毘盧遮那考察(5)

いや~、うん○

え?どっかに染まっている?いやいや、気のせいです。当たらずとも遠からずなので。さて「どっか」といえば・・・坊さんブログの「クズでもオッチャンは)」を読んでいて『心痛むな』と思う今日この頃です。

身体を観察すると思うに内部恒常性(ホメオスタシス)といって、外部の環境に内部環境を一定に保とうとします。そういう外部の刺激に内部(身体)を一定の状態を保とうとする無意識の選択からすると、「変わりたくない自我」いても必然、開き直って「グズ(愚図)」なんですよね、自戒を込めて書くと。

さて、「うん○」ですが、お釈迦様は「またその九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、(一九七)鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。(一九八)」(『ブッダのことば』(中村元訳)第一「蛇の章」一一「勝利」)といい、他には「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執、嫌悪、貪欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。(八三五)」(『ブッダのことば』(中村元訳)第四「八つの詩句の章」 九「マーガンディヤ」 )と語られている。後世、この身体を「糞袋」や「九穴の糞袋」なんて表現しているのも真理なんです。昔私の時代なんかでは「アイドルだってうん○する」なんて言ったものです。私たちの身体は、現代的には「うん○製造マシン」ってところでしょうか。

大まじめに「うん○」を分析してみると、古くなった赤血球などを脾臓で分解した時に「ビリルビン」が代謝物になり、肝臓に送られ更に胆汁となって、更に腸の中で「ウロビリノーゲン」になり黄色から茶褐色のあの色になります。アミノ酸が分解されてインドール(C8H7N)スカトール(C9H9N)などがあの匂いですが、実はその匂い微量ですとジャスミンやオレンジなど花の香りに含まれています。内容物はと言えばたった5%の食物の残渣と、10~15%の腸内細菌の死骸、15~20%の腸壁細胞の死骸と、60%の水で出来ているそうです。とっても効率のいいことです。話はぶっ飛びますが、日本人の腸は欧米人に比べて少し長いんだそうです。欧米人にとって吉牛などの牛丼が「おやつ」というのも納得でその分日本人は吸収効率が更にいいんですね。昔の日本人が少しのおかずと沢山のお米で生活していたなんて話もありますから、その過程で腸が長くなったんでしょうかね?!どっから出た話かもわからないので置いておきますが。食物の残渣は消化の過程で溶けなかった植物由来の細胞壁などだと言われています。サラダでダイエットなんていいますけれども先にサラダを食べて、絡めて出そうなんて言うのも「うん○」の原理を考えるとなるほどな話ですね。でも、95%は身体になっていき、新たな不浄物を産んで、掃除も頑張るわけです。必要以上なら肥えるし、そこはサラダを増やして量を調節しつつ・・・結局そこは小欲知足も必要なんでしょうね。

話は戻って、「うん○」の「うん」は「हूं(吽)」だとすると、梵語として日本に弘法大師が請来したわけです。「ん」の字を五十音にせよ、いろは歌にせよ、最後に加えたのも御大師様だったと聞いたことがあります。その時代をうかがい知ることは結構困難ですが、少なくとも貴族達の生活は文学の中でうかがい知ることが出来るかと思われます。ちなみに「ちん○」は・・・諸説あるなかで、昔、天皇猊下が御自分のこと「朕(ちん)」と称されていて・・・「朕子」・・・長くなるので止めましょう・・・、ある意味それと同じように、「うん」+「こ(○)」を付けていたのは、あながち疑わしくもなく勝手に納得している私でした。

どんなに美食の限りを尽くそうともどんなに綺麗に美しく盛り付けた食事も、結局最後は「うん○」になるので、「हूं(吽)」は「終わり」を意味しているようにもとれます。弘法大師の著された「吽字義」を読んでも、「う~ん」と考えるだけでなかなか筆が進まない私はその「終わり」の意味や「死」・「滅」への言語的表現に、ほとほと困り果ててしまったことも、結構長く更新できなかった理由でもあります(単純に忙しくなってしまったのも最大の理由ですが)。「吽字義」に書かれていることはどちらかというと「密教」の教えの解釈論の中の入り口のように思えます。つまり、実践の過程で説かれた原始教典をはじめとする経典群のようなもので、弘法大師が請来した「密教」の内実を「梵字」を借りて説いている様にも読めてしまいます。そこにブログで書けるような答えはないんですよね。そんな簡単に解ったら1200年もの間、口述や伝統を借りて一見すると仏教という宗教という形を借りて、もっと言えば、お釈迦様が入滅されてから2500年進化を辿りながら続くわけないんですね。お釈迦様達はおいておいても、私たち的には、はじめは『裕福になりたく』てなのかもしれないですし、『幸せになりたい』かもしれないですが、そんな入り口も、その根源には「苦しみ」からの「解放」であって、それに対するものの見方の訓練として「死随観」などから始まり、生活を通じて「実践」を行い「取捨」し選択し「四無量心」やら慈愛と共存を学び・・・、ライフワークですね。でも共通しているのは「菩提心」で「苦しみ」からの「解放」は自分の成長次第でもあり。悪い譬えで「一攫千金」の譬えで「宝くじは買わねば当たらない」わけですが、当たる率だけで考えていくと、買う宝くじにどれだけ大枚をツッコまねばならないか、儲かるわけないわけです(笑)。けれど真理で「買わねば」(実践)「当たらない」んですよね。そもそも「お金」が「幸せ」なのか?とも色々考えていく必要がありますね。思い描く「幸せ」の中にもっと沢山の「お金」が必要とも解せられますね。けれど手にしても止まないのは何故でしょうね。

