死の王

前回の続き、スッタニパータ「第五 彼岸に至る道の章 学生モーガラージャの質問」より、元々、バラモンのバーヴァリのお弟子のモーガラージャ(Mogharāja摩訶羅倪、面王)の質問ですが、『死王』(maccurājā)とはなんぞや?だったりします。別訳があるのでそちらも参考に

同じく『死王』についてスッタニパータと同じくこのように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。(Evaṁ lokaṁ avekkhantaṁ, maccurājā na passatī)」といつ一文でダンマパダで発見できますが、併記してみると。

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」(ブッダのことば―スッタニパータ  中村 元訳 (岩波文庫))

「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。(ブッダの真理のことば 感興のことば  中村 元訳 (岩波文庫))

本来「空(suñña)」「空性(suññatā)」の事でしたのでここから読み解けるのは勘のよい方なら言わずとも、読み解けてしまうと思います。後者の『泡沫のごとし』『陽炎のごとし』は大乗経典で「空性(suññatā)」のキーワードとして使われています。

こうやって併記して考えていくと『死王(maccurājā)』という表現は、どうしても克服できない「死への恐怖」ぐらいの意味(死苦)を比喩しての表現だったのかもしれませんし、本当に当時『死王(maccurājā)』を信じられていたのかもしれませんし、定かではないです。しかし面白いですね!こんなこともあって、前回、スッタニパータとダンマパダがごちゃごちゃになってしまった私でした、お恥ずかしい(苦笑)。先生にご指摘頂いて速攻で直したのですが、「残しておいた方がいいよ」というのもあって訂正線で処理させて頂いてます。

さて、「空性」のキーワードは、「諸法無我」と結びつき、更に発展していって十縁生句となり、所謂「大日経(大毘盧遮那成佛神變加持經)」で

深修觀察十縁生句。
當於眞言行通達作證。
云何爲十。謂如幻。陽焔。夢。影。乾闥婆城。響。水月。浮泡。虚空華。旋火輪。

となっていったのでしょうね(つまりは、縁起)。

「自我に固執する見解をうち破る」といえば「無我相経」(雑阿含経 求那跋陀羅訳)や「五蘊皆空経」というのがあるのですが、経題からして、般若心経とリンクします。初っぱなで「五蘊皆空」と出てきているのは、『空(शून्य 梵:śūnya/巴:suñña)』で「法空」、般若心経の残りの「空」は『空性(शून्यता 梵: śūnyatā/巴: suññatā)』なのも意味があるのでしょうね。

「いや~、うん○!」な駄文で補足となりました。

毘盧遮那考察(7)

あれから半年が過ぎてしまいました.。o○

そろそろ眠りから覚めねばということで続いて熟々と綴っていこうかと思います。

書物など「空」を探求すると、膨大になりすぎてよく解らなくなってしまうもので、特に大乗の思考に捕らわれるとギブアップな感じもしてくるワケで、今回は根本仏典から少し整理してみようと思います。

根本仏教で「空」について触れるものとして代表的な仏典に、スッタニパータ法句経(ダンマパダ)と中阿含経の空小経(チューラスンニャタ・スッタ、=小空経=小空性経)とがよく引用されています。

スッタニパータダンマパダ(法句経)では、「第五 彼岸に至る道の章」の「学生モーガラージャの質問」:

モーガラージャさんがたずねた、「わたくしはかつてシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼(まなこ)ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』とわたくしは聞いております。<1116>
この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天(ぼんてん)の世界の者どもも、誉(ほま)れあるあなたゴーダマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。<1117>
このように絶妙な見者(みて)におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」<1118>
(ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」<1119>

(ブッダのことば―スッタニパータ  中村 元訳 (岩波文庫))

チューラスンニャタ・スッタ(空小経)からは比較的長いのでピンポイントで以下は一部分をを抽出します:

たしかに、このことは、アーナンダよ、善く聞かれ、善く受け取られ、善く注意せられ、善く知られた。かつて、わたしは、アーナンダよ、そして、今も、空性の住処に、多く住している。
あたかも、この鹿母堂が、空(=中にいない)であるのは、象や牛や馬や騾馬についてであり、空であるのは、金や銀についてであり、空であるのは、女と男の集まりについてであるが、この比丘の教団による独住だけは、空ではないように、

そのように、実に、アーナンダよ、比丘は、村についての想いに集中することはなく、人についての想いに集中することなく、森についての想いによって独住に専念する。
かれの、森についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう

心にしみる原始仏典>小空経(『マッジマ・ニカーヤ』第121経)

同じく、チューラスンニャタ・スッタ(空小経)を訳したもので、

アーナンダよ、私は以前もいまも、空性の住法によって、しばしば住しています。
例えばアーナンダよ、このミガーラマータル高楼は、象、牛、馬、驢馬について空であり、金銀について空であり、男女の集合について空であり、しかしこれのみは空性ならざるものとして存在しています。すなわち、
比丘僧伽による単一性が。
まさにそのように、アーナンダよ、比丘は、邑想を作意せず、人想を作意せず、閑林想による単一性を作意します。
彼の心は閑林想に跳入し、浄信し、確立し、志向します。

光明寺経蔵>『中部』「後分五十篇」>「空性品」>「小空性経」)

