気にかけていただけて光栄です

というより、10日遅れですが、静恵先生ありがとうございます。

奥方と知り合って、もう、15年目なんですね。会社という出会いの場があって、ちょっとだけ遠距離交際で始まり、遠距離といっても会社を中心に帰宅は真逆なので2時間コースで、まぁ、会社帰りか休みの日デートというと真ん中をとって都心でよく会っていました。その間、色々ありました。霊感強く経行の記憶(夢?)が恐怖で仏教が苦手なのに、私の得度を認めてくれたり、殆どすべてを失いかけたり(mixiから最近日記一部移植しました)、そこから這い上がって来るのにいつも優しく差し伸べてくれた人なのですよ。なのでキャラクター(笑)以前に、私も頭が上がらないのです。

愛情は必ず終わります。気持ちは必ず変化します。無常です。それが分かっていることからこそ、絶対に自分を裏切らないで「今」を相手に感謝を貫き通して原点からの筋を通す・・・菩提心に似てます。どんどん変化していいんです。今日あった会話、今あったしてもらったことや一緒にいてくれていること、善し悪し受け入れて「感謝」して尊ぶ、愛は一方通行でいいんですよね。けれで一切見返りを期待もしないし、「形」を求めたりしない、マダム・ジーナが時空を超えて仰ってます(謎)。

悲しいことに私の心にも起きます。たとえ間違った道であったとしても、それがアイデンティティなんで、それを実現したたっちゃんが羨ましかった。私は50歳を超え残り10年、お暇出来ないうちに、1年1年減っていく中、事もあろうか

(奥さんが先に逝けば・・・チャンスあるかもな・・・)

(我に返って)・・・(自我に欲と業の深さに)・・・ザッケンなー!(怒涙)

少しでも頭の片隅に思ったことをものすごく後悔しました。我にエゴに執着に憎しみが・・・憎くて憎くて、こんなにも情けないエゴに厭いました。恨んでも憎みきれません。

そして・・・諦め(明め)が強くなりました。最近はとうとう最期にむけて僧侶になれないのであればの阿羅漢にはなれないのですから、もう遅く、私個人のことは阿弥陀様に委ねようと思ってます。弘法大師がアレだけ形を整えたのに代を重ねて弟子も阿弥陀仏寄り、高野聖は極楽を目指す(阿弥陀信仰だけでなく、高野山の弥勒浄土を願って)いた人たちが集まったのも当然の理かなとも。これは堕落ではないんですよ。簡単な法門に形を変えてきたこと私には堕落にも思えてましたが、立場近くなるといいたかったことが分かります。それしか手がなかったのだろうなと、当時の思いも想像つくように思えます。

まぁ、考えてみるとそもそも龍樹菩薩ご自身も阿弥陀仏を尊ばれた形跡がありましたよね。

エゴって自分とそれ以外を分けたら、たとえ相手が良かろうが悪かろうが、優越をつけてエゴは潜むんです。「戦争なんてあり得ない、そういう道具作ること自体がおかしい」、それがアイデンティティであり立派な執着なんです。認識して使う人間次第なんです。言葉にだまされすぎていますよね、悲しいほど、形にとらわれすぎてますよね。そうやって優越をつけてエゴは密かに肥えていきます。思考や常識とかの執着ならまだかわいいです。民族や国家という文化といった染みついた常識慣例法律儀式政治経済「お金」アイデンティティ全部あなたのエゴの一部で根が深いです。人によって根の深さによっては国家は敵だと感じるでしょうね。「やれ、強権だ」「権力行使だ」「死刑反対」・・・あなたの決めつけだけのただ幻です。言葉で形をもたせている「権力」は平等に利用するモノです。ごく一部に独占されないことを監視すること以外に平等にアクセス利用できることが理想型なんでしょうね。歴史観も併せてとても根が深いです。

エゴ執着はかといって、私のように怒りをぶつけても憎んでも(現代用語で)厭い嫌っても、エゴは優劣や執着によってブクブク肥えていきます。憎んでも嫌っても効果なく増強するだけです。じゃぁどうすれば?観察するだけです。エーカッガター(ekaggatā=一境性)って「頂点」の意味もあるそうで、保って観察して「あぁ、またエゴ(我)だな」と。喜悦には入れることより、このエーカッガター(ekaggatā=一境性)が大事だということにやっと納得しはじめてます。ほかにも大事なこともあります。これについてはまた何れ。

「楽(shuka)」について触れたら、いいんですが、ちょっと先に進めようかと。折角先生が紹介してくれたのですから、アーナパーナ瞑想基礎に戻ってみたいと思います。大乗的ヒントですがこの身体は宇宙世界の表示の一つです。執着は同一化を図ります。それがエゴ(我)の実体だと思います。掃除するのも大事、ですがなくならないなら、アプローチを変えてみるのに、最大のヒントが「空」論です。

そして、瞑想が終わるとき「私」に対して客観的に「あなたが今感謝しているのはなんですか?」問いかけてください(此はまた別の話でもありますが)。

国試受かって資格取れた、やった~万歳(喜)!

色々思うところあってブログ中断していますが。。。かなり親しくしていただいている方には即報告申し上げていたのですが。。。タイトルの・・・報告・・・は3月末のことでした!

こんな内容の10日ほど下書きのままこのままお蔵入りにすると事でした。というのも、いつも「慢」になるなぁと思って消して更新できなくなっているという事実もあります。唯の日記書けばいいじゃんっていう意見もあるでしょうが、元来筆無精ですからね。

さらなる近況は後述で、近況報告が終わったところでネタへ。

タイトルはネタで少し誇張しました、わかりやすく。なので少し嘘が入ってます。正しくは「国試受かって資格取れた、やった~(号泣)」です(笑)。ただただ辛かったので、ちっとも嬉しくなかったです。ですが、こうするとネタにならずわかりにくいので、あえて、「~やった~万歳(喜)!」としました。

喜悦でいうところの・・・アーナパーナ瞑想では「喜」を感受しながら「楽」を感受しながら行うステップがあるわけですが、この「喜」ってなんでしょう?持論になりますが単なる感覚です。タイトルの文って単に「我」のことを説明して書いていて、「私は」+「DOです」って書いたんで、実は「私は」は省略されてます。仏教って諸法無我で諸行無常じゃないですか。あえてこの文を使って「我(私は)~した」と感情を取り除くと残るは「!」です。「(喜)!」でも誤りではないですが、私見を交えますと文字情報は心の中で形成された「形」であり感覚ではなく情報です。つまり・・・苦しいですが、感嘆符だけ、つまりストーリーなど外していって、残る”感覚”だけです。本当は感嘆符も残らないほどの感覚だけのはなしですし、最初はその記憶情報(=形)は役に立ちますが、だんだんとそれも不要になるはずです(むしろ自我と絡まって邪魔ですね)。

