ワクチン3回目

巷ではものの値段が上がって相変わらず人財には財注入しないので、まぁ、デフレからスタグフレーションになるのでしょうかね。ロシアがキーウを占領しようが何しようが軍は引かないでしょうし、そのまま大戦になってもロシアでクーデターが起きたとしても露大統領が実権を握る限り何も変わりはしないでしょうし、泥沼だなぁと。心配することしかできないので桑原クワバラな思いもありますが、局地での戦争状態を受け入れようがうけれいられまいが、今後も確実に生活面で支障が出てくることでしょう。いっそのこと大戦になってすべての企業と国家が壊滅した方がよいというか、寧ろ人だけ残れば国や組織はまた作れますよ。国のメンツとかいらないんですが。なのでウクライナの首都名は敢えてキーウと書きました。

そんなこんなですが、ワクチン3回目行ってきました。また自分の身体観察してみようと思います。結局は発熱には薬もですが氷枕が活躍しましたから、3回目もそうなるかと。地域差の関係で3回ともファイザーとなりました。

どうも、報道見る限りファイザーVSモデルナVSアストラゼネカの構図って読者に向けてというよりそこに群がる組織(自治体や企業)のマネーゲームのために読めてしまうのは私だけなのかな。副反応のことはこれっぽっちで効果はこれこれでって。研究費を捻出しているところの思惑しか反映されないワケですから、そう思えてしまうのも無理ないですから(実際学生時代ある教員は「意図のことなる研究するとお金でないからね」なんて話されてましたっけ。どこの意図なのかは皆さんで考えていただいて)。眺めているしかできないですし、でも私たちは今やれることをやるしかないでしょうね。

「七」

巷じゃ、○○入試だの試験、「問題文が長い!」とかいろいろ反響あるようで、とうとう壊れてブランド化もひどくなって極まったのかカンニングもすっごい高度な詐欺レベルや殺人レベルの事件が出てきてしまったようで。素人なので適当なこと書きますが、最近の国試は往々にして「問題文が長い」のが、今後は標準になっていくのじゃないかと思ってます。単語なんか知っていて当たり前、勉強の仕方を変えるしかなく、単語帳の暗記で一語一答はほぼ役に立たず、「単語」ではなく「センテンスの長い定型文」をパズルのピースしていくようにした方がいいんじゃないかと思えてきました。毎年のように過去問ひたすら解いていて、数年前にふと気がついて、以降2年かけて頭切り替えました。もう受けたくないですが、普通の人でも下手すれば燃え尽きてしまうんじゃないかと。まぁ牛耳っている人たちを総入れ替えしないと何も変わらないので諦めるしかありませんし、いずれにしても受験生頑張って、と。

さて掲題。私自身は江戸言葉(下町訛)の訛をベース(両親の訛)に東京弁なので(住んでいた環境を客観的(?)に)、一見すると標準語っぽい特に訛がない感じ(・・・と思っているだけで・・・結構変な言葉を使うらしく自覚ない訛もあってよく笑われます 笑)なのですが、本人気がついているので、「七」という字の読みを「なな」と読むことにしていたりする。馬鹿真面目と言われればそうでしょうが、ある日あるとき「ひち」という読みはない事に軽いショック(?)で大笑いしてしまいました。以来、気をつけようということで敢えて「なな」とカウントしたり「ごまかしたり」しているわけです。うん、確かに「ヒガシシロシマ」だしなおんねぇや

前から考えていたこととして、あらためてネタ的に書いたのは、縁起偈で読みを書いていて、冒頭で「y」+「a」だから「いぇー」なのか「えぃ」なのか、読みが書かれた時代などを考察した場合上代日本語中古日本語中世日本語などでは「ハ」行は「p」の発音であったり、日本語の「カ行」が中国語で「h行」で発音されるなど、ふりがなの扱いには結構限界があると思ったりしたからでした。更にこれに限らずですがこういうのは日本語で「r」行があり、けれども「l」行ってないので巻き舌「ら(ra)」と、「ら(la)」の、今では習慣的に(私の周りでは)使い分けで「あ」を加えて「あら」と発音したりしている「真言」が結構あることに気がついていたからで、他には梵語の『一切、全て』の「सर्व」を「さらば」とふりがなされているけれどもIAST表記では「sarva」なんです。読みに起こすと「さるう゛ぁ」なんですが、教えてくださった師匠の読みにならって一部の「真言」で「さるば」で習っていたり(今は亡き師匠は私なんかより遙かに「生粋の江戸弁」だった印象も・・・苦笑)、イントネーションも併せて、集団での読み合わせの段階でずれが生じないようにするのも大事だろうということで「先生に習ったのが一番正しい」説をとることとしているワケです。つまりはその先での法則に合わせるのがよいと思います。それ以外は個人的なモノはもうよっぽどのことない限り好きにしたらよいと思うのです。ですので今後もIAST表記以外は読み(ふりがな)は提示しませんのであしからず。

