私信

先に、ご気分を害し方や関係者の皆様にはお騒がせして申し訳ありません。こんな私ですが、末席を汚させていただきます。

すでに解決済みのことではありますが、内容を残してほしいとの要望があり、掲題のごとく「私信」として残すものです。どうぞ読み飛ばしてください。

以下は、先日のブログに書いていた削除部分です。少し手直しもさせていただきました。

“私信” の続きを読む

11月2日は父の命日でした。

今年は十五回忌となるようです。父は死の前日まで酒をあびる程呑み呑まれ、私と喧嘩もして彼の世に去りました。東大出身のエリートで大蔵省(現在の財務省)に入省して、仕事に関しては「馬鹿」がつくほど真面目で嘘をつけない人で結局はエリート街道から振り落とされた人でした。天下りが問題視され始める直前でしたから、引く手あまたでないにしてもそれなりに下って、しばらくすると、衆議院の職員として公務員としてとある室長を努め、最期は会計士としてお棺に入って家についたその日にも仕事先から手紙が入るなど『The仕事人生』の人だったわけです。欠点は内弁慶でお酒と暴力、家でお酒が入ると気が大きくなって暴れるという、「不飲酒戒」でいわれる放逸を絵に書いたような人だったんです。幼少期から毎日のように「酒に呑まれてクダを巻く」姿を刷り込まれて来ましたので深い傷となって、実は心中では酒癖の悪い人を見ると無意識に恐怖を感じます。そして私は一般人以上に「お酒」「禁酒」には理解を示す一方、厳しい人だと覚悟しておいていただければと思います。

当時、一旦仏教の思想をすべて否定し、何もないところから「無から有を作る」と信じてIT業界にいた私でしたが、この父の死は私をその仏法の世界に戻すには十分でした。弥陀来迎とはたくさんの絵になっている様に、父の枕経では紅黄金色の阿弥陀さんが迎えに来ていました。心の眼に写った姿ですから他の人に話しても致し方ないことですし、ずっと今まで黙っていました。前にも書きましたが、私自身は阿弥陀仏って大っ嫌いなんですよね。見えもしないのに、納得していないのに、信じろという方が土台無理な話で、仏教の歴史も掘り返していくと、北方に伝搬した仏教は一旦、途切れた仏教であることがわかります。それは禅宗を除いて、龍樹菩薩に祖師に求めて、その前がいない=釈迦にたどり着かず、残念ながら大乗仏教は正当な法嗣のない流れであることがわかってきます。これは一部の宗祖は知っていて血脈や祖師の龍樹から始めていることを見せて無言で伝えてきたことだといえます。龍樹菩薩伝を読みますとその無茶くちゃさが面白いのです。ーガールジュナが恐れていたものは権力ですが、よりによって兵士の隊長となり、逆に権力を利用して仏教を広めるわけです。他の仏教徒が読んだら非難轟々ですね。

知れば知るほど大乗仏教に残念に思いがしてしまいます。見方を変えると大衆信者を集めるのに書かれた初期の経典群であったことがわかります。そんな極論・極限の中で座っていて出した答えが、曼荼羅中西方に坐す阿弥陀如来(妙観察智)でした。四智の何れが欠けても四禅が完成しないことを感得させられました。これが、お馬鹿なふりをして「阿弥陀さんにおまかせします」の真相です。唯識素晴らしいとも思いましたし体感して完成をへの手がかりをいただけたころから、大嫌いだったはずなのに、「阿弥陀さん」に負けて頭を垂れてしまうような感じもありますが、とでも清々しく受け入れられたわけです、目指す完成に向けて。

古いお釈迦様の仏像や阿弥陀如来は壺を手にしてます。あれは甘露が満たされたもので「死の恐怖を取り除くもの」という方便です。葬式仏教もこれがないと成り立たなくなる可能性もあります。そして、現世で仏界に届かない供養の想いを変わって供養してくださるのも阿弥陀如来ということも言えます。なので持念仏はそのままで阿弥陀さんのお力をお借りする感じでしょうか、なので五智いずれも大事であり両界曼荼羅の大切さが改めてわかるようになります。

話は少し変わりますが、私が東洋医学系国家試験を受けた裏には、当時得度を済ませてまして、同業もやられている(医方明といい五明のひとつで灸は日本において弘法大師が開祖)という事実までありますので、そんな資格を持つ阿闍梨さんに、勉強して東洋医学業の国家試験を受けるべきか、いわゆるまちなかで横行している無国家資格(民間資格)「整体」を目指すか迷って相談したことがあります。「仏法を目指すものが、国家試験もとおらないで、そんな嘘つきみたいな泥棒みたいなことするな!」とお叱りを受けました。だからこそその資格を完全に修めたワケです。それは自分のためでなくて他人のために生業を提供するのに認められたものを修め提供すべきであることを自身の責任において腹に決めたからです。年齢は関係ありません。

このタイミング

パソコン壊れました。最近多かったブートクラッシュのついでで、SATA端子のメンテナンスして電源入れたら、今度は水冷クーラーが「ブーンブーン」と(笑)。CPUの高温警報が出てしまって触った感じもかなりやばい。

パーツ交換ですめばいいですが、もう、パソコン買いかえられるほどの状況にありませんし、サーバは日本語扱うには色々不便なので、しばらくこちらお休みすることもあるでしょうね。

ではでは、グッドラック!

