毘盧遮那考察(2)

節分でしたね、旧暦で正月に当たりますので厄除け祈願をお願いしました!ありがとうございました。2月3日は休日でしたので、昼寝を・・・(笑)して目覚めたら、何かがぽろっと落ちたかのように目覚めがスッキリでした。

さて、梵字を墨書する場合、最初の点「阿(अ)点」を打ちます。どの梵字でもです。全ては「阿字に帰す」といわんかのようです。

胎蔵生曼荼羅には、最初「中台八葉がなかった」と教わったことがあります。その代わり「中心は遍知院の一切如来智印だ」とも。色々読み進めていくと結局は仏像でも尊像でもなく、その「一切如来智印」の象徴が意味することが一番大事(私には「根本仏教」の部分)ということを教わって何か釈然としないけれども、スッキリしたことがあります。そしてその脇には拝火教を捨ててお釈迦様に着いていった「優楼頻羅迦葉」と「伽耶迦葉」が描かれます。密教といえばお護摩ですが、このお二人が出てくるのは何故なのでしょうかね。大日経にはこのお二人出てこないはずで、それを描く方に委ねられているともいえるんですね。

中台八葉院」の中台八葉には毘盧遮那如来と四如来と四菩薩が描かれます。種子は毘盧遮那如来をのぞいて「रं वं सं हं अं अ बु यु」と表現されます。特に四如来は別の種子があり、有名な無所不至の真言では「(नमःसर्वतथागतेभ्यो विज़्वमुखेभ्य सर्वथा)अआअंअः」となります。四つの阿(अ)にはそれぞれ「発心(अ)」「修行(आ)」「菩提(अं)」「涅槃(अः)」が割り当てられます。更に五転阿字といい四つの阿の後に「方便(आः)」を繋げて「五転阿字」といいます。

「発心(अ)」は宝幢如来で「与願印」を結びます。金胎不二に考え方からすれば宝幢如来は金剛界で降魔印の阿閦如来(हूं)と同一とされています。降魔印(触地印)といえばお釈迦様が成道する際の悪魔の声に応えた有名な印です。私にはひたすら発心して(普賢菩薩を目指して)「あなたの願いを叶えたくば、心(識)の瞋恚を取り除け」とよめますがどうでしょうね。

「修行(आ)」は開敷華王如来で大悲の象徴で「施無畏印」を結び、金剛界の宝生如来(त्राः)に相当します。「恐怖をのぞきたくば、心を仏法(宝)を学べ」と。

「菩提(अं)」の無量寿如来は裏も表も同じ阿弥陀如来(ह्रीः)ですね。「定にこそ菩提がある」のでしょうか。

「涅槃(अः)」の天鼓雷音如来は触地印です。金剛界の不空成就如来(अः)です。「諸魔を除けば、心は涅槃に至る」ワケなのでしょうね。

何だか「六根清浄の大祓」を読んでる気がしてきます。

金剛界曼荼羅の五智如来の種子を並べるとこれまた有名な真言で「वंहूंत्राःह्रीःअः」で五大虚空蔵なわけですが、三昧耶会だけは違います。蓮華部心念誦儀軌には「वज्रज्ङनं आः वज्रज्ङनं हूं वज्रज्ङनं त्राः वज्रज्ङनं ह्रीः वज्रज्ङनं अः」となっていて、種子を並べると「आःहूंत्राःह्रीःअः」となります。五転阿字で「आः(方便)」が金剛界でも胎蔵生でも毘盧遮那如来となるわけです。

そして「五智の宝冠」をいただきます。その三昧耶の姿をもうひとつの形でみると「瑜祇塔図」で表されます。

この二つは「आः(方便)」の形で「理知不二」を言い表しているといってもいいんでしょう。更に蓮華部心念誦儀軌の真言をあさってみると「आः」を「阿」と書いているものが散見されます。結局「अ」は地大として解釈もされますが「宇宙」=「曼荼羅」なんでしょう。

摩訶毘盧遮那如来は「曼荼羅」をも含めた象徴なワケですが弘法大師は高野山に密教道場として、曼荼羅をおいています。それは「高野山蓮華曼荼羅図」として読み取ることが出来ます。

さて、「密教」は弘法大師の造語だという解釈があるのを聞いたことがあります。「秘密仏教」なわけですが、敢えて、「密」の字を使ったことがうかがえます。「密」の字を調べると「すきまもなく集まっている。きめが細かい。」様なワケです。そして大師は「菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便を究竟と為す」と敢えて「大日経」から言葉を選んでいます。はじめは何でもいいのかもしれませんが、曼荼羅にせよ梵字にせよ、探求していくと結局「隠された根本」にたどり着くようにできてます。まさに「密」なる教えなんですよね。