ちなみに特にこの達成感系の喜びの感覚というのはもっても2ヶ月だそうですよ。1日24時間楽しめてそれで2ヶ月なら面白そうですが、皆さんのご経験を下に記憶を辿れば明解だと思います。もつわけでもないでしょうから、思い出し思い出し。仮に「宝くじが当たった」として達成感系の喜びがあってもその2ヶ月間にどんなことが起きるかで2ヶ月後の感覚も違ってきますよね(無常)。あなたの思い通りになる期間がどれだけかわかりませんしね(無我)。喜んだり泣いたりそれらのストーリーはあなただけのもので自身が作り出したもので幻でしかないわけですよ(空)。そして「今ここ」だけが残る。それでも役にたちはするのでこんな事を書いてみました。

最初は「こんな感覚かな?」「どんな感覚かな?」と模索してストーリーを頭の中で展開して(記憶など思い出して)体験してみて、その後徹底して「無我」「無常」で取り除いて感情(論やストーリー)や思考ではない残った感覚程のものでしかないと思います。アーナパーナ瞑想で「喜を感受しながら~」の『喜』ってこの位の感覚です。もっと云うとあえて文にするならばという前提もあるので上記の通り文字を残すのも実はやなんです。「私は喜んでいる」になってしまうから。つまり、言葉という形を与えてしまった時点で「我」が形成されてしまいやすいので。難しいことをいいますが、意識と無意識(阿頼耶識)の間に「末那識」があるのですが、言葉によって生じた「識」、自分を推し量る」識なんだそうで、根本煩悩に「我痴」・「我見」・「我愛」・「我慢」があります。この4つは悟るまでなくならないそうです。諦め着くまで時間掛かりますよ。かなり根強く常人では勝てなさそうな代物ですね。。。

続けて・・・「楽」は~。。。また後日にします。

これふとネタになるなと云うことで報告というよりネタとして扱いましたです(笑)。ただ前提話もなくだとどれだけ大変だったか伝わらないので・・・7回目だか6回目だかです(持って帰ってきた問題冊子が7回分)。たまたま病理学で勉強教わった先生が歯科医師さんだったんですが「歯科医もそうだけど受かれば『先生』だけど受からなければ『ただの人』になるからね、大変だったよ、頑張って」と数年前にお言葉いただいていたのでした。往々にして国試はどれも大変だしタイミングのがすと本当に手も足も出ないものでもあるだと思われます(苦笑)。師匠の先生は「卒業してその年に受かるのは、まぁ(多くて)75%じゃない?翌年は25%まで下がるんだよ、その翌年からは5~15%ずつ減っていく」と。まぁ、年数重ねるごとに絶望的だったわけで、そのわずかの人たちに入る人を見ていると、最低限の生活できる稼ぎ分で我慢しひたすら勉強していたらしい・・・みなさん方々すごい努力がされていました。毎年「ホントよかったね!(悔しいけど・・・また来年か・・・)」そんな羨ましさを横目でこの数年毎年「とある大学」の”巣鴨キャンパス”に通うのが恒例となっていました。普段、サラリーマンで「(定時)6時まで男」をしつつ、暇をみて勉強し帰って「主夫」でご飯作って洗い物して寝て起きてまたサラリーマン(でもよく空いた時間に勉強してサボりました笑)。坐ることもままならずサボり気味。そこに加えてコロナ禍まっただ中、昨年11月体調崩して心身共ひどかったからなぁ、身体整えて受験、条件整えてても咳喘息なので当日は申告して離れた席で受験させてもらって今年やっと受かって終わりました。が、そんなこんなで、ナムナムしつつも定にはほぼ入っておらず、心も体も回復する暇もないまま(出来なかった)ですから、さすがに停止したわけで、ま、さすがに心身が壊れまして今ちょっと休んでます~~(休)。

大変な一年でしたね

もう、色々書きたいことはあっても全部バッサリしてます。続きは来年ですかね。

今年はほんと大変な一年でした。

やまない雨はない。

それではよいお年を~。

「喜」についてツラツラと

アーナパーナ瞑想での「喜」とは पीति(pīti)を指していて、「喜」「満足」とか、「歓喜」「有頂天」とかとも訳されるとされています。

  • 『私は喜を感受して出息しよう』と修練し、『私は喜を感受して入息しよう』と修練します

タバコを吸っている際の一つの感覚の一部がこの「喜( पीति pīti)」に酷似していて「その感覚」が「何であろう」と思ったことから私の「ニコチン断ち」の端を発していました。煙に巻かれないように(笑)言い換えておきますが、ニコチン摂取時に起きる感覚が「喜( पीति pīti)」に酷似していると私には思えるので、薦めるわけでも、(風潮に対して皮肉を込めて書きますけれど)現代社会において憎き社会悪・タバコをどうこうという話しじゃないですし、御上に逆らう(健康増進法やら)つもりや意向に背こうという話しでもないので、あしからず。実際には私のように身体を使う系の人にとってはタバコとかは一瞬やる気をだして気持ちの切り替えのスイッチのように使えるアイテムなワケです。快楽を得るには代償が必要ですね。すべての人が同じにできるわけではないことを前提として捉えておく必要なのかもです。

話を戻して・・・。

「喜( पीति pīti)」を実践して学んでいくと「喜悦」の状態に入る事があります(だんだんと常時は入れるようになります)。喜悦の状態になると、場合によっては、心拍数が上がり身体が震え座っているのにいても立ってもいられない感覚や明るくなっているわけでもないのに光に包まれたような感覚に陥り「快感」を味わうわけです。「喜悦」に至った状態までを含めて考えると、そっくりの事を作り出す神経伝達物質が浮かびます。それがドパミンという物質です(→ドパミン(e-ヘルスネット))。

一応、私は医者でも看護師や薬剤師でもなく研究者でもないのでお断りしておきますね。ただの一行者を目指す者として体験を通して学問の知識も総合してみているに過ぎないので、教える立場でもない、しがない実践者でしかないです。そう思って読み進めてもらえればと思います。

ドパミンという物質は教科書上、『脳内「報酬系」に関わっていて』『快感、やる気、学習能力、運動機能や記憶力といった働きを司る神経伝達物質』ぐらいしか習わなかった記憶があって、ほぼ生理学上は何なのかが知らないままで、私の場合は臨床医学や薬学で少しだけ学んだだけでしたので浅い知識しか持ち合わせていません。が、この所の禁(嫌)煙ブームで、このドパミンについては一般知識的に触れられるようになったのが最近なのかもしれません。