5月の合宿で散々、坊さん(静恵先生)を付き合わせて(今更ながら、ありがとうございました!)この部分お話ししていて思ったのですが、瞑想体験も通じて「やっぱり『空』は『無』ということだよね」ということで一致していたんです(更に深い秘密については言及避けますが)。チューラスンニャタ・スッタ(空小経)も読むと解りますが、「無」といっているのは「○想(邑想、閑林想、人想など)」で、実際に「そこ」に実体の無いものを「無」と言っているので、ダンマパダスッタニパータとチューラスンニャタ・スッタの二つから読み解けるのは、『空』は「空っぽ(英:emptiness, voidness, openness, thusness等)」とか「欠如」とか「無」で、『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』と『空(梵:śūnya/巴:suñña)』を使い分けているのがわかります。

漢訳の経典を見ると全てではないですがこの二つをあまり使い分けず、『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』も『空』と訳していたりするので、混同しやすいところなのかもしれないです。

『邑』にせよ『閑林』にせよ『人』にせよ、言葉ありきで考えれば、実際は認識の上で形而上的要素の集まりの抽象概念でしかない、『仮名』です。つまり、諸法(『邑』にせよ『閑林』にせよ『人』にせよ)の実相(言葉ありきで考えれば、認識の上で要素の集まりの抽象概念)だったりします。無いものは無いんです(無我/非我)が、「私(我)」という要素の集まりの抽象概念が、認識の上(心の中で)で存在してしまいます。

散々書いたので「もういいや」というところですが、法の有為と無為や法有我と言うことを考えると、有為法も無為法も、本来認識の上の形而上的概念でしかなく、実体は「無」んです(実相)。名付けられた概念(仮名)を仮に「袋」や「器」に譬えたら、諸法のその中身は「無(空っぽ)」とでも言えばわかりやすいでしょうか。そうやって考えると、「空性」を、中観派の祖である龍樹が「中論」で、一切有部が主張し始めていた「有為法・法有我」に対してのアンチテーゼとしたのも頷ける部分です。更に「法」なるものも「形而上」的なものであって「実体(実相)」もない≪不生不滅≫。

スッタニパータダンマパダとチューラスンニャタ・スッタで敢えて「ある」とか「ない」とか「存在している」とか言ってはいるけれども、それを解っているであろう人(常見も断見も絶てた人)に対しての表現であったと思われ、本来は「ある」とか「ない」とか「存在している」とか、「ことば」で言い表すべき部分ではなく、事象はそれぞれによって(相互依存性=相依性縁起)自立的・独立的には成立しない(無自性)ともいえますね≪不一不異≫。常見も断見の真っ只中の言葉ありきの私のごときには、戒めておく方がよいのだと思っています≪不断不常≫。過去現在未来という一切有部が主張する「三世実有」も同様に時間軸に対しても「縁起」で説明する≪不去不来≫。

結局は、「時間軸」や「全体と個」とか縛られている私たちがもう一度考え直さなければいけない、「諸法無我」「諸行無常」という「概念」を『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』と言う言葉に置き換えて、中道という原点(釈迦の教え)復帰を説明してくれたのが、上で言う、龍樹その人だったのだろうと思います。

さて、敢えて≪≫で括った、『不生不滅』『不断不常』『不一不異』『不去不来』は、龍樹(龍猛)菩薩の著した「中論」で「八不」といわれています。上の説明では足りない部分で、私の語彙では書ききれないという残念な話ですみません。ただ、『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』という単語はお釈迦様や阿羅漢達の境界であろうこと、弘法大師が伝えてきた浄三業の真言「ओं स्वभाव शुद्धाः सर्व धर्माः स्वभाव शुद्धो ऽहं॰(一切諸法は自性清浄なるが故に我もまた自性清浄なり)」にたとえられる様に『「わたし・わたしのもの」といったようなとらわれから解放された状態』ということを、「目指すこと」を示しているのであるのだと思います。とある書物の用語集から引用すれば

『「私」や「私のもの」といったような自我意識や魂といった概念から自由であること、煩悩からも自由であること、空である状態のこと』(「呼吸によるマインドフルネス」ブッダダーサ比丘著

という表現がぴったりだなと思うのでした。

また単に『空』と漢訳経典に一致させて表現していますが、二つの経典からは敢えて混同を避けて『空(梵:śūnya/巴:suñña)』と『空性(梵: śūnyatā/巴: suññatā)』は別物としてとらえた方がよいのでしょう。

でも人(少なくとも私自身)というのは「無」に物質的な何かを与えたがる生き物で、ダークマターの存在を追いかけるがごとく、実体にしがみついてしまいながら科学を追いかけてしまうのでした。GIGAZINE「触れるだけで惑星が崩壊するといわれる「宇宙で最も危険な物質」とは?」という記事に紹介されている動画を見ながら、「有」という存在に惹かれる自分にハタと気がつきました。まさに「顚倒夢想」ですね。

これも一つの我執なのでしょうね。ほど遠い。。。

「東寺-空海と仏像曼荼羅」展行ってきました

「東寺-空海と仏像曼荼羅」展行ってきました。

いやいや、奥方が珍しく誘ってくれたので、断るはずもなくGo!ノ

流石に1200年も経ってると・・・展示品も劣化が止められるわけでもなく結構すり切れてしまったり、保存するのは大変だなぁと、そして何よりその展示物一つ一つ大きさが結構あったり。

結構な混み具合で一つの展示物も人だかり、熱気(熱意?)もすごくて結構当てられてしまいましたわ。どこを観ようとか特に決めずに行ったのもあって貴重な展示物、大抵は生で見て記憶に残すだけで楽しむのが私の流儀なんですが、もしかしたら、色々思うところもあって、またそれどころじゃないかもなぁと予測はしていたので「公式図録」も買って来ちゃいました。

毘盧遮那考察(6)

新年明けましておめでとうございます。
今年も、弁天さんで「凶」をいただいてきました(`д´)ゞ相性がすごいですね!