道を学ぶには実践も必要で、取捨して道理も知って智恵にして・・・その根源・・・菩提心・・・「苦しみ」からの「解放」を望む心=大願として悟りたいという切実な想いとそれに向かう力の根源・・・とでも言えばいいのでしょうか、これだけが残ってくるんですよね。でも、人間ですからあれもこれも捨てきれない想いも背負いつつ。つまりは「いや~、うん○!」だったわけです。

ちなみにお釈迦様の出家前の名前はゴーダマ・シッダールタ(गौतम शिद्धार्थ)ですが、漢写で「瞿曇悉達多」なのですが、『目的を達成した方』、『義を成就した方』という意味なのだそうです。密教経典でのアナグラムでしょうか、「一切義成就菩薩」として出てくるのは他ならぬ、成道以前の「シッダールタ」を指して菩薩としているようでしょう。一般的にはこの「一切義成就菩薩」は普賢菩薩=金剛薩埵と解されていますが、初会の金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)で金剛界法のキモとして五相成身観を修する主人公はこの「一切義成就菩薩」ですし、理趣経にも「一切義成就金剛手菩薩摩訶薩」として登場しています。その普賢菩薩=金剛薩埵の種子こそが「हूं(吽)」です。

お釈迦様は出家修行を通じて釈迦如来になられたように、私たちが金剛薩埵になって、実践を通じて大日如来(摩訶+毘盧遮那+如来)という架空の人格を設定して(なぜなら、私は「ゴーダマ・シッダールタ」ではないので「釈迦如来」にはなれませんし)、華厳経の中の登場人物のように菩薩道三昧実践しましょうとも。「吽字義」に説かれるように「हूं(吽)」字に一切がに含まれる結局「अ(阿)」に還るのも、何度も弘法大師が「大日経」を引用して、「菩提心を因と為し、大悲を根と為し、方便を究竟と為す」と説くのも、答えを言ってるんですよね。ただそこに、愚図っている私がいる。そんな「うん○」なお下劣話題ですみません。

「ツラかったこと」

坊さんのブログ(静恵先生)で「ツラかったこと」を読んでいて「残されたものへのフォローがツラかった。」に心打たれていました。

今でもしょっちゅう「死」について考えることが多いですが、どちらかというと私自身に対しての「死」に関しては、楽天的に「いつ終えてもいいように今を一所懸命生きよう」とぶれないようにポリシに従うことにしています。ツラい現状は「明けない夜はない」し「止まない雨はない」からです。そして今「出来ること」をする。

インターネットが流行りだした頃、今のようにSNSだとかない時代、こぞってホームページを作り、個人ページの掲示板やチャットを設置して交流する形が主流で(まだアングラ(アンダーグラウンド)サイトがちょこちょこあった時代ですから20世紀最後のあたりでしょうか)、とある個人ページの掲示板で知り合ったウェブマスターさんと仲良くさせて頂いていました。何かの話題から自死(自殺)について聞かれて答えたことがあります。

私は「もし、「死にたい」と考えることがあるなら、私は自分の親兄弟や友人に置き換えて相手の立場・気持ちになって、私の死を知ってどう感じるか考えてみるんです。悲しむ友人や親兄弟、それを考えるととても死ぬ気にはなれないです」と(だいたいこんな感じだったかと)。

そして死に別れた「親」や「友人」とは二度と語り合うことも、まして喧嘩することも叶いません。相手の立場になったつもりで泣き叫び苦しんで居る姿を想像してください。自分のために周りの人たちに苦痛を味あわせるなんて・・・多分、苦しみのどん底で何も見えなくなっているのだと思いますが、目を見開いて感じてみてほしいです。

私が父と最後に交わした会話は些細なことでの「大喧嘩」でした。病に侵されていた父は、その翌日、フラフラでして母と大喧嘩しながらタクシーで病院へ連れて行かれました。怒りが冷め切らない私は心の中で「二度と帰ってくるな、二度と顔も見たくない」と思ってました。そしてその日の夕方、本当に帰らぬ人となりました。あとで悔やんでも二度と交わせる言葉はありません。お互いがお互い尊重しあえていたら、些細なことでの喧嘩なんかなかったはずです。全ては「時遅し」ですね。

後に私は怒り憎しみの闇に覆われていて捕らわれていたことで、非常に尊敬していたことを見失ってしまっていたんです。ただそれまでは普段顔を付き合わせているとそんな事は微塵も感じないもんです。

でも、今考えてみて欲しいです。この一瞬が一期一会ならどうなのだろうと、この一瞬が偶然なのだったらどうなのだろうかと、実は「この一瞬」は奇跡のでもあるんですね、よかれ悪しかれ。よかれ悪しかれ、我の「業」なのだと思いますし、そこには我の「因」があったはずなんです。縁起にたって考えれば、悪しき因や悪しき業なら二度と繰り返さないようにすればいいだけで、簡単なようで非常に難しい。だってそもそも「我」は「存続しようとする」んですから。私は「我」として居る限り、やがてその「我」は一人歩きするんです。そして周りの環境や恵まれた境遇はたまた苦しみのどん底も「我」の中で「渇愛・妄執」「執着」してしまうんです。本当は現状こそが奇跡なのかもしれないのにです。当然「執着」に当たり前になると感謝の念もなくなります。「渇愛・妄執」「執着」は言い換えれば十二支縁起の「」(=渇愛・妄執)「」(=執着)に置き換えられます(十二因縁ってやや複雑で難しいので言及はココではしませんが、静恵先生曰く「渇愛」は再生ほどの意味と言います)。たった一言「ありがとう」と言えれば、たった一言「ごめんなさい」が言えれば、唯一人相手を尊重することが出来れば、たった一瞬でも相手を思いやれればと。

