やる気なし

一部のかたには話しましたが、ニコチン断ちをしています。タバコをやめたと書かないのは、いわゆる電子タバコ(ベイプ、ニコチンのないやつですね)はやめていないのと、相変わらず「タバコは好き」のまんまだからで、また、それまで吸っていた紙巻きタバコは目の前に置いたままだったりしてます。あったことある方は知っていると思いますが、ZIPPOが好きでここ数年銀むくライターを愛用しています。今は持ち歩かないので引き出しに入ってますが、タバコの方は実は持ち歩いていたりします。周りで吸っている方がいても「うまそー(喜)」と思うだけで、吸うことはほぼないですし、それよりも仕事で疲れ切ってくるとほしくなることの方が多いかなぁと、あと、こういうの書いているときは癖で欲しくなりますね。ブログやめていい?(笑)。まぁ、鞄開けて取り出せばいつでも戻れますがね。

ただ現実として、気持ちを紛らわしたり、気付けにしたり、気分転換の方法がないので、「お・仕・事、や・る・気・な・し?」「ス キ ニ ス レ バ ー?」と切り替えができなくなりましたかねぇ。他にも色々あるのでそのうちあげていこうと思います、結構重要な気づきも含まれているので。

半年たってみますと、色々発見できて面白いですね。

まずお話しした方の反応を見ると「禁煙頑張ってください!」と。「肺によくない」とか「健康のために」とかよく聞くんですが、私的にはそのあたりはどうでもいいんです。

まぁ、「コロナ禍」というのは全く関係なかったと言えば嘘になりますが、引き金にもなっておらず、実は「無駄なことだよな~ぁ」と思って、ここ数年計画的に10mgから2年後に5mg、結婚してから1mgに挑戦し加熱式タバコと両刀でタバコ呑んでいました。みんなのサンガに入ることには実は1mgでして、静恵先生のお母様に禁煙を止めてしまうなど(笑)、よくありがちな状態です。嫌煙禁煙の方々とは違い、ニコチン&タバコ大好きのニコチン断ちですから、目の前で吸われていても副流煙で「いい香り~♩(喜)」以外なんとも、「今一緒に吸いたいな」というのは全くないんですね。何度も言いますが鞄にセットが入ってますのでいつでも吸えますから。

よくいう、「バッサリ目の前から捨てて覚悟を決めないとダメだ、禁煙なんてできるわけない」は私には通用しません(笑)。

期待裏切ってすみません、健康とかどうでもいいですし(私のハニーの喘息は心配だけど)私自身はしがみつく気にはなれず・・・痛いの苦しいのを何とかしたといと思っても健康がどうのってのはイマイチ、現世で働かされ続けるのなら「労働者の友」としてタバコを選んできたわけで、捨てられない方々の気持ちがとても分かります。

そもそも目的が違うんです。寝起きに一服するわけですが、その際の感情を観察してみると、「タバコを吸う」という行動が習慣なのであって癖なのだと気がついていました。経験談を探していたりはしていたんで、このタイプは「やめられそうだな?!これ」と確信してました。ただそれも引き金ではありません。本当の目的はアーナパーナ瞑想に関係していたこと、コレが最大の理由です。

それが実は「ニコチン依存のメカニズム」でチラリと出ている”ニコチンによって分泌される神経伝達物質”にヒントがあります。

  • ドパミン … び、食欲抑制
  • ノルエピネフリン … 興奮、食欲抑制
  • アセチルコリン … 興奮、認知力向上
  • バゾプレッシン … 記憶力改善
  • セロトニン … 気分の変化、食欲抑制
  • βエンドルフィン … 不安と緊張の緩和

アーナパーナ瞑想で第2組(禅定)の最初は「を吐き、を吸う」わけですが・・・”『私は喜を感受して出息しよう』と修練し、『私は喜を感受して入息しよう』と修練します。”の「喜(पीति pīti)の感受」とは自律神経や感情などで誘導しながらドパミンを出させるようにしむけるワケです。タバコで得られるドパミンと瞑想で得られるドパミンは体が作り出したもので、全く同じです。

同様に「楽(सुख sukha)の感受」はむしろ愛のスキンシップで得られる脳内伝達物質でオキシトシンではないかと私は思っています。多分「妙適」とかチベット密教の「ティクレ(滴)」なんかも関係していて、真面目な話し射精するとかなりの量のオキシトシンが分泌されるわけです。つまり後のヘロヘロパタリとなる際の感覚「楽(सुख sukha)」があるんで、寝てしまうことになるわけです。女性の方がコレはお体に関係しているホルモンでもありますから症状が強く出るのかもしれませんが、子供を産むときに子宮を収縮させるのはオキシトシンの働きのようです。私は男性なのその感覚分からないはずなのですが・・・下腹部でキュッとなるんですよね。両性具有じゃないはずなんですが、体の記憶でもあるのか定かではありません。

この二つのホルモンは「セロトニン」にとても関係しています。アーナパーナ瞑想でも実は「私は心を満足させて出息・入息しよう」、「心を喜ばせること(अभिप्पमोदयआ चित्तआ abhippamodayaā cittaā)」に関係しています。サーマディに入っていくときサマーヒトー(समाहितो samāhito(安定))と関係があるのはセロトニンで精神の安定にとても関係がある脳内伝達物質だと思えます。なぜならセロトニンは強い暴走の側面を持つドパミンを抑制する脳内物質で、オキシトシンはこのセロトニンの分泌を促進させます。そしてリラックス状態が生まれるとα波が出ますが、このセロトニンと関わりながら「眠り」にも関係しているわけで、瞑想に深い関係があることになりと思います。

さて、瞑想でドパミンがどぱどぱなのか、ニコチン依存から脱しているようで、それを証明しようと実験を行ったら大成功だったわけです。ただ失敗もしてます、半年たってもまだ「眠い!」よ(笑)。ニコチン断ち初期には脳内伝達物質と「喜・楽・満」が関係していることは確立していた理論ですが、細かなところが怪しくあくまでもZeR0の説ということでご了承ください。

でも悲しい現実も分かるはずです。あなたの感情すら「モノ」でしかないんだということです。高次なシステムだと思われても、物質で実現されていたとなると、あぁなんかもう、すべてにありがとうの感謝と、すべてが愛おしく、すべてが素晴らしいということが確信できると思います。

さて「無我」が完成したら末那識の「我見」「我痴」「我愛」「我慢」はどうなるのでしょうか、「煩悩即菩提」に変わるんでしょうか。まだまだ私には分かりませんが、少なくとも汚れの減った末那識で見方が変わります。それは、「煩悩即菩提」の意味もやれ禁欲だ戒律だの以前に「喜・楽・満」が「煩悩」「欲」に関係した鍵で「慾触愛慢」に切っても切れないからこそ、これらの”鍵”をもつ欲する心、「慾」が前提になっていることがよく分かります。慾金剛菩薩、触金剛菩薩、愛金剛菩薩、慢金剛菩薩が理趣経に説かれるわけですね。末那識の汚れを取るなんてのはまだまだずっと先のことですが。。。現代生理学が瞑想につながってしまうのは結構面白いです。今回はさわりだけにしておきますがすでに奥義です(苦笑)まだ修行の浅い私にはそもそも論な気がしますので。

