まず坐る準備 その2

まぁ、そろそろ飽きてくるだろうということで、1週間しないけれど更新してみます。ただ一つ間違えないで欲しいのは続かないのは飽きるのは中断してしまうのも「みんなそうだから」です。私もこのことを忘れていた時とか結構ひどい日もありました。スペシャリストの人や大先生や先師達も最初はそうだったはずで、なかなか「そんなもんだよ」とかいってくれる人はいないので(ハードル上げられすぎてると思いますが)、安心して「できない」ことを受け入れて、出来なくて練習してるんだからいいんだとあきらめてみるのもいいかもしれません。それで私は、はなっから「練習」といってます。例えばこれで「今日は本番」と決めて坐って散々だったように、基本「なーんもない」です(笑)。

ただ「退屈」なんです。

「退屈」は「瞋恚」です。

瞋恚=怒りは嫌でストレスですから、やらなくなるのは当たり前です。途中で止めるのも、続かないのも当たり前なんで。だから身にしみた言葉(=練習)だったりしているわけです。

退屈な事なんだとわかったら・・・退屈を眺めて楽しんでいる人もいるようなので視点を変えれば楽しめるモノなのかもしれません。実際尺度が色々違う退屈があって、もう総合して怒りなんですが、これ、どうにもなりませんよね。まぁ、それでもとなると忍辱と精進だとか精神論ですよね、まんま書いてありますが。あわないのはしょうがないので視点を変えてみるしかなさそうです。

こんな話のために追加したんでは実はなくて、この坐るのはプラーナヤーマだという視点もあります。ターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘の『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』においてプラーナヤーマだとおっしゃっています。ヨガの言葉なのでしょうがその当時のヨガが現代のヨガに繋がってくるはずなので何らおかしいことでもないはずです。著書では呼吸法などは紹介されていなかったところから現代のヨガのようにする必要はないでしょうがざっくり上げておきます。

腹式呼吸
胸式呼吸
ウジャイ呼吸
カパラバティ
シータリー呼吸
丹田呼吸

ちなみに、片鼻呼吸(ナーディショーダナ)なんかは結構動画見たことある人もいるんではないでしょうか。こういうヨガの呼吸法とかいうと、なんか私には苦しいイメージしかなくて遠ざけたいところですが、別の視点から見ると面白くも見えてきます。ちなみに紹介はしましたが、吸気の際に丹田に気が落ちて溜まっていくようにイメージしながらやる所謂「丹田呼吸」以外は「ほぼ」不要だと思います。しかしやったことがなければまねごとも練習してみたりするのもありじゃないかと思います、飽きませんし実践して体験してみるというのは肥やしになります。そういう私は「4 – 7 – 8 呼吸法」と「ボックス呼吸法」をしょっちゅう取り入れています。普通に考えればわかりますが、カウントするだけで集中力をもたらすのに十二分だったりしますし、自律神経調整によってストレスを緩和するなどの効果もあるとされていたことと共に確かに集中力もさえるように思います。「4 – 7 – 8 呼吸法」についてはわかりやすい動画もあるのでそちらを参考にしてみてはどうでしょうか。英語で何言ってんのかわからない人(私)も見ながら一緒にやればコツはつかめるかと思いましたのでリンクもつけておきました。

小ネタですが「ボックス呼吸法」はリンク辿っていただければわかりますが、”Navy SEAL”(アメリカ海軍の特殊部隊)とかおどろおどろしい名前が並んでいますがまんまなようで、タクティカル・ブリージング(戦術的呼吸)とも呼ばれます。スナイパー(狙撃手)など高度なプレッシャーの中で『戦術として使う呼吸法』なんだそうで、たくさんの返り血をすすってきた呼吸法なので”そこ”の”あなた”はやらないように!同じ穴の狢に落ちます(冷笑)。ちなみに私はどんな暴力装置であろうと「道具」は所詮「手段」であり使い手の心次第だと思います。だから心を鍛えるわけですので、そしてあえてこう書いてみています。例えばノーベルさんは強力な爆弾を作って「平和」をうたいますが、正直言ってお馬鹿な私には理解出来ませんでして、しょっちゅうお題として考えるネタの一つです。真面目に考えてハゲるくらいなら使わないこともありだということです。また逆に用意された道具ならいかに心して使うかもアプローチの一つだと思います。

もう一つの小ネタで「4 – 7 – 8 呼吸法」は桜サクラとあの嫌われ前首相も好んで練習したとされています。私は寧ろ(前首相に対しては)つらい身体を引きずって官僚のロビー活動(説得工作)によく耐えてやりきってくれたなぁと思ってます。ストレスも半端じゃななかったろうと思いますし、鳴り物入りの反対政党ですら最後にへたった説得工作ですから並の神経じゃ渡れないだろうなとも思いますので。

いずれの小ネタも本当は普段は微塵も思っていませんが、思いつきのママに、ググると本当にゴミ情報も多くて毒されますねぇ。先入観ほど危ないものはないかと、あまり期待せず(期待したところで効果はないと思う)やってみるのもよいだろうと思います。集中力という点以外は私は期待どおり何もありませんでした。ただし丹田呼吸は様々なヒントと符合することが多いので練習しておくことをオススメします。