数十兆個の私を組織構成をしている細胞は少なくともそれぞれの使命(プログラムされたとおりに)を熟して今の一瞬を存続しているだけなんでしょうね。少なくとも「生き」「死に」なんて考えてないと思います。そして細胞レベルで既に「自己」(HLA/MHC)を識別までしているんです。根本レベルで識別能力を持ってる私たちは、自己を識別して自他を分別することはもう逃げられない宿命なんでしょうかね。

なのに仏教では「諸法無我」といい「諸行無常」という。

真我(アートマン)」だの「霊」や「魂」があるともないともいわない、だって議論そのもの不毛のことですから。その人の中に答えがあってそれぞれが真実で他者からすれば真実ではないのかもしれないんですよね、本人じゃないから解らないんですよね。仮に個体として生まれて自分の肉体としての実体があり生きていて「我」と認識していて、他者と共有できる心はホンの一部、言葉だったり表情や行動だったり。他者と共有できるのはたった一部です。

私にはどうしても「一切皆苦」が理解できなかった時代がありました。「一切行苦」の表現があることで氷解したんですよね。事象の喜怒哀楽は不安定に変化し続けていくわけですね。

上で言う「苦」は漢訳をした際「दुःख」を「苦」としたわけで、漢訳経典をまっすぐに受け止めて、且つ現代的に「苦」の意味で「一切皆苦」を理解しようとすると理解不能に陥ってしまうかもしれないですね。

つまり上で言う「渇愛・妄執」「執着」は自我においての当たり前は我が儘な勘違いなんですよね。全部は「無明」から来ることです。

追記:実は下書きを11月末日に書いていたのですが、一部負の意味での「当たり前」と言う言葉で表現していて、「坊さんのブログ」で同様に「当たり前」の言葉が散見されたので敢えて封印しようかと思っていたんです。その矢先12月1日どうしても都内(渋谷)に出る用事があって、暫く1年以上お参りできなかった八幡大師大日寺にお邪魔したところこの(大日寺さんに参拝のお許しを連絡しました、ありがとうございます)書きかけの投稿記事にさらなるヒント(「こころの修行塾・じっくりコース」にて途中参加させて頂きました)を頂けたわけです。「お大師」のお導きと思い、『当たり前』を『「渇愛・妄執」「執着」』と置き換えて公開する事にしました(わかりにくくなっていてすみません)。実は今月の行事のご案内が切り替わっておらず、その日に行事があったことを知らないで訪れたんですが、派は違えどやはり「南無大師遍照金剛」ですね。

今、一瞬を大事に!

慧孝さん誕生日おめでとー!

はてさて、私も今ココ、生存証明になっちゃいますが、静恵先生よりメッセージをいただきまして(笑)

弘法大師に曰く、「三界狂人不知狂 四生盲者不識盲 生生生生暗生始 死死死死冥死終」(秘蔵宝鑰)。

過去や未来はわからないけれども、今の一瞬は生まれては滅ぶを繰り返している『輪廻』のようなもの。この一瞬も未来に繋がっていくけれども、過去もまた今の一瞬の鍵でもあると考えたりする。少なくとも戻ることは出来ないし、過去の業は因となって、ランダムに「今、一瞬」に顕れるかもしれない。かといってビクビクしていても仕方ないし、「今、一瞬」を受け止めて観察して気づけ、と私を勇気づけて後押ししてくれているように感じます。御大師様もまたこの「一瞬」が「苦」を知っていたからこその名句が生まれたんでしょうね。私も自戒して往かねばなりませんね。

以我功徳力 如来加持力 及以法界力

有名な三力偈「以我功徳力 如来加持力 及以法界力(我が功徳力と如来の加持力を以ち及び法界力を以て)」、五蘊は仮和合で「空」なのですが、結局は因や縁によって生じています。様々な因や縁の扶助を以って、衆生の平等に具有する法性の界の相互扶助によって物事が成り立っています。・・・「縁起」・・・「お陰様」の関係なワケですね。

この間(・・・と言ってももう数ヶ月前ですが)職場で、「一時停止で捕まったんだよね!」なんて話で盛り上がったんですが、そもそも私が四面楚歌な状態で事故っちゃいまして(物損ですみましたけど)笑えない状況だったんです。まぁ、そんな中、安じてくださったのでしょうか、そんな話題となったんです。交通ルール=道路交通法+慣習等なので「法」は「法」でも「法律」な話に飛んでしまいますが、車で走っていて思っていたんですが、「一時停止線」で止まって眺めていると、面白いことに気が付きます。比較的大型の車両(中型のトラックなど)が曲がってきた時、かすめもせず曲がっていけるんですね。大型のトラックが曲がれないところは「大型を除く」なんて書いてある道もあると思います。まぁ、考えて「一時停止線」引いてるんでしょうがそれを守る限り、まぁ、周りもある程度の安全は保証されるとでも考えればいいでしょうか。もっといえば、オーバーランするくらいなら「黄色でアクセル踏む」(ダメ(笑))のもやむを得ない場合だってあるかもしれませんが、そもそも予測していたら、それも防止できるかもしれませんし、体調や四面楚歌な環境や予測不能な状況や・・・キリがないです。