ちなみに今後上記の内容やアーナパーナ瞑想に関しては、『呼吸によるマインドフルネス 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル | ブッダダーサ比丘, サンティカロー比丘[英語版タイ語翻訳], ラリー・ローゼンバーグ, 浦崎雅代, 星飛雄馬』こちらが私のバイブルで「空」の思想を否定していない唯一の上座部仏教の実践編だと思います。今後書く内容も一般的なアーナパーナと違う点がチラチラありますのでご了承の程を。ちなみに上記の本は別訳:「観息正念」/三橋ヴィプラティッサ比丘訳がありまして、暇があったら読み比べしてみたいところですが、最近坐る時間までなくなってどうにもならない感じです。ぼちぼち続けていきます。

どうぞお大事に

先週から体調を崩してしまい、先週の中頃には熱発、腹痛と下痢で苦しむ羽目となりました。まぁ、よくあること(?)なので一々報告はしないのが普通なところだったのですが、令和のコロナ禍、みんな苦しんでるよなぁと自分に降りかかってきて改めて思ったのでした。今回は色々あってまだ熱下痢腹痛は続いているわけで一応PCR検査とかもうけて陰性で一安心、ぼちぼちです。

『調子悪ければ(ひどいときは病院行って薬飲んで)寝れば治る』という人なので、この所結構前もって体調観ていた(ごまかし誤魔化し使っていた(笑)ともいう)のですが、発熱してしまうとどうもこうも誤魔化ししきれなくなった感じでして・・・。何がどうってのは今は至る所で体温測っているわけで、普段押さえ込んでいる(というか大体把握できるので、まさに、「誤魔化し」つつ)のですが、発熱時は表面化してきてしまうのでどうしようもなく、結局、仕事を休まざるえず。本来的には当たり前なんですが当たり前じゃない業界でして、まさに”自己責任”を押しつけるようなおかしな業界でして、そんな象徴として前の職場は熱発で休んだら「明日から来なくていいから」とか平気で”あるある”即日解雇なんて当たり前なので、我が家のハニーは心配してしまいの。。。家でも休めなくなり結構追い込まれていたので吐き出しつつ書いてます。

東京は500人を超える勢いで毎日のように「コロナ感染者数」に一喜一憂しているわけですが、都下でも医療崩壊の波といいますか守備に入ってますので、熱発すると受診ができなくなります。個人的には体調不良なら解熱剤飲んで誤魔化しつつ仕事行っちゃうんですが、感染による(確定できるかどうかが問題)熱などは・・・、特にSARS-Covー2(COVID19、コロナ)関係の報道みると、サイトカインストームが起きる可能性がちらほら散見しますし、下手な解熱薬を使うと厄介になるという報道や、現実として、コロナ感染の判定(いわゆる「PCR検査」)が医師に託されており、その医師との面談が発熱を理由にできず(発熱外来をしている病院は限られていますね、今)、逆に発熱の状況を把握しつつとなるとコントロールしちゃいけないのであまり解熱剤使えず(苦笑)。

悪い条件が重なって、病院も行けない、熱も下げる薬は使えない、けれど腹痛下痢はひどい、熱発してつらいけどゆっくり休むこともできず、まさに間を縫ったような状況に更に病院も行けない、負のスパイラルに陥りました(苦笑)。

コロナ禍、色々、書きたいこともありますけれど世の中色々”つんで”しまって(といってもそれを感じるのはここ十数年)泥縄からはい出そうとしているときに、このSARS-Covー2(COVID19)の流行でしょう?、マスク、消毒アルコール、薬用石けん、うがい薬が店頭から消えたのだって、もともと資本経済がどうみても”つんで”いて、震災で表面化してごまかし誤魔化ししていたけれど、パンデミックで安いところに受注していて自力生産できなくなっていたのに資金(お国の補助ね)が流入しても、肝心のパック・入れ物や原料ひいては製品そのもの・いずれかでも輸入が止まっていれば当然のこと流通しないわけで大量につぎ込まれた資金は国内のはずなのに実は海外だったり(邪推)と、国内の企業はガタガタ(少し一掃されてしまった方がいいと個人的には思うけど)。一見安定して供給されるようになった?一見するとあふれて潤沢に見えるようになっていますが、いやいや結構パッケージ変えて別の製品のような顔して新製品になっていたりするのもあって、ぶっちゃけ材料や一部を変更や調達の代替えルートにしたりで変えざる得なかったんじゃないかと、邪推してますよ。上のマスクを初めてとした物品だけでなくて例えば洗濯洗剤なんかここ数年入れ替わりしてましたけど、コロナ禍でパッケージ変更(新製品へ変更含む)過剰になっているようにも、水面下色々ありそうな気がします。「替(買)えるだけまだマシ」なのかもです。

思いっきり脱線がてら毒吐きもさせてもらいましたが、まだまだ私なんて幸せな方でして、今の実現されている目の前の幸せというのを変わらず実現させたいとなると色々我慢も必要だからだで、全部ひっくるめて「あぁ苦痛の元集めてるの自分じゃん(識)、あぁ本当に思い通りにならない身体(色)だよなぁ(無常)、あぁ色々まわりに助けられてやっとこなんじゃん(無我)」とそのまんま眺めているのも本音です。最後は一人消えていくことも覚悟させられますよね。しがみついたって私の自由になるものなんて一つもないこと認識するには十分でした。こんなくだらないことで追い込まれるとは、巷の行き詰まり感も半端じゃないわけで、どうか自らを絶ったりとか考えずに、図太く生きましょうやと思う日々でした。

Wikiの公開

散策記録などまとめたWiki(遊行脚譚と題してみました)公開します。今回はローカルな八十八ヶ所ですが、利根運河大師霊場をメインにまとめています。今後も別の所もまとめますが、まだ中途半端で公開に後悔しそうです。とりあえず、今月のはじめには満行したところなのですが、データ化をたんたんと進めるだけなので途中経過だけでも形にと思った次第です。

コロナ禍の昨今いかがお過ごしでしょうか?私は「なるときはなるでしょ!」と投げやり・・・なのか『まな板の鯉』の覚悟を決めて日々を送っております。サンガの皆さんはゴールデンウィーク以来ですかね。私は未来が見える(嘘ですが)ので「お盆休みの頃はそのときの状況に応じて(・・・状況変わらないだろうな・・・)、せめて治療方法の確立されていたら」と予言が本当になりつつありますね(未来が見えるのも予言も嘘です、経験的推論ですよ(笑))。

いずれにしても一般ピープルとしては、私たちは手洗いと嗽など消毒とを徹底するだけなんじゃないかと。

多分、来年のオリンピックが開催できるか否かまでこの一喜一憂は続くんじゃないでしょうかね。私たちの御上(お上)思考を破壊するまでは、政治も頼りにはなりませんから国会議員や内閣は単なる木偶人形にしかみえません(今のままでは政権ひっくり返しても日本の世の中は”絶対”に変わりません)。コロナ禍は社会構造も含めた御上思考と官尊民卑の利権構造による病気に思えてしまう今日この頃。権力って一部の人の為だと思っている方多いと思いますけれど、それってすでに御上思考、支配されるのが「楽」で逃げている自分をしっかり見つめることが大事なんじゃ。権力は私たち一般人が利用するもので、権力に支配されるものではないです。