ドパミンが放出されると快感が生まれますが、「喜悦」での快感の正体は報酬系のドパミンであることは推測がつきます。また、本来は実際に行動に移している時放出されるらしいのですが、喫煙(ニコチン摂取)という視点から見ると(ニコチン依存のシステム – いい禁煙)、側坐核からドパミン”など”を放出して、中脳辺縁系を刺激して「脳内の報酬系と呼ばれる神経系が活性化」して「快感」を得るという構図になります。

重要なこととして、ドパミンは側坐核からしか出ないわけではなく、中脳と視床下部を中心にドーパミン作動性ニューロンがあって作用している事が分かります。そして標的目的ごとに神経経路が分かれていて黒質線条体路・中脳辺縁系路・中脳皮質路とあり役割も微妙に違って見えます。また、副腎髄質からはドパミンとアドレナリンとノルアドレナリン(3つをカテゴライズしてカテコールアミンなんて呼び、他にセロトニンやヒスタミンを加えて5つをモノアミンなんて呼びます)が放出されます。ついでにいうと副腎髄質は交感神経節ですし、(ノル)アドレナリンと関係の深いドパミンという点(前駆物質)を考えれば当然「喜悦」状態でドキドキバクバクしていてもおかしくはないことが分かります。

こういった物質は血液を介して全身を行き来しますが(ホルモンと呼ばれたりしますが、神経同士の伝達では神経伝達物質と分別されます)、脳内と体内では特定の物質はブロックされ自由に行き来ができません(血液脳関門=BBB)し、つまりドパミンを経口ないし注射とか体外から直接摂取しても脳に届きません。また私見ではドパミンが増え過ぎると多幸感が強くなり下手したら理性が壊れることも考えられますので、単純に何でもかんでもドパミンを増やせばいいワケではないと思っています。記憶力を上げる効果があるような事も書いてあるサイト見かけますが、増えすぎて多幸感に浸る状態になっている時とかむしろ記憶に残らないような気がしないでもないです。増えすぎても減りすぎても諸刃の剣であることとして、統合失調症はドパミン過剰が原因とされていて鬱症状なども関係しているそうで、またパーキンソン病は黒質緻密部ニューロンの変容によるドパミン不足が原因とされています。放出部位と受容する側の部位が異なれば、例えば上記の例で、統合失調症とパーキンソン病の偶発することも考えられます。

いずれにしても面白い点は、進化しきった人間の大脳新皮質や大脳辺縁系といった新しい脳が感情を作り出しているのではなく、自律神経系や中脳・大脳基底核・線条体付近の比較的古い脳が感情の根源に関わっていそうなことががうかがえ、もしかしたら第二の脳と言われる内臓も含まれる点でしょうか。人間の感情があるから高次脳だなんて事はなくやっぱり動物にも感情らしきものがあってしかりでしょうし、情動など理性によってかなりコントロールされているというのが納得できます。

さて、タバコ・・・ニコチンとの関連に話しを戻します。ニコチン摂取でドパミンだけではなく、更に、ノルエピネフリン、セロトニン、アセチルコリン(他にバゾプレッシン、βエンドルフィン)も、ニコチン受容体に関係する物質です。おそらくアルコール摂取もニコチン受容体を介して同様の事かと思います(→ドパミン(e-ヘルスネット))。βエンドルフィンによる鎮痛効果あり「モルヒネの6.5倍」だとの事ですので少量でもかなりの効果があるのでしょうし、セロトニンも幸せホルモンなんて呼ばれる一つですので、ニコチン摂取が精神的にも相当に「助け」となることがうかがえます。

実際には「喜( पीति pīti)」の感受の段階に入っても「喜悦」に入るかはいらないか(本当はサーマディを目指すのが本道なので半ばどうでもよいことなんですが)その前の集中力が十二分に仕上がっているか(「研ぎ澄まされた状態」になっているか)否かに掛かっているように思いますので、体験から十二分に実践と学びで、長い呼吸の気づき~短い呼吸の気づき~「身行(कय-सन्खार kaya-sankhāra)」の感受~身行の調整~の段階でどれだけ集中できたか”だけ”なように思えます。

逆にこれらが関連していることが分かれば、昔「師匠につかずに坐っちゃいかん」と言われたりしていたことが嘘じゃなかったんだと納得かもしれません。大量に自己啓発やスピリチュアルな情報があふれ、様々なアプローチから過去の英知と思われてきた智慧(が文字化され知識という形で)が入手可能で、現実は残念ながら下手に隠すことが何ら効果がなくなってきた現代で、そんな悠長なこといってられない部分もありますかね。「自由性を優先すれば安全は失われ、安全を優先すれば不自由になる」どちらかに偏った未来は見えません。もしくは更に高度に成長するか、ですが、生まれてきた赤子の時点を高度にするか完成時点を高度にするか(高年齢化が必須)、今必要なのはどちらですかね?逆に言葉(文化?科学?学問?)にとらわれすぎている私も問題っちゃー問題なんでしょうけれども、そんな前提条件も”今”には無駄だろうなとも思えてしまいます。

「慾」と言う文字がありますが、『ほしがる心。満たされることを求める心。』なのだそうです。密教の菩薩さんに「慾金剛菩薩」と文字が当てられているのは「喜( पीति pīti)」極めて「喜悦」に入って更に極めたような・・・そんな意味で当てているようにすら思えたのでした。と、実は欲の肯定って単にこういう感情(情動)の肯定だったのでは?とも思えているのでした。

そんなわけで結構一人で学び色々蓄えてきた私が言うのもアレなんですが、それぞれの経験談などを参考にできる「仲間」もないとダメなんじゃないかなぁと。昔ながらの伝統宗派もよいのでしょうが「みんなのサンガ」のような形でもよいし、それを「僧伽」としてもよいのではないかとも思える今日この頃です。まぁ、それでも縛りがありすぎたらほかも探せばあると思いますし。

補足

かなり冗談ぽく書きましたが、結構大真面目にみていくと色々ヒントがありますし、誤解も生まれやすく、啓蒙系やらスピリチュアル系(特に引き寄せ系)の書籍やらでも見かける話しだし、今回は体験を通して推測の域を出ないのことで、正解であるとは言わないので、参考になるように、よい点悪い点を洗ってみる予定。

少なくともドパミンオキシトシンセロトニンについては幸せホルモンと呼ばれる3種類でもあり、3大神経伝達物質だとオキシトシンをのぞいてノルアドレナリンとなる。

脳内伝達物質でもあるが、脳内ですら標的によって効能は違い、まして体内のホルモンとしては脳との間に血液脳関門(BBB)といい超えることはないのと、標的臓器(細胞)も違う事がポイントとなり、それだけ多彩な効能(時には症状)として出ると思われるのであくまでも私が知っている範囲のこととの関係性を解いていくのが目標ってところです。