気持ちはわかる~

「LANケーブルを増やしてもネットは速くならない」 家庭用Wi-Fiのトラブルをバッファローが注意喚起、理由を聞いた

ホントにいたのか。。。(笑)けど気持ちはわかる。

実際には技術的に耐障害性(普段全部使わず故障に応じて切り替えるなど)だったり、上の意図通り帯域を増やしたりするのに対応した機器で特殊な技術を用いてケーブルを2本以上つなぐことをしますがとっても高価な技術なのと結構各社仕様が違うのでまともに使えるのは高価なブランドのスイッチで、一般の機器ででスイッチはPeer to Peerが基本なのでできません(笑)。何本もつなぐのはサーバー・クライアント間やルーター間でも行われたりします。ルーターだとCISCOHSRPとかですね。仕様が定義公開されているのはVRRPぐらいかなぁ。私はサーバが専門でしたから*BSD系OSではcarpという技術を使って2台を1台に見せかけて冗長化したり、1台の帯域を増やすのに2本つないで冗長化したり、無料のOSでできる技術でもあります。

いずれも技術が必要な話なので一般的な機器でほぼできない話です。

ITC話になったのでついでで、最近、所謂、スパムメールが増えました。スパムという塩漬け缶詰があってCMが「スパム!スパム!」とうるさかったことから、ひつこいうるさい迷惑メールをスパムメールということになったそうです。

メールサーバは得意分野でしたのでぶっちゃけちゃいますと、皆さんが信じている「From: 」(差出人)行は本来は任意で絶対に入れないとメールが遅れないものではないんです。逆に言えば「From: 」(差出人)行は嘘つくことが可能でな事情があります。他にも最近のメールサーバはこの辺りだんだん厳しくチェックするようになってきたので「Received: 」行なんかも実は追加することができます。他に「Message-Id:」「To:」「Subject:」などは付けなればメールサーバが勝手につけちゃいますので必須です(「Subject:」は確か含まれていたはず、もう調べるの面倒なので間違ってたらごめん)。昔のこういう迷惑メールはどこから送られてきたかを混乱させるように、「From: 」や「Received: 」行を偽造していることが多々ありました。ま、その時点で詐欺ですね。

迷惑メールの踏み台、温床になりやすいのが、手抜きサーバで、不景気になってくるとメンテナーなんて最初に(お金を)削られますからね、メンテナンスされないでバグを放置、利用されたり踏み台にされたりするサーバーが増えるんですかね。これが今の資本主義経済のいびつさです。不景気だからこそきちっとメンテナンスをしつつ備えるなんてことは、「そーなえーよつーねにー(by ボーイスカウト)」なんて絶対にないです。儲からないし、そういうのに投資は削減するのが技術素人役員たちです。日本も他の国も同じで、技術素人役員達が牛耳っている会社はろくなもんじゃないよな、と思うことが殆どです。ドメイン管理で15年以上たっているのに未だに私の名前(しかも旧姓)を管理者として登録して使っているところがありますよ。そういう会社にはとびきりの技術者がいてもほぼ経営に口出しできないか、こういうレベルの管理が全くできない使い物にならないヤツ残して、あとリストラするとか、役員の元所属していた証券会社名を大々的に宣伝しているような会社が多く、投資するのに不向きな会社が多いですよね(株主的に、こういうの外からわかるといいんだけどなぁ。まぁ大会社でもないのに内部留保を増やしてリストラしょっちゅうやっているところはだめだと思う)。ワンマンショーなんてみたくもねーっつーの。と話はそれましたけど、技術はそこそこでも不景気なときこそ丁寧に手をかけられるところが、やっぱり強いと思います。まぁ、そんな会社だよなぁ、と思っていたところも、このコロナ過のあおりで(もう既に手遅れだったから)店じまいしていた気がします。

さて、因みに10年近く前(お家で公開サーバー作っていたときは)、迷惑メールはkrドメインとcnドメインブロックすれば99%防げた記憶があります。未だにcnドメインは迷惑メールの温床としては元気ですね。たまーに、大手の企業端末からスパムが来ることもありますが、「あぁワームかウィルスにやられたか?」とか思いますね。