いずれにしても私たちはやれることを徹底するだけなんじゃないかと。

最近、明晰夢みるんです。明晰夢ってコントロールできるみたいですね。個人的にはそうまでするより、見た夢がどういう心理状態、無明の種と思っておいしくいただこうと思ってます。唯識では、我痴・我見・我愛・我慢を末那識の煩悩として捉えます。これらは阿羅漢になるまで絶対になくならないそうですから安心して付き合うとして、五感及び意識と深層意識(阿頼耶識)の橋渡ししているのが言語が生み出したとされる末那識でここを通るとなぜか「我」・「私」が出来上がってしまう困ったちゃんなんです。貪瞋痴の三毒以外に、慢、悪見、擬が根本煩悩としてあり、部派仏教時代には成立していた概念ですから比較的お釈迦様オリジナル仏教に近い理法といえます。特に最近は「慢」だけに注目していたて気がつくのですが「吾我」を認識した直後に比較が始まることから、末那識の存在の意味がやっと理解できたという。

まぁ、坐ってよく観て識らないと意味がないので坐るのも続けるしかないんでしょう。

知識があっても智恵にならなければゴミ同然というのが私の昔ながらの考えというかスタンスなんです。「空」理論によ、唯識にせよ、体現しなければ知識というゴミ同然です。夢もそうですが、占いも同様、「根拠がない」んです。勝手に想像すれば大乗仏教的に「法」それ以外、「根拠がない」んです。占いは私は結構好きでかなり勉強しましたが、そこに無明の種をみつけられないならばどんなに崇高なものだろうと、過去世だろうと来世だろうと、ゴミです。ましてそれに縛られて同じ失敗を繰り返すなら、ゴミ箱に捨てた方がなんぼかまし、いらないです。目的は「何も無くなる」ことならばなおさらです。社会って思考的影響を及ぼすわけですが、未だに占いだとか宗教だとか「根拠がない」ものにしがみつくのは、科学だの実証世界が、何も解決していないからの逃げのようでもあると思えるんです。だから、「如実知自心」が必要なわけで、同じ失敗を繰り返さない為に知るわけで、活かさないなら「根拠がない」無用の長物、しがみつくなら単なる執着、悪い無明の種を育てるだけになってしまうと思えます。占いと言ったこういう類いに、好きな反面、厭い嫌うに至ったのは今に始まったことではないのでいずれ書くかもしれません。取り繕う必要もないわけで、誤解の無いように書きますが「占い」は楽しむにはいいと思いますし、失敗を犯さないための指針(私心)にするのも”あり”だと思います。けれど、「根拠がない」ことには変わりありません。

手段や道具って使い使われなければゴミなんですよね。手洗いと嗽・消毒などは徹底する事こそ難しい、まして継続するのは至難の業なんですが、手段として徹底して続けていくことでしょうね。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」の考え方と一緒だと思いますです。

毘盧遮那考察(9)

最近、似たような思考だなと思って、手に取った本がありまして『「空」論-空から読み解く仏教ー 正木晃著』が面白いなぁと思って読んでいます。学者さんが書かれているので「根拠」がはっきりしていて頷ける部分が多いことで、『中論』のダイジェストや原始仏教から大乗を通しての見解が説かれていて好いなと思って買ってきちゃいまして。でも「なんちゃってブッディスト」な私の浅い瞑想体験からは、「ここ違うな」とか思える部分もあったり、「自灯明・法灯明」ですから、本から得られる知識も「またこれよし」で人によって受け取り方が様々であるのも面白さだったりしますね。

さて「अविरहूंखं(あびらうんけん)」の文字列は五大の「अ」「व」「र」「ह」「ख」をベースにしていることがわかるんですが、空点(菩提点)が『हूं』『खं』なのに、『वि』だけ仲間はずれ感が隠せないのなんだろうと思うこともあるかもしれません。

『वि』の文字を分解すると『व(水、字義「言説」)』『 ि(字義「根」)」となるわけですが、五大で水は「大悲水」なので、やっぱり大日経住心品に言う、「菩提心為因、大悲為根、方便為究竟(菩提心を因となし、大悲を根となし、方便を究竟となす)」のまんまなのですよね。

空点が付いた『हूं』は御大師様がわざわざ「吽字義」として残してくださったワケですからそれを頼りにするとしても、五文字の最後に添えられて同じく空点が付いた『खं』は、何でしょうね?『ख(字義「等虚空(等空)」)』なのですが、「空」+「空」って事だとすると「空空」です。「空であるという道理自体も空である」という理智なんでしょうね。一応、私的にはお釈迦様の話(小空経)などを考えると、「空」と「空性」は別物と思えますので、それに従った論展開なのはお許し頂いて、結局は「空であるという道理自体も空である」ということに注目できますし、それが伝えられているということを考えて大事にしていかねばならないんですよね。

「空」話をし始めて煮え切らないモノだから、結構、静恵先生の所に質問が飛んだそうで面目ないです(苦笑)が、更にこの「空空」の理論を説いた人は実は前回出てきた龍猛菩薩(龍樹)その人と言うこと、『中論(ちゅうろん、正式名称『根本中頌』)』で出てくるわけです。「え゛?学ぶ意味ないじゃん」ということで(笑)、「また難しいことを・・・」なんて言われそうですが(実は静恵先生は「空」法話されてないし、それより大事なことを伝えてくださってるのでは?)、そもそも言葉で理解することで無く(言説不可得)、体験経験を通して体得していくことしかないのかもしれないです。

不二」にせよ、「縁起」にせよ、「無我」にせよ、「無常」にせよ、「無自性(本来)、自性」にせよ、「八不」の「不生不滅(涅槃)」にせよ、『空』なのであって、徹底的に「縁起無我無常」を理解して体解して、し尽くして、「完全バイバイ」が目指すところで、『空』を目指す志向的象徴が一つの意味だと思っています(「完全バイバイ」=「空っぽ」)。これは違うとかいろいろな論もありますけれど、「からっぽ」とはよく言ったモノで(私は「空」を前提条件的に捉えていて)、「無常」な「五蘊」は「無我」ですし、最近は「無我」でなく「非我」であるなんていう説もありますが、突き詰めていくとやっぱり「無我」なんですよね。

本題に戻りますが、龍樹の著した「中論」ですが、原文というのは残って無いのだそうで、後の月称(げっしょう、梵: Candrakīrti, チャンドラキールティ)が『中論』の註釈書の「プラサンナパダー(Prasannapadā、浄明句論)」に残っているサンスクリット本なのだそうです。龍樹の奇異な生涯は前回これまた数奇なミステリアスな人と触れたのですが、当時、「中論」は異端だったのか弟子の「提婆(Āryadeva」は敵対する者を激しく批判の末、激烈な「行為」におよび、異教徒から殺されてしまったとの説もあります。いずれにしても、批判のやり過ぎはよくないという意味で学ばねばならないのではないかとも、お釈迦様の弟子の一人、目連(もくれん、梵:Maudgalyāyana モードガリヤーヤナ、巴: Moggallāna モッガラーナ)も殺されてしまったわけですが、たとえ正しくとも、降伏・追放と「やり過ぎ(行動)はいかんよ」ってことなのでしょうかね。と、また話がそれましたが、『「空」論-空から読み解く仏教ー 正木晃著』の中で『中論』のダイジェストをしげしげと眺めていて思ったのですが、禅定の段階に基づいて書かれている様にも読めますね。四禅が十六段階有り、無色定の四定と滅尽定(小空経によれば二段階)とありますから、第一章から第二二章まで一致してきます(笑)。まぁ、これは私の勝手な深読みですが、後の世かにそういうことまで考えて構成したのかもしれません。