もっというと、正しいと思われる表記ですが「どこ」の「いつ」時代なのかを考察することは大事じゃないかというのを常々思っていたりするんです。逆をいえばそういう法則もあるということを知った上でふりがなをあてにすればよいと思います。例えば当時の科学や通説、その説の根拠、を考えたりする。真面目だから・・・ではないですよ。「自灯明、法灯明」の必然の結果です。相手をどうのと評価している場合じゃないかもしれないですよ(苦笑)

縁起偈

昨年末書いていた(実は今年も続いている)縁生偈とか法身偈とか縁起法頌とか呼ばれる「諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説」の梵文ですが書きっぱなしで何もしていなかったので。

ざっくりとアッサジ尊者がシャーリプトラとモッガッラーナをゴーダマ・ブッダ(お釈迦さん)に縁づけた詩句ともいえます。何度も読み直して調べて(書写の段階でいくつかミスも見つけたりと四苦八苦している中で(笑 おおげさだな)←自分)みてまして、おそらくウィキペディアに記載されているのは間違えないと思われますので、大雑把に知りたいかたはそちらを参照していただくとして

ये धर्मा हेतुप्रभवा
हेतुं तेषां तथागतो ह्यवदत्
तेषां च यो निरोध
एवंवादी महाश्रमणः

元々伝えられているのは説話的にもパーリ語(の経典)だと思われます。よってデーヴァナーガリー表記は「どうなんじゃろか?」というところでしょうが、梵字大鑑(種智院大学密教学会編 法蔵館)にも梵文が載っていまして、ある程度昔から認識はされいたのか現代でも研究されるモノなのでしょうか。ただ、漢訳の偈頌が「諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説」が仏塔に仏舎利代わりに納められる使われる以外にあまり聞かず・使われず読まれるとしても漢文だと推測できますので、この日記にては日本においての梵文の縁生偈を他の真言陀羅尼とは扱いは別とし読みもかいてしまいます。ありがたいことに日本以外では真言化された形跡法身偈の真言化について)があったりします。パーリ語原文は法楽寺さんの「法身偈」に詳しく載ってましたので読んでいただければ敢えて説明もいらないかと・・・むしろそのページで勉強させていただいたぐらいなので。

ये धर्मा हेतुप्रभवा 諸法は縁(因)より生じ(諸法従縁生)
हेतुं तेषां तथागतो ह्यवदत् 如来はその因をお説きになった(如来説是因)
तेषां च यो निरोध (また)それらの滅も(是法従縁滅)
एवंवादी महाश्रमणः それが大沙門の教え(是大沙門説)

一行一行各々だけだとほぼ意味がバラバラになって、前節を受けて形容修飾されていくような文章で「うん、漢訳はよくできてるな」というところでした。「諸法は縁(因)より生じ、 如来はその因とそれらの滅をお説きになられ、それが大沙門の教えです」という感じでしょうか。

十二縁起を説いたという説もあるそうなんですが、まだお釈迦様の悟られて初期の教説を表現したのであろうから根本の「四聖諦」での縁起「因」の事だろうか。この再会した五比丘(アッサジ尊者はその内の一人、最初は王命を受けた政治的に送られた五人だったんだそうですね)との間で説かれた初転法輪で、快楽主義と苦行の否定で中道を示し、苦の五取蘊を説き、実体化として渇愛執着の様として集諦を説き、無我相を通じて滅諦と八正道の道諦を説かれたということになっていいます。四聖諦の内容といい文字や単語だけ先行して浸透していますが、6年も一緒に苦行した仲間でも合宿形式だったということで文章で表されただけの内容より遙かに濃い内容だったのでは(苦行を共にした友との内容分がそこにあったのでは?)と思っています。書いたら数行ですけれども。