  1. HTMLメールをやめる
  2. ヘッダ情報を確認できるメールソフトを使う
  3. whoisコマンドでしっかり確認する
  4. 1~3が現実不可能なら(もしくは「意味不明なら」)諦めて絶対LINKクリックしないこと
  5. メールアドレスはむやみに公開しないこと
  6. メールアドレスでIDにするところは一つのメールアドレスに絞っておく

5は最近そういう企業が増えました。スパム対策というより業務過多やスパム以外の迷惑メール対策でしょうね、私が以前からやっているようにフォームメール使っているところが増えました。私の場合はそれすらも捨てメールアドレスを別に使っていましたが。。。。(笑)。6は、まぁ、メールアドレスは二足三文で散蒔かれることを覚悟しておいた方がいいです。

ですかね。ちなみに私は完全閉じられたネットワーク(グローバルネットワークを模した環境)で、後輩にスパムメールの送り方教えてました。「相手の手口を知って戦えば50勝」ですからね。技術者って「出来ても倫理や正義でやならいがポリシーだしプライドでもありました。ましてどの役員がどの社員の女の子がお気に入りか、ログもメール本体も読めてしまうがあえてそれを探らないのが大事です。.。o○(本音何度ばらしてやろうかと思っても理性的に対応してましたかね)。

メールソフトとメールアドレスの話になりますがID登録用は可能なら今ならフリーメールアドレスがいいですね、強力なスパムフィルタのついているところがあったらそれがいいです、その場合即削除ですけれども自社の宣伝くらいは許してあげましょう(笑)。問題は振り分け可能なメールソフトが使えることが条件ですか。ID登録先からの興味のない宣伝メールは即ゴミ箱行きにしてます。

雑談ついでに、名簿屋ってかなり厳しい免許制にするか犯罪行為にした方がいいと思うんですけれど(利権優先社会のせいで絶対にはならないでしょうね(諦))。

さて、元に戻って、インターネットの帯域って川の流れと川幅だと思ってもらうとわかりやすいかも、どんなに広い川幅にしても(ケーブル冗長化させても)その先が狭くて流れが悪ければ速くはなりません。

また、高級なスイッチやルーターは「脳みそ(CPU)」がRISCといってそのシステムに特化した計算機を使っていますし、昔の経験で、ASをつなぐBGPでルート計算のためだけのBGPを喋るサーバ(中央集権型とでもいえばいいんですかね、こういうのはCISCの方が向いているからですね)をみたことがあるぐらいで、それ以外は殆どは専用機ですよね。

インフルエンザ

そんなこんなであれども、少し早いと思ったんですけれども10月18日にインフルエンザワクチンもおえてきました。今回なぜか接種後の3~4日間、接種痕付近が痛かったです(少し腫れたような?!)。過去翌日なんか倦怠感なんていうのはあったかもしれないけれど(というか実のところ記憶にございません)、ここまで気になったのって人生初レベルでした。このところワクチン話一色で、昨年はインフルエンザ全く流行らなかったといいますが、コロナ騒ぎが始まる直前ってアメリカでのインフルエンザ死者数が結構なことになっていたのを思いだします。ワクチン打ったからといって罹らないわけではないというのはずっといってる(いわれてるのに賛同しているだけですが)ことですが、集団免疫っていうものが正しいなら一定の効果はあるんだろうと思えてきます。そういえば、一連のコロナ騒動で話題になっていたインド占星術師の少年によると、今年の11月中旬から経済活動も徐々に来年の5月ぐらいから回復してするとか、「今年の11月」ってこれからかぁ、というところですかね。良いことは信じるのはありだと思います(まぁ、占いなので「所詮」ということで)。

命つながりで寿命をみてみると、生物学的に、遺伝子レベル(テロメアの関係とされている説)で人間の寿命は37~8歳なんだそうで、細胞分裂回数でみると50回程度から複写能力も劣化(老化)して癌の発生が多くなり(というより一日数千個がん細胞ができて消えていくそうで)免疫力の低下で55歳ぐらいから癌になる人が目立ってくるので55歳説なんていうのもあるそうで、心臓の拍動の回数を仮に15億回とすると41歳程度だそうです。縄文時代の平均寿命は31歳、中世は33歳、江戸時代で45歳、第二次大戦直後で52歳だそうで、医療の発達に応じて寿命が延びてきて、現在は過去の増分からは逸脱している。3千年前が縄文時代の終わりだったことを考えると、お釈迦様は80歳だったわけですから37年の倍を超えて3周目に入った付近、当時としては仙人かもしれませんね。あくまでも医学(科学)が発達したから長生きになったのであって、生物学的な考えからは逆に40歳ぐらいが短命ということではないですね。因みに弘法大師空海は60歳、同時代を生きた伝教大師最澄は54歳、弘法大師の師匠の恵果和尚はは59歳、鎌倉時代だと、承陽大師道元禅師は53歳、法然房源空は76歳、中世(室町時代)の平均年齢を遙かにしのいでますよね。その分本当に幼くして若くしてなくなることも多かった時代なのでしょうね。いかに常識とか思い込みという認知レベルで毒されているかわかります。