みんなのサンガからお借りすれば

『長く出・入息』 → 「第一章 原因(縁)の考察」
『短く出・入息』  → 「第二章 運動(去ること来ること)の考察」
『全身を感受して出・入息』 → 「第三章 認識能力の考察」
『身行を安静にさせて出・入息』 → 「第四章 集合体(蘊)の考察」
~以上 第一禅定

『喜を感受して出・入息』 → 「第五章 要素(界)の考察」
『楽を感受して出・入息』 → 「第六章 貪りに汚れることと貪りに汚れた人との考察」
『心行を感受して出・入息』 → 「第七章 つくられたもの(有為)の考察」
『心行を安静にさせて出・入息』 → 「第八章 行為と行為主体との考察」
~以上 第二禅定~

『心を感受して出・入息』 → 「第九章 過去の存在の考察」
『心を満足させて出・入息』 → 「第一〇章 火と薪との考察」
『心を統一して、出・入息』 → 「第一一章 前後の究極に関する考察」
『心を解脱させて出・入息』 → 「第一二章 苦しみの考察」
~以上 第三禅定~

『無常を随観して出・入息』 → 「第一三章 形成されたものの考察」
『離貪を随観して出・入息』 → 「第一四章 集合の考察」
『滅尽を随観して出・入息』 → 「第一五章 〈それ自体〉(自性)の考察」
『捨棄を随観して出・入息』 → 「第一六章 繫縛と解脱の考察」
~以上 第四禅定

おまけを書きますと、

空無辺処(くうむへんじょ) → 「第一七章 業と果報の考察」
識無辺処(しきむへんじょ) → 「第一八章 アートマンの考察」
無所有処(むしょうしょ) → 「第一九章 時の考察」
非想非非想処(ひそうひひそうじょ) → 「第二〇章 原因と結果の考察」
滅尽定(想受滅、無相心三昧) → 「第二一章 生成と破壊との考察」
無作(如来) → 「第二二章 如来の考察」

~残り~
「第二三章 顚倒した見解の考察」
「第二四章 四つのすぐれた真理の考察」(四諦)
「第二五章 ニルバーナの考察」
「第二六章 (縁起の)十二支の考察」
「第二七章 誤った見解の考察」

※章の題名は「龍樹 中村元著」による

面白いなぁと思って眺めていたのですが、まぁ、ここは私の「顚倒夢想」ということで!

ただ重要なことは「第一三章 形成されたものの考察」の終わりで、

一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。しかるに人がもしも空見をいだくならば、その人々を「何ともしようのない人」とよんだのである(「龍樹 中村元著」382頁)

「え゛?え゛~っ!」って、声も聞こえてきそうですが(笑)、結局、これら『空』は『「有身見」を脱するための方便』なんだと私的に解釈しています。だって「仮名」なんですよ、「空っぽ」なんです。なので、あぁ、こういうことか!って識っていけばいいのであって、文字列的な知識に頼る必要は無いんです。でも、知っておく事も大事だと思います。これは私が「空病(禅病?)」の様な状態に陥った時、「無我」や「無常」や「苦」に対して「」があったからだと思えるんです。それもまた瞑想に固執して生まれた執着で、師たちは、それを見据えながら瞑想を深めていかれたはずで、段階を踏もうと意を決したことによります。例えば、アートマンは無い(無我)のに「」があったらいつまで経っても失敗を繰り返しますし、この身に囚われていたらすすみません。面白いから進めるのも好くないと思われます。お釈迦様も瞑想から覚めればまた現実に戻ることを知っていたように書かれていますよね。非想非非想処に答えは無いんですよね、お釈迦様の求めていた答えがあったならば、そのまま、アーラーラ・カーラーマ仙人の弟子になっていたでしょうし、原点「苦しみを滅する」答えにはならなかったんでしょうね。いずれにしてもじっくり執着や固執は捨てられるまで、体解するまで段階を踏むのも大事なのかなと思えてきます。それでないと、「三結」すらもほど遠いと思えたからなんです。お仲間には同じ「轍」は踏んで欲しくは無いです。ですので、三宝の僧伽は大事なんです。悩んだら、疑問に思ったら師に聞きましょう(静恵先生のところへの質問がまた増えますか(笑))。言葉にすることで解決できるのは言葉にすることで一つの疑念や誤った真実を浮き彫りに出来るので、わかっちゃいても実は答えはそこにあったり指摘してくれる仲間も必要だからだと思っています。

勿論、当時、部派仏教時代に色々な説が説かれ、お釈迦様の時代(原始仏教)から発展していったんですが、敢えて説かれなかったこと(無記)についても色々研究究明がされていっており、色々なオプションが付きすぎた事が最大の問題だったんじゃ無いかと思いますし、『中論』最終章「第二七章 誤った見解の考察」では

一切の〔誤った〕見解を断ぜしめるために憐愍をもって正しい真理を説き給うたゴータマにわれは今帰命したてまつる。(「龍樹 中村元著」394頁)

と締めくくっているのであって、単なる批判ではないことがうかがえる結びになっていることも面白いところだったりします。

お釈迦様の時代、死んだらどうなるか説かれています。「雜阿含經 巻第三四 957」に「意生身」なんぞというもの中有が説かれます(好い説明も見つからないので一応、新纂浄土宗大辞典より「意生身」を参考にしてください)。「無記」とお釈迦様はおっしゃっていっているんです。つまりは知る必要も無いと思いますが、更には部派仏教時代、犢子部によって「補特伽羅」(新纂浄土宗大辞典より「補特伽羅」)というモノが説かれます。要は輪廻転生の元となるモノ、霊魂とかそういう類いの話です。総合して、無明を因、五蘊を縁として、とか色々理論立てていますが、結局は「我」に執着することから離れる必要があると思われます。「中論」では「第九章 過去の存在の考察」として、これらに言及しているようです。その続きが「第一〇章 火と薪との考察」ですが、「雜阿含經 巻第三四 957」でのお話の続きで「雜阿含經 巻第三四 962」で「火と薪」の比喩で婆蹉種(ヴァッチャゴッタ)に説明されているとされています。

『雑阿含経』「婆蹉種相応」考

「中論」の面白い流れが垣間見えますね。いずれにしても、お釈迦様の「悟りには関係ないよ」(無記)というスタンスが見えるんですが、輪廻転生っていう前提条件があると霊魂だとか「真我(アートマン)」だとかどうしても知りたくなる事の話です。一ついえるのは、お釈迦様が悟って一番最初に出てくるお釈迦様以外が「梵天」であること(梵天を勧請した話)とか考えると、少なくとも悟る段階に「自己」とか「自我」に出会っていたわけでは無いんだろうと思えます。少なくとも私たちが思っているところに「真我(アートマン)」なんか存在しないのでしょうね。後に「梵我一如」と言われるようになったのも頷けます。でも、これも、ただ、梵天勧請のお話が出てくるだけで、お釈迦様は直接説いてはいないので、求めてもどうしようも無い話なワケですよね。その割に仏教全般を考えると志向した上での自己確立を説いているようにも思えるわけです(自己覚醒、無上正等覚)。議論する必要も無い戯論のこの辺りも含めて「真我(アートマン)」の是非が後の世で話題になったんだと思えます。

