意馬心猿

心の中で煩悩が騒いで「無常」であり、コントロールの効かないということは「無我」なのですが、こういう「馬が奔走し猿が騒ぎたてるのを止めがたいように、煩悩・妄念などが起こって心が乱れ、抑えがたいこと。」を『意馬心猿』というのだそうです。「心猿」ともいうそうです。

つまり、「五蘊」も「無常」で「無我」で「苦」なわけです。「蘊」という内外の物質世界の「法」、「蘊」という心の「法」・「蘊」という、意識の中の「法」は「無常」で「無我」で、「苦」なんですよ。『五蘊が仮に集まってできたものであるということを五蘊仮和合』というのですが、この五蘊というのも『仮名』で概念であって「実体のないもの」ともいえるのだと思えます。少なくとも自分という「色」はあるといえるんですが、自分の身体だと思い込んでいるにすぎないとしたら、これも我という「実体」も壊れますよね。すると、外界の物質世界も同時に壊れます。自他の区別自体おかしな事になってしまうんですよね。

でも「私がいるじゃん」生きてるじゃん、なわけですが、死んだらどうなるか、これ面白い説があります。あくまでも仮説ですが、もし科学が好きなら「ボルツマン脳」を調べてみてくださいませ。脳が勝手に自分に必要な情報以外をブロックして選択していたら、肉体が滅びたらブロックする物自体が壊れますから、連続性が失われランダムに形成されている原子からの情報が一挙に流れこんできて、情報に埋没してしまうことは想像できます。まぁ、『意馬心猿』どころではないですね。ただその前に集合統合していた意識の方が先に崩壊してしまうかもしれませんが。ただ「転生」が前提であったら崩壊してくれないかもしれませんね。いずれにせよ、単なる言葉遊び空想のお話です。

科学的視点という極論を私はよく使います。私は頭よくはない(?)ので・・・お釈迦様や大先達の様な膨大な理解力を有していない・・・自分だけで手一杯なんだと思います。そして、納得のいかない・腑に落ちない点を府に落とすための安心材料や「ものさし」なだけで、そこは人によってその「ものさし」に何を使おうがよいのだと思います。逆に知らない人にとっては、難しい話になってしまっているんですが、私流の言葉遊びと思っておつきあいくださいませ。昔、学友で「心理学」専攻だった方がいまして、何を学んだか話してくれたことがあります。「ただ先生の手足となって様々な情報を集めて、レポート化していただけで学ぶところが無かった・・・」と、同時に「その代わり、エクセル(パソコンにのってる表計算ソフトウェア)と統計学は得意になったよ!依頼主の”都合のいい統計”が出せるぐらいに」・・・って(笑)。統計ってアレですね、GDPとか信用度調査とかよくニュースでも流れてますが・・・アレです、どっかの都合のいいデータ加工がされたアレですね。いやぁ、そうなんじゃないかと思ってましたが、やっぱり・・・と言いたいところですが・・・それは置いて於いて、エビデンスに基づいて、少なくとも同じ前提条件さえあれば連続性もあって同じ結果を出しやすいという意味ではこれもありだと思います、言葉で表現し続ける上では。つまりは喩えだったりしますが、同じ結果をもたらせるという意味では役に立つものですね。ただ、「ものさし」でしか無いんですよね。しかも不完全な科学という「ものさし」なのですが。

少なくとも「ライフハック」なんかもとても役に立ちます。最近読んでいて気になったのは『人が「変化」を恐れる理由とその対処法』ってやつです。前提条件として『「人が変化を嫌う」のは何故なんだろう?』で調べていてたどり着いた記事です。極論「『変化』を前向きに受け入れましょう」というところでしょうか。また、賢すぎても色々デメリットがあるんだそうで、愚者であればストレスも減りますしホントお馬鹿でよかったよとも思えるわけで。

お釈迦さんもおっしゃってます。

自分が愚か者でありながら賢者だと思う者、これこそ愚者なのである。自分が愚者であるということを知っている者は賢者なのである。(別訳:もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる)「ダンマパダ63」(中村元著 原始仏典67頁/中村元訳 ブッダの真理のことば 感興のことば19頁)

孫子の兵法でもこんなこと言ってますね。

知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戰必殆。(彼を知り己を知れば百戦殆ふからず。彼を知らずして己を知れば一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば戦ふ毎に必ず殆ふし。)

結局、「如実知自心」というところまでたどり着きます。

「ものさし」と同じで、私を知るには役には立たないかもしれませんが、そう、今の私はお馬鹿でエロで・・・(笑)、昔、小学生の頃、「自分はバカでありたい」、と本気で思っていた人で(だから覚えているんだと思いますが)、そのまんま大人になってしまったわけでお恥ずかしいんです。多分苦しかったんだと思うんです、それなりに何かに。今では原因がとんとわからないんですが、何か(「苦」)に怯えていたんでしょうね。今思えば「笑顔でいられるように」が願いだったんだと思います。コントロールできないからコントロールし続けるのに「みんなハッピー」になるのがこれだったのかと。というわけで、「う○こ」でした(笑)。

毘盧遮那考察(8)

台風17号が過ぎていく、頭痛持ちの私にとってはこの気圧の変化と急にモワッと蒸しっ返すような変化は結構きついので、仕事中なら迷わず「頭痛薬」だけど、休日なので今日は飲まないのです。