いずれにしても、雁字搦めに拘束される為の「法律」なのか、法律を利用して安全をとるのか、考え方視点で変わってくるとも言えます。

唯識には三性説という考え方・視点があります。「一時停止線」で止まる自分を「遍計所執性」としたならば「一時停止線」を無視するのも「遍計所執性」といえます。他車(者)の安全確保できているか否かは「依他起性」、その他の空間全体から見て往来が何事もなく流れているのも事故などで渋滞するのも「円成実性」なんて見方も出来るかもしれません。交通と規範に関しては日本は周りにあわせてギリギリラインを判断する(例えばスピードなど)し、ドイツなんかは規範を重視して個々が徹底するんだそうで、スピード違反は逆にあり得ないそうで、国によって慣習も違うなんて聞いたことがあります。まして、規範など決まり事は結局個々に委ねられている(スピード違反で免停食らうのも自己責任という意味で・・・周りからすれば迷惑の場合も多々ですよね)ともいえるので、どっちをとるかの話かもしれません。

またある時、相方が誕生日にはよくミュージカルに招待してくれるんですが、演目の中感動して幕を閉じて、ふと夢から覚めて思ったんです。「アレ?ここは舞台に上がらないでくださいなんて書いてないなぁ」とか「皆さん当たり前って凄いな」と、そもそも、演劇楽しみにきて、舞台に上がってむちゃくちゃにする人はいない・・・(最近そうでもなくなっちゃってきているような気がしないでもない)・・・と思いますし(遍計所執性)、逆をいえば、相互の信頼関係で成り立って(依他起性)いて、無事公演出来ているて観客演者ともによい時間を過ごせる(円成実性)ワケなんですよね。

インターネットのプロトコルもそうで信頼関係で成り立っていますし、法律やなんかの規範も結局は信頼関係を保つために利用するものでしかないのでしょう。まぁ、究極の処、日本に於いては法律はお金で解決する(罰金や慰謝料など)ので、究極的には「守ることが正義」なんていうのは「まやかし」に近く、思考的には「守らなければ罰せられる」「罰せられなければ何でも自由」という考えに陥ってしまいそうで「戒め」の効果はある一定以上は望めない・・・最近テレビのニュースやネットニュースで騒がれているのは、違法性はないものの慣習だったり常識だったり、「世も末なのかな」「残念なお話」なんて思うこともしばしばかもしれません。はたまた「他人事でない」というのもあったりもします。自戒を込めて書けば、まして、「法律は破るためにある」と考えるのは、そういう信頼関係を・・・因や縁を大切に思っていないというか、自己に執着して「業」を作るようなものなのかもしれないです。

習慣や常識なども同じ事が言えます。様々な答えの出せる環境で習慣や常識に則って答えを出すにしても、縛られ過ぎてはダメだと思いますし、単に自己の正当化手段に用いるなら習慣や常識など端から見れば「クソッ喰らえ」・・・単なる自己防衛で終わってしまいがちです。社会で生活していると、ほぼ、これに当てはまってしまいます。

まぁ、「三性説」に強引にはめ込んでしまいましたけど、お許しくださいませ。実際、相手の気持ちや思考、全体の環境や状況などもっと細かに捉えていく必要がありますので、入門的に織り込んでしまっていますので足らないですが、そんな思考もあるということで興味を持ったら唯識も読んでみて欲しいところです。

決まり事のついでで佛教には三学といって「戒・定・恵」を「学」んで修めます。「戒」もまた保つものですが「縛られるべきもの」と考えては修められないものなんだと思います、四向四果の内「預流果」には戒禁取見といい悪見の一つを断じなければならないのが、「学」と区分される一因なのかもしれません。「不殺生戒」なんかはわかりやすいですが、自然界で共存して平等(円成実性)で、お陰様で存在できている(依他起性)からこそ戒として不殺生なんですが、主観(遍計所執性)から見ると、ヘタすれば、ただ「守るべき」なら「学」んで修める必要はないものになってしまうように思います。かといって上の話のように「守る」から「守られる」ワケではないのも事実だったりしますが(遍計所執性)。決めごととしてただ守るのではなく視点を変えて、全体として秩序や体系などよく保たれているのか、周りのためになっているのかも併せて考えてみることも大切だと思ったりします。こんなことを書きながら、致し方なくゴッキーを排除している私も罪深いことなのですが(基本的にこっちに危害を加えない虫ならお外に逃がすのが私のスタンスですが・・・ゴッキーは・・・)。まぁ、害虫と決めているのも人間の偏見なのは承知のことなのですが、ある意味ゴッキーに転生とかヤダなぁ。まぁ、その生に於いて「好い悪い」は感じないでしょうけれども・・・それでもね、この辺りは自我への執着が捨て切れてない証拠でもあるでしょう。

ゴッキーネタで、もう一つ、法律用語の「不作為」の殺生はどうだろうと。例えば知らずに踏んでしまった(有名な「安居」の話にも繋がるのでこちらは割愛)とかならまだしも結局「殺生」になるであろう事が解っていてゴッキーホイホイ置いたらどうなるだろうとか・・・。法律用語で「不作為の殺人」といって、例えば「赤ん坊が餓死してしまうことがわかっていて乳を与えなかった」場合など「殺人」と見なされます。アレはどうなのコレはどうなの?と考えて行くともう収拾がつかなくなっていくのは目に見えていますが、でも・・・殺生戒に限らず戒ってこんな白黒付けるべきものだったのかどうか、三性説に則ってよく考えてみるのも「戒禁取見」に対するテーゼなんだと思います(つまり「学」)。お釈迦様は徹底されていた事も結構あります。その事実しかうかがい知ることは出来ませんし何も語っていただけませんが、思うに、個や法のためだけでなく、僧伽・つまり客観的に見た教団を内的に外的に見渡してそういう徹底した行動をとられていた可能性もあるかもしれませんね。そこまで行くとその行動は「ポリシー」といった方が無難なのでしょうし、そう考えると少なくとも「戒」をどうとかではなく、タイトルの通り「縁」・・・つまり「お陰様」を何処まで考えて行動するかに掛かってくるようにも思えます。