やる気なし

一部のかたには話しましたが、ニコチン断ちをしています。タバコをやめたと書かないのは、いわゆる電子タバコ(ベイプ、ニコチンのないやつですね)はやめていないのと、相変わらず「タバコは好き」のまんまだからで、また、それまで吸っていた紙巻きタバコは目の前に置いたままだったりしてます。あったことある方は知っていると思いますが、ZIPPOが好きでここ数年銀むくライターを愛用しています。今は持ち歩かないので引き出しに入ってますが、タバコの方は実は持ち歩いていたりします。周りで吸っている方がいても「うまそー(喜)」と思うだけで、吸うことはほぼないですし、それよりも仕事で疲れ切ってくるとほしくなることの方が多いかなぁと、あと、こういうの書いているときは癖で欲しくなりますね。ブログやめていい?(笑)。まぁ、鞄開けて取り出せばいつでも戻れますがね。

ただ現実として、気持ちを紛らわしたり、気付けにしたり、気分転換の方法がないので、「お・仕・事、や・る・気・な・し?」「ス キ ニ ス レ バ ー?」と切り替えができなくなりましたかねぇ。他にも色々あるのでそのうちあげていこうと思います、結構重要な気づきも含まれているので。

半年たってみますと、色々発見できて面白いですね。

まずお話しした方の反応を見ると「禁煙頑張ってください!」と。「肺によくない」とか「健康のために」とかよく聞くんですが、私的にはそのあたりはどうでもいいんです。

まぁ、「コロナ禍」というのは全く関係なかったと言えば嘘になりますが、引き金にもなっておらず、実は「無駄なことだよな~ぁ」と思って、ここ数年計画的に10mgから2年後に5mg、結婚してから1mgに挑戦し加熱式タバコと両刀でタバコ呑んでいました。みんなのサンガに入ることには実は1mgでして、静恵先生のお母様に禁煙を止めてしまうなど(笑)、よくありがちな状態です。嫌煙禁煙の方々とは違い、ニコチン&タバコ大好きのニコチン断ちですから、目の前で吸われていても副流煙で「いい香り~♩(喜)」以外なんとも、「今一緒に吸いたいな」というのは全くないんですね。何度も言いますが鞄にセットが入ってますのでいつでも吸えますから。

よくいう、「バッサリ目の前から捨てて覚悟を決めないとダメだ、禁煙なんてできるわけない」は私には通用しません(笑)。

期待裏切ってすみません、健康とかどうでもいいですし(私のハニーの喘息は心配だけど)私自身はしがみつく気にはなれず・・・痛いの苦しいのを何とかしたといと思っても健康がどうのってのはイマイチ、現世で働かされ続けるのなら「労働者の友」としてタバコを選んできたわけで、捨てられない方々の気持ちがとても分かります。

そもそも目的が違うんです。寝起きに一服するわけですが、その際の感情を観察してみると、「タバコを吸う」という行動が習慣なのであって癖なのだと気がついていました。経験談を探していたりはしていたんで、このタイプは「やめられそうだな?!これ」と確信してました。ただそれも引き金ではありません。本当の目的はアーナパーナ瞑想に関係していたこと、コレが最大の理由です。

それが実は「ニコチン依存のメカニズム」でチラリと出ている”ニコチンによって分泌される神経伝達物質”にヒントがあります。

  • ドパミン … び、食欲抑制
  • ノルエピネフリン … 興奮、食欲抑制
  • アセチルコリン … 興奮、認知力向上
  • バゾプレッシン … 記憶力改善
  • セロトニン … 気分の変化、食欲抑制
  • βエンドルフィン … 不安と緊張の緩和

アーナパーナ瞑想で第2組(禅定)の最初は「を吐き、を吸う」わけですが・・・”『私は喜を感受して出息しよう』と修練し、『私は喜を感受して入息しよう』と修練します。”の「喜(पीति pīti)の感受」とは自律神経や感情などで誘導しながらドパミンを出させるようにしむけるワケです。タバコで得られるドパミンと瞑想で得られるドパミンは体が作り出したもので、全く同じです。

同様に「楽(सुख sukha)の感受」はむしろ愛のスキンシップで得られる脳内伝達物質でオキシトシンではないかと私は思っています。多分「妙適」とかチベット密教の「ティクレ(滴)」なんかも関係していて、真面目な話し射精するとかなりの量のオキシトシンが分泌されるわけです。つまり後のヘロヘロパタリとなる際の感覚「楽(सुख sukha)」があるんで、寝てしまうことになるわけです。女性の方がコレはお体に関係しているホルモンでもありますから症状が強く出るのかもしれませんが、子供を産むときに子宮を収縮させるのはオキシトシンの働きのようです。私は男性なのその感覚分からないはずなのですが・・・下腹部でキュッとなるんですよね。両性具有じゃないはずなんですが、体の記憶でもあるのか定かではありません。

この二つのホルモンは「セロトニン」にとても関係しています。アーナパーナ瞑想でも実は「私は心を満足させて出息・入息しよう」、「心を喜ばせること(अभिप्पमोदयआ चित्तआ abhippamodayaā cittaā)」に関係しています。サーマディに入っていくときサマーヒトー(समाहितो samāhito(安定))と関係があるのはセロトニンで精神の安定にとても関係がある脳内伝達物質だと思えます。なぜならセロトニンは強い暴走の側面を持つドパミンを抑制する脳内物質で、オキシトシンはこのセロトニンの分泌を促進させます。そしてリラックス状態が生まれるとα波が出ますが、このセロトニンと関わりながら「眠り」にも関係しているわけで、瞑想に深い関係があることになりと思います。

さて、瞑想でドパミンがどぱどぱなのか、ニコチン依存から脱しているようで、それを証明しようと実験を行ったら大成功だったわけです。ただ失敗もしてます、半年たってもまだ「眠い!」よ(笑)。ニコチン断ち初期には脳内伝達物質と「喜・楽・満」が関係していることは確立していた理論ですが、細かなところが怪しくあくまでもZeR0の説ということでご了承ください。

でも悲しい現実も分かるはずです。あなたの感情すら「モノ」でしかないんだということです。高次なシステムだと思われても、物質で実現されていたとなると、あぁなんかもう、すべてにありがとうの感謝と、すべてが愛おしく、すべてが素晴らしいということが確信できると思います。