なので敢えて、自我でも法我も離れた、客観的「我」で無上正等覚を目指す意味で、私は「自己」という表現を用いてますが、ソース元をたどると「自己を否定しなさい」的に読めるモノも出てきてしまいます、この辺は一応補足までに。いずれにしても「私の思っている『我』」とか『神』とかは「真我(アートマン)」だとかと一緒で否定してしまっていいものでしょうね、「無我」を説かれたのですから。識ることが出来れば「梵天」の意味も生じるのでしょうから無上正等覚に至るまでは、これらは捨ててかかっていいことだと思っています。でも、説明が付かないならば、一見すると矛盾していますが、こういう所に毘盧遮那仏(や大日如来)と仮名した存在を置いたのだろうと思えます(あるのかもしれませんし、わかりません)、存在していないともいえます。

そんな、大日如来の真言が「अविरहूंखं(あびらうんけん)」です。そして、龍猛菩薩が最後に付け加えたのと同じく、お釈迦様の説かれた「法」に帰依した私が今ここです。「空」も空性に至る志向的目標でしかなく、これが悟りでも何でも無いであろうということ、もう一つは、この単語に様々な意味を含めることで「法」を見つめることに使える「仮名」になります。別のいい方すると、内容がどうであれ、例えば、『三業の中の悪癖を駆逐するぞ!』とか『五蘊の執着を空っぽにしよう!』とか、瞑想中のツールになるというと怒られちゃいますかね(苦笑)。そう考えていくと色んな論はどうでもよく、結局は坐って私(あなた)の中で解決していけばよく、一時的には解っていくまではツールとして頼りながらも、やっぱり「常に上を目指せばいいんだ」と、小空性経などの経典から確信できたのでした。これもそれも、実はサンガのおかげかもしれませんね。

さて、お経を唱えると「回向」するわけですが、瞑想した時の回向する先はどこなんでしょうね?今の段階では体裁上は衆生ですが、虚空の中は結局「心」なので心の中の虚空に捨て去る・・・肩の荷を下ろす・・・解放しかないのだと思います。『捨棄を随観』ってすごく難しい話なわけですね。でも、それもまだ始まりなんだということで認識しておかなければならないと思います。お釈迦様は涅槃に至るまでずっと瞑想修行されていましたし、この龍猛菩薩ももしかするとそうだったのでしょうし、弘法大師は入定されているわけですから。

というわけで、今回も「う○こ」になってしまいました。。。

雨にも負けず

今年の水害は非道いですね。

台風19号通過時は鉄筋コンクリートの建物はゆれるは、大雨の際には仕事中、道路が一部「このまんまだと水につかっちゃわね?」ぐらいでかい水たまり。都内に住んでいた時の非ではない日常、色々経験させて貰っていますよ。ほんの少しのずれで被害に遭わずに済んでいるとはいえ、被害に遭われた方のが一日でも早く平穏な生活に戻れるよう祈ることしか出来ません。

多すぎれば害にもなるそんな「水」ですが、身体にとっては「水毒」なんて言われます。酸素なんかも多すぎれば酸素中毒になってしまいますから丁度いいがいいわけで。昔の人は腹八分目なんていいますけれど、やっぱり多すぎれば肥満だのメタボだの言われちゃいますし、一寸物足りないぐらいで丁度よいのかもしれないです。私の今年の健康診断の結果は中性脂肪が多く、おまけに、白血球と血小板が多い・・・常に臨戦態勢なのか?(どっか表に出てこないところで炎症状態なのかもなぁ。。。)、身体が何をそんな気を張って生きてるのかわかりませんが(苦笑)。

タイトルで思い出しましたが「雨ニモマケズ」って言えば宮沢賢治ですが、パブリックドメインなんですね。色々苦悩が・・・人の手も借りても結局は自分ですくい取ることしか出来ないんですが・・・純粋さに感動もありますね。

अविरहूंखं

意馬心猿

心の中で煩悩が騒いで「無常」であり、コントロールの効かないということは「無我」なのですが、こういう「馬が奔走し猿が騒ぎたてるのを止めがたいように、煩悩・妄念などが起こって心が乱れ、抑えがたいこと。」を『意馬心猿』というのだそうです。「心猿」ともいうそうです。

つまり、「五蘊」も「無常」で「無我」で「苦」なわけです。「蘊」という内外の物質世界の「法」、「蘊」という心の「法」・「蘊」という、意識の中の「法」は「無常」で「無我」で、「苦」なんですよ。『五蘊が仮に集まってできたものであるということを五蘊仮和合』というのですが、この五蘊というのも『仮名』で概念であって「実体のないもの」ともいえるのだと思えます。少なくとも自分という「色」はあるといえるんですが、自分の身体だと思い込んでいるにすぎないとしたら、これも我という「実体」も壊れますよね。すると、外界の物質世界も同時に壊れます。自他の区別自体おかしな事になってしまうんですよね。

でも「私がいるじゃん」生きてるじゃん、なわけですが、死んだらどうなるか、これ面白い説があります。あくまでも仮説ですが、もし科学が好きなら「ボルツマン脳」を調べてみてくださいませ。脳が勝手に自分に必要な情報以外をブロックして選択していたら、肉体が滅びたらブロックする物自体が壊れますから、連続性が失われランダムに形成されている原子からの情報が一挙に流れこんできて、情報に埋没してしまうことは想像できます。まぁ、『意馬心猿』どころではないですね。ただその前に集合統合していた意識の方が先に崩壊してしまうかもしれませんが。ただ「転生」が前提であったら崩壊してくれないかもしれませんね。いずれにせよ、単なる言葉遊び空想のお話です。

科学的視点という極論を私はよく使います。私は頭よくはない(?)ので・・・お釈迦様や大先達の様な膨大な理解力を有していない・・・自分だけで手一杯なんだと思います。そして、納得のいかない・腑に落ちない点を府に落とすための安心材料や「ものさし」なだけで、そこは人によってその「ものさし」に何を使おうがよいのだと思います。逆に知らない人にとっては、難しい話になってしまっているんですが、私流の言葉遊びと思っておつきあいくださいませ。昔、学友で「心理学」専攻だった方がいまして、何を学んだか話してくれたことがあります。「ただ先生の手足となって様々な情報を集めて、レポート化していただけで学ぶところが無かった・・・」と、同時に「その代わり、エクセル(パソコンにのってる表計算ソフトウェア)と統計学は得意になったよ!依頼主の”都合のいい統計”が出せるぐらいに」・・・って(笑)。統計ってアレですね、GDPとか信用度調査とかよくニュースでも流れてますが・・・アレです、どっかの都合のいいデータ加工がされたアレですね。いやぁ、そうなんじゃないかと思ってましたが、やっぱり・・・と言いたいところですが・・・それは置いて於いて、エビデンスに基づいて、少なくとも同じ前提条件さえあれば連続性もあって同じ結果を出しやすいという意味ではこれもありだと思います、言葉で表現し続ける上では。つまりは喩えだったりしますが、同じ結果をもたらせるという意味では役に立つものですね。ただ、「ものさし」でしか無いんですよね。しかも不完全な科学という「ものさし」なのですが。

少なくとも「ライフハック」なんかもとても役に立ちます。最近読んでいて気になったのは『人が「変化」を恐れる理由とその対処法』ってやつです。前提条件として『「人が変化を嫌う」のは何故なんだろう?』で調べていてたどり着いた記事です。極論「『変化』を前向きに受け入れましょう」というところでしょうか。また、賢すぎても色々デメリットがあるんだそうで、愚者であればストレスも減りますしホントお馬鹿でよかったよとも思えるわけで。