まず坐る準備 その1

さて、この数ヶ月とあるマインドフルネス講座に参加したりもしている。やっぱりそうなのかとなるほどねぇと納得する部分もあり、ちょこちょこと「発見」と「学び」が多い感じだ。巷にいうマインドフルネスとはいえアーナパーナーサティは解釈は変わり得るがベースや次第は変わりはしないので、初禅までを書いてみようと思う。とりわけ

①アーナパーナーサティはターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘の『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』をベースとして、「観息正念」というインターネット(アジアのお坊さん)で入手可能な書籍を副読本を軸にしている。
②とりわけ大乗仏教に偏っているところもあり、在家でできる仏教・仏道と考えたい。方法や説については可能な限りリンクで補うが口で聞いた事もあり典拠不可なモノもある。
③すべては「猿まね」から入ったとしても所詮はやり抜いて自分のモノにするまでのことで続けることだけを目標とすればよいと思う。

③はとても大事だなと思い直した事として、他者のやり方で参加してみるというのは一つの意義としてあると思うし、実にほとんどの人は「ひとりではできない」か「ひとりではつづかない」ので、そういう勉強会や座禅会は参加するという形で態勢を作るには一つの手段だと思う(私の場合は医療目的のデイサービスですが)。ある意味シュールな絵柄も「先生」達には不要なのだろうけど「私」達には必要な手段だし、そこに価値を見いだそうが(お金を払って受けるなり無償なりは好き好き)見いださなかろうが、ただのきっかけなのでそこからゆっくり歩めばよいのだと思う。特に他者を評価する(したがる?)ところもあるだろうが、寧ろ、本来は「気づく(注意・集中)」ことと「評価」は真逆のことで「評価はしない」ことが肝要だと思う。逆にそういう評価して欲しい承認欲求なのでいずれは捨てればよいことだと思う。続けるにあたっては自分にあったモノ(納得のいく・腑に落ちた方法や手段)を選択する方がよいなと思った。なのでその手段や方法、コツを含めて書いていきたい。

基本的に私は「先生」ではないので体験やコツや見聞きしたことは書くが指導は行わない事とする。つまりやりっぱなしの書きっぱなしということでお許し願いたい。もし欲しい答えに誘導したければ参加しておくのも一つの手だが私は「先生」ではない。「先生」という名前が欲しければ自ら選ぶし捨てもする。手段だが方法ではないしダルマでもない。本来的にはダルマは小さなモノであれ「苦(苦痛)が終わった」らダンマの終わりで、それを観察して学ぶことが本筋のことと思う。ただ、他方のやり方として私ならば納得のいく言い回しを見つけて腑に落ちたら解放されたこともあるので「サティ(気づき・注意)」を入れるやり方は指導の範囲ではない様に思われ、千差万別のような気がする。ただ人のやり方などは学びにはなるので多少は明かしていこうと思う。

長くなるので、いったんここで切って、座り方と心構えの話。

坐法については、初心者は安楽坐やあぐら、椅子を使って坐るのもありと思っていますが安楽坐半跏坐からはじめて結跏趺坐を目指して欲しいかと思います。体験を通して半跏坐は体幹が捻れてしまったり気がつかないことがあるので結跏趺坐の窮屈な坐り方は実に安定して体幹がぶれないからですが私には身体硬くて長時間は向かないので深く長時間瞑想に入るなら安楽坐や普段は半跏坐と使い分けています。勉強会などではマインドフルネスのみだったりしますので椅子に座ってやることもありますので一応(少なくとも邪道なんかじゃないと思う)。

視点は1.5mほど先、対象物がある場合はこれに限りませんが、実のところこの「視点」は「物理的な視点」だけどは誰もいっていないのが味噌です。心の視点をそこに 落 ち 着 け て おけばいいというのが私の結論です。集中するのは鼻の下だったり鼻の先だったりするわけですが、最初の段階ではそれは考えずに、ただ「物理的視点」も「心の視点」もそこら辺に落ち着けます。背筋を伸ばします。

目は半眼とよく言われますが、少なくとも弘法大師の説ならば「半眼」は最初の段階で多生緊張しながらでも使ってみるとよいと思います。これについては「後述」。

手は「定印」としますが、私は個人的に親指を合わせて宝珠形(これは単に「仏舎利信仰」だからです(笑))にして少し引き上げて(結跏趺坐で置いた時の高さか丹田の高さで浮かせます)います。もしくは左手の上に右手を重ねて親指で折り合わせます。接客業やったことある人ならばマナーで習ったソレです。少し緩めて指を軽く伸ばしておなかを温めるように丹田にそっとあてます。実は私はおなかが冷えます。特に瞑想中に冷えを強く感じることもあるのでこういう手法をとっています。OKサインで膝におく必要は全くありませんし(やってもいいけど後々どうでもよくなると思う)意味わからずまねするより「定印」手を前に組む手印でいいと思います。よくこの世界との唯一つながりとなるので形に気をつけてなんていう説もあるところから意味に納得したならばソレを採用するといいと思いますね。

