三段階目「身体のすべてを体験する」脱落編

「身体のすべて-『呼吸する身体』と『生身の身体』-を体験する」意味がさっぱりわからなく脱落した本人なので落胆というか、さてどうしようという感じでした(笑)。いらっしゃいませ。一応フォロー書いてましたが、要は「不合格」で「全てやり直してください」そういうことです。2分半も座れるようになったし「2週間も頑張ったのになー」みんなそうかもしれないです。ただ一つ成長したであろう事として、座れなかった時間の克服は出来たであろうし、根本として練習であることに気がついて、私の最初の頃とは違って気楽に座れているんじゃないかと。

『呼吸する身体』はまだ体験していなかったとしても、『生身の身体』は残っています。つまり、脱落した私は、しばらくは、「生身」で「肉体」の身体の観察をしていました。空気はどこまで伝わっていくのか、身体の中のエネルギーはどうつたわるのか、「お釈迦様は皮膚の毛穴まで観察した」というので可能なのかどうかなど、「痛み」があるならどこがどのように色に例えると形はどんなで、繊細に粗大に観察していました。それを数ヶ月続けていました。元々、喜悦を体験していた私は「あぁ、やっぱりコレのことなのだろう」程度で、この後の手順で同等の状態に入ることが出来ることがわかって、テクニック次第で「喜悦を体験」し初禅を完成に近づけていくことは可能だと確信したので、更に精進していましたので、一段目・二段目・三段目とこの後の四段目とそのテクニックを数ヶ月続けていました。

身行で痛みなどを観察する時、使えそうなものとして頭痛の時、形や色を思い浮かべて推測して想像して巡らすと痛みが消えていくなんぞというライフハックがあるんだそうですが、私には無理でしたんで少し我慢して観察し終わってさすったりしたことが大半です。動くなとか我慢するとか気が散ることはさっさとかたづけて続けた方が精神衛生上もよいですし効率的です。身随観の身行ですので、精神状態は追う必要はありません。私の場合は妄想とギリギリのラインや妄想となってしまっていたことも結構ありましたが、妄想だとはたと気がついたら「呼吸するのを追う」に戻せばいいんです。

ちなみに、ここで目指すサーマディ(喜悦と初禅)や四禅以降の、空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処の内、一説では、空無辺処はアーラーラ・カーラーマ(alāra kālāma)仙人から習い、非想非非想処はウッダカ・ラーマプッタ(uddaka-rāmaputta)仙人から習ったことになっていて、口をそろえて仏教のオリジナルは観の瞑想だということであるので、お釈迦様が定道後に広めた観の瞑想ではなく、当時のメジャーだった「止の瞑想」=サマタの瞑想で実現出来る瞑想の定であって、今ここでやっている、「観の瞑想」でなくとも「止の瞑想」=サマタの瞑想で可能な「定」である事を勘違いしないでください。つまり、喜悦・初禅を味わいたいだけであるならば、アーナパーナーサティ以外でも、それらの定に達することが出来るので今やっているアーナパーナーサティは不要です。そのパズルは坐っている内に気がつくと思います。あくまでもアーナパーナーサティを使いながら「喜悦」、「初禅定」を目指している事をしっかり念頭に置いておいてください。逆をいうと観察しながら集中を使うというテクニックですむ話で、後々書いていく話です。だから禅定には入れますので心配ご無用です。

『呼吸する身体』が何なのか、人によってなんとなくうっすらわかるかもしれませんが、解らなくても殆どの場合「呼吸するのを追う」は何とか出来ると思います。前回書いたように鼻口から丹田に繋がる架空の管に空気が鼻口から入って丹田に流れていき気が溜まっていきます。反対に吐く息は逆を追って出て行きます。何度も繰り返しながら追っていきます。よく巷に溢れている繊細で微細なゴージャスなのじゃなく、透明の単なる「管」でまっすぐの管でいいです。体表にはみ出る様な管になったとしても全く気にしなくてOKです。