更には弘法大師は「声字実相義」において「五大皆有響。十界具言語。六塵悉文字。法身是実相。(五大に皆響きあり。十界に言語を具す。六塵悉く文字なり。法身は是れ実相なり。)」とか「即身成仏義」では「六大無礙常瑜伽。四種曼荼各不離。三密加持速疾顕。重重帝網名即身。(六大無礙にして常に瑜伽なり。四種曼荼は各々離れず 。三密加持すれば速疾に顕わる。重重帝網なるを即身と名づく。)」なんて仰っています。諸法の実相も、言語化・文字化(符号化とかシンボリズムといった方がいいのかわかりませんが)できるのでしょうね。少なくとも「安居」という習慣や、動作・所作といった「威儀」なども「戒」から学べる、ひとつの回答であるともいえます。そして、「六大無礙常瑜伽」だからこそ法界は「平等性」で「瑜伽」による「円成実性」を学び、「重重帝網名即身」な「依他起性」なこの身と、結局は、一如ということを知らしめてくれているなと思います。まだまだ学ばなければなりません。

以我功徳力 如来加持力 及以法界力 普供養而住

いつもありがとうございます。内容は個人的主観もあるのでかなり偏ってしまいましたが、お許しくださいませ。

天狗道

昨晩書いたブログは何点か間違えやどうでもいい部分に気が付いたので少々書き直しました。

さて、皆さんは天狗をご存じでしょうか。高い鼻とカラスのような翼、鈴掛など修験の装束。。。そうアレ、あの妖怪です。験が出る出ないに入れ込みすぎて本来が見えなくなるとその道に堕ちてしまうのでしょうか。恐らく、自身の自戒のためとして云われはじめたのじゃないかとも思えます。

後期密教では成就法という行法分類が加わっていますが、所謂祈祷法ではなく自身の為の修行法だったりします。どうも中期密教ではこの成就法が欠けているというか、加行に入らない限りは一般に門外不出のもの・・・私たち一般人ができるのは阿字観ぐらいかもしれません。また今の御次第を帳面に留め始めたのは弘法大師だといわれていますが、それまでは経典のまま次第もなく行じていたともいわれています。帳面となった次第を行じることで、誓願を立て、懺悔して、菩提心を起こして、慈悲心を起こし・・・三昧に入っていくように導くお次第となっていることに気が付くはず・・・そう思っているのは私だけでしょうか。

坊さんブログの逆パワースポットの話ですが、そこには天狗さんの石像が横にありました。このパワースポットを敢えて知っていた人がそうならないように置いたとも解釈できそうです。つまり「魔縁に気をつけなさい」と受け取れました。先生が行者さんのお相手をしている内にさっさと勤行を済ませることにして、鈍感な私は何も感じることなく受け取らず下山に着きました。受け取っていないつもりで受け取っているかもしれませんが、それはそれ、業として受け止めるよりほかないでしょうし、ジタバタしてもしょうがないかとも。

実は夢の話(寝た時に見るあの「夢」の話です)ですみませんが、旅行出発の前夜、夢の中に「何でも願いを叶えてくれる神様」が出てきました。夢の中、尊像を預かるのですが、丁寧に祀ると、次いで神霊まで御出になって、あなたの願いを叶えようと・・・そこで目が覚めます。もしそんなことが実際に起きたら皆さんはどうするでしょう?まぁ、願望が夢となっているのは誰でもわかるはずで、進むに進めない自分がいて、もどかしさを感じているわけでそんな現実を受け入れるか受け入れない状況にターニングポイントとしてこんな夢をみたとも言えます。夢の中で私は「何でも願いを叶えてくれる神様」に畏敬の念と感謝の気持ちはあれど、何も願う気が起きなかった、ある意味満ち足りているのかもしれませんし、まずは冷静に受け止めようと思っただけかもしれないです。夢から覚めればそれが心の幻影であるのはわかるんですが、それはさておき、ナイトスタンドブッディストとしてその晩、もしそのような神霊がいらっしゃったとして引き合わせてくださった事や守護してくださることに感謝する気持ちがあれど今必要な事以外は全て他の人々のためにそのお力をお使いくださいとも思ったのでした。目覚めてこんな中で一人旅に出て、最後に引き合った眼光の鋭い「霊能者さん」だったのかもしれません。私の業なのでしょうね、紙一重を自認せねばなりませんね。

仏様は尊ぶべき存在ですし、信仰の対象ですが・・・お釈迦様の説いた「法」が最も大事でそれを忘れては、「法の相続者」にはなれないと改めて自戒したいところです。この天狗のお話は書くのを憚ったのですが、こんな危険性の中にいる・・・魔縁とでもいえばいいのでしょうか、紙一重の処にいる自分に自戒を込めて書き加えることとしました。御大師様がその弟子や信者に天狗になってもらいたかったワケではないですし、多分、伝えたかったことの真意を汲むべきだと感じますし、現代に至るまで数え切れないほどの金剛薩埵によって伝えられてきた「伝統」を大切にしていきたいとも感じます。未だ答えは見つからないですが、悟りたいという気持ちを持続すること、その時々で菩提心も書き換わるかもしれませんが、原点を忘れないこと、慢心せず大事に育てたいと思います。

ありがとうございました!

3日から5日まで静恵先生のところにお邪魔してまいりました。

不動五段護摩を修させていただき、室戸岬や最後は恵果和尚の御廟とに連れて行っていただき、準備から何から何までありがとうございました!