さて、よく見たことのある形になると思いますがそれでいいです。

すべて練習です。

腕時計でもいいので目の届く範囲においておくのも別にかまいません。時間を計るのにお線香を使うのが昔からあるやり方なんでしょうがどうでもいいです。ただ、白檀は鎮静効果や抗うつなどに効くともされ、身体の消炎効果や鬱血の除去や咳を鎮める効果も期待でき抗菌作用もあるらしいのでアロマオイルで使うのもありだと思います。その場合は時計をそばに置いておくのですが、後述しますがヒントにするためなので慣れたらもういりません。アロマオイルやお香は好き好きに。私はお線香1本の瞑想時間をとるのを目標にしています。

すべて練習です。

まず坐って呼吸を鼻の下の空気の出入りを観察します。あるいは空気の出入り見つめながら空気の動きを観察します。想像します。体感します。

すべて練習です。

まずは「2分半」の壁を目指してください。もしかするとあなたには「1分半」かもしれませんし「3分」かもしれません。じっとして呼吸を見つめていると飽きてきます。退屈します。退屈は怒りなのですが、気がつくとそれは「2分半」程度です。「よし頑張った」と時間が2分半なら精進してみて伸ばしてみてください。ちなみ「よし頑張った」は結果への「評価」です。今坐っていることで感じたり思ったりするかもしれませんが「評価」はしません。この評価をしないということを忘れないで片隅に置いておいてください。妄想に耽ったら「妄想」とラベリングするのは効果があると思いますし、受動的に感じて思ったならば「色」や「識」と漠然とロゴ付けして観察するも私は後者かもしれませんが、ひどい時は「妄想・・・妄想・・・」と入れている時もあります。

すべて練習です。

呼吸をするに当たって息は吐くのが先か吸うのが先かという問題がありますが、経典では「吸う」→「吐く」の順番になっているモノを見かけます。私もそれでいいと思うんですが、もし、あなたが苦しくなるならば『「吐」かないと「吸」えません』という事実を忘れないでおいてください。

すべて練習です。

マインドフルネスは毎回すべて「練習」ですので「本番」なんかなく、毎回出来も違いますので毎回練習で行うと思ってください。

さて、目は半眼の話ですが呼吸になれてきたら目を瞑ろうが半眼で頑張り続けようが好きにしていいと思います。マインドフルネスでは「瞑目で内観」を意味するので瞑るんだそうですが、初心者には「半眼」を教えます。私はこれ矛盾していると思います。どっちでもいいんですが、座して落ち着くまで半眼、その後、好き好きのスタンスです。ただ半眼のいいところもあります。薄目を開けてますので光が入ります。時には光が眠気を壊してくれます。全く無意味ではないですが、プルプルしてしまうぐらいならあなたの自由な選択でいいと思います。

疲れたら終わり、練習、お疲れ様でした。

今日はここまで習熟しましょう。『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』でも急に先へ先へ進めるのではなく一つ一つ納得しながら進めるように指示があります。実はスワンモークというところでの合宿では細かくチェックしながら進めていくそうです。短気に先に進めるのはオススメしませんので私も従おうと思います。書くのが面倒で怠惰なのも事実ですが(笑)。また私も自分でも何度か読み直しつつ、1週間ぐらい間をおきながらかければいいなと思いますので、ご一緒出来ればと思います。この系統の先生にお会いすることもないしまぁ今は縁がないのでしょうね。ただそれでも『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』と「観息正念」は良本だと思います。

あるかどうかとか知らないけど

2005年ぐらい「地獄少女」という深夜帯アニメだったかと思うんですが、有名な台詞で、「人を呪わば穴二つ・・、いっぺん死んでみる?」・・・いや、マジ怖っ(涙)。15年たった昨今でも本当にどうしたんだろうかと思うよな事件として、外国大統領のわら人形事件が近くでおきてましたんで、えぇ。

神社にプーチン氏写真付きわら人形 72歳を逮捕 器物損壊容疑など

我が儘自在と思っている人たちへの不満、とでもいえばいいんでしょうか.。o○(ちなみに、三日月神社とか蘇羽鷹神社っていうのは昨年にかけて回ったところですね。)

どうにもならんことなので、これくらいの鬱憤晴らしいいんじゃないの?と思えてしまう私もいるのも事実、まぁ、気持ち悪いですし、人様のもんどうこうっていう視点では、なんとも言えませんね、そばでこんなんあると。でも、本当にどうにもならんですもの、自身の心と同様かともいえますが。

そもそも天下太平って「退屈」の意味なんですかね?少なくともコロナ過も終息しつつありなんか産みの苦しみというか膿に苦しんでいるというかの世の中ですが、ある意味では「平和」なわけで「天下太平」ってこんなんだったのかもなと。

昭和のある教室での出来事ですが、「おまえら、○○やったんは誰だ?!申し出ないんだったら全体責任だ!」。私語絶対禁止、給食は黙食、教室から出られると、この拘束の苦しみから逃れられ、廊下に立ってる方が幾分か開放感のある日常でした。そらもう、毎日
(また誰か何かやったのかよ・・・)
(けど、僕なんかやらかしたかな?)
(何だろう?何が犯したのかな?)
(結局、今日もコレか怖いし動けないし辛い)

いろんな意見もあるでしょうけど、小学生だった私にはおかしてもいない罪を自省する毎日の時間の退屈さ窮屈さが恐怖で堪りませんでした。まぁ、お世辞にもできのいい子供でもなかったし寧ろ問題抱えまくっていたんですけれども、それでもあの2年間は一体何だったんだろうといまだに解決できないトラウマですかね。