いずれにしても、これまでと変わらず、手洗いうがい消毒は続行して行こうと思っています。

パンデミックに隠れて世界中そこらかしこでこれまでのひずみが露見しているようで、ミャンマーの軍事クーデーターにアフガニスタンのターリバーン政権誕生といい、一見するとすごい変化に感じますがそれまでジリジリ燻っていたものなので不思議でも何でもなく、悲しいかな西欧式民主化を推し進めた結果、抑圧されたものが一気にはじけ飛んだようにもみえますわね。日本でも痛ましい事件などもありますが、選挙なんかは嫌いな議員が落選にちょっと小躍りしました。

wikiの「江戸川八十八ヶ所」公開ということで

そろそろ大師の縁日にもかかりますし満月ですし(今日は大安らしいよ)色々重なるのでWikiの「江戸川八十八ヶ所」公開日ということにしておきます。まだ修正しなきゃいけないところもあるのですが、個人的には5ヶ月遅れで公開となりました。もう正直、それぞれの関係者の方がそれぞれに護持してくださっているだけで全ては巡れないところでもあります。必要な方達が役に立てばそれで「善哉」ですものね。例によってGPS情報(緯度,経度)記載していますのでこのご時世多少の役には立つかと。

天国なんてない

正確には「夢物語なんてありませんよ~」ってことです。

ナラカパーナ経でいいます。

「ナラカパーナ経」(『中部』68)
このように私は聞いた。
ある時世尊はコーサラ国のナラカパーナにあるパラーサ樹の林に住しておられた。
さてそのとき、多くの、おのおの高名な(おのおの証知した)、世尊に対する信ゆえに在家より非家へと出家した善男子たちがあった。
尊者アヌルッダ、尊者バッディヤ、尊者キミラ、尊者バグ、尊者コーンダンニャ、尊者レーヴァタ、尊者アーナンダ、またその他のおのおの高名な善男子たちであった。
しかしてそのとき、世尊は比丘僧伽に囲繞され、野外に坐っておられた。
ときに世尊は彼ら善男子たちに関して、比丘たちへ呼びかけられた。
「比丘たちよ、およそ私に対する信ゆえに在家より非家へと出家したかの善男子たち、比丘たちよ、彼ら比丘たちは、梵行に関して歓喜しているでしょうか」と。
このようにいわれて、彼ら比丘たちは沈黙した。
ふたたび世尊は彼ら善男子たちに関して、比丘たちへ呼びかけられた。
「比丘たちよ、およそ私に対する信ゆえに在家より非家へと出家したかの善男子たち、比丘たちよ、彼ら比丘たちは、梵行に関して歓喜しているでしょうか」と。
ふたたび彼ら比丘たちは沈黙した。
みたび世尊は彼ら善男子たちに関して、比丘たちへ呼びかけられた。
「比丘たちよ、およそ私に対する信ゆえに在家より非家へと出家したかの善男子たち、比丘たちよ、彼ら比丘たちは、梵行に関して歓喜しているでしょうか」と。
みたび彼ら比丘たちは沈黙した。
そこで世尊にこの〔思い〕が起こった。
「私は、かの善男子たちへ〔直接〕問うてみてはどうだろうか」と。
そこで世尊は尊者アヌルッダへ呼びかけられた。
「アヌルッダたちよ、あなたがたは、梵行に関して歓喜しているでしょうか」と。
「尊者よ、我々は、梵行に関して歓喜しています」
「よいかな、よいかな、アヌルッダたちよ。
アヌルッダたちよ。およそあなたがたが梵行に関して歓喜するような、そのこと。それは、あなたがた信ゆえに在家より非家へと出家した善男子たちによって、相応しいことです。
アヌルッダたちよ、およそ吉祥なる青春、〔人生の〕第一期を具えた黒髪のあなたがたは、諸欲を享受してきましたが、アヌルッダたちよ、その吉祥なる青春、〔人生の〕第一期を具えた黒髪のあなたがたは、在家より非家へと出家しました。
しかしてアヌルッダたちよ、そのあなたがたは、王に強いられて在家より非家へと出家したのではなく、盗賊に強いられて在家より非家へと出家したのではなく、負債の苦悩あって在家より非家へと出家したのではなく、怖畏の苦悩あって在家より非家へと出家したのではなく、生活をなし得ずして在家より非家へと出家したのではありません。
『私は生、老、死、愁悲苦憂悩に悩まされている。私は苦に悩まされ、打ち負かされている。けれども、
おそらく、これら全ての苦蘊の終滅が〔私によって〕知られることであろう』と。
アヌルッダたちよ、あなたがたはこのような信ゆえに、在家より非家へと出家したのではありませんか」
「尊者よ、その通りです」
「しからばアヌルッダたちよ、そのように出家した善男子たちによって、何がなされるべきなのでしょうか。
アヌルッダたちよ、諸欲よりの遠離、悪しき諸法よりの遠離という喜楽を、あるいはそれより他の、より寂静なるものを証得しなければ、その者には、貪欲が心を占拠してとどまり、瞋恚が心を占拠してとどまり、惛眠が心を占拠してとどまり、掉悔が心を占拠してとどまり、疑が心を占拠してとどまり、不喜が心を占拠してとどまり、怠惰が心を占拠してとどまります。*1