さて、「架空」と書きましたが、その「空」の思想の元となったのは般若経で、さらには龍猛菩薩の「中論」までたどれると思います。

先にも書いたとおり、「有」「無」といった二元論にどっぷりつかる中、私には「一切皆苦」が受け入れられず、一旦、仏教の思想を捨てた者です。そこには「空」や「中道」の理解が足らなかったのは言わずもがなです。それでも、龍猛菩薩は三法印に付け加えて四法印にはしなかったんですね。戻ってきた甲斐あったってもんです。

今の日本の社会は二元論で、それが実相でマイノリティ=異端は徹底してつぶされますから。ある意味それは貨幣経済+資本主義+科学の投影する副産物のようにも思えます。かといって共産主義や社会主義に傾倒する気もないです。その系統で「頭いいなぁ」と思ったのは唯一「不破哲三」ぐらいで今でも持ち上げているところからすると超える人いないんでしょうかね?今の責任のなすり合いを常套手段にしている政治の中はどうでもいい話ですが。ただこの貨幣経済は仏教には相当に毒でもあったように思えます。都内に住んでいるとこの「貨幣」がないとどうにもならないところがありましたが、ちょっとズレて隣県の外れに住むと、物々交換的なところの一端に触れられます。在りし日の下町の風景(聞いた程度で実体験していませんが)も近かったのかもしれませんが。

初期仏教教団は第二回結集の後、アショカ王の時代に根本分裂を起こして大衆部と上座部に分かれたとされます。アショカ王マウリア朝時代とされている(南伝ではさらに前のシシュナーガ朝時代とされているが、どっちであったとしてもすでにそういう流れであったのかもしれない)。インフラ整備を行い流通が盛んになり貨幣経済になっていったのがマウリア朝時代、アショカ王の功績ともいえる。根本分裂の原因が十の例外(上座部では十事非法とした)を認めなかったとしても時代の変革に対応できなかった教団側の問題なのかもしれず、私には腑に落ちない話でもあります。厳しい戒律を設けようとした時お釈迦様はどうされたのか頑なな弟子に何と説いたのか?。というのは、現代でも頂き物をするとき欲しくなかった物や意図しない物であった場合、断れるか否かだと思いますし、在りし日を懐かしんでいても理想は理想として時代の変化に柔軟に対処できるのも必要だったのでは?時の上座部のあり方に疑問もあったりもします。私が今のテーラワーダに排他性を感じるのもここら辺りからでもあるのかもしれませんが、学ぶモノは混じりっけのない確かなモノでもあるので、成ってしまったモノはしょうがないということで閉めるしかないところでもあります。

ただ、この分裂により枝末分裂となり部派仏教の時代になっていくと、20の部派に分かれたとされています。大衆部に分類される部派の中には今の龍猛菩薩の中論の前身になったような考え方の部派(説仮部(Prajñaptivāda))も存在していたことがわかります。その名前に注目すると「Prajña(प्रज्ञ(般若=智慧))+pti(प्ति(夫))」は「仮の指定・設定」(「概念」)の意味であり、「vāda(वाद(主義))」という意味で、説仮部という訳は妙ですね。「Prajña(प्रज्ञ(般若=智慧))+pti(प्ति(夫))」の「Prajñapti(प्रज्ञप्ति 「仮の指定・設定」)」は「施設」とか、仮設・仮説(けせつ)、説仮(せつけ)、仮名(けみょう)という単語(漢訳)に置き換えられます。弘法大師が「三教指帰」の中で仏教者を「仮名乞児」としたのはこれらの事実も知っていてだったとしたら頷けますね。

敢えてお大師に倣って仮名(けみょう)とは「空」の概念です。大乗起信論の帰敬偈の法宝を意味するところ 「彼の身の体相の法性真如海、無量の功徳蔵」とありますが、「法性真如海」は「仏様の本体」を意味し、「真如」は「空性」です(「『大乗起信論』を読む」竹村 牧男著)。大日如来は法身です。毘盧遮那考察(4)で書いたとおり、「法身」の「実相」です。真如海は言い換えれば「空海」ですね。弘法大師に曰く、「五大皆響き有り 十界に言語を具す 六塵悉く文字なり 法身は是れ実相なり」です。龍猛菩薩は「中論」において、帰謬法で「法有」を否定していってたどり着くのが「衆因縁生の法、我即ち是れ無なりと説く。亦た是れ仮名(けみょう)と為す。亦た是れ中道の義なり」(鳩摩羅什訳)で「縁起」=「空」=「仮名(けみょう)」=「中道」が等号で繋がれた公式を生み出せると思えます。切り離さず思惟すると、中村元先生の説が、弘法大師の伝えたかったことに一致してくると思うのは私だけでしょうか。

それぞれ細かく触れていきたいところですが、ここまでにさせてくださいませ。ちなみに、正月の休みにシコシコ画いたものまで使うには至らなかった~。ごめんなさい。

いや~、うん○!

になってしまったのでした~。

まぁ、凶のおみくじも、またこれ空なのですよ。

Buddienceで面白かった件

いや~、うん○!

