驀過

驀過、たま~にやってしまいまする(´ω`)ノ

念誦で、母珠(達磨、緒留)を超えてカウントしてしまうことで、法(達磨)を超えるという意味で忌みます。元々僧侶の隠語の「莫迦」はサンスクリットでmoha(मोह 愚)なんだそうで(笑)。つまり、

驀過=莫迦=馬鹿

って事なんでしょか?(笑)

ネタとして用いる日は来ないだろうと思っていたけど、丁度いいので!。

少なくとも、達磨超えて気がついて自分の心の中で「バカん(;´Д`)」と思っているのは確かです。

ちなみに、「金剛頂瑜伽念珠經」に

・・・

珠表菩薩之勝果 於中間絶爲斷漏
繩線貫串表觀音 母珠以表無量壽
愼莫驀過越法罪 皆由念珠積功徳

・・・

とのこと。

さて、慈無量心観、まだ、終わってなかったりする。というのは、普賢菩薩って一体何だろうと。多分、ぐぐると色々出てくると思うのだけど、結局は、普賢菩薩の十誓願に集約されると思われる。

1)礼敬諸仏
2)称讃如来
3)広修供養
4)懺悔業障
5)随喜功徳
6)請転法輪
7)請仏住世
8)常随仏学
9)恒順衆生
10)普皆廻向

諸佛に礼拝し称賛し広く供養を修して、

業障を懺悔して功徳を喜び、

法を説くことを請い、

諸佛が世に住するのを願い、

仏教(法)を学び、

恒に衆生に順い、

普く皆を廻向する。

よく考えてみると、五悔を思い出す内容だったりする・・・と思っていたらまさにそれを説明してくださっているページを見つけたのでリンクしておこうと思う。

住職のひとりごと : 「さんがいずいき」を平易に解す 

いつも指導してくださる静恵先生のところではないのですが参考になりますので。

さて、私は小学校の時、歴史の授業でこう習っている。

「あなたたちは、末法の世に生まれてきたのだから絶対に悟る事は出来ないので諦めなさい。よかったね。」

義務教育の現場で教えられる歴史は残念ながら「誰かの主観」であることを(あえて)教えてくれたのだと勝手にひねて考えている。

かくして、無神論者に育て上げられた私にとって、お釈迦様を讃歎して敬礼するのは、実感こもってよいのです。ただ、「称讃如来」とひたすら真言陀羅尼を念誦する事にも実は疑問を隠せないのが本音で、他力本願になるなら単に、「南無阿弥陀仏」と唱えて連れて行って戴く方がよいようにも思えてしまうのだったりする。たとえば、「紙本白描阿弥陀鉤召図」のように(笑)。いやぁ、極楽浄土に・・・封印されてしまいそうで・・・(苦笑)

さて、密教に説かれる如来・仏・菩薩はどうしたものかと、いうのに私見をば、夢を砕くようならお許しください。

仏画や曼荼羅に描かれる仏様達が実態としているわけではないよなぁ、といつも思うのです。その絵に描かれたシンボル的な意味は確かに何か得体の知れない・・・仏様や神様とかに通じるものがあるのであろうと思っていて、それらは、お釈迦様の「智恵」、お釈迦様の説かれた「法」をシンボル(象徴)化したしたものであり、多分、「法」とか「達磨」とか、「事象」を描いた「理智(वं)」なのだろうと考えている。

真言陀羅尼が「総持」といい、「記憶」を表すといわれているんですが、科学の世界で「記憶」は必ず通るルートがあるのだそうです。
最初は、記銘(符号化)、保持(貯蔵)、想起(検索)、そして忘却。
初っぱな、シンボル(象徴)化、「ロゴス」なのです。
「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」( ヨハネによる福音書1)
お大師さんも
「五大皆有響。 十界具言語。 六塵悉文字。 法身是実相。」
て言ってます。

多分、仏画に描かれる仏様を拝むというよりは、「阿(अ)」字、つまり、私たちの生きている宇宙や現世とその共存・つながりを「諸佛・如来」として讃歎する・・・「ありがとう」だと思えた時、意味を解しました。妄信できない罪深き私をお許しいただければと思いますが、そう考えると、慈無量心、「皆が幸せでありますように」だと思えるようになったわけです。

追記:懺悔って何だろうと。何も戒律を守れなかったりしたことを反省して諸佛に告白する場だけでなく。。。今日の失敗を繰り返さない為に、仏法に照らし合わせて、考えてみる場でもいいのでは?とか思ったりしている。それは「世間」にとって「どうなのか」だけでなく、「宇宙・現世」にとって「どうなのか」という、前向きな事を考える時間でもあると思うんです。

追記の追記:「種子」という言葉も密教の本当の意味なのだと思うのでその内に。。。