泥の中から蕾を伸ばして(泥という名の厄をはらって)、大輪の蓮華の花をバーンと咲かせる日が来ることを願って・・・結局は心と葛藤することが大切な気がします。

毘盧遮那考察(1)

しかし、心の実相というのはとても難解で引っぺがすにしても直すにしてもとてもつらいものがありますね。

怒りの根底を探ってみると、自他が分けられたその時点で、我に不利益であったり都合が悪かったりすると、その時点で「生存欲(自己保存欲求)」だったりが引き金になって、「怒り」が起きていたりするのが解るワケでなかなかそこから離れることが出来ない。「渇愛」も元々は「再生」程の意味だったとのことを静恵先生から教えて頂いたわけですが、結局「渇愛」も「生存欲」「快楽欲」「破壊欲」がへばり付いている限りは、何度も反省して考えを改めようと、また襲ってくる(=「再生」)という、確かに消えることのない亡霊のようなものだったりする、そんな思いをする毎日だったりしてます。

さて、それでも「悟りたい」想いを原点(発心)に心に張り巡らし、維持し続けるのも結構つらい思いも、フッと上で書いたようなことが解ると少し安堵と同時に、もう一回原点に戻ろうと保ち続けるわけだったりする。普賢十大願では四番目に「四者懺悔業障」といい、悪業を悔い改めようと願いを起こすわけですが、見習って・・・続けるというのは結構大変です。

普賢菩薩というと、「金剛峯樓閣一切瑜伽瑜祇經」では、普賢一字心として「वं」としています。この普賢菩薩とは結局、金剛薩埵であり、金剛手菩薩です。さて、金剛界の一印会のお姿を見ると大日如来(वं)ですが、『金剛頂経』によれば「金剛薩埵(一切義成就菩薩)」がそこに描かれるはずです。つまり、金剛薩埵が成道した姿が「金剛界如来」で、それを大日如来(वं)としたのであろう思えます。後期密教では大日如来(वं)とは別に持金剛仏が立てられています。ヒントはそこにあるとも言えるのかもしれないです。

「वं」は五輪塔の「水輪」でもあります。仏教においての「水」といえば、「閼伽水」として供養に用いるわけですが、「布施」波羅密を意味しています。「水」って、空気中に水蒸気となっていますし、もっといえば人体の60%は「水」です。海水に始まり、お日様に温められて、蒸発して雲となり、雨や雪として地上に降り、川となって流れて、また海に注ぐわけですが、生き物を育て、ほんの一部を一時は「あなた」や「私」の一部となりますが、不要になれば、また循環に戻るわけで永遠にめぐり続けます。

お浄土にも水(八功徳水)がありますし、摩訶毘盧遮那仏の住む世界にもその「八功徳水」は瀰漫しています。きっとそれも役目が終われば循環に戻ってくるのかもしれないわけですが、次元が違えば解りませんけれども。大日如来の密厳浄土は現世ですから、循環に戻ると言えます。

そんな「水」のほんのわずかの一部を「閼伽」として供えて役目が終われば循環に戻って・・・(廻向)・・・戻れば他の「水」と差別はありませんし、少なくとも全体において「あなた」や「私」もないとも言える・・・ませんかね。「お布施が大事!」てこういうことなのかもしれないですね。水って実体が液体なのでつかみ所ありませんが、「計測」することが出来ます。ということは一種のエネルギー(風)でもあり得ます。更には東洋医学では「水毒」といって取り過ぎに注意を促しています。つまりは器に合った適量ということ、小欲知足ってことですね。器次第なのでしょうね。

更には知恵を使えば「水」は汚れを洗い流せます(智恵)。汚れは「水」に溶解しなければ沈殿して、「上澄み」はまた綺麗な「水」に戻ります。心の垢も流せるといいんですがね。

ちなみに、「空」という概念を伝える為に「金剛般若経」では「水」を譬えに使っています。ただ、そんな「水」も「空間(अ)」がなければ存在できないわけですが・・・つまり「宇宙」。元々「瑜伽」はヨガなわけですが、ヨガは宇宙と一体になる、「अ」字(宇宙)にダイビングってことでしょうか。

ちなみに、「वं」の字相は「言説(ごんせつ)」ですが、字義は「言説不可得」です。ホントに語り尽くせませんね。

ところで入定大師のお姿って何かに似てませんか?