苦しくなったり、生身の身体に何かしらのネガティブな反応があるならばその呼吸は間違っていますし、まずは身体の反応を見極めつつパッシブに呼吸を追い掛けていく感じです。アクティブではなく、ポジティブでもなく、ネガティブでもなく、想像しつつ追い掛けて預ける対象にしていきます。身体が求めている呼吸をあえて探求するためも呼吸法を探っておくのもありだなと後々思ったので先に種類などを示したのはその為ですが、もっと単純に丹田呼吸だけでいいです。

『生身の身体』を観察するのに別のコースとして「小ラーフラ教誡経」と「大ラーフラ教誡経」のご一読をオススメします。「大ラーフラ教誡経」は地界・水界・火界・風界・空(虚空)界を『生身の身体』で分類しています。そこで釈迦は息子に「あなたは出入息念という修習をおさめなさい(Ānāpānassatiṃ, rāhula, bhāvanaṃ bhāvehi.)」つまり、「小ラーフラ教誡経」でいうことも「大ラーフラ教誡経」でいうこともあなたは理解出来ていない状態で、本来はアーナパーナーサティを行う前に知っているからこそ先に進みやすくなっていたはずで、出来ていないならこの「身行」でしっかりと練習勉強しておくのもありな時間だと思います。それは形の五輪ではなく意味としての後々の五輪観を読み解くことに繋がる立派なベースと思います。肉体(地界)には血や体液(水界)に満たされ流れる食事や筋肉の収縮によって起きた熱(火界)血によって伝達して神経は指令を伝達し(風界)、毛穴など穴が虚空につながり・・・・最後に、空間がなかったら肉体は存在しません。そこに充分な空間があるから「生身の肉体」も存在出来るはずでそれ自体も「私」の勝手な思い込みである「我」であることも気がつきませんか。

ちなみに、懺悔文は「我昔所造諸悪業がしゃくしょぞうしょあくごう 皆由無始貪瞋痴かいゆむしとんじんち 従身語意之所生じゅうしんごい ししょしょう 一切我今皆懺悔いっさいがこん かいさんげ

」ですが、あなたの記憶のない「生身の身体」がおかしてきた罪でもあります。塵だったが集まって身体という「色」を作っていて「意」(無意識)が加わることで目的化されているように見えます。少なくともあなたの「生身の身体」を形成するという目的があるはずです。そして60兆(37兆という説もある)細胞となりそれぞれのプログラムに従いそれぞれが生き活かしてまるで一つの身体を「生身の身体」として感じているに過ぎないということもわかるはず。

幼く生まれたてのこの肉体は不完全で「意識」+「無意識」が未完成な状態で組み込まれていて、成長に従いより完全な身体となっていきます。転生ということを条件に考えると、つまり不完全なストレージに宿った強い執着の無明一部不完全な形で記録されたことになる。あえていうが、この事実から、過去世の記憶なんて不完全なストレージに完全な形で記録出来るわけがないです。そういう不完全な記憶が薫習と呼ばれたり業と呼ばれるものであるのは確かでしょう。身命経やここを研究されている論文「『雑阿含経』「婆蹉種相応」」を読まれてみることをお勧めします。そういう強い執着が断てるまでアーナパーナーサティを練習するんだと思います。そうでなければ「天狗」に生まれ変わると昔の人は考えてました。過去世の記憶など否定はしませんが取り違えた天狗になるのも、それを断つのも自由です。が、個人差を否定するつもりはありませんしそれを証明していただければ、その人の外事であって、執着を絶つのは私ではないので、やっぱり私には関係ない話ですね。私はわかりかねますが、じっくりと自分一人で立ち向かってください。

さて、こういう不完全な状態で生まれてきた私は何を元にしているのか、有機物になる以前の無機物ではどこの誰の死骸を取り込んで命にしてきたのかなぜ誰の命が絶たれたのか、そういう罪業もあるのかもしれませんし、今昭和の戦後の世界に生まれた人は少なくとも戦時の犠牲者の元に生かされているという事実もあるので、また生きるために他を殺し糧として肉にしてきた連鎖も、それも過去から引き継いだ悪業でしょうね。まぁ、精神的に抑圧したり虜にした(してきた)犠牲者もりっぱな悪業でしょうね。

『呼吸する身体』がわからずとも、『生身の身体』の身行だけでもキリはありません。