アヌルッダたちよ、その者は、諸欲よりの遠離、悪しき諸法よりの遠離という喜楽を、あるいはそれより他の、より寂静なるものを証得していないのです。
アヌルッダたちよ、諸欲よりの遠離、悪しき諸法よりの遠離という喜楽を、あるいはそれより他の、より寂静なるものを証得すれば、その者には、貪欲が心を占拠してとどまらず、瞋恚が心を占拠してとどまらず、惛眠が心を占拠してとどまらず、掉悔が心を占拠してとどまらず、疑が心を占拠してとどまらず、不喜が心を占拠してとどまらず、怠惰が心を占拠してとどまりません。
アヌルッダたちよ、その者は、諸欲よりの遠離、悪しき諸法よりの遠離という喜楽を、あるいはそれより他の、より寂静なるものを証得しているのです。
アヌルッダたちよ、あなたがたには、私に関して何と〔考えているでしょうか〕。
『およそ雑染の、再有をもたらす、怖悩ある、苦なる果報ある、未来に生老死ある諸漏、それらは如来には捨断されていない。*2
それゆえ如来は、考えて何ごとかを受用し、考えて何ごとかを忍住し、考えて何ごとかを回避し、考えて何ごとかを除去しているのだ』と〔考えているのでしょうか〕」
「尊者よ、我々には、世尊に関するそのような〔考えは〕ありません。
『およそ雑染の、再有をもたらす、怖悩ある、苦なる果報ある、未来に生老死ある諸漏、それらは如来には捨断されていない。
それゆえ如来は、考えて何ごとかを受用し、考えて何ごとかを忍住し、考えて何ごとかを回避し、考えて何ごとかを除去しているのだ』とは。「尊者よ、我々には、世尊に関するこのような〔考えが〕あるのです。
『およそ雑染の、再有をもたらす、怖悩ある、苦なる果報ある、未来に生老死ある諸漏、それらは如来には捨断されている。
それゆえ如来は、考えて何ごとかを受用し、考えて何ごとかを忍住し、考えて何ごとかを回避し、考えて何ごとかを除去しているのだ』と。「よいかな、よいかな、アヌルッダたちよ。
アヌルッダたちよ、およそ雑染の、再有をもたらす、怖悩ある、苦なる果報ある、未来に生老死ある諸漏、それらは如来には捨断されており、根を断たれており、基礎なきターラ樹のようになされ、虚ろなものとなされ、将来に生じない性質のものとなっています。*3
アヌルッダたちよ、あたかも先端を切られて、再び成長することができなくなったターラ樹のように、
まさにそのように、アヌルッダたちよ、およそ雑染の、再有をもたらす、怖悩ある、苦なる果報ある、未来に生老死ある諸漏、それらは如来には捨断されており、根を断たれており、基礎なきターラ樹のようになされ、虚ろなものとなされ、将来に生じない法となっています。
それゆえ如来は、考えて何ごとかを受用し、考えて何ごとかを忍住し、考えて何ごとかを回避し、考えて何ごとかを除去しているのです。
アヌルッダよ、これをどう考えますか。いかなる目的を見据えて、如来は、死去し命終した弟子たちについて、〔その〕転生に関して授記するのでしょうか。*4
『あのものはそこへ転生した。
あのものはそこへ転生した』と」
「尊者よ、我々の諸法は、世尊を根本とし、世尊に指導され、世尊を帰依処とするものです。*5
なにとぞ尊者よ、世尊はこの所説の意味を明らかにされますように。
世尊の〔所説を〕聞いて、比丘たちは憶持することでしょう」
「アヌルッダたちよ、如来は、人々への欺瞞を目的としてではなく、人々への虚談を目的としてではなく、利養・尊敬・名声・利益を目的としてではなく、『このように人々は私を知るべし』という〔思いのため〕ではなくして、死去し命終した弟子たちについて、〔その〕転生に関して授記するのです。『あのものはそこへ転生した。あのものはそこへ転生した』と。
アヌルッダたちよ、信あり、すぐれた信受あり、すぐれた喜悦ある善男子たちがいます。
彼らはそれ(授記)を聞いて、それ(四果)を目的として心を集中させます。*6
アヌルッダたちよ、彼らにとってそのことは、長きにわたる利益と楽のためとなります。
*1・つまり初禅以上の境地に達さなければ五蓋などの悪徳がとどまる、ということであろう。「沙門果経」では五蓋を捨断した者に初禅が現れるような記述がなされているが、表現の順が違うだけで両者は別のものではないのであろう。
*2・『中部』36「大サッチャカ経」などにパラレル。
*3・頻出のストックフレーズ。
*4・「ジャナヴァサバ経」【ナーティカ人ほかへの授記】にパラレル。諸訳はsāvakeabbhatītekālaṅkateを単数の処格絶対節で解し、「死去し逝去したとき」(『パーリ』)といったふうに訳しているが、授記がなされるのは死亡した時だけには限らないので、あえて複数対格で取ってみたが、これでよいかどうか。
*5・『中部』46「大法受持経」にパラレル。そちらのメモも参照。
*6・つまり如来が授記をなす目的は、弟子たちの奮起を促すためだということであろう。