お釈迦さんもおっしゃってます。

自分が愚か者でありながら賢者だと思う者、これこそ愚者なのである。自分が愚者であるということを知っている者は賢者なのである。(別訳:もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる)「ダンマパダ63」(中村元著 原始仏典67頁/中村元訳 ブッダの真理のことば 感興のことば19頁)

孫子の兵法でもこんなこと言ってますね。

知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戰必殆。(彼を知り己を知れば百戦殆ふからず。彼を知らずして己を知れば一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば戦ふ毎に必ず殆ふし。)

結局、「如実知自心」というところまでたどり着きます。

「ものさし」と同じで、私を知るには役には立たないかもしれませんが、そう、今の私はお馬鹿でエロで・・・(笑)、昔、小学生の頃、「自分はバカでありたい」、と本気で思っていた人で(だから覚えているんだと思いますが)、そのまんま大人になってしまったわけでお恥ずかしいんです。多分苦しかったんだと思うんです、それなりに何かに。今では原因がとんとわからないんですが、何か(「苦」)に怯えていたんでしょうね。今思えば「笑顔でいられるように」が願いだったんだと思います。コントロールできないからコントロールし続けるのに「みんなハッピー」になるのがこれだったのかと。というわけで、「う○こ」でした(笑)。

毘盧遮那考察(8)

台風17号が過ぎていく、頭痛持ちの私にとってはこの気圧の変化と急にモワッと蒸しっ返すような変化は結構きついので、仕事中なら迷わず「頭痛薬」だけど、休日なので今日は飲まないのです。

ミステリーって結局は「極論(極端)」なんだよなと思うし、科学的根拠も同じく「極論(極端)」なのでしょう。

お釈迦様は、苦行という「極論(極端)」を捨てて、坐って(おそらく心の中を)観ていって、徹底して考えて、「苦しみ」の根源を明かしていったのだと思っています。

先日(といっても結構前ですか)、『大ラーフラ教誡経』を紹介して頂いて、かなり感動したのは、密教には様々な観法があって解釈(流儀)があって弘法大師が何を考えてそのお手本(次第)を残していったのか考えることもあって、アーナパーナサティスッタに従って第一禅定への修習では、「全身を感受」(身行)においては、徹底して五大にこだわって観察してある一定の答えを導き出したその矢先の事だったので、とてもありがたかったんです。

実際、アーナパーナサティは毎回16行程を次第の通りに進めて行くというのが私の教わった(学んだ?)方法でもあるので、坐る度に必ず毎回「全身を感受」するわけです。ここは「不浄観でも要素観でも何でもいいよ」なママに、五大(四大)を割り当てて観察していくわけです。でも、結局呼吸を観察していくと「空界」がつまり「穴(孔)」があって、それがある(通過する)ことによって、身体内と外界の境がないことに気がつくんです(私には)。結局、縁起によってこの身体は成り立っていて四大なはずなのに、要素観なら第一禅定に入る頃には五大になってしまうわけです。(大師の言うとおりに)端っから、अ、व、र、ह、ख、それに尽くしてみようかと思って始めたことだったりしたんです。もちろん梵字という原点に返れば字義や字相も大事なのですが、尽きなければ「菩提点」は付かないので、अँ、वँ、रँ、हँ、खँ、ではないともいえます。尽きれば「空」ですので、梵字において空点を菩提点というのは最もな話でしょうね。もっと言えば、結局、坐る(観)上では、心(識)の中の事で、外は考えなくてもいい、唯識的な思考になっていきます。

その間(実習しているこの何ヶ月)、いろんな事を考えてました、当然、志那で成立した東洋医学に通じている私は「五行」の思想がこびりついてますから、五行という「象(すがた)」を佛教的思考に持ち込むのを躊躇したり、「ならば、アーユルベーダआयुर्वेद)、インド医学だよな」と、もう一回教科書を開こうかとまで思っていた矢先でした。佛教では「すがた」は「相」と言う文字を当てますから、実体(「相」)と働き(「象」→「行」)では違いますし、体験的知識(?)に捕らわれず、「あるがまま」にすがた(相)を観ていくと、『大ラーフラ教誡経』に説かれるがママの「解答」になっていたので、ほぼそのママ、正誤訂正も出来て感謝々々だったわけです。大綱の謎なままにしておいて、詳細はここでは書けませんし書きません(言説不可得ですから)が、『やっぱり「縁起」という法(ダルマ)が大きくここに関わっているのだな』と思えました。というか、訳した人達すごいですわ。北伝仏教は「志那化」仏教なんて言われていますけれど、そんなのは仏教的にはちゃんと見極めて捨てていけばいいだけで、訳した人達もちゃんと使い分けてくれているんですよね。って駄文が長くなってしまってきましたので〆。

さて「極端」の話ですが、増谷文雄先生訳を掲載しているサイトがあったので紹介させていただくと「阿含経を読む」から、「カッチャーヤナ(迦旃延)」というのがあります。ついでですので、中村元先生の別訳も載せますと

カッチャーヤナよ。この世間の人々の多くは、二つの立場に依拠している。それはすなわち有と無とである。もしも一が正しい智慧をもって、世界(世の人々)のあらわれ出ることを如実に観ずるならば、世間において無はありえない。また一が正しい智慧をもって世間の生滅を如実に観ずるならば、世間において有はありえない。
カッチャーヤナよ。あらゆるものが有るというならば、これは一つの極端の説である。あらゆるものが無いというならば、これも第二の極端の説である。
人格を完成した人は、この両極端の説に近づかないので、中道によって法を説くのである。(『サンユッタ・ニカーヤ』第二巻十七ページ)
中道を尊ぶ立場「原始仏典(中村元)64頁 ちくま学芸文庫」

その極端な思考を止めて正しく観なさいって事だと思います。八正道の「正見」ですね。坐った体験から色々考えることもありますし、その中でどれがいったい正しいのかってことですね。別のいい方をすれば「中道」ってことになります。個人的感想も踏まえると、お二人の先生の訳の違いも面白いところですが、原始経典を読んでいますと、どうしてもお釈迦様というお人が偉大な人なのですが「人間」としてのそのありありとしたおすがたを感じるのです。それと共に、「相」も感じますし、「象」も感じるわけで、お釈迦様の言葉であるのにもう一つの人格=「如来(人格を完成した人)」と言う立場から説いているというのも、よくあるパターンなので面白く、後の世で「釈迦」→「如来」→「毘盧遮那如来」→「大日如来」と大乗で変容していったのも何か解るような気もします。多分、奉り上げて行ってしまって、神のような存在になってしまったお釈迦様を人間に戻すのが大乗や密教の教えなのも面白いかなと思います。これも「中道」、「正見」というところなんでしょうか・・・世からいなくなってしまったお釈迦様を数百年で神格化していった時代があったものと思えますが、今「目の前」的に言えば、現世利益をお釈迦様に求めるのも筋違い(極端)ともいえますね。確かに「法(ダルマ)」は存在していて、それを見つけても見つけなくてもいずれ誰か(如来)が解いたであろうし、そのうちの一人が偶々お釈迦様だったというのも原点なのかもしれませんけれども・・・、と、またまた、話がそれたので一旦〆。