↑ちょっと気に入ったらしい。

先週のことか、ちょっと記事読んで試してみたら、岐阜大仏だった件。

個人的には携帯(iPhone)で撮ったら斜め下から見上げるような画像になって「う~ん(-~-)」とか思ってたんだけれど、意外とマッチングが気に入ったのでした。

ほかのも見てみたいので是非こっそり教えてくださいまし>奈良大学Buddience

関係ないですが、「reCAPTCHA」更新してreCAPTCHA v3に変えてみました。使い心地は変わらないと思うけどコンタクトフォームとか試してみてね~ノ

毘盧遮那考察(5)

いや~、うん○

え?どっかに染まっている?いやいや、気のせいです。当たらずとも遠からずなので。さて「どっか」といえば・・・坊さんブログの「クズでもオッチャンは)」を読んでいて『心痛むな』と思う今日この頃です。

身体を観察すると思うに内部恒常性(ホメオスタシス)といって、外部の環境に内部環境を一定に保とうとします。そういう外部の刺激に内部(身体)を一定の状態を保とうとする無意識の選択からすると、「変わりたくない自我」いても必然、開き直って「グズ(愚図)」なんですよね、自戒を込めて書くと。

さて、「うん○」ですが、お釈迦様は「またその九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、(一九七)鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。(一九八)」(『ブッダのことば』(中村元訳)第一「蛇の章」一一「勝利」)といい、他には「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執、嫌悪、貪欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。(八三五)」(『ブッダのことば』(中村元訳)第四「八つの詩句の章」 九「マーガンディヤ」 )と語られている。後世、この身体を「糞袋」や「九穴の糞袋」なんて表現しているのも真理なんです。昔私の時代なんかでは「アイドルだってうん○する」なんて言ったものです。私たちの身体は、現代的には「うん○製造マシン」ってところでしょうか。

大まじめに「うん○」を分析してみると、古くなった赤血球などを脾臓で分解した時に「ビリルビン」が代謝物になり、肝臓に送られ更に胆汁となって、更に腸の中で「ウロビリノーゲン」になり黄色から茶褐色のあの色になります。アミノ酸が分解されてインドール(C8H7N)スカトール(C9H9N)などがあの匂いですが、実はその匂い微量ですとジャスミンやオレンジなど花の香りに含まれています。内容物はと言えばたった5%の食物の残渣と、10~15%の腸内細菌の死骸、15~20%の腸壁細胞の死骸と、60%の水で出来ているそうです。とっても効率のいいことです。話はぶっ飛びますが、日本人の腸は欧米人に比べて少し長いんだそうです。欧米人にとって吉牛などの牛丼が「おやつ」というのも納得でその分日本人は吸収効率が更にいいんですね。昔の日本人が少しのおかずと沢山のお米で生活していたなんて話もありますから、その過程で腸が長くなったんでしょうかね?!どっから出た話かもわからないので置いておきますが。食物の残渣は消化の過程で溶けなかった植物由来の細胞壁などだと言われています。サラダでダイエットなんていいますけれども先にサラダを食べて、絡めて出そうなんて言うのも「うん○」の原理を考えるとなるほどな話ですね。でも、95%は身体になっていき、新たな不浄物を産んで、掃除も頑張るわけです。必要以上なら肥えるし、そこはサラダを増やして量を調節しつつ・・・結局そこは小欲知足も必要なんでしょうね。

話は戻って、「うん○」の「うん」は「हूं(吽)」だとすると、梵語として日本に弘法大師が請来したわけです。「ん」の字を五十音にせよ、いろは歌にせよ、最後に加えたのも御大師様だったと聞いたことがあります。その時代をうかがい知ることは結構困難ですが、少なくとも貴族達の生活は文学の中でうかがい知ることが出来るかと思われます。ちなみに「ちん○」は・・・諸説あるなかで、昔、天皇猊下が御自分のこと「朕(ちん)」と称されていて・・・「朕子」・・・長くなるので止めましょう・・・、ある意味それと同じように、「うん」+「こ(○)」を付けていたのは、あながち疑わしくもなく勝手に納得している私でした。

どんなに美食の限りを尽くそうともどんなに綺麗に美しく盛り付けた食事も、結局最後は「うん○」になるので、「हूं(吽)」は「終わり」を意味しているようにもとれます。弘法大師の著された「吽字義」を読んでも、「う~ん」と考えるだけでなかなか筆が進まない私はその「終わり」の意味や「死」・「滅」への言語的表現に、ほとほと困り果ててしまったことも、結構長く更新できなかった理由でもあります(単純に忙しくなってしまったのも最大の理由ですが)。「吽字義」に書かれていることはどちらかというと「密教」の教えの解釈論の中の入り口のように思えます。つまり、実践の過程で説かれた原始教典をはじめとする経典群のようなもので、弘法大師が請来した「密教」の内実を「梵字」を借りて説いている様にも読めてしまいます。そこにブログで書けるような答えはないんですよね。そんな簡単に解ったら1200年もの間、口述や伝統を借りて一見すると仏教という宗教という形を借りて、もっと言えば、お釈迦様が入滅されてから2500年進化を辿りながら続くわけないんですね。お釈迦様達はおいておいても、私たち的には、はじめは『裕福になりたく』てなのかもしれないですし、『幸せになりたい』かもしれないですが、そんな入り口も、その根源には「苦しみ」からの「解放」であって、それに対するものの見方の訓練として「死随観」などから始まり、生活を通じて「実践」を行い「取捨」し選択し「四無量心」やら慈愛と共存を学び・・・、ライフワークですね。でも共通しているのは「菩提心」で「苦しみ」からの「解放」は自分の成長次第でもあり。悪い譬えで「一攫千金」の譬えで「宝くじは買わねば当たらない」わけですが、当たる率だけで考えていくと、買う宝くじにどれだけ大枚をツッコまねばならないか、儲かるわけないわけです(笑)。けれど真理で「買わねば」(実践)「当たらない」んですよね。そもそも「お金」が「幸せ」なのか?とも色々考えていく必要がありますね。思い描く「幸せ」の中にもっと沢山の「お金」が必要とも解せられますね。けれど手にしても止まないのは何故でしょうね。

