最近、似たような思考だなと思って、手に取った本がありまして『「空」論-空から読み解く仏教ー 正木晃著』が面白いなぁと思って読んでいます。学者さんが書かれているので「根拠」がはっきりしていて頷ける部分が多いことで、『中論』のダイジェストや原始仏教から大乗を通しての見解が説かれていて好いなと思って買ってきちゃいまして。でも「なんちゃってブッディスト」な私の浅い瞑想体験からは、「ここ違うな」とか思える部分もあったり、「自灯明・法灯明」ですから、本から得られる知識も「またこれよし」で人によって受け取り方が様々であるのも面白さだったりしますね。
さて「अविरहूंखं(あびらうんけん)」の文字列は五大の「अ」「व」「र」「ह」「ख」をベースにしていることがわかるんですが、空点(菩提点)が『हूं』『खं』なのに、『वि』だけ仲間はずれ感が隠せないのなんだろうと思うこともあるかもしれません。
『वि』の文字を分解すると『व(水、字義「言説」)』『 ि(字義「根」)」となるわけですが、五大で水は「大悲水」なので、やっぱり大日経住心品に言う、「菩提心為因、大悲為根、方便為究竟(菩提心を因となし、大悲を根となし、方便を究竟となす)」のまんまなのですよね。
空点が付いた『हूं』は御大師様がわざわざ「吽字義」として残してくださったワケですからそれを頼りにするとしても、五文字の最後に添えられて同じく空点が付いた『खं』は、何でしょうね?『ख(字義「等虚空(等空)」)』なのですが、「空」+「空」って事だとすると「空空」です。「空であるという道理自体も空である」という理智なんでしょうね。一応、私的にはお釈迦様の話(小空経)などを考えると、「空」と「空性」は別物と思えますので、それに従った論展開なのはお許し頂いて、結局は「空であるという道理自体も空である」ということに注目できますし、それが伝えられているということを考えて大事にしていかねばならないんですよね。
「空」話をし始めて煮え切らないモノだから、結構、静恵先生の所に質問が飛んだそうで面目ないです(苦笑)が、更にこの「空空」の理論を説いた人は実は前回出てきた龍猛菩薩(龍樹)その人と言うこと、『中論(ちゅうろん、正式名称『根本中頌』)』で出てくるわけです。「え゛?学ぶ意味ないじゃん」ということで(笑)、「また難しいことを・・・」なんて言われそうですが(実は静恵先生は「空」法話されてないし、それより大事なことを伝えてくださってるのでは?)、そもそも言葉で理解することで無く(言説不可得)、体験経験を通して体得していくことしかないのかもしれないです。
「不二」にせよ、「縁起」にせよ、「無我」にせよ、「無常」にせよ、「無自性(本来)、自性」にせよ、「八不」の「不生不滅(涅槃)」にせよ、『空』なのであって、徹底的に「縁起・無我・無常」を理解して体解して、し尽くして、「完全バイバイ」が目指すところで、『空』を目指す志向的象徴が一つの意味だと思っています(「完全バイバイ」=「空っぽ」)。これは違うとかいろいろな論もありますけれど、「からっぽ」とはよく言ったモノで(私は「空」を前提条件的に捉えていて)、「無常」な「五蘊」は「無我」ですし、最近は「無我」でなく「非我」であるなんていう説もありますが、突き詰めていくとやっぱり「無我」なんですよね。
本題に戻りますが、龍樹の著した「中論」ですが、原文というのは残って無いのだそうで、後の月称(げっしょう、梵: Candrakīrti, チャンドラキールティ)が『中論』の註釈書の「プラサンナパダー(Prasannapadā、浄明句論)」に残っているサンスクリット本なのだそうです。龍樹の奇異な生涯は前回これまた数奇なミステリアスな人と触れたのですが、当時、「中論」は異端だったのか弟子の「提婆(Āryadeva)」は敵対する者を激しく批判の末、激烈な「行為」におよび、異教徒から殺されてしまったとの説もあります。いずれにしても、批判のやり過ぎはよくないという意味で学ばねばならないのではないかとも、お釈迦様の弟子の一人、目連(もくれん、梵:Maudgalyāyana モードガリヤーヤナ、巴: Moggallāna モッガラーナ)も殺されてしまったわけですが、たとえ正しくとも、降伏・追放と「やり過ぎ(行動)はいかんよ」ってことなのでしょうかね。と、また話がそれましたが、『「空」論-空から読み解く仏教ー 正木晃著』の中で『中論』のダイジェストをしげしげと眺めていて思ったのですが、禅定の段階に基づいて書かれている様にも読めますね。四禅が十六段階有り、無色定の四定と滅尽定(小空経によれば二段階)とありますから、第一章から第二二章まで一致してきます(笑)。まぁ、これは私の勝手な深読みですが、後の世かにそういうことまで考えて構成したのかもしれません。