自分をどうにかいうこと聞かせることもままらなんのに、それぐらいまわりなんてどうにもならないのに、まぁ、笑えますかね。そう窮屈な退屈が本当に嫌いだったんだなぁと思った私のとある今日一日でした。

そして今日は弘法大師の誕生日でもありましたね。南無大師遍照金剛。

そうそう、燃え尽き症候群なのかと思ったら男性更年期障害といって、熟々どうにもならないんだなぁ私って、と思った今日この頃でした(苦笑)。

同調圧力

敢えてこう書いてみた。換言すれば「パワーバランスの極み」とでもいえばいいのか、賛成多数だったり政策だったり信心・信念だったり、メカニズムや仕組み的には「メジャー」であって「マイナー」は封殺されていく圧力(仕組み)だったりする側面があるように思う。

お釈迦様の理論を極めればおそらく「中道」にまとまっていくのだと思うけれど、国家というパワーバランスの中においては、資本主義と社会主義の2つの系統があって民主主義と全体主義型・独裁型が問題を起こしていて不幸にも近いところ(テーラワーダといえばの「スリランカ」とか「ミャンマー」とかはその社会主義勢力だったのだけど)がなし崩しになっているようにも見えますし、多分その当事者という内側から見ると「ロシアもまた正しい」といえると思います。領有資源の原資がバランスのようにみえますので金蔓のパイプラインがどこを通っているか、当然主要なところが傀儡政権とかだと期待が大きいんで、たったそれだけで人が死んでいる現実があるんですよね。

実際、自分の正しさなんぞ自分の中のだけのことです。我が強すぎて人の「それぞれ」違いを受け入れられない(尊べない)からなのでしょうが、他者の足をすくったりすれちがいざまに小突いたり最悪のパターンなどもあり得ます。こういうのをスパイト行動というんだそうです(→「日本人のマスク着用率の高さは、意地悪な性格の裏返し?スパイト行動とは」[Yahoo特集]記事)。裏を返せば極論「おまえは毛色が違うから消えろ」そういうことです。毛色の違いとはまさに民族紛争でお釈迦様も止められなかったヤツです。シャカ族は他族に違いを思いやれず卑しい者を絆にしてコーサラ国に攻められ根絶やしにされることになります。言い換えれば「我」に自滅しました。三度進軍を遮って「仏の顔も三度まで」という逸話を作りましたが、重要なのは指導的立場の人が互いに危険を顧みず話し合えたことの方が重要に思えます。そしてかなわなかった。決定者(王族)の行動は代弁者としての行動(民族の願い)とはなっていないのは現代でも同じなんではないでしょうか。

こういう国家とか国民とか民族とか政治体制とか、それも「我」として形作っているのの一つであることは確かで、こういう信条も含めた「我」を「belief」と括るとして、そういうバックグラウンドも含めた自分が「我」の定義と一致すると思っている。言い換えるならば世間との絶妙なバランスがその「我」に現れでもあります。ある民は「ソレ」は「民の総意ではない」と声を上げたが、その決定者を選んじゃったのは「民」であるというジレンマも、また、「世間」というバランスであって「同調圧力」にも双方が存在しているように見えてきてしまいますね。

そうやって私たちは「愛煙者」「嫌煙者」や「愛酒者」「嫌酒者」や・・・上の記事だと「マスクをする(しない)人」を、個人の「正しさ」という価値観で追いやってきました。下手したら「ヘイト」という言葉をぶつけて差別してきました。その後には回り回って受け取る準備もしておかなければならないと思います。危惧するのは「メジャー」であって「マイナー」が入れ替わってそれを受け入れられない人たちが出てくることかもしれません。実は私はマスクに関しては「どっちでもいいんじゃね?」と思ってますが、ケースバイケースで「マスクする」方だったりします。つまり下手すると「マイナー」になりますかね。訳あって「咳」が出てしまうからで、致し方なく「マスクをする」選択しています(別件なので敢えて触れておくと数年ほど前からひどくなってきていて様々な原因も重なり体調を崩す羽目になっていました)。

いずれにしても自分すらもどうにもならないのにどうせよというかといえば(無我)、戒を保つように鑑み省みることが残された道で、次はその間(中道)を通ればいいんだと思います。そこで選ぶ道は他者とは違っていいと思っています。でもそれは「世間」に背を向けることではないです。そして他者には寛容であることも大切かもしれません。「諦める」とかきれいな言葉で修飾しないように鑑み省みる必要もあると思います。

問題はその決定者だけの希望を充足した決定者はどうするかということが残ってきます。最近では現場の話を聞かない社長とか官権などねじ曲がった権力サイドの側や上級国民とか(苦笑)のことですね。逸話として釈迦はその王の事を「彼とその軍隊は7日後に死ぬだろう」と予言したことになっていますが、占いを禁じた釈尊がそんな子供じみた仕返しのような言質があったとは私には到底思えないんですよね。いわゆる仕返しは近代国家では禁じられています(ちなみに近代日本では明治に入って死刑を含む罪刑が国家によることによって「復讐禁止令」を出して仇討ちを禁じています、連鎖を絶つ手段です)が、そういう憎しみの連鎖を生むような仕返しや仇討ちを寧ろ世尊は嫌がっていたと思うんですよね。だから「その悪口は受け取らない」だったはずですし、たとえそれが言葉であっても、自滅することを予測できるほどキレキレの人ならば、世尊は諫める前に相手の立場で理解し謝罪したり誤解を解くなどしてたり表現も相当に工夫していたんじゃないかとも思えるのですが・・・あ、気をつけて言葉を選んだつもりでも、まぁ、伝わりませんでしたね、現実に(笑)、私の場合選びすぎて嫌みも入ってしまう質があるのであとで省みつつも。結局、人間は都合のいいようにしか認知していないんで、我ながら腹立ちますね。