さて、この「中道」と言うキーワードを使って原点回帰しようとしたのが、ナーガルジュナ(龍猛菩薩(龍樹))と言う人で、これまた数奇なミステリアスな人であったようです。大乗仏教のほぼ全てはこの方を祖としています。上で紹介した「有」と「無」を軸に、以前にも書いた「三世実有」など、ひっくり返してしまった方でもあります。すでに成立していた大乗経典がベースとなって「空」について説いた方でもあるのですが、「空」が全くの「空論」でもなかったのかもしれないというのも、重箱の隅をつきつつ、やっぱり「縁起」をベースに読み解けるのも、言葉で知るんではなくて、体験的に経験的に坐って感じていくのも大事なことなんでしょうね、言説不可得ですし。実践主義というとやっぱり御大師様なのですが、原始仏教とかけ離れていて膨大な中から根本を探し当てていかなければならないのも、長い旅だなぁと思える今日この頃です。

下総国葛飾郡より

ここ(今住んでいるところ)に来て三年か、更に今の場所に引っ越してから丁度一年が過ぎました。そんな一年が過ぎたとたん、このひと月ほど、(冗談半分に)様々な怪奇現象・・・ミステリーをまとめてみます。

越してきた頃から気になっていたことなんですが、磁界が・・・そこは、持仏棚(仏壇)のある付近を中心に、富士の樹海に紛れ込んだかのようにコンパスが効かなくなるところがあるんです(がくぶる)。といってもコンパスがくるくる回りませんが(笑)、北をさす方向が違うんですね。・・・・仏様のせいで・・・ここは空間が曲がっているのかもしれません!。・・・いやいや・・・どっかに磁場でも狂わすモノがあるんでしょうね。「ハッハッハ、んなばなな」な方もおられるでしょうからタネを明かすと、コンパスもって、そうですね。。。冷蔵庫のそばにいってみてください!「あれ?」な事がおきます。最初は裏に配電盤があるのでフレミングの法則(右手の法則や左手の法則)を思い出して「んーこれかなぁ?」と思っていたんです。で、休日、コンパスもって歩き回ってみて、風呂場や洗濯機などが最も強い原因というところ。まぁ、面白いことに自然に本尊のそばは綺麗に北をさすコンパス、偶然の一致にしては面白すぎること、だって別の所からそのままの状態とはいえ越して持ってきたんですから、偶然の一致にしては希な事ですし。そして坐るとホントは真北じゃないけれど、磁界・・・コンパスの上では北になるので、「ま、いいか」なことです。なんか曼荼羅みたいですね。

そんな持仏棚の目の前にはベランダがあります。いつも帰ってくるとはいえ、この数週間、ベランダを開けることがなかったんです。先週のよく晴れた日、ふとベランダに出たんです。目の前にバッタが・・・死んでました。確かに雨樋もありますが、ここ3階なんですよ、まぁ、ここひと月ほど前、コオロギが部屋に入ってきたこともあるので・・・最初は黒い影、「G」かと思いましたが・・・殺虫剤なんてないので、捕まえて外に逃がしたりもしていたんですが、コオロギの恩返しでしょうか?!・・・タネを明かすと、先日の台風15号の爪痕だと思われます。羽に乱れもないので、どこかに叩き付けられたわけでもなく、そよそよ風の赴くままに巻き上げられてきたのかもしれませんが、力尽きたのがここだったのでしょうね。しばらく1週間ほど放置(ただ構っていられなかっただけ)していたんですが、コンクリートジャングルだから本来は虫すら立ち寄らない所でもありますけれど、なかなか腐敗が進まなかったので、若かったのに偶然の事故にでも遭われたのでしょうかね。

更には、”比較的”、夫婦円満な二人暮らしですが、つい先日大げんかとなりました。私は原則、引っ張る方ではないので、私が一旦家出するも、数時間後には奥方が「食べたい!」といっていた「焼き芋」をゲットして帰宅。気にはしつつも、のほほんとしてましたが、奥方は一回は完全ピークに達してしまったので甄権恐々としていたんでしょうね、「ぷんすか」しつつもお互い気を使いながらも翌日には普通におしゃべり。しばらくすると「まだ怒ってるんでしょ?」と言われ、「うううん」とそれとはなく。基本「自由人」な奥方も、会社にはこっそり転職活動していたり(なかなか進まず)、気候の変化やらで、結構気疲れしていたんじゃないかと。本人自覚はなかったようですが、そう伝えると何か思い当たるモノがあったのか・・・かくいう私自身がそう自覚していた事も話をしました。仕事柄、合う方々を総合してみると、やっぱり「夏」が終わり「秋」に入って「台風」が来て・・・そんな時は「認知症」の方は起伏が激しいし、ご高齢の方は体調も下降気味だったり、または「揺り戻しうつ」の様な方が増えていたので、まぁ、そんなところじゃないの?と、犬も食わない夫婦喧嘩に至っていたりしました。

そして、パソコンも一台壊れました(笑)。ファイルサーバ兼録画用パソコンだったんですが、越してきた時、一台余っていたハードディスクをテレビに外付け増設したので、奥方も簡単に録画できる環境が整って、私自身も坐って瞑想する内に、時間も無いし、録画して見るものも単なるコレクション化していたのも事実で志向もズレ始めていたのを気付いていたので、今は他が動いているならいいかって事で、そのまま諦めることにしました(苦笑)。時期も丁度台風が来てパソコンの空冷方法も考えつつUSBファンを設置したりなんてした後で、そのパソコンは放置していたんですよね。夫婦喧嘩のその前日だったかひどい落雷のある日もありまして、近くの地域では瞬間停電もあったそうで、過電流かな、火を噴かなくてよかったのかも。

色々、謎も、わだかまりも、「融(解)け」て、まぁよいかなと。

そうそう、最近ひとつだけ嘘になっちゃっていることもあったんで告白すると、「仏滅」はナイトスタンドブッディストお休みデーとしていたんですが、そういう時に限ってなんかしら、「やらねばのぅ」な事がおきて坐ることが多くなってきました。なので、「仏滅」に限らず休みは不定期とします!(単に気分)。「仏滅」で思い出しましたが「大安」って「泰安」って書いてたんだそうで、字からすると、個人が大安の恩恵なんではなくて、大抵「大安」の日はイレギュラーな珍事が多く、まぁ大抵は丸く収まって皆さん笑顔を見ていることから、社会や地域にとって「泰安」なんじゃないの?、つまりみんなハッピーデーって事なんじゃないの?と思う今日この頃です。ま、占いなのでどうでもいいことなのかもしれませんが、まぁ、欲をかいて動いても何になる日でもないんじゃないかということ、それより周りに好くなるように行動するための日なんじゃないかと。こういうのって験担ぎってのあるので。

台風15号、下手すると昨年の引っ越しの時期に、足の踏み場・・・コマ間違えると、上総国・安房国あたりに飛ばされていたかもしれないので、今頃とんでもない目に遭っていたかもしれません。今だ困っておられる方もおられるらしく早い復旧お祈りすることしかできませんが、正直、人ごとじゃないですね。当日、倒木やらあって道がふさがれていたりしたこともあったんです。よくいく施設の目の前には神社があるんですが、社の裏の大木の枝がポッキリ折れてしまったりと結構いろんな所に爪痕が残っていました。落ち着いた週末、そこの神社に紙幣一枚奉納してきましたよ、早い復旧を願ってお役立てくださいと。いつも願うこともないまま「無事過ごせました!ありがとうございます!」と思いつつ「祓え給い、清め給え、ながら守り給い、え給え」と手を合わせてくるところなのですが。。。痛々しいじゃないですか、地域守って鎮座されているのに、もしかしたら周りを守っての一本だったのかもしれませんし。「風吹けば桶屋が儲かる」なんていいますしね。そんな事を心の鏡に映して思いはせると、まぁ、気づかないうちにしょわされていたモノも少し見直してもいい時期なのかもしれませんね。ま、お暇はありませんがね(遠い目)。

元気ですよ!