ミステリーって結局は「極論(極端)」なんだよなと思うし、科学的根拠も同じく「極論(極端)」なのでしょう。

お釈迦様は、苦行という「極論(極端)」を捨てて、坐って(おそらく心の中を)観ていって、徹底して考えて、「苦しみ」の根源を明かしていったのだと思っています。

先日(といっても結構前ですか)、『大ラーフラ教誡経』を紹介して頂いて、かなり感動したのは、密教には様々な観法があって解釈(流儀)があって弘法大師が何を考えてそのお手本(次第)を残していったのか考えることもあって、アーナパーナサティスッタに従って第一禅定への修習では、「全身を感受」(身行)においては、徹底して五大にこだわって観察してある一定の答えを導き出したその矢先の事だったので、とてもありがたかったんです。

実際、アーナパーナサティは毎回16行程を次第の通りに進めて行くというのが私の教わった(学んだ?)方法でもあるので、坐る度に必ず毎回「全身を感受」するわけです。ここは「不浄観でも要素観でも何でもいいよ」なママに、五大(四大)を割り当てて観察していくわけです。でも、結局呼吸を観察していくと「空界」がつまり「穴(孔)」があって、それがある(通過する)ことによって、身体内と外界の境がないことに気がつくんです(私には)。結局、縁起によってこの身体は成り立っていて四大なはずなのに、要素観なら第一禅定に入る頃には五大になってしまうわけです。(大師の言うとおりに)端っから、अ、व、र、ह、ख、それに尽くしてみようかと思って始めたことだったりしたんです。もちろん梵字という原点に返れば字義や字相も大事なのですが、尽きなければ「菩提点」は付かないので、अँ、वँ、रँ、हँ、खँ、ではないともいえます。尽きれば「空」ですので、梵字において空点を菩提点というのは最もな話でしょうね。もっと言えば、結局、坐る(観)上では、心(識)の中の事で、外は考えなくてもいい、唯識的な思考になっていきます。

その間(実習しているこの何ヶ月)、いろんな事を考えてました、当然、志那で成立した東洋医学に通じている私は「五行」の思想がこびりついてますから、五行という「象(すがた)」を佛教的思考に持ち込むのを躊躇したり、「ならば、アーユルベーダआयुर्वेद)、インド医学だよな」と、もう一回教科書を開こうかとまで思っていた矢先でした。佛教では「すがた」は「相」と言う文字を当てますから、実体(「相」)と働き(「象」→「行」)では違いますし、体験的知識(?)に捕らわれず、「あるがまま」にすがた(相)を観ていくと、『大ラーフラ教誡経』に説かれるがママの「解答」になっていたので、ほぼそのママ、正誤訂正も出来て感謝々々だったわけです。大綱の謎なままにしておいて、詳細はここでは書けませんし書きません(言説不可得ですから)が、『やっぱり「縁起」という法(ダルマ)が大きくここに関わっているのだな』と思えました。というか、訳した人達すごいですわ。北伝仏教は「志那化」仏教なんて言われていますけれど、そんなのは仏教的にはちゃんと見極めて捨てていけばいいだけで、訳した人達もちゃんと使い分けてくれているんですよね。って駄文が長くなってしまってきましたので〆。

さて「極端」の話ですが、増谷文雄先生訳を掲載しているサイトがあったので紹介させていただくと「阿含経を読む」から、「カッチャーヤナ(迦旃延)」というのがあります。ついでですので、中村元先生の別訳も載せますと

カッチャーヤナよ。この世間の人々の多くは、二つの立場に依拠している。それはすなわち有と無とである。もしも一が正しい智慧をもって、世界(世の人々)のあらわれ出ることを如実に観ずるならば、世間において無はありえない。また一が正しい智慧をもって世間の生滅を如実に観ずるならば、世間において有はありえない。
カッチャーヤナよ。あらゆるものが有るというならば、これは一つの極端の説である。あらゆるものが無いというならば、これも第二の極端の説である。
人格を完成した人は、この両極端の説に近づかないので、中道によって法を説くのである。(『サンユッタ・ニカーヤ』第二巻十七ページ)
中道を尊ぶ立場「原始仏典(中村元)64頁 ちくま学芸文庫」

その極端な思考を止めて正しく観なさいって事だと思います。八正道の「正見」ですね。坐った体験から色々考えることもありますし、その中でどれがいったい正しいのかってことですね。別のいい方をすれば「中道」ってことになります。個人的感想も踏まえると、お二人の先生の訳の違いも面白いところですが、原始経典を読んでいますと、どうしてもお釈迦様というお人が偉大な人なのですが「人間」としてのそのありありとしたおすがたを感じるのです。それと共に、「相」も感じますし、「象」も感じるわけで、お釈迦様の言葉であるのにもう一つの人格=「如来(人格を完成した人)」と言う立場から説いているというのも、よくあるパターンなので面白く、後の世で「釈迦」→「如来」→「毘盧遮那如来」→「大日如来」と大乗で変容していったのも何か解るような気もします。多分、奉り上げて行ってしまって、神のような存在になってしまったお釈迦様を人間に戻すのが大乗や密教の教えなのも面白いかなと思います。これも「中道」、「正見」というところなんでしょうか・・・世からいなくなってしまったお釈迦様を数百年で神格化していった時代があったものと思えますが、今「目の前」的に言えば、現世利益をお釈迦様に求めるのも筋違い(極端)ともいえますね。確かに「法(ダルマ)」は存在していて、それを見つけても見つけなくてもいずれ誰か(如来)が解いたであろうし、そのうちの一人が偶々お釈迦様だったというのも原点なのかもしれませんけれども・・・、と、またまた、話がそれたので一旦〆。