元に戻りますが、実際にコーサラ国は突如消えて謎のままにマカダ国に併合されてしまいます。たくさんの命が失われていたとしてもその決定者を晒すことも如何なものかもしれませんね。仕返しの連鎖が出来上がってしまわないようにしないと更に悲しい結末が予想できることになると思います。さてスパイト行動をする人たちには結末があるのでしょうかね?少なくとも仲間入りをしないようにするとともに、あぁ、そして最後に、向いていない背中は注意することはできませんが、今は私は「真面目」なので「背中に気をつけよう」と思います。さてさてお巫山戯はここまでに♪

LINEは止める予定

いろいろ整理ついたらLINEは消しますので。今年、端末を載せ替えまして、一応一回は復活させたんですがその後引き継ぎも失敗しましたので、もういらないなと。今時マルチプラットフォームでシームレスじゃないのはいらないですね。秘匿性という意味では、LINE交換するのも電話番号交換するのもメールアドレス交換するのも、どれも対して変わらないと思いますが中でも炎上対策だったり独自ルールだったり、またよりセキュアという意味ではLINEはないかな。ずーっと我慢していました。

SNS利用動向調査、幅広い世代でLINEが使われる。利用率は8割超えに

昔っからセキュリティガバガバで「情報漏洩」問題やら「電話帳ぶっこ抜き」問題だったり、個人情報に触れるところに手を出しがちなLINEですが、これ以外にも既知の問題がずっとあって、まぁ改善はないだろうと。

仕事上我慢して使ってきたんですが、独自ルール(既読未読や放置?好きな時間に読みゃいいだろ?)や情報漏洩問題は「芸能人の不倫でなぜ漏れるの?笑」ぐらいならいいんですが(売名行為だったりいろいろあるのかもしれませんし、結構知らない人がポッとわいてくる現象は興味深い)、それが可能なら他も漏れるということですよね。

LINEを信じすぎて段落分けのない長文を送りつけてきたり(いわゆるメールで「頭のおかしい(頭悪い)」と揶揄されるような長文ですね)。文字数制限どうなってるのやら、改行打てない(もしくは打ちにくいなども含めて)ってことは「長文」の為の設計ではない、そういうことなんだと思います。

短文だと、待ち受け画面だけで事が解決するんですが、これが「未読スルー」問題となってくるわけで、発展して『「マイルール」押しつけてくるな』というのが本音なんです。楽しく使おうよ、という点についてはビデオチャットではなかなかよさげだったんですが、やっぱり重い。ビデオ会議システムでは、ZoomやらGoogle Meetやら素晴らしいものが出てきたのでそちらに移行でよいと思います。

今の風潮を見れば自明の理で会社とか企業とか労働契約の奴隷化したい方からすれば都合のいい道具なんで、仕事中の運転中とか休日連絡ありえないわけですしね。

iPhoneユーザーよりAndroidユーザーの方が安全運転だと?

というわけで、
少なくとも私の脳内での話ですが、優先順位として

直接対面>電話>郵便>電子メール・SMS・宅配レター>SNS

でしたが、今年に入って「郵便」は「レターパックス」以上となりました。2月に郵政メール消えました(笑)。手間なので新しいのを送って終わりにしましたが、電子メール・SMSのない時代には「郵便」の確実性は上位でした。「信書」の定義が根底からくつがえされるわけですが、「郵便不達」なんてググればニュースが出てくるように、不確実性が高くなってきたワケです。

直接対面>電話>郵便レターパックス以上>電子メール・SMS・宅配レター>SNS・普通郵便

が不達の可能性も考慮した現実的なところですか。

P.S. あ、あと、一ヶ月ぐらい書き進まない記事も諸々に捨てました:-)

ワクチン3回目

巷ではものの値段が上がって相変わらず人財には財注入しないので、まぁ、デフレからスタグフレーションになるのでしょうかね。ロシアがキーウを占領しようが何しようが軍は引かないでしょうし、そのまま大戦になってもロシアでクーデターが起きたとしても露大統領が実権を握る限り何も変わりはしないでしょうし、泥沼だなぁと。心配することしかできないので桑原クワバラな思いもありますが、局地での戦争状態を受け入れようがうけれいられまいが、今後も確実に生活面で支障が出てくることでしょう。いっそのこと大戦になってすべての企業と国家が壊滅した方がよいというか、寧ろ人だけ残れば国や組織はまた作れますよ。国のメンツとかいらないんですが。なのでウクライナの首都名は敢えてキーウと書きました。

そんなこんなですが、ワクチン3回目行ってきました。また自分の身体観察してみようと思います。結局は発熱には薬もですが氷枕が活躍しましたから、3回目もそうなるかと。地域差の関係で3回ともファイザーとなりました。