道を学ぶには実践も必要で、取捨して道理も知って智恵にして・・・その根源・・・菩提心・・・「苦しみ」からの「解放」を望む心=大願として悟りたいという切実な想いとそれに向かう力の根源・・・とでも言えばいいのでしょうか、これだけが残ってくるんですよね。でも、人間ですからあれもこれも捨てきれない想いも背負いつつ。つまりは「いや~、うん○!」だったわけです。

ちなみにお釈迦様の出家前の名前はゴーダマ・シッダールタ(गौतम शिद्धार्थ)ですが、漢写で「瞿曇悉達多」なのですが、『目的を達成した方』、『義を成就した方』という意味なのだそうです。密教経典でのアナグラムでしょうか、「一切義成就菩薩」として出てくるのは他ならぬ、成道以前の「シッダールタ」を指して菩薩としているようでしょう。一般的にはこの「一切義成就菩薩」は普賢菩薩=金剛薩埵と解されていますが、初会の金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)で金剛界法のキモとして五相成身観を修する主人公はこの「一切義成就菩薩」ですし、理趣経にも「一切義成就金剛手菩薩摩訶薩」として登場しています。その普賢菩薩=金剛薩埵の種子こそが「हूं(吽)」です。

お釈迦様は出家修行を通じて釈迦如来になられたように、私たちが金剛薩埵になって、実践を通じて大日如来(摩訶+毘盧遮那+如来)という架空の人格を設定して(なぜなら、私は「ゴーダマ・シッダールタ」ではないので「釈迦如来」にはなれませんし)、華厳経の中の登場人物のように菩薩道三昧実践しましょうとも。「吽字義」に説かれるように「हूं(吽)」字に一切がに含まれる結局「अ(阿)」に還るのも、何度も弘法大師が「大日経」を引用して、「菩提心を因と為し、大悲を根と為し、方便を究竟と為す」と説くのも、答えを言ってるんですよね。ただそこに、愚図っている私がいる。そんな「うん○」なお下劣話題ですみません。

「ツラかったこと」

坊さんのブログ(静恵先生)で「ツラかったこと」を読んでいて「残されたものへのフォローがツラかった。」に心打たれていました。

今でもしょっちゅう「死」について考えることが多いですが、どちらかというと私自身に対しての「死」に関しては、楽天的に「いつ終えてもいいように今を一所懸命生きよう」とぶれないようにポリシに従うことにしています。ツラい現状は「明けない夜はない」し「止まない雨はない」からです。そして今「出来ること」をする。

インターネットが流行りだした頃、今のようにSNSだとかない時代、こぞってホームページを作り、個人ページの掲示板やチャットを設置して交流する形が主流で(まだアングラ(アンダーグラウンド)サイトがちょこちょこあった時代ですから20世紀最後のあたりでしょうか)、とある個人ページの掲示板で知り合ったウェブマスターさんと仲良くさせて頂いていました。何かの話題から自死(自殺)について聞かれて答えたことがあります。

私は「もし、「死にたい」と考えることがあるなら、私は自分の親兄弟や友人に置き換えて相手の立場・気持ちになって、私の死を知ってどう感じるか考えてみるんです。悲しむ友人や親兄弟、それを考えるととても死ぬ気にはなれないです」と(だいたいこんな感じだったかと)。

そして死に別れた「親」や「友人」とは二度と語り合うことも、まして喧嘩することも叶いません。相手の立場になったつもりで泣き叫び苦しんで居る姿を想像してください。自分のために周りの人たちに苦痛を味あわせるなんて・・・多分、苦しみのどん底で何も見えなくなっているのだと思いますが、目を見開いて感じてみてほしいです。

私が父と最後に交わした会話は些細なことでの「大喧嘩」でした。病に侵されていた父は、その翌日、フラフラでして母と大喧嘩しながらタクシーで病院へ連れて行かれました。怒りが冷め切らない私は心の中で「二度と帰ってくるな、二度と顔も見たくない」と思ってました。そしてその日の夕方、本当に帰らぬ人となりました。あとで悔やんでも二度と交わせる言葉はありません。お互いがお互い尊重しあえていたら、些細なことでの喧嘩なんかなかったはずです。全ては「時遅し」ですね。

後に私は怒り憎しみの闇に覆われていて捕らわれていたことで、非常に尊敬していたことを見失ってしまっていたんです。ただそれまでは普段顔を付き合わせているとそんな事は微塵も感じないもんです。

でも、今考えてみて欲しいです。この一瞬が一期一会ならどうなのだろうと、この一瞬が偶然なのだったらどうなのだろうかと、実は「この一瞬」は奇跡のでもあるんですね、よかれ悪しかれ。よかれ悪しかれ、我の「業」なのだと思いますし、そこには我の「因」があったはずなんです。縁起にたって考えれば、悪しき因や悪しき業なら二度と繰り返さないようにすればいいだけで、簡単なようで非常に難しい。だってそもそも「我」は「存続しようとする」んですから。私は「我」として居る限り、やがてその「我」は一人歩きするんです。そして周りの環境や恵まれた境遇はたまた苦しみのどん底も「我」の中で「渇愛・妄執」「執着」してしまうんです。本当は現状こそが奇跡なのかもしれないのにです。当然「執着」に当たり前になると感謝の念もなくなります。「渇愛・妄執」「執着」は言い換えれば十二支縁起の「」(=渇愛・妄執)「」(=執着)に置き換えられます(十二因縁ってやや複雑で難しいので言及はココではしませんが、静恵先生曰く「渇愛」は再生ほどの意味と言います)。たった一言「ありがとう」と言えれば、たった一言「ごめんなさい」が言えれば、唯一人相手を尊重することが出来れば、たった一瞬でも相手を思いやれればと。