さて、この「中道」と言うキーワードを使って原点回帰しようとしたのが、ナーガルジュナ(龍猛菩薩(龍樹))と言う人で、これまた数奇なミステリアスな人であったようです。大乗仏教のほぼ全てはこの方を祖としています。上で紹介した「有」と「無」を軸に、以前にも書いた「三世実有」など、ひっくり返してしまった方でもあります。すでに成立していた大乗経典がベースとなって「空」について説いた方でもあるのですが、「空」が全くの「空論」でもなかったのかもしれないというのも、重箱の隅をつきつつ、やっぱり「縁起」をベースに読み解けるのも、言葉で知るんではなくて、体験的に経験的に坐って感じていくのも大事なことなんでしょうね、言説不可得ですし。実践主義というとやっぱり御大師様なのですが、原始仏教とかけ離れていて膨大な中から根本を探し当てていかなければならないのも、長い旅だなぁと思える今日この頃です。

下総国葛飾郡より

ここ(今住んでいるところ)に来て三年か、更に今の場所に引っ越してから丁度一年が過ぎました。そんな一年が過ぎたとたん、このひと月ほど、(冗談半分に)様々な怪奇現象・・・ミステリーをまとめてみます。

越してきた頃から気になっていたことなんですが、磁界が・・・そこは、持仏棚(仏壇)のある付近を中心に、富士の樹海に紛れ込んだかのようにコンパスが効かなくなるところがあるんです(がくぶる)。といってもコンパスがくるくる回りませんが(笑)、北をさす方向が違うんですね。・・・・仏様のせいで・・・ここは空間が曲がっているのかもしれません!。・・・いやいや・・・どっかに磁場でも狂わすモノがあるんでしょうね。「ハッハッハ、んなばなな」な方もおられるでしょうからタネを明かすと、コンパスもって、そうですね。。。冷蔵庫のそばにいってみてください!「あれ?」な事がおきます。最初は裏に配電盤があるのでフレミングの法則(右手の法則や左手の法則)を思い出して「んーこれかなぁ?」と思っていたんです。で、休日、コンパスもって歩き回ってみて、風呂場や洗濯機などが最も強い原因というところ。まぁ、面白いことに自然に本尊のそばは綺麗に北をさすコンパス、偶然の一致にしては面白すぎること、だって別の所からそのままの状態とはいえ越して持ってきたんですから、偶然の一致にしては希な事ですし。そして坐るとホントは真北じゃないけれど、磁界・・・コンパスの上では北になるので、「ま、いいか」なことです。なんか曼荼羅みたいですね。

そんな持仏棚の目の前にはベランダがあります。いつも帰ってくるとはいえ、この数週間、ベランダを開けることがなかったんです。先週のよく晴れた日、ふとベランダに出たんです。目の前にバッタが・・・死んでました。確かに雨樋もありますが、ここ3階なんですよ、まぁ、ここひと月ほど前、コオロギが部屋に入ってきたこともあるので・・・最初は黒い影、「G」かと思いましたが・・・殺虫剤なんてないので、捕まえて外に逃がしたりもしていたんですが、コオロギの恩返しでしょうか?!・・・タネを明かすと、先日の台風15号の爪痕だと思われます。羽に乱れもないので、どこかに叩き付けられたわけでもなく、そよそよ風の赴くままに巻き上げられてきたのかもしれませんが、力尽きたのがここだったのでしょうね。しばらく1週間ほど放置(ただ構っていられなかっただけ)していたんですが、コンクリートジャングルだから本来は虫すら立ち寄らない所でもありますけれど、なかなか腐敗が進まなかったので、若かったのに偶然の事故にでも遭われたのでしょうかね。

更には、”比較的”、夫婦円満な二人暮らしですが、つい先日大げんかとなりました。私は原則、引っ張る方ではないので、私が一旦家出するも、数時間後には奥方が「食べたい!」といっていた「焼き芋」をゲットして帰宅。気にはしつつも、のほほんとしてましたが、奥方は一回は完全ピークに達してしまったので甄権恐々としていたんでしょうね、「ぷんすか」しつつもお互い気を使いながらも翌日には普通におしゃべり。しばらくすると「まだ怒ってるんでしょ?」と言われ、「うううん」とそれとはなく。基本「自由人」な奥方も、会社にはこっそり転職活動していたり(なかなか進まず)、気候の変化やらで、結構気疲れしていたんじゃないかと。本人自覚はなかったようですが、そう伝えると何か思い当たるモノがあったのか・・・かくいう私自身がそう自覚していた事も話をしました。仕事柄、合う方々を総合してみると、やっぱり「夏」が終わり「秋」に入って「台風」が来て・・・そんな時は「認知症」の方は起伏が激しいし、ご高齢の方は体調も下降気味だったり、または「揺り戻しうつ」の様な方が増えていたので、まぁ、そんなところじゃないの?と、犬も食わない夫婦喧嘩に至っていたりしました。