さて「無我」が完成したら末那識の「我見」「我痴」「我愛」「我慢」はどうなるのでしょうか、「煩悩即菩提」に変わるんでしょうか。まだまだ私には分かりませんが、少なくとも汚れの減った末那識で見方が変わります。それは、「煩悩即菩提」の意味もやれ禁欲だ戒律だの以前に「喜・楽・満」が「煩悩」「欲」に関係した鍵で「慾触愛慢」に切っても切れないからこそ、これらの”鍵”をもつ欲する心、「慾」が前提になっていることがよく分かります。慾金剛菩薩、触金剛菩薩、愛金剛菩薩、慢金剛菩薩が理趣経に説かれるわけですね。末那識の汚れを取るなんてのはまだまだずっと先のことですが。。。現代生理学が瞑想につながってしまうのは結構面白いです。今回はさわりだけにしておきますがすでに奥義です(苦笑)まだ修行の浅い私にはそもそも論な気がしますので。

ちなみに今後上記の内容やアーナパーナ瞑想に関しては、『呼吸によるマインドフルネス 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル | ブッダダーサ比丘, サンティカロー比丘[英語版タイ語翻訳], ラリー・ローゼンバーグ, 浦崎雅代, 星飛雄馬』こちらが私のバイブルで「空」の思想を否定していない唯一の上座部仏教の実践編だと思います。今後書く内容も一般的なアーナパーナと違う点がチラチラありますのでご了承の程を。ちなみに上記の本は別訳:「観息正念」/三橋ヴィプラティッサ比丘訳がありまして、暇があったら読み比べしてみたいところですが、最近坐る時間までなくなってどうにもならない感じです。ぼちぼち続けていきます。

どうぞお大事に

先週から体調を崩してしまい、先週の中頃には熱発、腹痛と下痢で苦しむ羽目となりました。まぁ、よくあること(?)なので一々報告はしないのが普通なところだったのですが、令和のコロナ禍、みんな苦しんでるよなぁと自分に降りかかってきて改めて思ったのでした。今回は色々あってまだ熱下痢腹痛は続いているわけで一応PCR検査とかもうけて陰性で一安心、ぼちぼちです。

『調子悪ければ(ひどいときは病院行って薬飲んで)寝れば治る』という人なので、この所結構前もって体調観ていた(ごまかし誤魔化し使っていた(笑)ともいう)のですが、発熱してしまうとどうもこうも誤魔化ししきれなくなった感じでして・・・。何がどうってのは今は至る所で体温測っているわけで、普段押さえ込んでいる(というか大体把握できるので、まさに、「誤魔化し」つつ)のですが、発熱時は表面化してきてしまうのでどうしようもなく、結局、仕事を休まざるえず。本来的には当たり前なんですが当たり前じゃない業界でして、まさに”自己責任”を押しつけるようなおかしな業界でして、そんな象徴として前の職場は熱発で休んだら「明日から来なくていいから」とか平気で”あるある”即日解雇なんて当たり前なので、我が家のハニーは心配してしまいの。。。家でも休めなくなり結構追い込まれていたので吐き出しつつ書いてます。

東京は500人を超える勢いで毎日のように「コロナ感染者数」に一喜一憂しているわけですが、都下でも医療崩壊の波といいますか守備に入ってますので、熱発すると受診ができなくなります。個人的には体調不良なら解熱剤飲んで誤魔化しつつ仕事行っちゃうんですが、感染による(確定できるかどうかが問題)熱などは・・・、特にSARS-Covー2(COVID19、コロナ)関係の報道みると、サイトカインストームが起きる可能性がちらほら散見しますし、下手な解熱薬を使うと厄介になるという報道や、現実として、コロナ感染の判定(いわゆる「PCR検査」)が医師に託されており、その医師との面談が発熱を理由にできず(発熱外来をしている病院は限られていますね、今)、逆に発熱の状況を把握しつつとなるとコントロールしちゃいけないのであまり解熱剤使えず(苦笑)。

悪い条件が重なって、病院も行けない、熱も下げる薬は使えない、けれど腹痛下痢はひどい、熱発してつらいけどゆっくり休むこともできず、まさに間を縫ったような状況に更に病院も行けない、負のスパイラルに陥りました(苦笑)。

コロナ禍、色々、書きたいこともありますけれど世の中色々”つんで”しまって(といってもそれを感じるのはここ十数年)泥縄からはい出そうとしているときに、このSARS-Covー2(COVID19)の流行でしょう?、マスク、消毒アルコール、薬用石けん、うがい薬が店頭から消えたのだって、もともと資本経済がどうみても”つんで”いて、震災で表面化してごまかし誤魔化ししていたけれど、パンデミックで安いところに受注していて自力生産できなくなっていたのに資金(お国の補助ね)が流入しても、肝心のパック・入れ物や原料ひいては製品そのもの・いずれかでも輸入が止まっていれば当然のこと流通しないわけで大量につぎ込まれた資金は国内のはずなのに実は海外だったり(邪推)と、国内の企業はガタガタ(少し一掃されてしまった方がいいと個人的には思うけど)。一見安定して供給されるようになった?一見するとあふれて潤沢に見えるようになっていますが、いやいや結構パッケージ変えて別の製品のような顔して新製品になっていたりするのもあって、ぶっちゃけ材料や一部を変更や調達の代替えルートにしたりで変えざる得なかったんじゃないかと、邪推してますよ。上のマスクを初めてとした物品だけでなくて例えば洗濯洗剤なんかここ数年入れ替わりしてましたけど、コロナ禍でパッケージ変更(新製品へ変更含む)過剰になっているようにも、水面下色々ありそうな気がします。「替(買)えるだけまだマシ」なのかもです。

思いっきり脱線がてら毒吐きもさせてもらいましたが、まだまだ私なんて幸せな方でして、今の実現されている目の前の幸せというのを変わらず実現させたいとなると色々我慢も必要だからだで、全部ひっくるめて「あぁ苦痛の元集めてるの自分じゃん(識)、あぁ本当に思い通りにならない身体(色)だよなぁ(無常)、あぁ色々まわりに助けられてやっとこなんじゃん(無我)」とそのまんま眺めているのも本音です。最後は一人消えていくことも覚悟させられますよね。しがみついたって私の自由になるものなんて一つもないこと認識するには十分でした。こんなくだらないことで追い込まれるとは、巷の行き詰まり感も半端じゃないわけで、どうか自らを絶ったりとか考えずに、図太く生きましょうやと思う日々でした。

Wikiの公開

散策記録などまとめたWiki(遊行脚譚と題してみました)公開します。今回はローカルな八十八ヶ所ですが、利根運河大師霊場をメインにまとめています。今後も別の所もまとめますが、まだ中途半端で公開に後悔しそうです。とりあえず、今月のはじめには満行したところなのですが、データ化をたんたんと進めるだけなので途中経過だけでも形にと思った次第です。