どうも、報道見る限りファイザーVSモデルナVSアストラゼネカの構図って読者に向けてというよりそこに群がる組織(自治体や企業)のマネーゲームのために読めてしまうのは私だけなのかな。副反応のことはこれっぽっちで効果はこれこれでって。研究費を捻出しているところの思惑しか反映されないワケですから、そう思えてしまうのも無理ないですから(実際学生時代ある教員は「意図のことなる研究するとお金でないからね」なんて話されてましたっけ。どこの意図なのかは皆さんで考えていただいて)。眺めているしかできないですし、でも私たちは今やれることをやるしかないでしょうね。

「七」

巷じゃ、○○入試だの試験、「問題文が長い!」とかいろいろ反響あるようで、とうとう壊れてブランド化もひどくなって極まったのかカンニングもすっごい高度な詐欺レベルや殺人レベルの事件が出てきてしまったようで。素人なので適当なこと書きますが、最近の国試は往々にして「問題文が長い」のが、今後は標準になっていくのじゃないかと思ってます。単語なんか知っていて当たり前、勉強の仕方を変えるしかなく、単語帳の暗記で一語一答はほぼ役に立たず、「単語」ではなく「センテンスの長い定型文」をパズルのピースしていくようにした方がいいんじゃないかと思えてきました。毎年のように過去問ひたすら解いていて、数年前にふと気がついて、以降2年かけて頭切り替えました。もう受けたくないですが、普通の人でも下手すれば燃え尽きてしまうんじゃないかと。まぁ牛耳っている人たちを総入れ替えしないと何も変わらないので諦めるしかありませんし、いずれにしても受験生頑張って、と。

さて掲題。私自身は江戸言葉(下町訛)の訛をベース(両親の訛)に東京弁なので(住んでいた環境を客観的(?)に)、一見すると標準語っぽい特に訛がない感じ(・・・と思っているだけで・・・結構変な言葉を使うらしく自覚ない訛もあってよく笑われます 笑)なのですが、本人気がついているので、「七」という字の読みを「なな」と読むことにしていたりする。馬鹿真面目と言われればそうでしょうが、ある日あるとき「ひち」という読みはない事に軽いショック(?)で大笑いしてしまいました。以来、気をつけようということで敢えて「なな」とカウントしたり「ごまかしたり」しているわけです。うん、確かに「ヒガシシロシマ」だしなおんねぇや

前から考えていたこととして、あらためてネタ的に書いたのは、縁起偈で読みを書いていて、冒頭で「y」+「a」だから「いぇー」なのか「えぃ」なのか、読みが書かれた時代などを考察した場合上代日本語中古日本語中世日本語などでは「ハ」行は「p」の発音であったり、日本語の「カ行」が中国語で「h行」で発音されるなど、ふりがなの扱いには結構限界があると思ったりしたからでした。更にこれに限らずですがこういうのは日本語で「r」行があり、けれども「l」行ってないので巻き舌「ら(ra)」と、「ら(la)」の、今では習慣的に(私の周りでは)使い分けで「あ」を加えて「あら」と発音したりしている「真言」が結構あることに気がついていたからで、他には梵語の『一切、全て』の「सर्व」を「さらば」とふりがなされているけれどもIAST表記では「sarva」なんです。読みに起こすと「さるう゛ぁ」なんですが、教えてくださった師匠の読みにならって一部の「真言」で「さるば」で習っていたり(今は亡き師匠は私なんかより遙かに「生粋の江戸弁」だった印象も・・・苦笑)、イントネーションも併せて、集団での読み合わせの段階でずれが生じないようにするのも大事だろうということで「先生に習ったのが一番正しい」説をとることとしているワケです。つまりはその先での法則に合わせるのがよいと思います。それ以外は個人的なモノはもうよっぽどのことない限り好きにしたらよいと思うのです。ですので今後もIAST表記以外は読み(ふりがな)は提示しませんのであしからず。

もっというと、正しいと思われる表記ですが「どこ」の「いつ」時代なのかを考察することは大事じゃないかというのを常々思っていたりするんです。逆をいえばそういう法則もあるということを知った上でふりがなをあてにすればよいと思います。例えば当時の科学や通説、その説の根拠、を考えたりする。真面目だから・・・ではないですよ。「自灯明、法灯明」の必然の結果です。相手をどうのと評価している場合じゃないかもしれないですよ(苦笑)

縁起偈

昨年末書いていた(実は今年も続いている)縁生偈とか法身偈とか縁起法頌とか呼ばれる「諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説」の梵文ですが書きっぱなしで何もしていなかったので。

ざっくりとアッサジ尊者がシャーリプトラとモッガッラーナをゴーダマ・ブッダ(お釈迦さん)に縁づけた詩句ともいえます。何度も読み直して調べて(書写の段階でいくつかミスも見つけたりと四苦八苦している中で(笑 おおげさだな)←自分)みてまして、おそらくウィキペディアに記載されているのは間違えないと思われますので、大雑把に知りたいかたはそちらを参照していただくとして

ये धर्मा हेतुप्रभवा
हेतुं तेषां तथागतो ह्यवदत्
तेषां च यो निरोध
एवंवादी महाश्रमणः

