』と訳していたりするので、混同しやすいところなのかもしれないです。
『邑』にせよ『閑林』にせよ『人』にせよ、言葉ありきで考えれば、実際は認識の上で形而上的要素の集まりの抽象概念でしかない、『仮名』です。つまり、諸法(『邑』にせよ『閑林』にせよ『人』にせよ)の実相(言葉ありきで考えれば、認識の上で要素の集まりの抽象概念)だったりします。無いものは無いんです(無我/非我)が、「私(我)」という要素の集まりの抽象概念が、認識の上(心の中で)で存在してしまいます。
散々書いたので「もういいや」というところですが、法の有為と無為や法有我と言うことを考えると、有為法も無為法も、本来認識の上の形而上的概念でしかなく、実体は「無」んです(実相)。名付けられた概念(仮名)を仮に「袋」や「器」に譬えたら、諸法のその中身は「無(空っぽ)」とでも言えばわかりやすいでしょうか。そうやって考えると、「空性」を、中観派の祖である龍樹が「中論」で、一切有部が主張し始めていた「有為法・法有我」に対してのアンチテーゼとしたのも頷ける部分です。更に「法」なるものも「形而上」的なものであって「実体(実相)」もない≪不生不滅≫。
スッタニパータダンマパダとチューラスンニャタ・スッタで敢えて「ある」とか「ない」とか「存在している」とか言ってはいるけれども、それを解っているであろう人(常見も断見も絶てた人)に対しての表現であったと思われ、本来は「ある」とか「ない」とか「存在している」とか、「ことば」で言い表すべき部分ではなく、事象はそれぞれによって(相互依存性=相依性縁起)自立的・独立的には成立しない(無自性)ともいえますね≪不一不異≫。常見も断見の真っ只中の言葉ありきの私のごときには、戒めておく方がよいのだと思っています≪不断不常≫。過去現在未来という一切有部が主張する「三世実有」も同様に時間軸に対しても「縁起」で説明する≪不去不来≫。
結局は、「時間軸」や「全体と個」とか縛られている私たちがもう一度考え直さなければいけない、「諸法無我」「諸行無常」という「概念」を『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』と言う言葉に置き換えて、中道という原点(釈迦の教え)復帰を説明してくれたのが、上で言う、龍樹その人だったのだろうと思います。
さて、敢えて≪≫で括った、『不生不滅』『不断不常』『不一不異』『不去不来』は、龍樹(龍猛)菩薩の著した「中論」で「八不」といわれています。上の説明では足りない部分で、私の語彙では書ききれないという残念な話ですみません。ただ、『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』という単語はお釈迦様や阿羅漢達の境界であろうこと、弘法大師が伝えてきた浄三業の真言「ओं स्वभाव शुद्धाः सर्व धर्माः स्वभाव शुद्धो ऽहं॰(一切諸法は自性清浄なるが故に我もまた自性清浄なり)」にたとえられる様に『「わたし・わたしのもの」といったようなとらわれから解放された状態』ということを、「目指すこと」を示しているのであるのだと思います。とある書物の用語集から引用すれば
『「私」や「私のもの」といったような自我意識や魂といった概念から自由であること、煩悩からも自由であること、空である状態のこと』(「呼吸によるマインドフルネス」ブッダダーサ比丘著)
という表現がぴったりだなと思うのでした。
また単に『空』と漢訳経典に一致させて表現していますが、二つの経典からは敢えて混同を避けて『空(梵:śūnya/巴:suñña)』と『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』は別物としてとらえた方がよいのでしょう。
でも人(少なくとも私自身)というのは「無」に物質的な何かを与えたがる生き物で、ダークマターの存在を追いかけるがごとく、実体にしがみついてしまいながら科学を追いかけてしまうのでした。GIGAZINE「触れるだけで惑星が崩壊するといわれる「宇宙で最も危険な物質」とは?」という記事に紹介されている動画を見ながら、「有」という存在に惹かれる自分にハタと気がつきました。まさに「顚倒夢想」ですね。
これも一つの我執なのでしょうね。ほど遠い。。。