質問ばかりで答えがありませんが、感じ取ってみることが大切なのでしょうね。

造塔の話

以下は増谷文雄編訳 阿含経典3 からの引用である。最初に、実はお釈迦様とアーナンダとの間で「女人」についての問いがあるが、割愛させてもらいます。

(増支部経典 4-245、増一阿含経 36-3)

ー世尊よ、わたくしどもは、如来の遺身をどのように処理すべきものなのでしょうか

アーナンダよ、そなたたちは、如来の遺身の供養のために煩わされないがよろしい。
さあ、アーナンダよ、そなたたちは、最高の善につとめるがよい。最高の善を修するがよい。
最高の善において、放逸することなく、熱心に、精勤にして住するがよい。
アーナンダよ、如来の信をいだくクシャトリアの学者や、婆羅門の学者や、居士の学者があって、彼らが如来の遺身を供養するであろう。

だが、世尊よ、如来の遺身はどのように処理すべきでありましょうか。

それは、アーナンダよ、転輪聖王の遺身を処理するように、そのように如来の遺身を処理すべきである。

では、世尊よ、転輪聖王の遺身をどのように処理すべきものなのでしょうか。

アーナンダよ、人々は転輪聖王の遺身を新しい布で包む。新しい布で包んで、さらに真新しい麻布で包む。真新しい麻布で包んで、さらに新しい衣で包む。そのようにして、幾重にも幾重にも輪転聖王の遺身を包んで、鉄の油槨に入れ、さらにもう一つの鉄槨で覆い、いろいろの香木の薪を積んで、輪転聖王の遺身を荼毘に付する。
そして、大いなる四衢街道に輪転聖王の塔を造立するのである。アーナンダよ、転輪聖王の遺身はこのように処理するのである。
そして、アーナンダよ、転輪聖王の遺身を処理するように、そのように如来の遺身もまた処理するのである。また、大いなる四衢街道に如来の塔を造立すべきである。そこに、華鬘や香料や顔料を供えて礼拝する者には、長い間にわたって、利益と安楽があるであろう。ー

さて、世尊が入滅したクシナーラーで、マッラ族にご遺体の処理を任せることになる。種々の供養し七日目、ご遺体を移動しようにも移動できないなんてことが起きる。長老アヌルッダ尊者は「諸天意向と異なっているから(意訳)」と答えいうことで、さらに天神とマッラ族と共に種々の供養を捧げることになる。処理方法を聞いたアーナンダ(阿難)によって同じ事を、のマッラ族に伝え、荼毘に伏してもらうこととなる。上の通りに安置し、香木に火をつけようとするが火はつかないのだった。

実は長老マハーカッサパが途中で世尊の最期を聞いて、クシナーラーに向かっていた途中だったという。長老マハーカッサパ一行が着いてすぐの話を続けて、

(律蔵 小品 一一 五百結集犍度、四分律、五四、集法毘尼五百人、五分律、三〇、五百人集法、十誦律 六〇、五百比丘結集三蔵法)

ー長老マハーカッサパは、クシナーラーのマクタ・バンダナ(天冠寺)というマッラ族の廟に赴いた。赴くと衣を一肩にかけ、合掌して、三たび香木の薪をめぐり、足より覆いをとりさって、世尊の御足に頂礼した。
そして、長老マハーカッサパと五百人の比丘たちとが、礼拝し終わった時、世尊の香木の薪はおのずから燃えた。
かくて、世尊の遺体が荼毘せられると、その皮も肉も筋も髄も、その灰も煤も見えなくて、ただの舎利のみが残った。
たとえば、ちょうど酥や油の燃えた時、その灰も煤もみえないように、そのように、世尊の遺体が荼毘せられた時、その灰も煤も見えなくて、ただの舎利のみが残った。そして、かの幾重にも幾重にも重ねた衣のうち、最も内と最も外の二重の衣は焼けた。
そして、世尊の遺体が荼毘せられた時、虚空から水の流れが現れて、世尊の香木の薪を消し、また水倉の水が迸り出でて世尊の香木の薪を消した。また、クシナーラーのマッラ族の人々は、七日の間、公会堂において、槍の垣を造り、弓の柵をめぐらし、舞踏や歌謡や奏楽や華鬘や香料をもって、世尊の遺骸を尊び、敬い、崇めて供養した。ー

この後、舎利は様々な部族に八分され8つの舎利塔となり灰などを分けた瓶塔と灰塔を含めると十に分けられたというのが伝説です。さらに200年後にはマウリヤ朝アショーカ王によって「周辺国も含めて8万余の膨大な寺院に再配布」している。