コロナ禍の昨今いかがお過ごしでしょうか?私は「なるときはなるでしょ!」と投げやり・・・なのか『まな板の鯉』の覚悟を決めて日々を送っております。サンガの皆さんはゴールデンウィーク以来ですかね。私は未来が見える(嘘ですが)ので「お盆休みの頃はそのときの状況に応じて(・・・状況変わらないだろうな・・・)、せめて治療方法の確立されていたら」と予言が本当になりつつありますね(未来が見えるのも予言も嘘です、経験的推論ですよ(笑))。

いずれにしても一般ピープルとしては、私たちは手洗いと嗽など消毒とを徹底するだけなんじゃないかと。

多分、来年のオリンピックが開催できるか否かまでこの一喜一憂は続くんじゃないでしょうかね。私たちの御上(お上)思考を破壊するまでは、政治も頼りにはなりませんから国会議員や内閣は単なる木偶人形にしかみえません(今のままでは政権ひっくり返しても日本の世の中は”絶対”に変わりません)。コロナ禍は社会構造も含めた御上思考と官尊民卑の利権構造による病気に思えてしまう今日この頃。権力って一部の人の為だと思っている方多いと思いますけれど、それってすでに御上思考、支配されるのが「楽」で逃げている自分をしっかり見つめることが大事なんじゃ。権力は私たち一般人が利用するもので、権力に支配されるものではないです。

いずれにしても私たちはやれることを徹底するだけなんじゃないかと。

最近、明晰夢みるんです。明晰夢ってコントロールできるみたいですね。個人的にはそうまでするより、見た夢がどういう心理状態、無明の種と思っておいしくいただこうと思ってます。唯識では、我痴・我見・我愛・我慢を末那識の煩悩として捉えます。これらは阿羅漢になるまで絶対になくならないそうですから安心して付き合うとして、五感及び意識と深層意識(阿頼耶識)の橋渡ししているのが言語が生み出したとされる末那識でここを通るとなぜか「我」・「私」が出来上がってしまう困ったちゃんなんです。貪瞋痴の三毒以外に、慢、悪見、擬が根本煩悩としてあり、部派仏教時代には成立していた概念ですから比較的お釈迦様オリジナル仏教に近い理法といえます。特に最近は「慢」だけに注目していたて気がつくのですが「吾我」を認識した直後に比較が始まることから、末那識の存在の意味がやっと理解できたという。

まぁ、坐ってよく観て識らないと意味がないので坐るのも続けるしかないんでしょう。

知識があっても智恵にならなければゴミ同然というのが私の昔ながらの考えというかスタンスなんです。「空」理論によ、唯識にせよ、体現しなければ知識というゴミ同然です。夢もそうですが、占いも同様、「根拠がない」んです。勝手に想像すれば大乗仏教的に「法」それ以外、「根拠がない」んです。占いは私は結構好きでかなり勉強しましたが、そこに無明の種をみつけられないならばどんなに崇高なものだろうと、過去世だろうと来世だろうと、ゴミです。ましてそれに縛られて同じ失敗を繰り返すなら、ゴミ箱に捨てた方がなんぼかまし、いらないです。目的は「何も無くなる」ことならばなおさらです。社会って思考的影響を及ぼすわけですが、未だに占いだとか宗教だとか「根拠がない」ものにしがみつくのは、科学だの実証世界が、何も解決していないからの逃げのようでもあると思えるんです。だから、「如実知自心」が必要なわけで、同じ失敗を繰り返さない為に知るわけで、活かさないなら「根拠がない」無用の長物、しがみつくなら単なる執着、悪い無明の種を育てるだけになってしまうと思えます。占いと言ったこういう類いに、好きな反面、厭い嫌うに至ったのは今に始まったことではないのでいずれ書くかもしれません。取り繕う必要もないわけで、誤解の無いように書きますが「占い」は楽しむにはいいと思いますし、失敗を犯さないための指針(私心)にするのも”あり”だと思います。けれど、「根拠がない」ことには変わりありません。

手段や道具って使い使われなければゴミなんですよね。手洗いと嗽・消毒などは徹底する事こそ難しい、まして継続するのは至難の業なんですが、手段として徹底して続けていくことでしょうね。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」の考え方と一緒だと思いますです。

毘盧遮那考察(9)

最近、似たような思考だなと思って、手に取った本がありまして『「空」論-空から読み解く仏教ー 正木晃著』が面白いなぁと思って読んでいます。学者さんが書かれているので「根拠」がはっきりしていて頷ける部分が多いことで、『中論』のダイジェストや原始仏教から大乗を通しての見解が説かれていて好いなと思って買ってきちゃいまして。でも「なんちゃってブッディスト」な私の浅い瞑想体験からは、「ここ違うな」とか思える部分もあったり、「自灯明・法灯明」ですから、本から得られる知識も「またこれよし」で人によって受け取り方が様々であるのも面白さだったりしますね。

さて「अविरहूंखं(あびらうんけん)」の文字列は五大の「अ」「व」「र」「ह」「ख」をベースにしていることがわかるんですが、空点(菩提点)が『हूं』『खं』なのに、『वि』だけ仲間はずれ感が隠せないのなんだろうと思うこともあるかもしれません。

『वि』の文字を分解すると『व(水、字義「言説」)』『 ि(字義「根」)」となるわけですが、五大で水は「大悲水」なので、やっぱり大日経住心品に言う、「菩提心為因、大悲為根、方便為究竟(菩提心を因となし、大悲を根となし、方便を究竟となす)」のまんまなのですよね。

空点が付いた『हूं』は御大師様がわざわざ「吽字義」として残してくださったワケですからそれを頼りにするとしても、五文字の最後に添えられて同じく空点が付いた『खं』は、何でしょうね?『ख(字義「等虚空(等空)」)』なのですが、「空」+「空」って事だとすると「空空」です。「空であるという道理自体も空である」という理智なんでしょうね。一応、私的にはお釈迦様の話(小空経)などを考えると、「空」と「空性」は別物と思えますので、それに従った論展開なのはお許し頂いて、結局は「空であるという道理自体も空である」ということに注目できますし、それが伝えられているということを考えて大事にしていかねばならないんですよね。

「空」話をし始めて煮え切らないモノだから、結構、静恵先生の所に質問が飛んだそうで面目ないです(苦笑)が、更にこの「空空」の理論を説いた人は実は前回出てきた龍猛菩薩(龍樹)その人と言うこと、『中論(ちゅうろん、正式名称『根本中頌』)』で出てくるわけです。「え゛?学ぶ意味ないじゃん」ということで(笑)、「また難しいことを・・・」なんて言われそうですが(実は静恵先生は「空」法話されてないし、それより大事なことを伝えてくださってるのでは?)、そもそも言葉で理解することで無く(言説不可得)、体験経験を通して体得していくことしかないのかもしれないです。