数十兆個の私を組織構成をしている細胞は少なくともそれぞれの使命(プログラムされたとおりに)を熟して今の一瞬を存続しているだけなんでしょうね。少なくとも「生き」「死に」なんて考えてないと思います。そして細胞レベルで既に「自己」(HLA/MHC)を識別までしているんです。根本レベルで識別能力を持ってる私たちは、自己を識別して自他を分別することはもう逃げられない宿命なんでしょうかね。

なのに仏教では「諸法無我」といい「諸行無常」という。

真我(アートマン)」だの「霊」や「魂」があるともないともいわない、だって議論そのもの不毛のことですから。その人の中に答えがあってそれぞれが真実で他者からすれば真実ではないのかもしれないんですよね、本人じゃないから解らないんですよね。仮に個体として生まれて自分の肉体としての実体があり生きていて「我」と認識していて、他者と共有できる心はホンの一部、言葉だったり表情や行動だったり。他者と共有できるのはたった一部です。

私にはどうしても「一切皆苦」が理解できなかった時代がありました。「一切行苦」の表現があることで氷解したんですよね。事象の喜怒哀楽は不安定に変化し続けていくわけですね。

上で言う「苦」は漢訳をした際「दुःख」を「苦」としたわけで、漢訳経典をまっすぐに受け止めて、且つ現代的に「苦」の意味で「一切皆苦」を理解しようとすると理解不能に陥ってしまうかもしれないですね。

つまり上で言う「渇愛・妄執」「執着」は自我においての当たり前は我が儘な勘違いなんですよね。全部は「無明」から来ることです。

追記:実は下書きを11月末日に書いていたのですが、一部負の意味での「当たり前」と言う言葉で表現していて、「坊さんのブログ」で同様に「当たり前」の言葉が散見されたので敢えて封印しようかと思っていたんです。その矢先12月1日どうしても都内(渋谷)に出る用事があって、暫く1年以上お参りできなかった八幡大師大日寺にお邪魔したところこの(大日寺さんに参拝のお許しを連絡しました、ありがとうございます)書きかけの投稿記事にさらなるヒント(「こころの修行塾・じっくりコース」にて途中参加させて頂きました)を頂けたわけです。「お大師」のお導きと思い、『当たり前』を『「渇愛・妄執」「執着」』と置き換えて公開する事にしました(わかりにくくなっていてすみません)。実は今月の行事のご案内が切り替わっておらず、その日に行事があったことを知らないで訪れたんですが、派は違えどやはり「南無大師遍照金剛」ですね。

今、一瞬を大事に!

慧孝さん誕生日おめでとー!

はてさて、私も今ココ、生存証明になっちゃいますが、静恵先生よりメッセージをいただきまして(笑)

弘法大師に曰く、「三界狂人不知狂 四生盲者不識盲 生生生生暗生始 死死死死冥死終」(秘蔵宝鑰)。

過去や未来はわからないけれども、今の一瞬は生まれては滅ぶを繰り返している『輪廻』のようなもの。この一瞬も未来に繋がっていくけれども、過去もまた今の一瞬の鍵でもあると考えたりする。少なくとも戻ることは出来ないし、過去の業は因となって、ランダムに「今、一瞬」に顕れるかもしれない。かといってビクビクしていても仕方ないし、「今、一瞬」を受け止めて観察して気づけ、と私を勇気づけて後押ししてくれているように感じます。御大師様もまたこの「一瞬」が「苦」を知っていたからこその名句が生まれたんでしょうね。私も自戒して往かねばなりませんね。

以我功徳力 如来加持力 及以法界力

有名な三力偈「以我功徳力 如来加持力 及以法界力(我が功徳力と如来の加持力を以ち及び法界力を以て)」、五蘊は仮和合で「空」なのですが、結局は因や縁によって生じています。様々な因や縁の扶助を以って、衆生の平等に具有する法性の界の相互扶助によって物事が成り立っています。・・・「縁起」・・・「お陰様」の関係なワケですね。

この間(・・・と言ってももう数ヶ月前ですが)職場で、「一時停止で捕まったんだよね!」なんて話で盛り上がったんですが、そもそも私が四面楚歌な状態で事故っちゃいまして(物損ですみましたけど)笑えない状況だったんです。まぁ、そんな中、安じてくださったのでしょうか、そんな話題となったんです。交通ルール=道路交通法+慣習等なので「法」は「法」でも「法律」な話に飛んでしまいますが、車で走っていて思っていたんですが、「一時停止線」で止まって眺めていると、面白いことに気が付きます。比較的大型の車両(中型のトラックなど)が曲がってきた時、かすめもせず曲がっていけるんですね。大型のトラックが曲がれないところは「大型を除く」なんて書いてある道もあると思います。まぁ、考えて「一時停止線」引いてるんでしょうがそれを守る限り、まぁ、周りもある程度の安全は保証されるとでも考えればいいでしょうか。もっといえば、オーバーランするくらいなら「黄色でアクセル踏む」(ダメ(笑))のもやむを得ない場合だってあるかもしれませんが、そもそも予測していたら、それも防止できるかもしれませんし、体調や四面楚歌な環境や予測不能な状況や・・・キリがないです。