元々伝えられているのは説話的にもパーリ語(の経典)だと思われます。よってデーヴァナーガリー表記は「どうなんじゃろか?」というところでしょうが、梵字大鑑(種智院大学密教学会編 法蔵館)にも梵文が載っていまして、ある程度昔から認識はされいたのか現代でも研究されるモノなのでしょうか。ただ、漢訳の偈頌が「諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説」が仏塔に仏舎利代わりに納められる使われる以外にあまり聞かず・使われず読まれるとしても漢文だと推測できますので、この日記にては日本においての梵文の縁生偈を他の真言陀羅尼とは扱いは別とし読みもかいてしまいます。ありがたいことに日本以外では真言化された形跡法身偈の真言化について)があったりします。パーリ語原文は法楽寺さんの「法身偈」に詳しく載ってましたので読んでいただければ敢えて説明もいらないかと・・・むしろそのページで勉強させていただいたぐらいなので。

ये धर्मा हेतुप्रभवा 諸法は縁(因)より生じ(諸法従縁生)
हेतुं तेषां तथागतो ह्यवदत् 如来はその因をお説きになった(如来説是因)
तेषां च यो निरोध (また)それらの滅も(是法従縁滅)
एवंवादी महाश्रमणः それが大沙門の教え(是大沙門説)

一行一行各々だけだとほぼ意味がバラバラになって、前節を受けて形容修飾されていくような文章で「うん、漢訳はよくできてるな」というところでした。「諸法は縁(因)より生じ、 如来はその因とそれらの滅をお説きになられ、それが大沙門の教えです」という感じでしょうか。

十二縁起を説いたという説もあるそうなんですが、まだお釈迦様の悟られて初期の教説を表現したのであろうから根本の「四聖諦」での縁起「因」の事だろうか。この再会した五比丘(アッサジ尊者はその内の一人、最初は王命を受けた政治的に送られた五人だったんだそうですね)との間で説かれた初転法輪で、快楽主義と苦行の否定で中道を示し、苦の五取蘊を説き、実体化として渇愛執着の様として集諦を説き、無我相を通じて滅諦と八正道の道諦を説かれたということになっていいます。四聖諦の内容といい文字や単語だけ先行して浸透していますが、6年も一緒に苦行した仲間でも合宿形式だったということで文章で表されただけの内容より遙かに濃い内容だったのでは(苦行を共にした友との内容分がそこにあったのでは?)と思っています。書いたら数行ですけれども。

読み方はウィキペディアにもIAST表記で書かれていますが、無理くり読んでひらがなにすると、

ये धर्मा हेतुप्रभवा (えい だ らま けい と はら ば ば)
हेतुं तेषां तथागतो ह्यवदत् (けい とん ていさんたたぎゃときやばだた)
तेषां च यो निरोध (ていさんしゃゆにろだ)
एवंवादी महाश्रमणः (えいばんばぢまかしらまだく)

(梵字大鑑 種智院大学密教学会編 法蔵館 上巻P.432~)

さらには、上で触れた「法身偈の真言化について」に依って(実は「梵字大鑑」もこれを典拠元にしている)私ならばこう読みやすくして(少しなまると)

なーも (あ)らたんのーたらやーや
おん
いぇー だるまー けーとぅ はらばんう゛ぁー
けーとぅん てーさん たたがとー きやう゛ぁだっ
てーさん しゃ よ にろだー
えぃ う゛ぁんばぢ まかーしらまーだく
そわかー

と、こんな感じだろうか?(笑)。よみなど普段は提示しないので、書いてて新鮮なのだけれども、そもそも日本では漢文の偈頌で、習慣的に梵文で読まれないのだから好きに読みやすく読んでみればよいと思います(誰かと読み合わせするわけでもないので)。

ありがとうございました

https://www.tnhjapan.org/

真摯に向き合うそのお姿はどこか優しげでしんのとおった方だったのでしょう。
御著書など読んだことはありませんが、私には「心と体の健康と癒しが足らない」のだと改めて気づかされました。「犀の角のようにただ独り歩め」と背中をおされたきもします。合掌

 

欠失

歯が抜け落ちて失ってみると、結構学べることがあるのに気がつきました(実は昨年末の事)。数年季節の変わり目に鼻の奥がぐずつく時に前後してか歯茎まで腫れることが多くなってきたなぁと思っていたのでした(要は歯根嚢胞で”その内抜歯対象”の様な状態で結論として大事に使って10年は保ったわけで)。

昨年末、暫くはジンジンしていたんですが、朝起き掛けなど「無い」ということを認知するんですよね。患部のジンジンする感覚や口腔粘膜や舌の触覚やだったり、(そもそも四肢などを失ったときなどの幻肢痛等のように担当していた神経(脊髄神経など中継役がいるわけではなく)が宙に浮いた状態になるわけではないので比べものにならない「へ」にもならない話とはいえ)、そういう触覚の束が自我の肉体を認識する過程に含まれていて、仏教的には「六処~触~受~愛~取~有~生~老死(欠失による苦)」への流れと「無明~行~識~名色」への流れ・・・狭義の意味の「触」により起きる(特に)「受蘊」と「行蘊」の観察がよーっくわかりました。服の擦れる肌の感覚や体毛に接触して生じる触覚、こんなことで「我」の『殻』を作っているわけで、確かに『真我』と勘違いしやすく永遠にたどり着けない迷宮行きとなるわけですね。その一瞬のなんでもない「当たり前」の感覚が「あなた(私)」を形成しているというその一瞬と、そして全く以て思い通りにならないから「失った」「元には戻らない」という事実(認知)もまた、「うわ、くっだらねぇ(と私は思っているけれども神秘でもありすっごいことでもあります)」というその一瞬がよーっくわかります。