そして、パソコンも一台壊れました(笑)。ファイルサーバ兼録画用パソコンだったんですが、越してきた時、一台余っていたハードディスクをテレビに外付け増設したので、奥方も簡単に録画できる環境が整って、私自身も坐って瞑想する内に、時間も無いし、録画して見るものも単なるコレクション化していたのも事実で志向もズレ始めていたのを気付いていたので、今は他が動いているならいいかって事で、そのまま諦めることにしました(苦笑)。時期も丁度台風が来てパソコンの空冷方法も考えつつUSBファンを設置したりなんてした後で、そのパソコンは放置していたんですよね。夫婦喧嘩のその前日だったかひどい落雷のある日もありまして、近くの地域では瞬間停電もあったそうで、過電流かな、火を噴かなくてよかったのかも。

色々、謎も、わだかまりも、「融(解)け」て、まぁよいかなと。

そうそう、最近ひとつだけ嘘になっちゃっていることもあったんで告白すると、「仏滅」はナイトスタンドブッディストお休みデーとしていたんですが、そういう時に限ってなんかしら、「やらねばのぅ」な事がおきて坐ることが多くなってきました。なので、「仏滅」に限らず休みは不定期とします!(単に気分)。「仏滅」で思い出しましたが「大安」って「泰安」って書いてたんだそうで、字からすると、個人が大安の恩恵なんではなくて、大抵「大安」の日はイレギュラーな珍事が多く、まぁ大抵は丸く収まって皆さん笑顔を見ていることから、社会や地域にとって「泰安」なんじゃないの?、つまりみんなハッピーデーって事なんじゃないの?と思う今日この頃です。ま、占いなのでどうでもいいことなのかもしれませんが、まぁ、欲をかいて動いても何になる日でもないんじゃないかということ、それより周りに好くなるように行動するための日なんじゃないかと。こういうのって験担ぎってのあるので。

台風15号、下手すると昨年の引っ越しの時期に、足の踏み場・・・コマ間違えると、上総国・安房国あたりに飛ばされていたかもしれないので、今頃とんでもない目に遭っていたかもしれません。今だ困っておられる方もおられるらしく早い復旧お祈りすることしかできませんが、正直、人ごとじゃないですね。当日、倒木やらあって道がふさがれていたりしたこともあったんです。よくいく施設の目の前には神社があるんですが、社の裏の大木の枝がポッキリ折れてしまったりと結構いろんな所に爪痕が残っていました。落ち着いた週末、そこの神社に紙幣一枚奉納してきましたよ、早い復旧を願ってお役立てくださいと。いつも願うこともないまま「無事過ごせました!ありがとうございます!」と思いつつ「祓え給い、清め給え、ながら守り給い、え給え」と手を合わせてくるところなのですが。。。痛々しいじゃないですか、地域守って鎮座されているのに、もしかしたら周りを守っての一本だったのかもしれませんし。「風吹けば桶屋が儲かる」なんていいますしね。そんな事を心の鏡に映して思いはせると、まぁ、気づかないうちにしょわされていたモノも少し見直してもいい時期なのかもしれませんね。ま、お暇はありませんがね(遠い目)。

元気ですよ!

いや~、元気ですよ!

多分、皆さんと同じで。。。仕事も頑張りまっすノ。

けれども今日も理趣経読んで、アーナパーナで坐って、その後は念持仏にご供養して、・・・「今日も一日ありがとう!」して・・・もとい、その頃には空っぽになって、「皆ともに仏道を定ぜんことを」で・・・寝ます(笑)

いやいや、反応してしまいました。おやすみなさ~い。

佛法僧

つらつらと書きつつ、一応、必要に応じて「旧字」を使うことがあるのは、敢えて省略されない「字の元の意味」に帰る気持ちを込めて「旧字」で書いていたりします。(あくまでも私の認識していて解る範囲で)一つの法則性を出来るだけ保つ様にはしていますが、なかなか全部は難しいものです。校正の作業って大切なんですよね、多分。

『空性』を読み解くのにいくつかの経典を指し示してみましたが、様々な邦訳のある『小空性経』については今一歩どれ(「光明寺経蔵」様訳「マニカナ」様訳)も納得(合点)のいく内容で訳されていないなぁという違和感を持ちます。あ、否定しているのではなく、ここまで訳してくださったことに本当に感謝しているのですが、言葉遊びだったり哲学だったり、何かが足りないな。。。と思えてしまうのはアプローチの違いなのだと思います。物語のように読むと「釈迦」と「阿難」とのキーパーソンが出てくるのですが、大抵の訳されている経典の邦訳や漢訳をみると、キーになる「質問」ないし「設問」に韻を踏むように「偈」の様にして返してお釈迦様は答えていることが多く見受けられます。(原文ないし訳者が思う)大事なところを印象づけるためなのでしょうね。少なくとも小学校の国語の成績は「アヒル」(=「2」)の人なので私の戯言でしかないでしょうが(笑)。今思えば、詰め込み勉強・・・嫌で嫌でしょうがなかったですわ。

ここに気がつくのはそれぞれの原文(「光明寺経蔵」様)と漢訳との対比と邦訳を眺めてみると長短や余計なつけたしがあったりと(おそらく当時の理解上必要だったとも思える)、合点がいくのではないかと思いますが、少なくともこれらの付け足し・・・方便が解釈の仕方で様々な歪みも後世生んでしまったのか・・・核心は同じだったはずなのに、様々な部派や宗派が生まれ・・・、核心から外れたものを尊んで・・・、『歪み』のようなもの・・・、まぁ、そもそも論で、本職でもない、学者でもない、途上にいるかすら解らない、私の言うこと、そういう「う○こ」な戯言なので気にとめてもしょうがないでしょ、ってことで。