いずれにしても、雁字搦めに拘束される為の「法律」なのか、法律を利用して安全をとるのか、考え方視点で変わってくるとも言えます。

唯識には三性説という考え方・視点があります。「一時停止線」で止まる自分を「遍計所執性」としたならば「一時停止線」を無視するのも「遍計所執性」といえます。他車(者)の安全確保できているか否かは「依他起性」、その他の空間全体から見て往来が何事もなく流れているのも事故などで渋滞するのも「円成実性」なんて見方も出来るかもしれません。交通と規範に関しては日本は周りにあわせてギリギリラインを判断する(例えばスピードなど)し、ドイツなんかは規範を重視して個々が徹底するんだそうで、スピード違反は逆にあり得ないそうで、国によって慣習も違うなんて聞いたことがあります。まして、規範など決まり事は結局個々に委ねられている(スピード違反で免停食らうのも自己責任という意味で・・・周りからすれば迷惑の場合も多々ですよね)ともいえるので、どっちをとるかの話かもしれません。

またある時、相方が誕生日にはよくミュージカルに招待してくれるんですが、演目の中感動して幕を閉じて、ふと夢から覚めて思ったんです。「アレ?ここは舞台に上がらないでくださいなんて書いてないなぁ」とか「皆さん当たり前って凄いな」と、そもそも、演劇楽しみにきて、舞台に上がってむちゃくちゃにする人はいない・・・(最近そうでもなくなっちゃってきているような気がしないでもない)・・・と思いますし(遍計所執性)、逆をいえば、相互の信頼関係で成り立って(依他起性)いて、無事公演出来ているて観客演者ともによい時間を過ごせる(円成実性)ワケなんですよね。

インターネットのプロトコルもそうで信頼関係で成り立っていますし、法律やなんかの規範も結局は信頼関係を保つために利用するものでしかないのでしょう。まぁ、究極の処、日本に於いては法律はお金で解決する(罰金や慰謝料など)ので、究極的には「守ることが正義」なんていうのは「まやかし」に近く、思考的には「守らなければ罰せられる」「罰せられなければ何でも自由」という考えに陥ってしまいそうで「戒め」の効果はある一定以上は望めない・・・最近テレビのニュースやネットニュースで騒がれているのは、違法性はないものの慣習だったり常識だったり、「世も末なのかな」「残念なお話」なんて思うこともしばしばかもしれません。はたまた「他人事でない」というのもあったりもします。自戒を込めて書けば、まして、「法律は破るためにある」と考えるのは、そういう信頼関係を・・・因や縁を大切に思っていないというか、自己に執着して「業」を作るようなものなのかもしれないです。

習慣や常識なども同じ事が言えます。様々な答えの出せる環境で習慣や常識に則って答えを出すにしても、縛られ過ぎてはダメだと思いますし、単に自己の正当化手段に用いるなら習慣や常識など端から見れば「クソッ喰らえ」・・・単なる自己防衛で終わってしまいがちです。社会で生活していると、ほぼ、これに当てはまってしまいます。

まぁ、「三性説」に強引にはめ込んでしまいましたけど、お許しくださいませ。実際、相手の気持ちや思考、全体の環境や状況などもっと細かに捉えていく必要がありますので、入門的に織り込んでしまっていますので足らないですが、そんな思考もあるということで興味を持ったら唯識も読んでみて欲しいところです。

決まり事のついでで佛教には三学といって「戒・定・恵」を「学」んで修めます。「戒」もまた保つものですが「縛られるべきもの」と考えては修められないものなんだと思います、四向四果の内「預流果」には戒禁取見といい悪見の一つを断じなければならないのが、「学」と区分される一因なのかもしれません。「不殺生戒」なんかはわかりやすいですが、自然界で共存して平等(円成実性)で、お陰様で存在できている(依他起性)からこそ戒として不殺生なんですが、主観(遍計所執性)から見ると、ヘタすれば、ただ「守るべき」なら「学」んで修める必要はないものになってしまうように思います。かといって上の話のように「守る」から「守られる」ワケではないのも事実だったりしますが(遍計所執性)。決めごととしてただ守るのではなく視点を変えて、全体として秩序や体系などよく保たれているのか、周りのためになっているのかも併せて考えてみることも大切だと思ったりします。こんなことを書きながら、致し方なくゴッキーを排除している私も罪深いことなのですが(基本的にこっちに危害を加えない虫ならお外に逃がすのが私のスタンスですが・・・ゴッキーは・・・)。まぁ、害虫と決めているのも人間の偏見なのは承知のことなのですが、ある意味ゴッキーに転生とかヤダなぁ。まぁ、その生に於いて「好い悪い」は感じないでしょうけれども・・・それでもね、この辺りは自我への執着が捨て切れてない証拠でもあるでしょう。

ゴッキーネタで、もう一つ、法律用語の「不作為」の殺生はどうだろうと。例えば知らずに踏んでしまった(有名な「安居」の話にも繋がるのでこちらは割愛)とかならまだしも結局「殺生」になるであろう事が解っていてゴッキーホイホイ置いたらどうなるだろうとか・・・。法律用語で「不作為の殺人」といって、例えば「赤ん坊が餓死してしまうことがわかっていて乳を与えなかった」場合など「殺人」と見なされます。アレはどうなのコレはどうなの?と考えて行くともう収拾がつかなくなっていくのは目に見えていますが、でも・・・殺生戒に限らず戒ってこんな白黒付けるべきものだったのかどうか、三性説に則ってよく考えてみるのも「戒禁取見」に対するテーゼなんだと思います(つまり「学」)。お釈迦様は徹底されていた事も結構あります。その事実しかうかがい知ることは出来ませんし何も語っていただけませんが、思うに、個や法のためだけでなく、僧伽・つまり客観的に見た教団を内的に外的に見渡してそういう徹底した行動をとられていた可能性もあるかもしれませんね。そこまで行くとその行動は「ポリシー」といった方が無難なのでしょうし、そう考えると少なくとも「戒」をどうとかではなく、タイトルの通り「縁」・・・つまり「お陰様」を何処まで考えて行動するかに掛かってくるようにも思えます。