本文中にあったメモは最後に付け加えてみた。

二十世紀末に新興宗教ではこぞって「オオカミ(世紀末・アッセッション・審判)が来るぞー」と騒ぎましたが何もおきませんでした、周知の事実ですが「君たちの境涯が低いから気がつかなったんだよ」とも。ひどい場合は非常に大きな多数殺人事件が起きたのは洒落にならなかったことです。さて、アヌルッダは天眼第一といわれる十大弟子の一人とされる人ですら、何か釈然としないものがあったのかもしれませんが、結局は「ハイハイ」と放っておきましょうということと解釈もできます(方便)。煽っていたにしても瞞しているつもりはなくても「その」ことのを見抜いていらしたのでしょう。アルボムッレ・スマナサーラ長老が面白いことを仰ってました。「お釈迦様が正しい理解について語る」では『私、つまりお釈迦さまが言うからと言って信じるなとおっしゃいます。』と。つまり、これを方便とでもいえばいいのでしょうか、ナラカパーナ経を裏付けするような話です。いずれにしても、明らかに納得できないのであるならば、逆らう必要はなく強制されても表面上ハイハイしておけばいいのかもしれませんね。私はその時点では根拠のない話ななら、やっぱり信じなくて好いんだねと納得したしだいです。人は悲しいほど経験や記憶によって現在の心が形成され行動抑制されています(行)。本人が納得しない話はとりあえず「ハイハイ」いうしかないですが、結構「どーでもいいです」とお答えしてしまっています。現象として自分に法として解釈納得できないのなら、それは不要だらからです。自他もろとも未来を決めてしまいかねないのであると思うので、「洗脳」「マインドコントロール」「思考停止」お断りです!(笑)

掲題に戻りますが、仏教的な「天国」といえば「浄土」でしょうか。阿弥陀経には確かに「極楽」なるものが説かれます。が、「ナラカパーナ経」を読んだのならば、多分「ハイハイ」と放っておきましょうということになります。ただ単に阿弥陀さんの「仏国土」を「極楽」というということでしょうが、例えば華厳経にもありますが通じて結局は苦しみ(汚れ)の中からの浄さを表現しているのかもしれませんが「蓮華観」で終わるのもポイントで、また、他の経典の他の仏国土を読んでも、こっぱずかしい「絢爛豪華な国土」が説かれているのは、阿弥陀経に限ったことではありません。瞑想で第一禅定で喜悦が訪れたときのことなのだろうと、究極版を描きたかったのじゃないでしょか。瞑想から覚めれば現実社会と共に五蓋も戻ってきますが。「極楽」という言葉も「浄土」という言葉も一種の洗脳に近い考え方だと思いますが、本来の目的として「死に際に念(それが元となって転生するかもしれない)を残さない」という意味での洗脳はありだと思います。

極楽は「sukhāvatī」と云うそうです。楽をsukhāと云いますが、喜悦の時の伴うアレです。とある経典では『大楽』(mahā sukhā)を掲げます。そこには十七清浄句という小楽が例えられます。これを見た瞬間に「あぁ、オキシトシン(という脳内伝達物質)だわ」と思いました。オキシトシンはセロトニンの分泌を促してドーパミンを落ち着ける効果があります。増やすには、人同士の「絆」がキーになるワケです。ただし坐って納得して私の中の解決なので人に押しつけるつもりはありませんが、まさに十七清浄句でいわれる行いで生じる共通の感覚でしかなく行為の結果で生じる複雑に絡んだ感情とは全体ではなくほんの一部と思います。