お護摩は緊張しました!ただただ、サンガの皆さんそれぞれの形での皆共成仏道を願わせていただきました。四無量心観、大切だなと。修行には入れるか入れないかの段階の身、人様のお願いなど烏滸がましいのですが、本当に静恵先生にご準備いただいたおかげです。

恵果和尚の御廟では勤行をしながらふと「蓮華座の上に独鈷杵(横置き)」のビジョンが浮かんだのでした。

多分、金剛盤の上の三鈷杵と独鈷杵の位置を間違えてしまいまして「金剛界側が独鈷杵、胎蔵生側は三部で三鈷杵かぁ」と学び直したので記憶の中でその影響もあったかと。失敗も「全てはメッセージ」ですね。

理と智を学んで、独一法界、修行なさい」と仰られているかのようで背中を押していただけた感じでした。多分、必要あらば次の段階にも進めるのでしょうかね。

胎蔵生曼荼羅の金剛部の尊の多く三昧耶形は「蓮華の上に(縦置きの)独鈷杵」ですし、金剛界曼荼羅の蓮華部は「蓮華の上に(縦置きの)独鈷杵」+αなんです。

私は中院流で教わってきてとてもヒントを与えていただけたのですが、先生は三宝院流憲深方ですから、今後先生のところで行じていくのに正式に三宝院流憲深方を学んで、皆サンガの為にも、あわせる必要性もあり学び直す必要があるなと。。。何か方法がないか先輩阿闍梨にも相談したりしてみようと思います。問題は「お暇」という名の余裕がありません(苦笑)ので、また私には更なる目標(何も決まっていないに等しい)の通過点の為の阿闍梨位でしかないのですよね。

それはさておきひたすら楽しかったです!

静恵阿闍梨、御姉(母)様、ぼっちゃんお嬢ちゃん、お嬢のお母様、そして応援&心配してくださった皆様、ありがとうございました。功徳が行き渡りますように。

ブルームーン

3月31日は、ひと月に2度の満月があるのをブルームーンというそうで、青い月が見られるのかと思えばそんなことはなく(笑)。

前回のブログ更新した日、後で知ったのですが、実はその日、叔母が他界し、先週一週間は太ったお腹のせいで礼服を買い換えねばならなくなりの、週末金曜は仕事を早退して通夜、翌日は告別式と、都内と行ったり来たり他の予定もこなしつつと過密スケジュールの週となってしまいました。重なってブルームーンとは色々考えさせられる日でもあったわけで、故人の冥福を祈って動き回りました。

話は変わって、日本では初七日でお不動さん、二七日でお釈迦様・・・となるわけですが、チベット死者の書の方が私にはしっくりきます。私には「”今”を見つめて知ってとっとと”解脱”しろ」と聞こえてくるかのような経典なのですが、実際、哀しみにうちひしがれる遺族に聞かせる為の「モノ」と考えられなくもなく、「生前にちゃんと修行しておきなさい」と聞いてとれなくもなかったりします。葬儀では日本式には参列者に難解な漢文の経典を聞かせるわけですが、ありがたいものなのですが、折角なら参列者に平素な言葉で枕経を読んでくれた方が、遺族達がその時を法門を開く機会にできて(?)よいのかもな?なんて思いもあったりします。勿論伝統も大事なので何ともかんともなのですが・・・私自身が、転生の道を歩むのか・解脱するのか、私にはそんなことがわかる能力があるわけでもなく知るよしもなく、今の積み重ねが未来を作るわけで、思わず着いて出た言葉が、少なくとも今はまだまだガチガチ(我痴ゞ)に現世に執着を残している自分がいることだけはわかった気がします。おかれた現状がカルマなんでしょうから、受け止めていこうと考えた週末でした。

毘盧遮那考察(4)

とある経典の一文を求めて色々読みあさってみていて見つけた一節。

姿や形だけで仏を求めてはならない。姿、形はまことの仏ではない。まことの仏はさとりそのものである。だから、さとりを見る者がまことに仏を見る。
世にすぐれた仏の(すがた)を見て、仏を見たというならば、それは無知の眼の過ちである。仏のまことの相は、世の人には見ることはできない。どんなにすぐれた描写によっても仏を知ることはできないし、どんな言葉によっても仏の相は言い尽くすことはできない。
まことの相とはいっても、実は、相あるものは仏ではない。仏には相がない。しかも、また、思いのままにすばらしい相を示す。
だから、明らかに見て、しかもその相にとらわれないなら、この人は自在の力を得て仏を見たのである。

「仏教聖典(仏教伝道協会制作) 第三章 仏の姿と仏の徳 第一節 三つのすがた」より

言いたいことを言い当ててくれています。問題はこの先・・・典拠元に「こんなんあったっけ?」とちらちら調べてみたんですがよくわからないで終わってしまいました(苦笑)。「華厳経 如来光明覚品」であるならば、以下の部分でしょうか。