さて本題。

対比には「光明寺経蔵」様訳「マニカナ」様訳は分類とつじつまなど、それぞれ、よくまとまっていて、詩句のように読んでいって、そういう読み方の中で、核心部分に違和感があったのでさらってみると、所謂、「教科書読み」の方法で結論をかいつまんでみると『小空性経』からは間接的に、三宝、つまり「佛法僧」の文字が浮かんでくるともいえる。

原文の「すなわち」(yadidaṃ)を追ってみると(ここでは、「光明寺経蔵」様訳に拠って、「マニカナ」様訳の段落分けに拠ってみます)

閑林想
176-13.比丘僧伽による単一性が。
176-18.閑林想による単一性が
176-20.閑林想による単一性が

地想
177-8.地想による単一性が
177-10.地想による単一性が

空無辺処想
178-4.空無辺処想による単一性が
178-6.空無辺処想による単一性が

識無辺処想
179-5.空無辺処想による単一性が
179-7.識無辺処想による単一性が

無所有処想
180-5.無所有処想による単一性が
180-7.識無辺処想による単一性が

非想非非想処想
181-5.無所有処想による単一性が
181-7.非想非非想処想による単一性が
182-5.まさにこの六処ある身による、生命を縁とする〔煩いが〕
182-7.非想非非想処想による単一性が

無想心三昧
183-11.まさにこの六処ある身による、生命を縁とする〔煩いが〕
183-13.まさにこの六処ある身による、生命を縁とする〔煩いが〕

そして、最上の空性に至るワケなんでしょうが最初に「比丘僧伽による単一性が」の説明は非常に浮いた始まりですよね。もう一つの訳に拠ってみても同じで「単一性が」が「独住が」に置き換わるだけです。そう感じるのは私だけなんでしょうか?。漢訳を参照してみるとはっきりしてきますが、「唯比丘衆」といっているだけなんですよね。三昧に入って住しているといいたいところなんでしょうね。

つまり、「僧伽」に始まり「法灯明自灯明」で「法」に触れ最上の「空性」を以て解脱に至る「佛」に向かう指向性を導いている「三宝」のお経なんだなぁ、と勝手に解釈していました。つまり、空性にも段階があると。段階があってだんだん育っていく菩提心のように。

苦しいなと思って方便に触れてみたけれども、苦しみは解決されずその方便が「法」ではないと気がついて、いったい何が本当のことなのかと、身体を観察して、心を探ってみるようになり、最初に戻って足りないものを補完して、更に心を探究してみると、結局「欲」にぶつかり「三毒」が原因であることに気がつき、わだかまりを溶(解)きつつ、また心を探究してみると、強い「我執」に突き当たり、複雑に絡み合った「自我」との向き合いから、全く以て自分だと信じていたものが「思いどおりにならない」無常無我だと気づき、心もまた「かりそめ」の仮名で「無常無我」を確信して・・・、まさに

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 従身語意之所生 一切我今皆懺悔

残念すぎるほど最初は全く解らないけれども過去も解らないけれども三業で作り出された悪業にまみれて生き、世間の慣習だ常識だ道徳だの無明にまみれて、それを繰り返し続ける「輪廻」のようなもの・・・ですね。自分のものでもない水やミネラルやタンパク質などでできあがったこの身体も、科学の目で見たら絶対に解けない「我」というプログラムで執着し続け、自他を切り分けて勝手に世間のものさしで割り当てて分別し・・・絶対に苦しみの原点を捨てきれない、まさに絶望してしまいますよね。私のように弱いものは、本当はちゃんと戻るべき場所として「佛法僧」が必要なのか・・・と思えた経典でした。

その当時、物語に戻って阿難が釈迦に質問した時の段階に自分が達しているかも怪しいなと思えていますし、唯、先に必要な気づきのポイントを指し示しているのはよく解るようになっていると思うんですよね。一応知られている史実ではお釈迦様が生きてらっしゃった時は阿難は悟りにいたっておらず、根本分裂が起こる遙か昔、第一回結集で経蔵がまとめられる時になんとか間に合ったという物語があります。あ、ちなみに巷に言う「空無辺処想」にすら、ちゃんと私は達していない(理解できていない)と思ってますので誤解のなきよう。。。

死の王

前回の続き、スッタニパータ「第五 彼岸に至る道の章 学生モーガラージャの質問」より、元々、バラモンのバーヴァリのお弟子のモーガラージャ(Mogharāja摩訶羅倪、面王)の質問ですが、『死王』(maccurājā)とはなんぞや?だったりします。別訳があるのでそちらも参考に

同じく『死王』についてスッタニパータと同じくこのように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。(Evaṁ lokaṁ avekkhantaṁ, maccurājā na passatī)」といつ一文でダンマパダで発見できますが、併記してみると。

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」(ブッダのことば―スッタニパータ  中村 元訳 (岩波文庫))

「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。(ブッダの真理のことば 感興のことば  中村 元訳 (岩波文庫))