舌でペロッと感覚を認知するとき、普段は意識はしなていないだけで、常に認知を次々としていく中で「無常」な部分をピックアップして覚知するわけです。記憶されている認知(「無明~行~識~名色」)もシンボリズム(種子)ですから、結局それがたまっている阿頼耶識に肥やし(蔵と種子)になっていますよね。言い換えれば「条件づけ」の一つで「ものごと」は形成されていますが、そもそも「思い通り」&「記憶と一緒」&「たよりにしているもの」=「常に有る」な事がそもそもの「間違い」で「変化している(苦)」ことが正常とでもいえばいいんですかね。その中でも「我」の覚知・認知はやっかいで結局絶対になくならないであろうし(無分別智でも分別はできるそうで、そこから考えうるに)否定してもどうにもならないので、観察して注意して自覚して三毒(貪瞋痴)か他者を煩わせるものかを照らし合わせていく必要があるのであって、喜悦後に顕れる「一境性」をどう保つか(要はニミッタ出現後の十分な三昧に入った状態の話で)、もし保てないなら(お釈迦様が)、思考をどうやって調伏していくか、な・・・「我」を知覚して分別が始まる瞬間を注意して気づいて「触」が起きた瞬間「行」自覚してあげると自動思考の暴走を止めることが可能ということだけが残っていくわけでした。

視覚から妄想が起きている場合など「色」と「念(サティ)」を入れてあげると、妄想の呪縛から解き放たれるので、よく「念(サティ)」を活用するワケですが、適確な「キーワード(シンボリズム)」・モノならなんでもいいと思う、・・・私の場合は「色」=「糞袋」的なところがあるので、視覚的な囚われなどから離れるときに有効な「キーワード(シンボリズム)」であればなんでもいいと思うし・・・繰り返しでも適確なのが見つからないときは有効だと経験しているし、四聖諦に則れば「触」を滅して「行」を滅していくとなると、「念(サティ)」を入れる事がベストなやり方なんだと思えてきますので、六境(十八界)の早い段階であればあるほど次のフェーズの入り口(門(生門))で断ち切ることができるのではないかと思えます(「簡単」な「生き方」ではないですけれどもね)。少なくとも日常では殆どは認知評価方法が変わるのでワンクッション反応の遅れて認知していくわけですが、結局はそれを享受するしかなさそうです。

ちなみに、呼吸に注力して身随観・受随観・心随観とすすむ内にできあがる身体のイメージは、成就法のヤブユムそのもので、明妃の顔の位置は瞑想時の集中する視点で、知覚する余地である仮に最低限の「記憶」と「智慧」にをそこに残しておくようなイメージでその明妃の身体は呼吸している空気を追ったとき仮によく言われる「プラーナ」とか「気」だとかだとすると納めていく位置に相当します。こういうやり方になったのは法随観に入ったときに思考停止まで起こしてしまうという結果から試行錯誤の末です。最低限の情として自分をも大切にする慈愛もそこに置くイメージなので、明妃の頭部はいろいろ詰まっていますね(笑)。そこから、例えて客観的思考で「我」を眺め観察し注意して「念」を入れます。

インドタントリズムの影響で後期密教では明妃の事もダーキニーというそうで日本ではそれほど流行らなかった緑度母(グリーン多羅)にも喩えられ、漢訳で「空行母」というそうで、少なくともあなたの2D or 3Dのリアルの本意の「女子」ではないことが解ります。「プラーナ」とか「気」だとか幻や炎の如く「空」を集めて形成した「行」の生み出す源としてパートナーという「母」の概念上のイメージがダーキニーの正体でしょうね。日本の確定したダーキニーの概念としてのお稲荷さまなのですが、ちょっと失礼無礼に当たりそうで荼枳尼天と呼びたくはないのですが、少なくとも私が習った内緒のこととして例えると「曼荼羅を身体に構築する」のであるならば、こういうパートナー的な意識の仮置きという暗喩なのだろうと思うのでした。

理趣会曼荼羅の触金剛女(計里計羅金剛)が何故「抱金剛薩埵」の印をする(「五秘密儀軌」)のか、別名に「金剛喜悦」というのか、そもそも何故女尊が金剛界曼荼羅にいるのか自然な形として自然な営みを模して他人に訴えかけるか探求して土台として練った結果、後期密教で成就法の「ヤブユム」の姿として描かれるようになったのだと思えます。所謂「性的タントラ」という意味では決してないのが垣間見えた今日この頃です、「あぁそういうことか!」と手を叩く感じで納得しました。また日本では歴史的に権力からの追及もありますし性的な意味に思われないように必死に方便を重ねた結果こういう形になったが、十七清浄句だけは残ってしまったのでしょうね。

さて、タイトルの「欠失」ですが「欠損」や「損失」のように「損」あったっけ?ということで言葉遊びをしてみました。