若以色性大神力
而欲望見調御士

もし、色性と大神力とをもって、しかも調御士のお釈迦さまを望見したいと欲せば、

是則瞖目顛倒見
彼爲不識最勝法

これはすなわち、眼病の目による、さかさまに倒れて見るものです。彼は最勝の法を識らない者です。

如來身色形相處
一切世間莫能覩

如来の身の色や形の相う処は、すべての世間ではよく観ることはできません。

億那由劫欲思量
妙色威神不可極

億那由のきわめて長い時間に思量したいと欲しても、妙なる色の威神は極めることはできません。

非以相好爲如來
無相離相寂滅法

仏の姿や顔つきをもって、如来と為すのではありません。相が無く、相を離れた寂滅の法です。

一切具足妙境界
隨其所應悉能現

すべての、つぶさに足り、妙なる境界は、その応じる所に随って、ことごとくよく現れます。

諸佛正法不可量
無能分別説其相

諸々の仏の正法は、量ることができません。よく分別してその相を説くこともできません。

諸佛正法無合散
其性本來常寂滅

諸々の仏の正法は合ったり散ったりすることはなく、その性は本来は常に寂滅です。

不以陰數爲如來
遠離取相眞實觀

色受想行識の集合である肉体をもって如来となしてはいません。取る相を遠く離れて真実を観ずれば、

得自在力決定見
言語道斷行處滅

自分の思いのままの力をもって決定して見ることを得ます。話にならず言語道断にして行うところは滅します。

等觀身心無異相
一切内外悉解脱

身の心に異なる相が無いことを等しく観察し、すべての内外はことごとく迷いより解りへと脱したならば、

無量億劫不二念
善逝深遠無所著

量ることのできない億のきわめて長い時間にも不二の念、善逝と言われるお釈迦様の深く遠いとらわれる所がなくなります。

普放妙光明
遍照世境界

あまねく妙なる光明を放ちて、遍く世の境界を照らし出せば、

淨眼一切智
自在深廣義

浄眼のすべての智にして、自分の思いのままに深く広い義です。

一能爲無量
無量能爲一

一つのよく量ることのできないものと成り、量ることのできないよく一となり、

知諸衆生性
隨順一切處

諸々の迷えるこの世の人々の性を知り、すべての処にすなおに随います。

身無所從來
去亦無所至

身は従来するところでななく、去るもまた至る所ではありません。

虚妄非眞實
現有種種身

虚妄は真実ではなく、種々に身があることを現します。

一切諸世間
皆從妄想生

すべての諸々の世間は、皆、妄想に従って生じます。

是諸妄想法
其性未曾有

この諸々の妄想の法は、その性いまだかつて、有ることはなく、

如是眞實相
唯佛能究竟

このように、真実の相はただ仏のみ、よく極めるところです。

若能如是知
是則見導師

もしよくこのように知ることができれば、これはすなわち導師を見ることです。

仏教聖典の部分が該当するとなると、随分意訳しちゃっていることになりますが、言い得て妙なるものに書き換えられてますね(和訳は「経典散策・大方広仏華厳経」より引用させていただきました)。

少なくとも、私たちが求めている「仏画」や「仏名」は佛陀ではないし、お釈迦様は「法の相続者たれ」(南伝 中部経典 三 法嗣経、漢訳 中阿含経 八八 求法経)といい「中道」を説かれ「八正道」を語られています。

現代で「中道」を学ぼうとすると、「中観派」つまり龍樹菩薩に始まる般若系の中論にたどり着きます。日本においては南都六宗の「三論宗」となり弘法大師の密教伝来と共に密教に融合していきます(実はその「三論宗」の中興の祖は聖宝尊師=理源大師とされている。また、寓宗に「成実宗)。もうひとつの流れで「唯識派」によってヨガ(瑜伽)は伝承され、日本においては「法相宗」(南都六宗の一つ、寓宗に「倶舎宗)となり、更には「行基」が学び、東大寺大仏(毘盧遮那佛)開眼供養の導師を勤めたとされています。ちなみにこのインドの学派の中観派と唯識派は対立していたとされています。今においてもこの色(中観派と唯識派)は濃く反映されていると思います。ただ、南都六宗の時代、学僧達は互いの学派を学びあう役割が強かった為か、インドの学派のと似たような道を通り、華厳宗・法相宗・律宗が残り次第に統合されて分派していったように思えます。

さて、東大寺の毘盧遮那佛は「華厳宗」だったりします。この華厳宗の教学(佛の見地に立ってみた「理」)に「重々無尽の縁起」があり、「無自性空」です。

弘法大師の思想はこの華厳宗と三論宗の影響が強かったんだろうと思います。空の思想も大乗仏教では「我空法空」ですが、「秘蔵宝論」で、第四住心(唯心無我心)と第五住心(抜業因種心)の辺りを読むとわかりますが、法空としているのは「五蘊が縁をあって仮に和合して(集まって)いる」と考えられるかどうかの違い(ただそれだけではありませんが)があるようです。つまり、色受想行識が因果関係(縁)によって成立・集まっているのであって、先日の坊さんブログの「現象よりこころに残ってるもの」に甚く感動したワケです。それらの「色も空だよ」と、「色即是空」だということだったり、現象って作り出すことも・・・可能かもというところに行き着きますものね。で、もうひとつの種子をだすと「हूं(吽)」字で字義は「因業不可得」です。「अ(阿)」字の「空」相がわかると、因果の法則まで変わってくるって事でしょうかね。

「हूं(吽)」字は金剛界で金剛薩埵、「吽字義」では大日如来の種子として語られています。

追記:私信

遅ればせながら、慧孝さん、慧孝さんの娘様の女王様、おめでとうございます(・∀・)ノ

毘盧遮那考察(3)

「अ」字は大日経具縁品や般若経四十二字門もかもわかるとおり「一切諸法本不生」とします。「不生」は般若心経の「是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減」であり、つまり遠回しに「空相」であると言っていると思います。

少なくとも御大師様が著された「般若心経秘鍵」では「分別諸乗分」の「絶(文殊菩薩の無意味に議論を絶つことを説かれる教え)」と仰って「無戯論如来の深い悟りの境地」としています。

更に「無戯論如来」の「無戯論」とは「離戯論」と同義ですから”言葉では表現しきれない”真実の論、ということでしょう。「वं(鑁)」字言説不可得とうかんで腑に落ちてしまいます。