法身の仏陀の言葉などと、生身の仏陀は、この世を去り「舎利」として残り、今ではどれが本物かも解らないような状態と言っていいと思われる。

世尊は「如来の遺身の供養のために煩わされないがよろしい。」と修行を勧めているが、後世立てられた東南アジア諸国の僧院寺院にはストゥーパやパゴダや仏塔という形で舎利塔が建てられているのは興味深いところである。恐らく、歴史的なものから、信者による寄進により、建てられたものなのだろうと思われる。様々な日本の寺院でも五重塔・三重塔・多宝塔など様々な仏塔が建てられている。さらに、密教に興味のある方なら寺院の大壇に舎利塔が置かれているのはみたことがあるかもしれない。

仏教徒とは「信者」なのか「修行者」なのかよくよく考えさせられることになる。少なくとも私は「佛陀釈迦牟尼如来」の「信者」であり、その「法」・「真理」を学び実践したいと思うからこそ・・・「悟りたい」という気持ちが最優先だからこそ・・・行を通じて、その教えに感謝し供養するというスタンスを取っている。

少なくとも、私はまだ俗世の人なので「お金ないと困る~ヽ(`Д´)ノ」のでそういうご利益もあったらいいなとは思うが・・・「小欲知足」でしょ!という気持ちもあり・・・と・・・そうではなく「智恵」というご利益が正しいだろうと思う。だからこその「安楽」であるとも言えると思う。

さて、この「塔」一体どこかでみたことないでしょうか?曼荼羅の三昧耶形で真ん中に置かれる「塔」の中身は何か?

金剛界曼荼羅では、大日如来の種子は「वं」である。が・・・三昧耶会に月輪中の蓮華の上に「五鈷杵」上に「塔」が描かれている。種子は「आः」であり、胎蔵生曼荼羅の中台八葉の中尊と同じなのを気づきませんでしょうか?

12月8日は「みんなのサンガ」で「成道感謝の日」でした(笑)いつもと変わらずご供養と廻向で皆共に成道を祈ったりしていました。サンガあっての「先生」と「菩薩道」でもありますしね。ありがとうございます。

シンクロニシティ

元々この考え方を提唱したのはカール・ユングです。日本語では共時性なんて言ったりします。曖昧で意味深な事から商売的にはもてはやされる概念なんでしょうね。なのでかなり嫌いな言葉でもありますが、実際、それを感じることが多いのも事実だったりします。

Wikipediaにも書いてあることですが、『従来知られていた「因果性」の原理とは異なる、複数の出来事を離れた場所で、同時期に生起させる原理』であるというんですね。それぞれの個の無意識に共有部分があって(集合的無意識)、共通する『元型』によって起こるそうですね。

「元型」があるとしたら釈迦牟尼仏だったり、その思想であったり、目標であったりが私にとってのソレでありそうな気がします。

そう考えると、サンガにおいて、元型=釈迦如来による共通部分による「縁起」が成り立ちそうな気がしますが、内緒の方向で。変な意味で読者の皆さんが「共時性(シンクロニシティ)」に利用されることがありませんように。

私の念持仏というか枕本尊というか、奉っているのは、あくまでも「生身の佛」様ということで佛舎利です。元々戴いた(というか「お布施しておわけ戴いた」)水晶の舎利塔(パゴダ)に入った「御舎利」だったのですが、数年前火災に遭ってこの身以外は全てを失ったワケで、一時はその水晶の舎利塔の割れて粉々になった欠片をいくつか集めて祀っていました。お分けくださったミャンマー上座部仏教の僧侶に事情をお話ししたところ、改めて2粒とミャンマーのパゴダを象った舎利塔をセットで戴いたものが今の本尊となっています。この世に二つと無い本尊となったわけです。

この場を借りて改めて、ありがとうございます。

実際「御舎利」といっても実物のお釈迦様の御遺骨ではなく、貴石などを舎利として祈念していただいたモノです。嬉しいじゃないですか、やはり、見ず知らずの佛徒に成仏を目指せるように信仰のお供として、祈念していただいた事が。

要は舎利となる貴石を仏舎利として思い込むことから始まるわけです。

今ではそんな御舎利も勝手に増やして三十数粒にして戴いた舎利塔に納めています。たまたま開眼法を知っていたから勝手に開眼していますが、機会あらばちゃんと伝統に従って開眼して戴くかもしれませんし、そのまま拝み続けるかもしれません。最初にわけて戴いた時、実は高野山に得度する前後でして、元々その水晶の舎利塔と御舎利はミャンマー上座部仏教の僧侶に共感した真言宗の僧侶によって寄進されたものを分けていたそうです。

火災に遭って改めてわけて戴いたのは上座部仏教の僧侶によって瞑想会を開いた時に分けたモノだったらしく、所縁が日蓮宗のお寺のようです。私は今は姓が変わっていますが、嫁ぎ(?)先の宗派は日蓮系・菩提寺は真言系というまさに、シンクロニシティなわけですよ(笑)。