読み方はウィキペディアにもIAST表記で書かれていますが、無理くり読んでひらがなにすると、

ये धर्मा हेतुप्रभवा (えい だ らま けい と はら ば ば)
हेतुं तेषां तथागतो ह्यवदत् (けい とん ていさんたたぎゃときやばだた)
तेषां च यो निरोध (ていさんしゃゆにろだ)
एवंवादी महाश्रमणः (えいばんばぢまかしらまだく)

(梵字大鑑 種智院大学密教学会編 法蔵館 上巻P.432~)

さらには、上で触れた「法身偈の真言化について」に依って(実は「梵字大鑑」もこれを典拠元にしている)私ならばこう読みやすくして(少しなまると)

なーも (あ)らたんのーたらやーや
おん
いぇー だるまー けーとぅ はらばんう゛ぁー
けーとぅん てーさん たたがとー きやう゛ぁだっ
てーさん しゃ よ にろだー
えぃ う゛ぁんばぢ まかーしらまーだく
そわかー

と、こんな感じだろうか?(笑)。よみなど普段は提示しないので、書いてて新鮮なのだけれども、そもそも日本では漢文の偈頌で、習慣的に梵文で読まれないのだから好きに読みやすく読んでみればよいと思います(誰かと読み合わせするわけでもないので)。

ありがとうございました

https://www.tnhjapan.org/

真摯に向き合うそのお姿はどこか優しげでしんのとおった方だったのでしょう。
御著書など読んだことはありませんが、私には「心と体の健康と癒しが足らない」のだと改めて気づかされました。「犀の角のようにただ独り歩め」と背中をおされたきもします。合掌

 

欠失

歯が抜け落ちて失ってみると、結構学べることがあるのに気がつきました(実は昨年末の事)。数年季節の変わり目に鼻の奥がぐずつく時に前後してか歯茎まで腫れることが多くなってきたなぁと思っていたのでした(要は歯根嚢胞で”その内抜歯対象”の様な状態で結論として大事に使って10年は保ったわけで)。

昨年末、暫くはジンジンしていたんですが、朝起き掛けなど「無い」ということを認知するんですよね。患部のジンジンする感覚や口腔粘膜や舌の触覚やだったり、(そもそも四肢などを失ったときなどの幻肢痛等のように担当していた神経(脊髄神経など中継役がいるわけではなく)が宙に浮いた状態になるわけではないので比べものにならない「へ」にもならない話とはいえ)、そういう触覚の束が自我の肉体を認識する過程に含まれていて、仏教的には「六処~触~受~愛~取~有~生~老死(欠失による苦)」への流れと「無明~行~識~名色」への流れ・・・狭義の意味の「触」により起きる(特に)「受蘊」と「行蘊」の観察がよーっくわかりました。服の擦れる肌の感覚や体毛に接触して生じる触覚、こんなことで「我」の『殻』を作っているわけで、確かに『真我』と勘違いしやすく永遠にたどり着けない迷宮行きとなるわけですね。その一瞬のなんでもない「当たり前」の感覚が「あなた(私)」を形成しているというその一瞬と、そして全く以て思い通りにならないから「失った」「元には戻らない」という事実(認知)もまた、「うわ、くっだらねぇ(と私は思っているけれども神秘でもありすっごいことでもあります)」というその一瞬がよーっくわかります。

舌でペロッと感覚を認知するとき、普段は意識はしなていないだけで、常に認知を次々としていく中で「無常」な部分をピックアップして覚知するわけです。記憶されている認知(「無明~行~識~名色」)もシンボリズム(種子)ですから、結局それがたまっている阿頼耶識に肥やし(蔵と種子)になっていますよね。言い換えれば「条件づけ」の一つで「ものごと」は形成されていますが、そもそも「思い通り」&「記憶と一緒」&「たよりにしているもの」=「常に有る」な事がそもそもの「間違い」で「変化している(苦)」ことが正常とでもいえばいいんですかね。その中でも「我」の覚知・認知はやっかいで結局絶対になくならないであろうし(無分別智でも分別はできるそうで、そこから考えうるに)否定してもどうにもならないので、観察して注意して自覚して三毒(貪瞋痴)か他者を煩わせるものかを照らし合わせていく必要があるのであって、喜悦後に顕れる「一境性」をどう保つか(要はニミッタ出現後の十分な三昧に入った状態の話で)、もし保てないなら(お釈迦様が)、思考をどうやって調伏していくか、な・・・「我」を知覚して分別が始まる瞬間を注意して気づいて「触」が起きた瞬間「行」自覚してあげると自動思考の暴走を止めることが可能ということだけが残っていくわけでした。