不二」にせよ、「縁起」にせよ、「無我」にせよ、「無常」にせよ、「無自性(本来)、自性」にせよ、「八不」の「不生不滅(涅槃)」にせよ、『空』なのであって、徹底的に「縁起無我無常」を理解して体解して、し尽くして、「完全バイバイ」が目指すところで、『空』を目指す志向的象徴が一つの意味だと思っています(「完全バイバイ」=「空っぽ」)。これは違うとかいろいろな論もありますけれど、「からっぽ」とはよく言ったモノで(私は「空」を前提条件的に捉えていて)、「無常」な「五蘊」は「無我」ですし、最近は「無我」でなく「非我」であるなんていう説もありますが、突き詰めていくとやっぱり「無我」なんですよね。

本題に戻りますが、龍樹の著した「中論」ですが、原文というのは残って無いのだそうで、後の月称(げっしょう、梵: Candrakīrti, チャンドラキールティ)が『中論』の註釈書の「プラサンナパダー(Prasannapadā、浄明句論)」に残っているサンスクリット本なのだそうです。龍樹の奇異な生涯は前回これまた数奇なミステリアスな人と触れたのですが、当時、「中論」は異端だったのか弟子の「提婆(Āryadeva」は敵対する者を激しく批判の末、激烈な「行為」におよび、異教徒から殺されてしまったとの説もあります。いずれにしても、批判のやり過ぎはよくないという意味で学ばねばならないのではないかとも、お釈迦様の弟子の一人、目連(もくれん、梵:Maudgalyāyana モードガリヤーヤナ、巴: Moggallāna モッガラーナ)も殺されてしまったわけですが、たとえ正しくとも、降伏・追放と「やり過ぎ(行動)はいかんよ」ってことなのでしょうかね。と、また話がそれましたが、『「空」論-空から読み解く仏教ー 正木晃著』の中で『中論』のダイジェストをしげしげと眺めていて思ったのですが、禅定の段階に基づいて書かれている様にも読めますね。四禅が十六段階有り、無色定の四定と滅尽定(小空経によれば二段階)とありますから、第一章から第二二章まで一致してきます(笑)。まぁ、これは私の勝手な深読みですが、後の世かにそういうことまで考えて構成したのかもしれません。

みんなのサンガからお借りすれば

『長く出・入息』 → 「第一章 原因(縁)の考察」
『短く出・入息』  → 「第二章 運動(去ること来ること)の考察」
『全身を感受して出・入息』 → 「第三章 認識能力の考察」
『身行を安静にさせて出・入息』 → 「第四章 集合体(蘊)の考察」
~以上 第一禅定

『喜を感受して出・入息』 → 「第五章 要素(界)の考察」
『楽を感受して出・入息』 → 「第六章 貪りに汚れることと貪りに汚れた人との考察」
『心行を感受して出・入息』 → 「第七章 つくられたもの(有為)の考察」
『心行を安静にさせて出・入息』 → 「第八章 行為と行為主体との考察」
~以上 第二禅定~

『心を感受して出・入息』 → 「第九章 過去の存在の考察」
『心を満足させて出・入息』 → 「第一〇章 火と薪との考察」
『心を統一して、出・入息』 → 「第一一章 前後の究極に関する考察」
『心を解脱させて出・入息』 → 「第一二章 苦しみの考察」
~以上 第三禅定~

『無常を随観して出・入息』 → 「第一三章 形成されたものの考察」
『離貪を随観して出・入息』 → 「第一四章 集合の考察」
『滅尽を随観して出・入息』 → 「第一五章 〈それ自体〉(自性)の考察」
『捨棄を随観して出・入息』 → 「第一六章 繫縛と解脱の考察」
~以上 第四禅定

おまけを書きますと、

空無辺処(くうむへんじょ) → 「第一七章 業と果報の考察」
識無辺処(しきむへんじょ) → 「第一八章 アートマンの考察」
無所有処(むしょうしょ) → 「第一九章 時の考察」
非想非非想処(ひそうひひそうじょ) → 「第二〇章 原因と結果の考察」
滅尽定(想受滅、無相心三昧) → 「第二一章 生成と破壊との考察」
無作(如来) → 「第二二章 如来の考察」

~残り~
「第二三章 顚倒した見解の考察」
「第二四章 四つのすぐれた真理の考察」(四諦)
「第二五章 ニルバーナの考察」
「第二六章 (縁起の)十二支の考察」
「第二七章 誤った見解の考察」

※章の題名は「龍樹 中村元著」による

面白いなぁと思って眺めていたのですが、まぁ、ここは私の「顚倒夢想」ということで!

ただ重要なことは「第一三章 形成されたものの考察」の終わりで、

一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。しかるに人がもしも空見をいだくならば、その人々を「何ともしようのない人」とよんだのである(「龍樹 中村元著」382頁)

「え゛?え゛~っ!」って、声も聞こえてきそうですが(笑)、結局、これら『空』は『「有身見」を脱するための方便』なんだと私的に解釈しています。だって「仮名」なんですよ、「空っぽ」なんです。なので、あぁ、こういうことか!って識っていけばいいのであって、文字列的な知識に頼る必要は無いんです。でも、知っておく事も大事だと思います。これは私が「空病(禅病?)」の様な状態に陥った時、「無我」や「無常」や「苦」に対して「」があったからだと思えるんです。それもまた瞑想に固執して生まれた執着で、師たちは、それを見据えながら瞑想を深めていかれたはずで、段階を踏もうと意を決したことによります。例えば、アートマンは無い(無我)のに「」があったらいつまで経っても失敗を繰り返しますし、この身に囚われていたらすすみません。面白いから進めるのも好くないと思われます。お釈迦様も瞑想から覚めればまた現実に戻ることを知っていたように書かれていますよね。非想非非想処に答えは無いんですよね、お釈迦様の求めていた答えがあったならば、そのまま、アーラーラ・カーラーマ仙人の弟子になっていたでしょうし、原点「苦しみを滅する」答えにはならなかったんでしょうね。いずれにしてもじっくり執着や固執は捨てられるまで、体解するまで段階を踏むのも大事なのかなと思えてきます。それでないと、「三結」すらもほど遠いと思えたからなんです。お仲間には同じ「轍」は踏んで欲しくは無いです。ですので、三宝の僧伽は大事なんです。悩んだら、疑問に思ったら師に聞きましょう(静恵先生のところへの質問がまた増えますか(笑))。言葉にすることで解決できるのは言葉にすることで一つの疑念や誤った真実を浮き彫りに出来るので、わかっちゃいても実は答えはそこにあったり指摘してくれる仲間も必要だからだと思っています。