最近(また?)注目を浴びているようですが、この絆ホルモンはバランスが崩れると「自分の周りから異物を排除しようとする」んだそうです。考えてみるとわかりやすいですが、家族に異物が混入したらどうするかという話です。家族という安全地帯を守ろうとするわけです。相手にも安全地帯があるのですが一切それは無視して排除に動いてパワーバランスを保とうとする。またこの住みづらい昨今、はびこっている陰湿なモノはこの感覚に裏付けられた”自己保存欲求”に近いものでしょうね、他をディスって排除したがるとかもありえます。もっとお互いに尊び認めあって慈悲慈愛を持って譲りあって絆を保てれば、四無量心など大事ですね。「慈悲慈愛」の一部でははこういう脳内物質が関係してくるのだろうな納得したことです。すべてを納得ずくめで推し進めることはできませんが、心が決めていることですから周りがどう思おうと自らを頼りに法を頼り(自灯明法灯明)に反します。そう考えると、成道して一端悟ってすぐ釈尊が人に説くのをやめようとするのも本当のことかもしれませんね。「洗脳」「マインドコントロール」「思考停止」は話にもなりませんね。

仮にオキシトシンという脳内伝達物質が「絆」であるならば、「洗脳」「マインドコントロール」「思考停止」の原因、本人の中にもあり得ますし、その人の周囲にもあり得ますし、天国・地獄に教主や神仏、世間や国家や世界、地球や宇宙に至るまですべての影響が、心であり、心の中の出来事でしかなく、人によっては信仰や団体の中の占いや祈祷、「周りがそうしているから」や「常識」、ひいては「法律」に至るまで、仏教とならば「戒律」におけるまですべて、心の中の出来事で、納得いかない=「灯明」とならないモノは、あなた(私)はしがみ付く必要はなく手放していいはずなんです。もし気付かなくともそれに支配されている場合も決して押しつけてはいけません。自分は決して思い通りになりません、坐っていればわかることなはずなんですが、同様に自分以上に他人は決して思い通りになりません。

天国・地獄に教主や神仏はいたのか…私はこう思います…お釈迦様は神を肯定も否定もしているのは、天国(浄土)とその教主・神仏はありますが、あなたの思い通りにはならないし、群の心奥に共通している神仏はありますし、それらがないというスタンスもよいでしょうが、それは場合によってはその群を対敵にするということでもあり、神や天に対する信仰のない仏教徒の立場としては、みえないから否定はしないが肯定もしない、別の心ではそれが助けになっていることを忘れず、悟りに邪魔にならない程度ならばむしろ肯定的に捉えて、真に敬意をはらって認め尊ぶことだと思います。ただし、決めつけることだけは自他共にその人の限界すらも決めつけることになることを考えればしてはならないことでもあります。蛙の子は蛙でいいのでしたらどうぞご自由に、「蛙」すら実態がないことに気がつかなきゃならないですよね(言葉が先行してできた心の偶像で実態はない仮空の話)。私に「どうでもいい」ことという裏には「それが転生の原因ではなくカルマでもない(良くも悪くもどっちでもよい)」からです。もしそれを気にする人がいるならば「気にされる側の人(私)の問題ではなく」それが「気にする側」の悪いカルマで転生の原因だからだというのも見抜けるはずです。だから私は天龍(巷のいう神や天国や過去世とか)も個人的には否定しますが、逆説的にそれを狂信させることではなく共感をえて共に育てていくのが大事なのかもしれませんね。少なくとも押しつけるモノではありませんからね。

因みに私個人は家が浄土宗の出で生まれ歳の守り本尊が阿弥陀如来=八幡大菩薩なのに、それらが大っ嫌いなのですよ。「浄土教」はたくさんの「人」(宗教団体や行人を含めて)から罵られ虐げられましたが、一向に「阿弥陀如来」は減るどころか威力を増しているようにみえます。私自身が浄土教にしがみ付くものではないので端から見ているだけですが(とはいえ、実家に帰ればそれに戻らなければならないのも習慣というか執着でもありどうにもならないことでもありますが)、けれどもそれでも傷つかずジッと坐ってもしくは迎えに行って淡々とこなすその様は、頭が下がる思いしかありませんね。阿弥陀経のそれは異次元とも思える国土(単にあなた私の心の中の衆生の及ぶ範囲)浄土に変えて「吉祥」にすることから始めなければならないと思いました。菩薩道として捉えればそれぞれが宝蔵菩薩でそれぞれが阿弥陀如来を目指せばいいのでしょうね。そうでなければ密厳国土が即ち極楽浄土たり得ないですし、根拠を求める必要がない人(非信者)にとっては(見方を変えて方便として)、実は「楽(sukhā)」を「極める」ことだけを意味するに思えてなりません。争いのないどっちかを比較して残ろうとする排他的な考えや決めつけを捨てることから始めなければならないと思います、少なくとも争わない道を知っていたのだと思います。