視覚から妄想が起きている場合など「色」と「念(サティ)」を入れてあげると、妄想の呪縛から解き放たれるので、よく「念(サティ)」を活用するワケですが、適確な「キーワード(シンボリズム)」・モノならなんでもいいと思う、・・・私の場合は「色」=「糞袋」的なところがあるので、視覚的な囚われなどから離れるときに有効な「キーワード(シンボリズム)」であればなんでもいいと思うし・・・繰り返しでも適確なのが見つからないときは有効だと経験しているし、四聖諦に則れば「触」を滅して「行」を滅していくとなると、「念(サティ)」を入れる事がベストなやり方なんだと思えてきますので、六境(十八界)の早い段階であればあるほど次のフェーズの入り口(門(生門))で断ち切ることができるのではないかと思えます(「簡単」な「生き方」ではないですけれどもね)。少なくとも日常では殆どは認知評価方法が変わるのでワンクッション反応の遅れて認知していくわけですが、結局はそれを享受するしかなさそうです。

ちなみに、呼吸に注力して身随観・受随観・心随観とすすむ内にできあがる身体のイメージは、成就法のヤブユムそのもので、明妃の顔の位置は瞑想時の集中する視点で、知覚する余地である仮に最低限の「記憶」と「智慧」にをそこに残しておくようなイメージでその明妃の身体は呼吸している空気を追ったとき仮によく言われる「プラーナ」とか「気」だとかだとすると納めていく位置に相当します。こういうやり方になったのは法随観に入ったときに思考停止まで起こしてしまうという結果から試行錯誤の末です。最低限の情として自分をも大切にする慈愛もそこに置くイメージなので、明妃の頭部はいろいろ詰まっていますね(笑)。そこから、例えて客観的思考で「我」を眺め観察し注意して「念」を入れます。

インドタントリズムの影響で後期密教では明妃の事もダーキニーというそうで日本ではそれほど流行らなかった緑度母(グリーン多羅)にも喩えられ、漢訳で「空行母」というそうで、少なくともあなたの2D or 3Dのリアルの本意の「女子」ではないことが解ります。「プラーナ」とか「気」だとか幻や炎の如く「空」を集めて形成した「行」の生み出す源としてパートナーという「母」の概念上のイメージがダーキニーの正体でしょうね。日本の確定したダーキニーの概念としてのお稲荷さまなのですが、ちょっと失礼無礼に当たりそうで荼枳尼天と呼びたくはないのですが、少なくとも私が習った内緒のこととして例えると「曼荼羅を身体に構築する」のであるならば、こういうパートナー的な意識の仮置きという暗喩なのだろうと思うのでした。

理趣会曼荼羅の触金剛女(計里計羅金剛)が何故「抱金剛薩埵」の印をする(「五秘密儀軌」)のか、別名に「金剛喜悦」というのか、そもそも何故女尊が金剛界曼荼羅にいるのか自然な形として自然な営みを模して他人に訴えかけるか探求して土台として練った結果、後期密教で成就法の「ヤブユム」の姿として描かれるようになったのだと思えます。所謂「性的タントラ」という意味では決してないのが垣間見えた今日この頃です、「あぁそういうことか!」と手を叩く感じで納得しました。また日本では歴史的に権力からの追及もありますし性的な意味に思われないように必死に方便を重ねた結果こういう形になったが、十七清浄句だけは残ってしまったのでしょうね。

さて、タイトルの「欠失」ですが「欠損」や「損失」のように「損」あったっけ?ということで言葉遊びをしてみました。

諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説

法身偈といいます。

上は私の書した物ですが、私の考案(意匠?)ではなく、宇賀芳樹先生の作品を真似てコツコツと梵字の練習のものです。法身偈が如意宝珠なこともそうですが、実はよく読むと、「अ(阿)」「वं(鑁)」が二つの玉の真ん中一文字目に来るように組み込まれていることは少し感動した作品だったわけだったりします(17文字目「हय」の内母音符「अ」を除いた子音字を作って、「अ」字を独立させてある)。パソコンあれば台紙なんて簡単に作れてしまいますから、それはこっちにおいておいて、ここ数ヶ月練習書きしているものだったりします。