いや~、元気ですよ!

多分、皆さんと同じで。。。仕事も頑張りまっすノ。

けれども今日も理趣経読んで、アーナパーナで坐って、その後は念持仏にご供養して、・・・「今日も一日ありがとう!」して・・・もとい、その頃には空っぽになって、「皆ともに仏道を定ぜんことを」で・・・寝ます(笑)

いやいや、反応してしまいました。おやすみなさ~い。

佛法僧

つらつらと書きつつ、一応、必要に応じて「旧字」を使うことがあるのは、敢えて省略されない「字の元の意味」に帰る気持ちを込めて「旧字」で書いていたりします。(あくまでも私の認識していて解る範囲で)一つの法則性を出来るだけ保つ様にはしていますが、なかなか全部は難しいものです。校正の作業って大切なんですよね、多分。

『空性』を読み解くのにいくつかの経典を指し示してみましたが、様々な邦訳のある『小空性経』については今一歩どれ(「光明寺経蔵」様訳「マニカナ」様訳)も納得(合点)のいく内容で訳されていないなぁという違和感を持ちます。あ、否定しているのではなく、ここまで訳してくださったことに本当に感謝しているのですが、言葉遊びだったり哲学だったり、何かが足りないな。。。と思えてしまうのはアプローチの違いなのだと思います。物語のように読むと「釈迦」と「阿難」とのキーパーソンが出てくるのですが、大抵の訳されている経典の邦訳や漢訳をみると、キーになる「質問」ないし「設問」に韻を踏むように「偈」の様にして返してお釈迦様は答えていることが多く見受けられます。(原文ないし訳者が思う)大事なところを印象づけるためなのでしょうね。少なくとも小学校の国語の成績は「アヒル」(=「2」)の人なので私の戯言でしかないでしょうが(笑)。今思えば、詰め込み勉強・・・嫌で嫌でしょうがなかったですわ。

ここに気がつくのはそれぞれの原文(「光明寺経蔵」様)と漢訳との対比と邦訳を眺めてみると長短や余計なつけたしがあったりと(おそらく当時の理解上必要だったとも思える)、合点がいくのではないかと思いますが、少なくともこれらの付け足し・・・方便が解釈の仕方で様々な歪みも後世生んでしまったのか・・・核心は同じだったはずなのに、様々な部派や宗派が生まれ・・・、核心から外れたものを尊んで・・・、『歪み』のようなもの・・・、まぁ、そもそも論で、本職でもない、学者でもない、途上にいるかすら解らない、私の言うこと、そういう「う○こ」な戯言なので気にとめてもしょうがないでしょ、ってことで。

さて本題。

対比には「光明寺経蔵」様訳「マニカナ」様訳は分類とつじつまなど、それぞれ、よくまとまっていて、詩句のように読んでいって、そういう読み方の中で、核心部分に違和感があったのでさらってみると、所謂、「教科書読み」の方法で結論をかいつまんでみると『小空性経』からは間接的に、三宝、つまり「佛法僧」の文字が浮かんでくるともいえる。

原文の「すなわち」(yadidaṃ)を追ってみると(ここでは、「光明寺経蔵」様訳に拠って、「マニカナ」様訳の段落分けに拠ってみます)

閑林想
176-13.比丘僧伽による単一性が。
176-18.閑林想による単一性が
176-20.閑林想による単一性が

地想
177-8.地想による単一性が
177-10.地想による単一性が

空無辺処想
178-4.空無辺処想による単一性が
178-6.空無辺処想による単一性が

識無辺処想
179-5.空無辺処想による単一性が
179-7.識無辺処想による単一性が

無所有処想
180-5.無所有処想による単一性が
180-7.識無辺処想による単一性が

非想非非想処想
181-5.無所有処想による単一性が
181-7.非想非非想処想による単一性が
182-5.まさにこの六処ある身による、生命を縁とする〔煩いが〕
182-7.非想非非想処想による単一性が

無想心三昧
183-11.まさにこの六処ある身による、生命を縁とする〔煩いが〕
183-13.まさにこの六処ある身による、生命を縁とする〔煩いが〕

そして、最上の空性に至るワケなんでしょうが最初に「比丘僧伽による単一性が」の説明は非常に浮いた始まりですよね。もう一つの訳に拠ってみても同じで「単一性が」が「独住が」に置き換わるだけです。そう感じるのは私だけなんでしょうか?。漢訳を参照してみるとはっきりしてきますが、「唯比丘衆」といっているだけなんですよね。三昧に入って住しているといいたいところなんでしょうね。

つまり、「僧伽」に始まり「法灯明自灯明」で「法」に触れ最上の「空性」を以て解脱に至る「佛」に向かう指向性を導いている「三宝」のお経なんだなぁ、と勝手に解釈していました。つまり、空性にも段階があると。段階があってだんだん育っていく菩提心のように。

苦しいなと思って方便に触れてみたけれども、苦しみは解決されずその方便が「法」ではないと気がついて、いったい何が本当のことなのかと、身体を観察して、心を探ってみるようになり、最初に戻って足りないものを補完して、更に心を探究してみると、結局「欲」にぶつかり「三毒」が原因であることに気がつき、わだかまりを溶(解)きつつ、また心を探究してみると、強い「我執」に突き当たり、複雑に絡み合った「自我」との向き合いから、全く以て自分だと信じていたものが「思いどおりにならない」無常無我だと気づき、心もまた「かりそめ」の仮名で「無常無我」を確信して・・・、まさに

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 従身語意之所生 一切我今皆懺悔

残念すぎるほど最初は全く解らないけれども過去も解らないけれども三業で作り出された悪業にまみれて生き、世間の慣習だ常識だ道徳だの無明にまみれて、それを繰り返し続ける「輪廻」のようなもの・・・ですね。自分のものでもない水やミネラルやタンパク質などでできあがったこの身体も、科学の目で見たら絶対に解けない「我」というプログラムで執着し続け、自他を切り分けて勝手に世間のものさしで割り当てて分別し・・・絶対に苦しみの原点を捨てきれない、まさに絶望してしまいますよね。私のように弱いものは、本当はちゃんと戻るべき場所として「佛法僧」が必要なのか・・・と思えた経典でした。

その当時、物語に戻って阿難が釈迦に質問した時の段階に自分が達しているかも怪しいなと思えていますし、唯、先に必要な気づきのポイントを指し示しているのはよく解るようになっていると思うんですよね。一応知られている史実ではお釈迦様が生きてらっしゃった時は阿難は悟りにいたっておらず、根本分裂が起こる遙か昔、第一回結集で経蔵がまとめられる時になんとか間に合ったという物語があります。あ、ちなみに巷に言う「空無辺処想」にすら、ちゃんと私は達していない(理解できていない)と思ってますので誤解のなきよう。。。