更には弘法大師は「声字実相義」において「五大皆有響。十界具言語。六塵悉文字。法身是実相。(五大に皆響きあり。十界に言語を具す。六塵悉く文字なり。法身は是れ実相なり。)」とか「即身成仏義」では「六大無礙常瑜伽。四種曼荼各不離。三密加持速疾顕。重重帝網名即身。(六大無礙にして常に瑜伽なり。四種曼荼は各々離れず 。三密加持すれば速疾に顕わる。重重帝網なるを即身と名づく。)」なんて仰っています。諸法の実相も、言語化・文字化(符号化とかシンボリズムといった方がいいのかわかりませんが)できるのでしょうね。少なくとも「安居」という習慣や、動作・所作といった「威儀」なども「戒」から学べる、ひとつの回答であるともいえます。そして、「六大無礙常瑜伽」だからこそ法界は「平等性」で「瑜伽」による「円成実性」を学び、「重重帝網名即身」な「依他起性」なこの身と、結局は、一如ということを知らしめてくれているなと思います。まだまだ学ばなければなりません。

以我功徳力 如来加持力 及以法界力 普供養而住

いつもありがとうございます。内容は個人的主観もあるのでかなり偏ってしまいましたが、お許しくださいませ。

天狗道

昨晩書いたブログは何点か間違えやどうでもいい部分に気が付いたので少々書き直しました。

さて、皆さんは天狗をご存じでしょうか。高い鼻とカラスのような翼、鈴掛など修験の装束。。。そうアレ、あの妖怪です。験が出る出ないに入れ込みすぎて本来が見えなくなるとその道に堕ちてしまうのでしょうか。恐らく、自身の自戒のためとして云われはじめたのじゃないかとも思えます。

後期密教では成就法という行法分類が加わっていますが、所謂祈祷法ではなく自身の為の修行法だったりします。どうも中期密教ではこの成就法が欠けているというか、加行に入らない限りは一般に門外不出のもの・・・私たち一般人ができるのは阿字観ぐらいかもしれません。また今の御次第を帳面に留め始めたのは弘法大師だといわれていますが、それまでは経典のまま次第もなく行じていたともいわれています。帳面となった次第を行じることで、誓願を立て、懺悔して、菩提心を起こして、慈悲心を起こし・・・三昧に入っていくように導くお次第となっていることに気が付くはず・・・そう思っているのは私だけでしょうか。

坊さんブログの逆パワースポットの話ですが、そこには天狗さんの石像が横にありました。このパワースポットを敢えて知っていた人がそうならないように置いたとも解釈できそうです。つまり「魔縁に気をつけなさい」と受け取れました。先生が行者さんのお相手をしている内にさっさと勤行を済ませることにして、鈍感な私は何も感じることなく受け取らず下山に着きました。受け取っていないつもりで受け取っているかもしれませんが、それはそれ、業として受け止めるよりほかないでしょうし、ジタバタしてもしょうがないかとも。

実は夢の話(寝た時に見るあの「夢」の話です)ですみませんが、旅行出発の前夜、夢の中に「何でも願いを叶えてくれる神様」が出てきました。夢の中、尊像を預かるのですが、丁寧に祀ると、次いで神霊まで御出になって、あなたの願いを叶えようと・・・そこで目が覚めます。もしそんなことが実際に起きたら皆さんはどうするでしょう?まぁ、願望が夢となっているのは誰でもわかるはずで、進むに進めない自分がいて、もどかしさを感じているわけでそんな現実を受け入れるか受け入れない状況にターニングポイントとしてこんな夢をみたとも言えます。夢の中で私は「何でも願いを叶えてくれる神様」に畏敬の念と感謝の気持ちはあれど、何も願う気が起きなかった、ある意味満ち足りているのかもしれませんし、まずは冷静に受け止めようと思っただけかもしれないです。夢から覚めればそれが心の幻影であるのはわかるんですが、それはさておき、ナイトスタンドブッディストとしてその晩、もしそのような神霊がいらっしゃったとして引き合わせてくださった事や守護してくださることに感謝する気持ちがあれど今必要な事以外は全て他の人々のためにそのお力をお使いくださいとも思ったのでした。目覚めてこんな中で一人旅に出て、最後に引き合った眼光の鋭い「霊能者さん」だったのかもしれません。私の業なのでしょうね、紙一重を自認せねばなりませんね。

仏様は尊ぶべき存在ですし、信仰の対象ですが・・・お釈迦様の説いた「法」が最も大事でそれを忘れては、「法の相続者」にはなれないと改めて自戒したいところです。この天狗のお話は書くのを憚ったのですが、こんな危険性の中にいる・・・魔縁とでもいえばいいのでしょうか、紙一重の処にいる自分に自戒を込めて書き加えることとしました。御大師様がその弟子や信者に天狗になってもらいたかったワケではないですし、多分、伝えたかったことの真意を汲むべきだと感じますし、現代に至るまで数え切れないほどの金剛薩埵によって伝えられてきた「伝統」を大切にしていきたいとも感じます。未だ答えは見つからないですが、悟りたいという気持ちを持続すること、その時々で菩提心も書き換わるかもしれませんが、原点を忘れないこと、慢心せず大事に育てたいと思います。