ほしい方は。。。私のではなく上の是非、宇賀芳樹先生の作品を入手されてくださいまし!。

それもこっちにおいておいて。

新月の日より満月の日に結願と勝手に決めて練習してその後小一時間坐ってということしつつ、この数ヶ月結構書きためてしまいました。まぁ、本職ではないですし、毎日墨すって書くだけの元気はないので(片手間にやっているので)筆ペンで、まぁ期待通り「コシ」がなくふわふわした感じなのは載せるのはちょっとなぁと思うところでした(笑)。

こんなんもそっちにおいておいて。

兎にも角にも「皆さんに(平等に)幸せが届きますように」と思います。

su

MSYS2とWindows Terminal使っている方ならば、.bashrcにaliasで入れておいておけばよくないですかね。

alias su="powershell start-process wt -verb runas"

コマンドから管理者モードでWindows Terminalを起動する

Windowが新しく立ち上がるのが美しくないとか聞こえてきそうだけど、どっかの誰かがもっと美しいやり方でも見せてくれるまでのつなぎで。

「?」

お怒り・お叱りマークですね。もしかしたら単なる文字化けかもしれませんけれども(一応括弧で括っておいた)。別に怒ったりしているわけではないんです。ただ、とてもひらめきました、その印だったりします。

あれから相変わらず大乗経典なぞどうでもよくなってしまっていて、ふと手に取った本(といっても大乗の思想なんですがね 『ゴータマ・ブッダ その先へ 思想の全容解明』(羽矢 辰夫 著[春秋社]))にやられまして、単語が入ってこなくなっちゃいました。入ってこない単語というのが、サンカーラ(Saṅkhāra)=行です。調べれば調べるほどこれについては訳わからないことが書いてあります。”作り上げられたもの、作られたものの因、作られたものの結果、作られるもののプロセス、条件付けられたものはすべて「行」という”なんのこっちゃ、というところですが、上の本では「自他分離的自己形成力」とか表現していて、あぁと腑に落ちる表現だなぁ、けど、余計入らなくなってきたと。悩んでいる事柄自体はどうにもならんしどうにかしてどうこうするしかないわけですが、内容自体はどうでもよく客観的に見ていると、その一瞬で「我」が成立しているのが見えてくるんですよね。よーく観察していると、「我痴、我見、我愛、我慢」一瞬かつランダムに四煩悩に繋がって記憶へ縁起するというか接触していくというか引っ張り上げられるというか表現できないんですが、ずーっとこれが表現できないでしたんですが、それを「行」というと簡単なんですね。束ねて形成してしまう。「五蘊」とか言って、また別にもまとめてましたけど、「蘊」の字は草冠(艸)に「」=繊維なんですが形変われば布絡んだままで綿の様にこんがらがってしまいますね。その本書いた著者も相当に困ってしまっていたんだと思いますし、私には腑に落ちたのが、それが「?マーク」、「行」という象形文字でした。イメージでした。ひと文字で組合・ギルドなんて言う組織の意味もあるんですね。で、やっぱり、龍樹は「戯論」という言葉による形成というポイントを突いていたわけで、「我」が定まると確定すると途端に他が分離されて、事象が形作られていくんですよね。ごちゃごちゃと、バッカみたい、けれど現実に何にも解決しないけど(笑)。大師も「五大皆響き有り十界に言語を具す六塵悉く文字なり法身は是れ実相なり」と言ってますわね。万事解決です。