CMSへ移行しました

中身薄!1日で移植できちゃったよ。

体裁を整えようとすると文章もそうだけれど、枠を作るのに時間がかかるんですよね。その面倒を削ろうと、CMS化しました。昔懐かしすぎて0から検証していたので、調べるたびにwordpressが推しなんだそうですが(個人的にブログソフトウェアの位置づけなので)ちょっと驚いてました(正確にはWordpress.comを指していると思いますけどちゃうんですか?)。CMSとして扱うとなると、同じサイト内で共存させるのってどうなのかなぁ(昔はアリナやり方なんですけど)とも。で、サイト毎にして、今後をみてバージョンをある程度こなれたのをそろえてみたら、結論、Drupal、wordpressと加えてpukiwikiという選択肢になりました。ブログもwikiはデータ移行だけ考えて検証もやめました。Web経由でいろいろやろうとしたんですが、時間かかるし、別のCMSで取り込むテストをしていたので、単純に端末でサクッと移動して終わり(笑)。

reCAPTCHAはどうしようかなぁとかとか、ちょいありますけれど、静的コンテンツに至っては手直しして(細かいところは後で直せばいいし)数分で終わり。というわけでディレクトリやサイトの構成が変わりましたが、データ移行完了しました。

 

ワクチン接種2回目

とりあえず1回目から21日以降で3日遅れで打ってきました。これであと2週間もすれば発症リスクが減るに十分な免疫が出来る事でしょうね。今回は1回目2回目ともフィザー製ですからmRNAワクチンでした。1回目は発熱こそはなかったんですが2日目虚脱感がでて3日目前日の虚脱感こそは残らなかったものの5日ぐらい体調はっきりしませんでした。数日後にうけた奥方は1回目は「大丈夫~♪」といいつつも3日目以降の元気さ(状態の良さ)から「2日目はやっぱりすごくおかしかった」ぐらいの状況だったそうです。2回目は発熱しないといいなぁというところですが、虚脱感の出てた人なので疑わしい感じですね。これまで使わないで余っている伝家の宝刀「カロナール(アセトアミノフェン)」様を使おうかと思います。私が遅れてずれた分、丁度3週でとれた奥方が明後日だったかなぁ、それまでに熱出るなら出て下がっているといいなぁというところです。2人して基礎疾患持ちなので順番早いのですが、足らなくなったとか色々騒いでましたけど、新規受付しないことで絞っていたみたいで、無事くぐり抜けましたというところです。

普通に考えれば、発症リスクが下がっただけで、実際的には「感染予防」ではないですし、感染して無症状キャリアなんて事もあり得るわけで下火になるまでは今までどおりの予防対策(最低限の予防策(手洗い、うがい、マスク装着)とソーシャルディスタンス)は続けるのが良いのだと思われます。小旅行ぐらい許して・・・(すでに家族は我慢の限界ですね)という風潮ならまだいいんですが、すべて解禁となってノーマスク・無消毒・無除菌・超過密や外呑みとかあり得ないワケなので、やはり「なんチャラ事態」だの「宣言」の有無に関係なく不要不急の外出は避けて行っても近郊までに止めておくのがよいかもしれないですね。ちなみに近郊都市のあおりをあまり受けないで微妙な増加で「ニブチンだなぁ」と思っていた居住地域(県)は本日これまでの最多となりました。まぁ、県内の移動が不便な地域なので広がりにくくターミナル都市からの広がりも「ニブチン」ですんでいただけだと思うのでお隣(都)を見れば分かるとおりいつ崩れてもおかしくないんで、気を引き締めていくしかなさそうです。

ワクチン接種1回目

昨日、コロナウィルスワクチンの一回目の接種行ってきました。接種後打った左肩が痛かったぐらいで腕も全然上がるしでしたが、今朝起きてから・・・全身だるい!倦怠感すごいですが、発熱はありませんでした。次もありますし不安はありますけど、織り込み済みの範囲で、今のところ一般的にいわれている事(厚生労働省:ワクチンの安全性と副反応)以外は起きていないのです。

コロナ禍イレギュラーで今年の初詣は前日に済ませましたけど、変わった御朱印、特別祈願なのでしょうけど「疫病退散」いただいてきました。共通の念いで「志」はそれぞれ違うけれど少しずつ集めつつ教えを広めていく(知ってもらう)、考えてみるととても仏教的ですよね。こういう困難って淡々と出来ることをやっていくしかないように思えます。何百年かすると今やっていることがまるでオカルトのようになってしまうかもしれませんけれども。

ちょっとはめ外して適当投稿しちゃいましたがたまには毒吐きお許しを。