心の縮図

如来蔵は仏性とも覚性とも仏種とも。唯識でいう範囲は「五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識」ということになるらしい。つまりは心の範囲が無意識まで含めるとする。

岡野守也先生の著書「唯識の心理学」ではヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「生物から見た世界」を引用して、ゾウリムシの環世界の話が出てくる。

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ゾウリムシは密生した繊毛に覆われており、それを打って、体軸のまわりをたえず回転しながら水中をすばやく移動する。

ゾウリムシの環世界は環境にあるさまざまな事物の中から常に同じ知覚標識だけを取りだしており、(中略)なんらか刺激が起こると逃避運動が起こる。(中略)この小動物は食物である腐食菌(その環世界のあらゆる事物のうち、刺激を発しないのはこれだけである)にぶつかるとはじめて静止する。

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との部分を引用(「生物から見た世界」)して、つまりは、心の中に「障害物」と「食物」に識別だけ起こって、そこに対する反応が起きていることを「私たちの心の極端な縮図」とおっしゃっている。「なるほど」と思ったのを今でも新鮮に感じていたりする。

「情」があるのが「有情」なら、生理学的には反射で片付けられそうな範囲も含めて、極論この範囲も・・・観察の範囲だといえそう(笑)。当然、不殺生戒による「衆生」とか「生きとし生けるもの」の定義が、「有情」の範囲ともいえそうだけれども、ヴィパッサナー瞑想で自分を観察する範囲と置き換えてみると・・・含まれそうな気がしないでもない。そうかんがえると人間って言う生き物すげー!と思う。・・・もはや私に出来るのは、宇宙全体を全身で感じてみる(まねごと)ぐらいしか出来ないわけですが(笑)・・・それでも全然足らない。まして私は達人でもないので(;´∀`)・・・。

逆説的にとらえると、「六道四生の一切有情」は「私」を「一」としたら、「一」か「全」か、好きな人とか嫌いな人とか、一切考える必要がないと考えてまして、とてもありがたい範囲です(笑)。結局、全身くまなく意識するにしても意識できる範囲は限界があると言えなくもない。

更にいえば、「いましめ」としての「不殺生戒」も応用できますよね。単に「虫」殺しちゃダメなんじゃなくて、「自分と同じ心の縮図を持つ者」なので、自分が大事と同等なだけ宇宙(?環境?)にとっての存在であると考えられるわけですし、逆に宇宙大から考えると、「私」も「虫」また、多分、同等に、平等に必要なんでしょうね。そして共に生きている訳で、仮に「共存」という言葉当てはまるのでしょう。だって、自分の自分だけの「空気」や「水」なんて少なくとも地球上にいる限り定義できないんですよね。

そう考えると好きな人嫌いな人関係なく・・・結構、楽しく範囲が広げられちゃうわけで。だって、その人の何が解るんだか=自分の何が解るんだか、ってことでしょう?!。もやはごめんなさいとしかいいようがない。そんな「自分の心」さえ追い切れないのに、もう他の人様のことときたら・・・そんな自分と同じ心の範囲があるんですよね。

「こいつ嫌い」って考えている自分をも慈しむわけですから、極論、私の「阿(अ)字」の範囲だけ他人の「阿(अ)字」があるわけで。それでもそれが邪魔ならそこを考えなきゃいいワケで。それでも出てくるなら自分に「そう思っちゃってごめんねー」とスルーしてみるとか色々試せます。とどめておくこと、がスタートだと思いますし。もしくは、何か気がついたらすぐ、メモする。メモしきれないなら、放置する。私はくっだらないことまでメモったりします、逆にくだらない内容しかメモしきれませんでした。そのメモ、後で見ると面白いです、恥ずかしいのもあります、まず見せられません(笑)。

そうやって全体から自分を見てみると・・・うまくいかなかった原因、見えてきそうな気がします。つまり見たくない自分、認めたくない自分。言い換えればマーラなんでしょうし「無明」。きっとその反対は「如来蔵」なのかもしれないし、ひとそれぞれの「真理」かもしれないです。そうやって考えると、四無量心観、すごくよく出来てて、結構、じっくりやると面白いです。

根本経典(阿含経)に出てくる方で、ラーダ長老さん、お釈迦さんとの会話が出てくるのです。お題目を戴いて多分その後瞑想するのだと思います。これは読んでもらった方が早いのですが、「欲貪」、「魔羅」、「魔法」、「無常」、「苦」、「無我」、「壊法」、「滅法等」・・・だいたい同じ内容で、「○○は何?」に対して、お釈迦さんは「色」「受」「想」「行」「識」をそれぞれ「○○」であると・・・現代的にいえばこの五蘊を「疑え」といっているのだと思います。

「六道四生の一切有情」のこと書こうと思ってたら・・・飛びすぎました(笑)