勿論、当時、部派仏教時代に色々な説が説かれ、お釈迦様の時代(原始仏教)から発展していったんですが、敢えて説かれなかったこと(無記)についても色々研究究明がされていっており、色々なオプションが付きすぎた事が最大の問題だったんじゃ無いかと思いますし、『中論』最終章「第二七章 誤った見解の考察」では

一切の〔誤った〕見解を断ぜしめるために憐愍をもって正しい真理を説き給うたゴータマにわれは今帰命したてまつる。(「龍樹 中村元著」394頁)

と締めくくっているのであって、単なる批判ではないことがうかがえる結びになっていることも面白いところだったりします。

お釈迦様の時代、死んだらどうなるか説かれています。「雜阿含經 巻第三四 957」に「意生身」なんぞというもの中有が説かれます(好い説明も見つからないので一応、新纂浄土宗大辞典より「意生身」を参考にしてください)。「無記」とお釈迦様はおっしゃっていっているんです。つまりは知る必要も無いと思いますが、更には部派仏教時代、犢子部によって「補特伽羅」(新纂浄土宗大辞典より「補特伽羅」)というモノが説かれます。要は輪廻転生の元となるモノ、霊魂とかそういう類いの話です。総合して、無明を因、五蘊を縁として、とか色々理論立てていますが、結局は「我」に執着することから離れる必要があると思われます。「中論」では「第九章 過去の存在の考察」として、これらに言及しているようです。その続きが「第一〇章 火と薪との考察」ですが、「雜阿含經 巻第三四 957」でのお話の続きで「雜阿含經 巻第三四 962」で「火と薪」の比喩で婆蹉種(ヴァッチャゴッタ)に説明されているとされています。

『雑阿含経』「婆蹉種相応」考

「中論」の面白い流れが垣間見えますね。いずれにしても、お釈迦様の「悟りには関係ないよ」(無記)というスタンスが見えるんですが、輪廻転生っていう前提条件があると霊魂だとか「真我(アートマン)」だとかどうしても知りたくなる事の話です。一ついえるのは、お釈迦様が悟って一番最初に出てくるお釈迦様以外が「梵天」であること(梵天を勧請した話)とか考えると、少なくとも悟る段階に「自己」とか「自我」に出会っていたわけでは無いんだろうと思えます。少なくとも私たちが思っているところに「真我(アートマン)」なんか存在しないのでしょうね。後に「梵我一如」と言われるようになったのも頷けます。でも、これも、ただ、梵天勧請のお話が出てくるだけで、お釈迦様は直接説いてはいないので、求めてもどうしようも無い話なワケですよね。その割に仏教全般を考えると志向した上での自己確立を説いているようにも思えるわけです(自己覚醒、無上正等覚)。議論する必要も無い戯論のこの辺りも含めて「真我(アートマン)」の是非が後の世で話題になったんだと思えます。

なので敢えて、自我でも法我も離れた、客観的「我」で無上正等覚を目指す意味で、私は「自己」という表現を用いてますが、ソース元をたどると「自己を否定しなさい」的に読めるモノも出てきてしまいます、この辺は一応補足までに。いずれにしても「私の思っている『我』」とか『神』とかは「真我(アートマン)」だとかと一緒で否定してしまっていいものでしょうね、「無我」を説かれたのですから。識ることが出来れば「梵天」の意味も生じるのでしょうから無上正等覚に至るまでは、これらは捨ててかかっていいことだと思っています。でも、説明が付かないならば、一見すると矛盾していますが、こういう所に毘盧遮那仏(や大日如来)と仮名した存在を置いたのだろうと思えます(あるのかもしれませんし、わかりません)、存在していないともいえます。

そんな、大日如来の真言が「अविरहूंखं(あびらうんけん)」です。そして、龍猛菩薩が最後に付け加えたのと同じく、お釈迦様の説かれた「法」に帰依した私が今ここです。「空」も空性に至る志向的目標でしかなく、これが悟りでも何でも無いであろうということ、もう一つは、この単語に様々な意味を含めることで「法」を見つめることに使える「仮名」になります。別のいい方すると、内容がどうであれ、例えば、『三業の中の悪癖を駆逐するぞ!』とか『五蘊の執着を空っぽにしよう!』とか、瞑想中のツールになるというと怒られちゃいますかね(苦笑)。そう考えていくと色んな論はどうでもよく、結局は坐って私(あなた)の中で解決していけばよく、一時的には解っていくまではツールとして頼りながらも、やっぱり「常に上を目指せばいいんだ」と、小空性経などの経典から確信できたのでした。これもそれも、実はサンガのおかげかもしれませんね。

さて、お経を唱えると「回向」するわけですが、瞑想した時の回向する先はどこなんでしょうね?今の段階では体裁上は衆生ですが、虚空の中は結局「心」なので心の中の虚空に捨て去る・・・肩の荷を下ろす・・・解放しかないのだと思います。『捨棄を随観』ってすごく難しい話なわけですね。でも、それもまだ始まりなんだということで認識しておかなければならないと思います。お釈迦様は涅槃に至るまでずっと瞑想修行されていましたし、この龍猛菩薩ももしかするとそうだったのでしょうし、弘法大師は入定されているわけですから。

というわけで、今回も「う○こ」になってしまいました。。。

雨にも負けず

今年の水害は非道いですね。

台風19号通過時は鉄筋コンクリートの建物はゆれるは、大雨の際には仕事中、道路が一部「このまんまだと水につかっちゃわね?」ぐらいでかい水たまり。都内に住んでいた時の非ではない日常、色々経験させて貰っていますよ。ほんの少しのずれで被害に遭わずに済んでいるとはいえ、被害に遭われた方のが一日でも早く平穏な生活に戻れるよう祈ることしか出来ません。

多すぎれば害にもなるそんな「水」ですが、身体にとっては「水毒」なんて言われます。酸素なんかも多すぎれば酸素中毒になってしまいますから丁度いいがいいわけで。昔の人は腹八分目なんていいますけれど、やっぱり多すぎれば肥満だのメタボだの言われちゃいますし、一寸物足りないぐらいで丁度よいのかもしれないです。私の今年の健康診断の結果は中性脂肪が多く、おまけに、白血球と血小板が多い・・・常に臨戦態勢なのか?(どっか表に出てこないところで炎症状態なのかもなぁ。。。)、身体が何をそんな気を張って生きてるのかわかりませんが(苦笑)。

タイトルで思い出しましたが「雨ニモマケズ」って言えば宮沢賢治ですが、パブリックドメインなんですね。色々苦悩が・・・人の手も借りても結局は自分ですくい取ることしか出来ないんですが・・・純粋さに感動もありますね。

अविरहूंखं