みんなのサンガからお借りすれば
『長く出・入息』 → 「第一章 原因(縁)の考察」
『短く出・入息』 → 「第二章 運動(去ること来ること)の考察」
『全身を感受して出・入息』 → 「第三章 認識能力の考察」
『身行を安静にさせて出・入息』 → 「第四章 集合体(蘊)の考察」
~以上 第一禅定
『喜を感受して出・入息』 → 「第五章 要素(界)の考察」
『楽を感受して出・入息』 → 「第六章 貪りに汚れることと貪りに汚れた人との考察」
『心行を感受して出・入息』 → 「第七章 つくられたもの(有為)の考察」
『心行を安静にさせて出・入息』 → 「第八章 行為と行為主体との考察」
~以上 第二禅定~
『心を感受して出・入息』 → 「第九章 過去の存在の考察」
『心を満足させて出・入息』 → 「第一〇章 火と薪との考察」
『心を統一して、出・入息』 → 「第一一章 前後の究極に関する考察」
『心を解脱させて出・入息』 → 「第一二章 苦しみの考察」
~以上 第三禅定~
『無常を随観して出・入息』 → 「第一三章 形成されたものの考察」
『離貪を随観して出・入息』 → 「第一四章 集合の考察」
『滅尽を随観して出・入息』 → 「第一五章 〈それ自体〉(自性)の考察」
『捨棄を随観して出・入息』 → 「第一六章 繫縛と解脱の考察」
~以上 第四禅定
おまけを書きますと、
空無辺処(くうむへんじょ) → 「第一七章 業と果報の考察」
識無辺処(しきむへんじょ) → 「第一八章 アートマンの考察」
無所有処(むしょうしょ) → 「第一九章 時の考察」
非想非非想処(ひそうひひそうじょ) → 「第二〇章 原因と結果の考察」
滅尽定(想受滅、無相心三昧) → 「第二一章 生成と破壊との考察」
無作(如来) → 「第二二章 如来の考察」
~残り~
「第二三章 顚倒した見解の考察」
「第二四章 四つのすぐれた真理の考察」(四諦)
「第二五章 ニルバーナの考察」
「第二六章 (縁起の)十二支の考察」
「第二七章 誤った見解の考察」
※章の題名は「龍樹 中村元著」による
面白いなぁと思って眺めていたのですが、まぁ、ここは私の「顚倒夢想」ということで!
ただ重要なことは「第一三章 形成されたものの考察」の終わりで、
一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。しかるに人がもしも空見をいだくならば、その人々を「何ともしようのない人」とよんだのである(「龍樹 中村元著」382頁)
「え゛?え゛~っ!」って、声も聞こえてきそうですが(笑)、結局、これら『空』は『「有身見」を脱するための方便』なんだと私的に解釈しています。だって「仮名」なんですよ、「空っぽ」なんです。なので、あぁ、こういうことか!って識っていけばいいのであって、文字列的な知識に頼る必要は無いんです。でも、知っておく事も大事だと思います。これは私が「空病(禅病?)」の様な状態に陥った時、「無我」や「無常」や「苦」に対して「疑」があったからだと思えるんです。それもまた瞑想に固執して生まれた執着で、師たちは、それを見据えながら瞑想を深めていかれたはずで、段階を踏もうと意を決したことによります。例えば、アートマンは無い(無我)のに「疑」があったらいつまで経っても失敗を繰り返しますし、この身に囚われていたらすすみません。面白いから進めるのも好くないと思われます。お釈迦様も瞑想から覚めればまた現実に戻ることを知っていたように書かれていますよね。非想非非想処に答えは無いんですよね、お釈迦様の求めていた答えがあったならば、そのまま、アーラーラ・カーラーマ仙人の弟子になっていたでしょうし、原点「苦しみを滅する」答えにはならなかったんでしょうね。いずれにしてもじっくり執着や固執は捨てられるまで、体解するまで段階を踏むのも大事なのかなと思えてきます。それでないと、「三結」すらもほど遠いと思えたからなんです。お仲間には同じ「轍」は踏んで欲しくは無いです。ですので、三宝の僧伽は大事なんです。悩んだら、疑問に思ったら師に聞きましょう(静恵先生のところへの質問がまた増えますか(笑))。言葉にすることで解決できるのは言葉にすることで一つの疑念や誤った真実を浮き彫りに出来るので、わかっちゃいても実は答えはそこにあったり指摘してくれる仲間も必要だからだと思っています。
勿論、当時、部派仏教時代に色々な説が説かれ、お釈迦様の時代(原始仏教)から発展していったんですが、敢えて説かれなかったこと(無記)についても色々研究究明がされていっており、色々なオプションが付きすぎた事が最大の問題だったんじゃ無いかと思いますし、『中論』最終章「第二七章 誤った見解の考察」では