御大師は「御遺告」で「阿含経」の名前を出されていますから、当然のこと、元々お釈迦様が「地水火風」の四大は触れて弟子達にお話しされていて、その当時の思想に「空」の概念が含まれていなかった事は知っていたのでは?と思ったりもします。それでも「空」を追い求めて探って私たちに示してくれているように思えます。

根本仏教で「空」は「我空法有」といい、大乗仏教では「我空法空」としています。「我」とは「真我」や心奥に住す「神」や「魂」なのでしょうが、三法印でいえば、「諸法無我」です。根本仏教でも大乗仏教でも共通しているわけですが、「法空」や「法有」の「法」は「色受想行識」・・・つまり「五蘊」が「有」のか「空」なのかという問いだったりします。物理世界としての「自己」はどう否定しても「有」ので、「我」はどうも「自我」を指していると捉えるのがいいように思ってます。「自己」は客観的存在、「自我」は主観的存在とでも置き換えたらわかりやすいのでしょうか。その中でも「貪」・「瞋」・「痴」の「三毒」に起因する「自我」が問題なのであって、自身を否定するよりは、起きている事象のなかで客観的に「三毒」のいずれかか、複合されているか、自省して、自分を自分でコントロールすることが必要なんだと思えます。自分が救われる道に他者をコントロールするなんて、自分さえコントロールできないのに可能だと思います?そんな自分勝手なお願いが叶うと思います?私はあり得ないと思って、現在に至っています。前にも書きましたが「自己同一性」を病気のようなこととしてでなく、自身で自分の為にコントロールする為に行う・治して正すっていう意味で、そのままなワケですが。。。自分が変わればいいということなんではないでしょうか?さて、「空」を小難しく考える必要もありますが、根本に戻って「空虚」や「空っぽ」と簡単に割り切って心の中(識)の「自我」が「空っぽ」でも「自己」は存在し続けます。

昔、エンジニアを生業にしていた頃、コンピュータを使う上でプログラムを書きます。関数という「器」を人間様が宣言して、コンピュータ(のOS)にお任せでメモリを割り当てます。

int var = 0;

宣言と同時に初期化も行っていますが、初期化をせずに「器」だけ、宣言したらどうなるでしょう?・・・「答え、そのメモリ上に書かれていた数値を使う」です。ですから、「初期化をしましょう」って話です。更にはみんなお行儀がいいのでプログラムを終了する時に「0」に戻しておいてくれたり、OSがそうしてくれる場合もあります。

人間の感情はコンピュータほど簡単なものではありません。皮膚の細胞に至っては物理的な免疫・・・体内を保護しますが、もしかしたら「隣とくっついている」だけの使命を果たしているだけかもしれません。その塊が集まりに集まって、60兆、皮膚となり、内臓となり、骨となり・・・生き物を形成しているわけですが、そこに「心」という「識」を総合的に集まって形成しているとも言えます。当然、最初は小さな使命で繋がっているだけかもしれませんが、やがて「生きる」ことを考え、「欲」が生まれて、「貪」・「瞋」・「痴」と共に生きることになってしまうという構図ですね。そこに気がつくことを、私的に表現すると「空」はその上で説明した「関数」という「器」だけの状態に似ているなと勝手に思っています。ちゃんと初期化さえしてしまえば、あとは実は自由に定義できるし、自由に使っていいものだったりしています。初期化しないメモリは、所謂、慣習や常識などに雁字搦めにされた集団意識・社会にポンと自分がおかれた時に、何かの行動をとると、初期化が済んでいない自我がその雁字搦めの落とし穴に填まる(全てではないにせよ「悪業を積む」ことにもなる)という構造に似ているなと思います。更には最近は複雑で、ダブルスタンダードの中に於かれているものが沢山あります。いずれを選ぶとしても「自分を満足」させる為に「自分の都合のいい」選択をしていることが多々あります。自戒を込めて書けば、そういう「誰かが言ったこと」に「疑い」を持つのも大切なにかもしれません。そもそも「不生不滅不垢不浄不増不減」なはずの話です。断っておきますが、社会に反骨する事でも乱すことでも、逆に八方美人になることでもないですが、仏法・中道を選択するとある意味「マイノリティ」は避けられないかもしれませんが、大体はそうならずに済むと思います。

実践して体験して納得したのはこの程度の「空」でしかないので、それもここに書けるのはごく一部ですし、実践し切れていないのが現状で、まだ入り口・玄関に入っているに過ぎません。玄関はその奥があるということでをれを明らかにすることが、私の由来だったりします。物質が量子の世界に入って・・・原子が「不確定性原理」においても静止せず一定の振動があるとされていますが、「ゼロ点エネルギー」(略してZPE、URLの由来です)は、いうなれば「あがき」のようなものなのかもしれないですし、結局は「苦」の根源を除きたいという一点に帰りたちます。何でしょうね?「菩提心」だと思います。

この「空」の思想・思考は、弘法大師がお名前に「空」の字を入れたのも、御大師にとってこの「空」の思想がとても重要だったから命がけで求法の旅に出られたのかなと私は勝手に想像してしまいます。奥が深すぎて私のような凡夫には計り知れない・・・ですよね。

元の話に戻りますが、「अ(阿)」字「本不生」、「空」相や「有」、梵字では「本初」です。赤ちゃんが生まれて最初にするのも「あ~」って泣くわけで、入り口です。「空」ですら入り口なのですから「अ(阿)」字を二編でも足りないワケです。

さて、大乗って何でしょう?「十牛図」では俗世に戻ってくる必要性があります。返本還源にも至ってないので、こんな、他愛のない話ですみません。そんなのでも「ブログやってみれば?」「法を説いてみれば?」なんていって頂けた先生には申し訳ない内容・・・拙い文ですが・・・ありがとうございます。