同調圧力

敢えてこう書いてみた。換言すれば「パワーバランスの極み」とでもいえばいいのか、賛成多数だったり政策だったり信心・信念だったり、メカニズムや仕組み的には「メジャー」であって「マイナー」は封殺されていく圧力(仕組み)だったりする側面があるように思う。

お釈迦様の理論を極めればおそらく「中道」にまとまっていくのだと思うけれど、国家というパワーバランスの中においては、資本主義と社会主義の2つの系統があって民主主義と全体主義型・独裁型が問題を起こしていて不幸にも近いところ(テーラワーダといえばの「スリランカ」とか「ミャンマー」とかはその社会主義勢力だったのだけど)がなし崩しになっているようにも見えますし、多分その当事者という内側から見ると「ロシアもまた正しい」といえると思います。領有資源の原資がバランスのようにみえますので金蔓のパイプラインがどこを通っているか、当然主要なところが傀儡政権とかだと期待が大きいんで、たったそれだけで人が死んでいる現実があるんですよね。

実際、自分の正しさなんぞ自分の中のだけのことです。我が強すぎて人の「それぞれ」違いを受け入れられない(尊べない)からなのでしょうが、他者の足をすくったりすれちがいざまに小突いたり最悪のパターンなどもあり得ます。こういうのをスパイト行動というんだそうです(→「日本人のマスク着用率の高さは、意地悪な性格の裏返し?スパイト行動とは」[Yahoo特集]記事)。裏を返せば極論「おまえは毛色が違うから消えろ」そういうことです。毛色の違いとはまさに民族紛争でお釈迦様も止められなかったヤツです。シャカ族は他族に違いを思いやれず卑しい者を絆にしてコーサラ国に攻められ根絶やしにされることになります。言い換えれば「我」に自滅しました。三度進軍を遮って「仏の顔も三度まで」という逸話を作りましたが、重要なのは指導的立場の人が互いに危険を顧みず話し合えたことの方が重要に思えます。そしてかなわなかった。決定者(王族)の行動は代弁者としての行動(民族の願い)とはなっていないのは現代でも同じなんではないでしょうか。

こういう国家とか国民とか民族とか政治体制とか、それも「我」として形作っているのの一つであることは確かで、こういう信条も含めた「我」を「belief」と括るとして、そういうバックグラウンドも含めた自分が「我」の定義と一致すると思っている。言い換えるならば世間との絶妙なバランスがその「我」に現れでもあります。ある民は「ソレ」は「民の総意ではない」と声を上げたが、その決定者を選んじゃったのは「民」であるというジレンマも、また、「世間」というバランスであって「同調圧力」にも双方が存在しているように見えてきてしまいますね。

そうやって私たちは「愛煙者」「嫌煙者」や「愛酒者」「嫌酒者」や・・・上の記事だと「マスクをする(しない)人」を、個人の「正しさ」という価値観で追いやってきました。下手したら「ヘイト」という言葉をぶつけて差別してきました。その後には回り回って受け取る準備もしておかなければならないと思います。危惧するのは「メジャー」であって「マイナー」が入れ替わってそれを受け入れられない人たちが出てくることかもしれません。実は私はマスクに関しては「どっちでもいいんじゃね?」と思ってますが、ケースバイケースで「マスクする」方だったりします。つまり下手すると「マイナー」になりますかね。訳あって「咳」が出てしまうからで、致し方なく「マスクをする」選択しています(別件なので敢えて触れておくと数年ほど前からひどくなってきていて様々な原因も重なり体調を崩す羽目になっていました)。

いずれにしても自分すらもどうにもならないのにどうせよというかといえば(無我)、戒を保つように鑑み省みることが残された道で、次はその間(中道)を通ればいいんだと思います。そこで選ぶ道は他者とは違っていいと思っています。でもそれは「世間」に背を向けることではないです。そして他者には寛容であることも大切かもしれません。「諦める」とかきれいな言葉で修飾しないように鑑み省みる必要もあると思います。

問題はその決定者だけの希望を充足した決定者はどうするかということが残ってきます。最近では現場の話を聞かない社長とか官権などねじ曲がった権力サイドの側や上級国民とか(苦笑)のことですね。逸話として釈迦はその王の事を「彼とその軍隊は7日後に死ぬだろう」と予言したことになっていますが、占いを禁じた釈尊がそんな子供じみた仕返しのような言質があったとは私には到底思えないんですよね。いわゆる仕返しは近代国家では禁じられています(ちなみに近代日本では明治に入って死刑を含む罪刑が国家によることによって「復讐禁止令」を出して仇討ちを禁じています、連鎖を絶つ手段です)が、そういう憎しみの連鎖を生むような仕返しや仇討ちを寧ろ世尊は嫌がっていたと思うんですよね。だから「その悪口は受け取らない」だったはずですし、たとえそれが言葉であっても、自滅することを予測できるほどキレキレの人ならば、世尊は諫める前に相手の立場で理解し謝罪したり誤解を解くなどしてたり表現も相当に工夫していたんじゃないかとも思えるのですが・・・あ、気をつけて言葉を選んだつもりでも、まぁ、伝わりませんでしたね、現実に(笑)、私の場合選びすぎて嫌みも入ってしまう質があるのであとで省みつつも。結局、人間は都合のいいようにしか認知していないんで、我ながら腹立ちますね。

元に戻りますが、実際にコーサラ国は突如消えて謎のままにマカダ国に併合されてしまいます。たくさんの命が失われていたとしてもその決定者を晒すことも如何なものかもしれませんね。仕返しの連鎖が出来上がってしまわないようにしないと更に悲しい結末が予想できることになると思います。さてスパイト行動をする人たちには結末があるのでしょうかね?少なくとも仲間入りをしないようにするとともに、あぁ、そして最後に、向いていない背中は注意することはできませんが、今は私は「真面目」なので「背中に気をつけよう」と思います。さてさてお巫山戯はここまでに♪