ちなみに、「六塵」は「六境」、「色声香味触法」ですね。眼耳鼻舌身意が外界と触れて感覚というシンボルを作ってしまうんですが、甘かったり眩しかったりヌメッとしていたり臭かったり不快感なのも、意識をのぞいて実は五大に分けられるんですよね。間違っても志那化(東洋思想化)しない方がいいかもしれないです、後々困るかもしれないので。でも所詮、「行」を見極めるシンボルなので、どうでもいいことかもしれませんが。それぞれの感覚器と五大との相対は「眼覚」は「火」、「聴覚」は「空」、「嗅覚」は「地」、「味覚」は「水」、「触覚」は「風」だそうで、当てはめてみると、そう、その通りと思えるかもしれません。そのお釈迦様のいた時代の科学というか文化の中での認識が仏教のベースになっているであろうことは想像に苦しくなく、その五大の相対はアーユルヴェーダがヒントに・・・当時の科学に近かったんじゃないかと思えてます。そもそも上の五大と感覚器の相対は禅宗かどこかの方が書かれていたのをメモっておいて見直してみたらスッキリと受け入れられたワケです。「小空性経」並のスッキリ腑に落ち加減でした。腑に落ちれば何でもいいのであくまでもヒントと言うことにしておこうかと思いますが、拘りすぎても単なる執着なので、適当にメモして試してみる程度で納得いかなきゃ捨てていい話(自灯明法灯明)でした。

おニューのPC(中古だけど)

昨日はあの金閣寺にご尽力された方が亡くなられたそうで、今日は天台座主様が亡くなられたようですね。瀬戸内寂聴さんもつい先日ですが、時の人なのでマスコミがざわざわするのも仕方ないかと思ったんですが、お二人に関しては意外でした。まぁこんな反応したのは、今日は日中ずっと地響きすごくて、先日の地震の時も直前は地響きしていたなぁと。お釈迦様が亡くなられたとき、天地も悲しんだといいますからねぇ。ざわざわしてしまいますが、昨日都内に出たとき偶々寄った不忍池辯才天のお堂が開いてまして参詣してきました。不忍池辯天堂って実は寛永寺さんで、寛永寺さんといえば天台宗で徳川家墓所もあるわけで、天海さんの肝煎りと言っていいのかもしれませんが、徳川家って増上寺を見ればわかると思いますが元々は浄土宗が菩提寺で、戦乱開けてのその当時ですら(客観的な歴史として)権力との結びつきのあった宗派の姿がみてとれたりします。

浄土宗の宗紋って月影杏葉らしいんですが都内の浄土宗の寺院では三つ葉葵の御紋をよく見かけるもんですから(「ひかえ~!」の水戸黄門さんのアレの紋です)、寛永寺さんでも同様に三つ葉葵の御紋で無意識に浄土宗だと思っていました(苦笑)。最近になってこの二つの宗派で行ったり来たりしていたことを知ったわけです。

このご時世でチップの値段・・・集積回路のことね・・・が上がってるらいいのでパソコン自作している私的にはしばらく様子見だったんですが、そんなこんなでヤフオクでパーツ集めて組み直しました。超ど安定、先日まで起動の怪しい挙動が嘘のようです。CPUとM/Bとメモリ買って十万超はねぇ・・・・余裕作らない無理(ちなみにその時勢でいいスペックでチョイスしておかないと結局ちょこちょこ変えることになって倍にお金かかるんですよね、そうなりそうな予感)、というか、この数年ソフトすら買えず更新できないでいたのに・・・オークションサイトで中古という形でいろんな意味で多方から工面して新品でなくて中古という再スタートとなりました。とはいえ、超ど安定しているので、まぁいいでしょ。ついでで都内ふらふらして1万5千歩あるけて、あいてるところ見たことなかった不忍池辯天堂もちゃんと参詣できてよかったよかったな、話のついででなんか時事ネタが絡んだということでして。

そして、工面したので当面小旅行などはできなくなりました(笑)

びっくりしたのは昨日秋葉原のパーツショップに行ってビデオカードがとんでもないお値段になっているのに気がつきました。最近のCPUってビデオ機能がついてますので、別途ビデオカード買う必要があまりなくなってきたとはいえ、ボトルネックやら負荷分散をやっぱり考えてしまいますからパーツ探しましたが現実的じゃないビデオカードのお値段にびっくり。わたしゃとっとと退散ですわ、これ。チップ(・・・集積回路ですよ・・・)の不足とは確かにあるんでしょうが、たった数年でこんな値段はありえねぇなと思って調べてみるとお宝探しですか。。。買いあさりっていやぁ中華マネーで、結局、権力ってお金なんですかね。使い方間違うとやっぱり暴力にしかならないですよね、お金と権力。