本来「空(suñña)」「空性(suññatā)」の事でしたのでここから読み解けるのは勘のよい方なら言わずとも、読み解けてしまうと思います。後者の『泡沫のごとし』『陽炎のごとし』は大乗経典で「空性(suññatā)」のキーワードとして使われています。

こうやって併記して考えていくと『死王(maccurājā)』という表現は、どうしても克服できない「死への恐怖」ぐらいの意味(死苦)を比喩しての表現だったのかもしれませんし、本当に当時『死王(maccurājā)』を信じられていたのかもしれませんし、定かではないです。しかし面白いですね!こんなこともあって、前回、スッタニパータとダンマパダがごちゃごちゃになってしまった私でした、お恥ずかしい(苦笑)。先生にご指摘頂いて速攻で直したのですが、「残しておいた方がいいよ」というのもあって訂正線で処理させて頂いてます。

さて、「空性」のキーワードは、「諸法無我」と結びつき、更に発展していって十縁生句となり、所謂「大日経(大毘盧遮那成佛神變加持經)」で

深修觀察十縁生句。
當於眞言行通達作證。
云何爲十。謂如幻。陽焔。夢。影。乾闥婆城。響。水月。浮泡。虚空華。旋火輪。

となっていったのでしょうね(つまりは、縁起)。

「自我に固執する見解をうち破る」といえば「無我相経」(雑阿含経 求那跋陀羅訳)や「五蘊皆空経」というのがあるのですが、経題からして、般若心経とリンクします。初っぱなで「五蘊皆空」と出てきているのは、『空(शून्य 梵:śūnya/巴:suñña)』で「法空」、般若心経の残りの「空」は『空性(शून्यता 梵: śūnyatā/巴: suññatā)』なのも意味があるのでしょうね。

「いや~、うん○!」な駄文で補足となりました。

毘盧遮那考察(7)

あれから半年が過ぎてしまいました.。o○

そろそろ眠りから覚めねばということで続いて熟々と綴っていこうかと思います。

書物など「空」を探求すると、膨大になりすぎてよく解らなくなってしまうもので、特に大乗の思考に捕らわれるとギブアップな感じもしてくるワケで、今回は根本仏典から少し整理してみようと思います。

根本仏教で「空」について触れるものとして代表的な仏典に、スッタニパータ法句経(ダンマパダ)と中阿含経の空小経(チューラスンニャタ・スッタ、=小空経=小空性経)とがよく引用されています。

スッタニパータダンマパダ(法句経)では、「第五 彼岸に至る道の章」の「学生モーガラージャの質問」:

モーガラージャさんがたずねた、「わたくしはかつてシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼(まなこ)ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』とわたくしは聞いております。<1116>
この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天(ぼんてん)の世界の者どもも、誉(ほま)れあるあなたゴーダマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。<1117>
このように絶妙な見者(みて)におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」<1118>
(ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」<1119>

(ブッダのことば―スッタニパータ  中村 元訳 (岩波文庫))

チューラスンニャタ・スッタ(空小経)からは比較的長いのでピンポイントで以下は一部分をを抽出します:

たしかに、このことは、アーナンダよ、善く聞かれ、善く受け取られ、善く注意せられ、善く知られた。かつて、わたしは、アーナンダよ、そして、今も、空性の住処に、多く住している。
あたかも、この鹿母堂が、空(=中にいない)であるのは、象や牛や馬や騾馬についてであり、空であるのは、金や銀についてであり、空であるのは、女と男の集まりについてであるが、この比丘の教団による独住だけは、空ではないように、

そのように、実に、アーナンダよ、比丘は、村についての想いに集中することはなく、人についての想いに集中することなく、森についての想いによって独住に専念する。
かれの、森についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう

心にしみる原始仏典>小空経(『マッジマ・ニカーヤ』第121経)

同じく、チューラスンニャタ・スッタ(空小経)を訳したもので、

アーナンダよ、私は以前もいまも、空性の住法によって、しばしば住しています。
例えばアーナンダよ、このミガーラマータル高楼は、象、牛、馬、驢馬について空であり、金銀について空であり、男女の集合について空であり、しかしこれのみは空性ならざるものとして存在しています。すなわち、
比丘僧伽による単一性が。
まさにそのように、アーナンダよ、比丘は、邑想を作意せず、人想を作意せず、閑林想による単一性を作意します。
彼の心は閑林想に跳入し、浄信し、確立し、志向します。

光明寺経蔵>『中部』「後分五十篇」>「空性品」>「小空性経」)

5月の合宿で散々、坊さん(静恵先生)を付き合わせて(今更ながら、ありがとうございました!)この部分お話ししていて思ったのですが、瞑想体験も通じて「やっぱり『空』は『無』ということだよね」ということで一致していたんです(更に深い秘密については言及避けますが)。チューラスンニャタ・スッタ(空小経)も読むと解りますが、「無」といっているのは「○想(邑想、閑林想、人想など)」で、実際に「そこ」に実体の無いものを「無」と言っているので、ダンマパダスッタニパータとチューラスンニャタ・スッタの二つから読み解けるのは、『空』は「空っぽ(英:emptiness, voidness, openness, thusness等)」とか「欠如」とか「無」で、『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』と『空(梵:śūnya/巴:suñña)』を使い分けているのがわかります。

漢訳の経典を見ると全てではないですがこの二つをあまり使い分けず、『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』も『空』と訳していたりするので、混同しやすいところなのかもしれないです。