一切の〔誤った〕見解を断ぜしめるために憐愍をもって正しい真理を説き給うたゴータマにわれは今帰命したてまつる。(「龍樹 中村元著」394頁)
と締めくくっているのであって、単なる批判ではないことがうかがえる結びになっていることも面白いところだったりします。
お釈迦様の時代、死んだらどうなるか説かれています。「雜阿含經 巻第三四 957」に「意生身」なんぞというもの中有が説かれます(好い説明も見つからないので一応、新纂浄土宗大辞典より「意生身」を参考にしてください)。「無記」とお釈迦様はおっしゃっていっているんです。つまりは知る必要も無いと思いますが、更には部派仏教時代、犢子部によって「補特伽羅」(新纂浄土宗大辞典より「補特伽羅」)というモノが説かれます。要は輪廻転生の元となるモノ、霊魂とかそういう類いの話です。総合して、無明を因、五蘊を縁として、とか色々理論立てていますが、結局は「我」に執着することから離れる必要があると思われます。「中論」では「第九章 過去の存在の考察」として、これらに言及しているようです。その続きが「第一〇章 火と薪との考察」ですが、「雜阿含經 巻第三四 957」でのお話の続きで「雜阿含經 巻第三四 962」で「火と薪」の比喩で婆蹉種(ヴァッチャゴッタ)に説明されているとされています。
『雑阿含経』「婆蹉種相応」考
「中論」の面白い流れが垣間見えますね。いずれにしても、お釈迦様の「悟りには関係ないよ」(無記)というスタンスが見えるんですが、輪廻転生っていう前提条件があると霊魂だとか「真我(アートマン)」だとかどうしても知りたくなる事の話です。一ついえるのは、お釈迦様が悟って一番最初に出てくるお釈迦様以外が「梵天」であること(梵天を勧請した話)とか考えると、少なくとも悟る段階に「自己」とか「自我」に出会っていたわけでは無いんだろうと思えます。少なくとも私たちが思っているところに「真我(アートマン)」なんか存在しないのでしょうね。後に「梵我一如」と言われるようになったのも頷けます。でも、これも、ただ、梵天勧請のお話が出てくるだけで、お釈迦様は直接説いてはいないので、求めてもどうしようも無い話なワケですよね。その割に仏教全般を考えると志向した上での自己確立を説いているようにも思えるわけです(自己覚醒、無上正等覚)。議論する必要も無い戯論のこの辺りも含めて「真我(アートマン)」の是非が後の世で話題になったんだと思えます。
なので敢えて、自我でも法我も離れた、客観的「我」で無上正等覚を目指す意味で、私は「自己」という表現を用いてますが、ソース元をたどると「自己を否定しなさい」的に読めるモノも出てきてしまいます、この辺は一応補足までに。いずれにしても「私の思っている『我』」とか『神』とかは「真我(アートマン)」だとかと一緒で否定してしまっていいものでしょうね、「無我」を説かれたのですから。識ることが出来れば「梵天」の意味も生じるのでしょうから無上正等覚に至るまでは、これらは捨ててかかっていいことだと思っています。でも、説明が付かないならば、一見すると矛盾していますが、こういう所に毘盧遮那仏(や大日如来)と仮名した存在を置いたのだろうと思えます(あるのかもしれませんし、わかりません)、存在していないともいえます。
そんな、大日如来の真言が「अविरहूंखं(あびらうんけん)」です。そして、龍猛菩薩が最後に付け加えたのと同じく、お釈迦様の説かれた「法」に帰依した私が今ここです。「空」も空性に至る志向的目標でしかなく、これが悟りでも何でも無いであろうということ、もう一つは、この単語に様々な意味を含めることで「法」を見つめることに使える「仮名」になります。別のいい方すると、内容がどうであれ、例えば、『三業の中の悪癖を駆逐するぞ!』とか『五蘊の執着を空っぽにしよう!』とか、瞑想中のツールになるというと怒られちゃいますかね(苦笑)。そう考えていくと色んな論はどうでもよく、結局は坐って私(あなた)の中で解決していけばよく、一時的には解っていくまではツールとして頼りながらも、やっぱり「常に上を目指せばいいんだ」と、小空性経などの経典から確信できたのでした。これもそれも、実はサンガのおかげかもしれませんね。
さて、お経を唱えると「回向」するわけですが、瞑想した時の回向する先はどこなんでしょうね?今の段階では体裁上は衆生ですが、虚空の中は結局「心」なので心の中の虚空に捨て去る・・・肩の荷を下ろす・・・解放しかないのだと思います。『捨棄を随観』ってすごく難しい話なわけですね。でも、それもまだ始まりなんだということで認識しておかなければならないと思います。お釈迦様は涅槃に至るまでずっと瞑想修行されていましたし、この龍猛菩薩ももしかするとそうだったのでしょうし、弘法大師は入定されているわけですから。
というわけで、今回も「う○こ」になってしまいました。。。