『邑』にせよ『閑林』にせよ『人』にせよ、言葉ありきで考えれば、実際は認識の上で形而上的要素の集まりの抽象概念でしかない、『仮名』です。つまり、諸法(『邑』にせよ『閑林』にせよ『人』にせよ)の実相(言葉ありきで考えれば、認識の上で要素の集まりの抽象概念)だったりします。無いものは無いんです(無我/非我)が、「私(我)」という要素の集まりの抽象概念が、認識の上(心の中で)で存在してしまいます。

散々書いたので「もういいや」というところですが、法の有為と無為や法有我と言うことを考えると、有為法も無為法も、本来認識の上の形而上的概念でしかなく、実体は「無」んです(実相)。名付けられた概念(仮名)を仮に「袋」や「器」に譬えたら、諸法のその中身は「無(空っぽ)」とでも言えばわかりやすいでしょうか。そうやって考えると、「空性」を、中観派の祖である龍樹が「中論」で、一切有部が主張し始めていた「有為法・法有我」に対してのアンチテーゼとしたのも頷ける部分です。更に「法」なるものも「形而上」的なものであって「実体(実相)」もない≪不生不滅≫。

スッタニパータダンマパダとチューラスンニャタ・スッタで敢えて「ある」とか「ない」とか「存在している」とか言ってはいるけれども、それを解っているであろう人(常見も断見も絶てた人)に対しての表現であったと思われ、本来は「ある」とか「ない」とか「存在している」とか、「ことば」で言い表すべき部分ではなく、事象はそれぞれによって(相互依存性=相依性縁起)自立的・独立的には成立しない(無自性)ともいえますね≪不一不異≫。常見も断見の真っ只中の言葉ありきの私のごときには、戒めておく方がよいのだと思っています≪不断不常≫。過去現在未来という一切有部が主張する「三世実有」も同様に時間軸に対しても「縁起」で説明する≪不去不来≫。

結局は、「時間軸」や「全体と個」とか縛られている私たちがもう一度考え直さなければいけない、「諸法無我」「諸行無常」という「概念」を『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』と言う言葉に置き換えて、中道という原点(釈迦の教え)復帰を説明してくれたのが、上で言う、龍樹その人だったのだろうと思います。

さて、敢えて≪≫で括った、『不生不滅』『不断不常』『不一不異』『不去不来』は、龍樹(龍猛)菩薩の著した「中論」で「八不」といわれています。上の説明では足りない部分で、私の語彙では書ききれないという残念な話ですみません。ただ、『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』という単語はお釈迦様や阿羅漢達の境界であろうこと、弘法大師が伝えてきた浄三業の真言「ओं स्वभाव शुद्धाः सर्व धर्माः स्वभाव शुद्धो ऽहं॰(一切諸法は自性清浄なるが故に我もまた自性清浄なり)」にたとえられる様に『「わたし・わたしのもの」といったようなとらわれから解放された状態』ということを、「目指すこと」を示しているのであるのだと思います。とある書物の用語集から引用すれば

『「私」や「私のもの」といったような自我意識や魂といった概念から自由であること、煩悩からも自由であること、空である状態のこと』(「呼吸によるマインドフルネス」ブッダダーサ比丘著

という表現がぴったりだなと思うのでした。

また単に『空』と漢訳経典に一致させて表現していますが、二つの経典からは敢えて混同を避けて『空(梵:śūnya/巴:suñña)』と『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』は別物としてとらえた方がよいのでしょう。

でも人(少なくとも私自身)というのは「無」に物質的な何かを与えたがる生き物で、ダークマターの存在を追いかけるがごとく、実体にしがみついてしまいながら科学を追いかけてしまうのでした。GIGAZINE「触れるだけで惑星が崩壊するといわれる「宇宙で最も危険な物質」とは?」という記事に紹介されている動画を見ながら、「有」という存在に惹かれる自分にハタと気がつきました。まさに「顚倒夢想」ですね。

これも一つの我執なのでしょうね。ほど遠い。。。

「東寺-空海と仏像曼荼羅」展行ってきました

「東寺-空海と仏像曼荼羅」展行ってきました。

いやいや、奥方が珍しく誘ってくれたので、断るはずもなくGo!ノ

流石に1200年も経ってると・・・展示品も劣化が止められるわけでもなく結構すり切れてしまったり、保存するのは大変だなぁと、そして何よりその展示物一つ一つ大きさが結構あったり。

結構な混み具合で一つの展示物も人だかり、熱気(熱意?)もすごくて結構当てられてしまいましたわ。どこを観ようとか特に決めずに行ったのもあって貴重な展示物、大抵は生で見て記憶に残すだけで楽しむのが私の流儀なんですが、もしかしたら、色々思うところもあって、またそれどころじゃないかもなぁと予測はしていたので「公式図録」も買って来ちゃいました。

毘盧遮那考察(6)

新年明けましておめでとうございます。
今年も、弁天さんで「凶」をいただいてきました(`д´)ゞ相性がすごいですね!

さて、「架空」と書きましたが、その「空」の思想の元となったのは般若経で、さらには龍猛菩薩の「中論」までたどれると思います。

先にも書いたとおり、「有」「無」といった二元論にどっぷりつかる中、私には「一切皆苦」が受け入れられず、一旦、仏教の思想を捨てた者です。そこには「空」や「中道」の理解が足らなかったのは言わずもがなです。それでも、龍猛菩薩は三法印に付け加えて四法印にはしなかったんですね。戻ってきた甲斐あったってもんです。

今の日本の社会は二元論で、それが実相でマイノリティ=異端は徹底してつぶされますから。ある意味それは貨幣経済+資本主義+科学の投影する副産物のようにも思えます。かといって共産主義や社会主義に傾倒する気もないです。その系統で「頭いいなぁ」と思ったのは唯一「不破哲三」ぐらいで今でも持ち上げているところからすると超える人いないんでしょうかね?今の責任のなすり合いを常套手段にしている政治の中はどうでもいい話ですが。ただこの貨幣経済は仏教には相当に毒でもあったように思えます。都内に住んでいるとこの「貨幣」がないとどうにもならないところがありましたが、ちょっとズレて隣県の外れに住むと、物々交換的なところの一端に触れられます。在りし日の下町の風景(聞いた程度で実体験していませんが)も近かったのかもしれませんが。

初期仏教教団は第二回結集の後、アショカ王の時代に根本分裂を起こして大衆部と上座部に分かれたとされます。アショカ王マウリア朝時代とされている(南伝ではさらに前のシシュナーガ朝時代とされているが、どっちであったとしてもすでにそういう流れであったのかもしれない)。インフラ整備を行い流通が盛んになり貨幣経済になっていったのがマウリア朝時代、アショカ王の功績ともいえる。根本分裂の原因が十の例外(上座部では十事非法とした)を認めなかったとしても時代の変革に対応できなかった教団側の問題なのかもしれず、私には腑に落ちない話でもあります。厳しい戒律を設けようとした時お釈迦様はどうされたのか頑なな弟子に何と説いたのか?。というのは、現代でも頂き物をするとき欲しくなかった物や意図しない物であった場合、断れるか否かだと思いますし、在りし日を懐かしんでいても理想は理想として時代の変化に柔軟に対処できるのも必要だったのでは?時の上座部のあり方に疑問もあったりもします。私が今のテーラワーダに排他性を感じるのもここら辺りからでもあるのかもしれませんが、学ぶモノは混じりっけのない確かなモノでもあるので、成ってしまったモノはしょうがないということで閉めるしかないところでもあります。

ただ、この分裂により枝末分裂となり部派仏教の時代になっていくと、20の部派に分かれたとされています。大衆部に分類される部派の中には今の龍猛菩薩の中論の前身になったような考え方の部派(説仮部(Prajñaptivāda))も存在していたことがわかります。その名前に注目すると「Prajña(प्रज्ञ(般若=智慧))+pti(प्ति(夫))」は「仮の指定・設定」(「概念」)の意味であり、「vāda(वाद(主義))」という意味で、説仮部という訳は妙ですね。「Prajña(प्रज्ञ(般若=智慧))+pti(प्ति(夫))」の「Prajñapti(प्रज्ञप्ति 「仮の指定・設定」)」は「施設」とか、仮設・仮説(けせつ)、説仮(せつけ)、仮名(けみょう)という単語(漢訳)に置き換えられます。弘法大師が「三教指帰」の中で仏教者を「仮名乞児」としたのはこれらの事実も知っていてだったとしたら頷けますね。

敢えてお大師に倣って仮名(けみょう)とは「空」の概念です。大乗起信論の帰敬偈の法宝を意味するところ 「彼の身の体相の法性真如海、無量の功徳蔵」とありますが、「法性真如海」は「仏様の本体」を意味し、「真如」は「空性」です(「『大乗起信論』を読む」竹村 牧男著)。大日如来は法身です。毘盧遮那考察(4)で書いたとおり、「法身」の「実相」です。真如海は言い換えれば「空海」ですね。弘法大師に曰く、「五大皆響き有り 十界に言語を具す 六塵悉く文字なり 法身は是れ実相なり」です。龍猛菩薩は「中論」において、帰謬法で「法有」を否定していってたどり着くのが「衆因縁生の法、我即ち是れ無なりと説く。亦た是れ仮名(けみょう)と為す。亦た是れ中道の義なり」(鳩摩羅什訳)で「縁起」=「空」=「仮名(けみょう)」=「中道」が等号で繋がれた公式を生み出せると思えます。切り離さず思惟すると、中村元先生の説が、弘法大師の伝えたかったことに一致してくると思うのは私だけでしょうか。

それぞれ細かく触れていきたいところですが、ここまでにさせてくださいませ。ちなみに、正月の休みにシコシコ画いたものまで使うには至らなかった~。ごめんなさい。

いや~、うん○!

になってしまったのでした~。

まぁ、凶のおみくじも、またこれ空なのですよ。

Buddienceで面白かった件

いや~、うん○!

↑ちょっと気に入ったらしい。

先週のことか、ちょっと記事読んで試してみたら、岐阜大仏だった件。

個人的には携帯(iPhone)で撮ったら斜め下から見上げるような画像になって「う~ん(-~-)」とか思ってたんだけれど、意外とマッチングが気に入ったのでした。

ほかのも見てみたいので是非こっそり教えてくださいまし>奈良大学Buddience

関係ないですが、「reCAPTCHA」更新してreCAPTCHA v3に変えてみました。使い心地は変わらないと思うけどコンタクトフォームとか試してみてね~ノ