当然、「御舎利」=「生身の佛」であり「応供」なワケですけれど、「五濁悪世ノ衆生ハ佛身ヲ見ルニ堪エ不ルガ故ニ 大悲方便ヲ以テ變ジテ金剛ノ舎利ト成ル」ように、お釈迦さんはその土地の信仰に従い弔せたワケで、大小乗関係なく共通で祭られていたワケです。お釈迦さんの時代に「経典」も「仏像」も作らせなかったわけですが、元々後世ゆるされた唯一の形なのであろうと思われます。

華厳経の毘盧遮那佛の如くお釈迦様は”今”何も語ってくれません。シャカ族が太陽の末裔(日種族)とされている話もあり、「光明遍照」つまり「毘盧遮那(वैरोचन)」と如来の十号のようにされたともとれます。少なくとも「佛陀:釈迦」とても深い関わりがあるのは確かですが、所詮は象徴として「架空の佛」とされるのが一般的なんでしょうね。私にとってはその架空の佛様は、あくまでも目指すべき仏陀の姿・・・シンボルであって、そこに内在する「佛法」が最も尊重すべきものであるのが現実で、「如来(金剛)の知恵(根本)」=「御舎利」が信仰の対象においているに過ぎません。

たまたま、その点で大日如来とお釈迦様と繋がったから信仰の対象にしているわけですが、大切なのはあくまでもやっぱり「佛法」=「達磨(ダンマ)」です。

「御舎利」は言うなれば「法」を示す「シンボル」で私にとっての「種子」ですね。別の形で如意宝珠でもあり(「如意融通尊」も祀っていますが、表の形です(笑))、智恵の象徴なワケです。何も語ってくれやしませんが。

経典は一時阿含経に傾倒していました。ただ、これは生の声を口語体にして書かれたモノでその場にいてその環境にいてその境涯でなければ解らない部分があります。例えば以前書きましたように「五感・五官」に対して各々「厭い嫌う」という邦訳が使われているわけですが、これを実生活の中で活かすのではなくあくまでも瞑想や思惟の中で使うべきなのではないかと最近思っています。そうでないと自我喪失もあり得るわけで、軸の無い状態になってしまう場合があるなと言うのが心配でもあります。ですので、今は敢えて「般若」系のお経(実は私の原点が「般若心経」)と「法華」の一部だったり、総持で陀羅尼を読むかとしています。そしてその代表が普賢菩薩乃至観自在菩薩であり、文殊菩薩の智恵でありと。

そんな小難しいことを言っても、そんなたいした人ではなく凡人なので(笑)、そんな今日は「そもそも我とは何ぞや」と坊さん(静恵先生)に聞いていたりしたわけです(笑)。とっても、凡夫なのですよ!

そしてまた、それを元に「思惟」する、日々となります。

「災禍転福」・・・となるといいなぁ

よくも、まぁ、喜無量心書こうと思ってる、このタイミングで・・・ネタとしかいいようがないです。

「凶」来ました~!(笑)

さて8月10日は己巳の日ですので、弁天様にご挨拶してきました。

関東三大弁天の一つ、布施弁天が近くにありまして、「弘法大師空海御作といわれる弁財天像をご本尊(秘仏)として開山された祈願寺」とのことで、この土地に来て一年が過ぎ、今回は舎利禮文を写経して、納めて参りました。浅草寺では結構出る「凶」ですが、相当に運がいいと見える私(苦笑)。

よく観察して中道を歩もうと思います!

観察と言えば・・・観自在菩薩ですね。喜無量心は観自在菩薩を目指すのでしょうね。「観自在菩薩」=「観世音菩薩」だとされています。

観世音菩薩普門品よむと、自分が観自在菩薩になるのはほど遠い話ですよね。「念彼観音力」と言うから念じると言うことなのでしょうけれども、それはそれで勿論のこと、なのでしょうが、目の前のつらい出来事はおはからいにお任せして、そもそも自分で出来ることを考えるとやはり客観的にになることなのでしょうね。私はよく師僧にいわれました。

「あなたが観自在にならなきゃダメだよ!観自在になる為に唯識を学びなさい!」

唯識の話は私にはまだ荷が重い(笑)ので省略させてもらいますが・・・、喜無量心の「観想」を見てみると。

遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は
本来清浄なること 由(なおし)蓮花の
客塵に染せざるが如くして自性清浄なり
我が三密の功徳力を以て故に
觀自在菩薩と等同ならしめん

読んでママなのですが、一つヒントを書くと、「清浄」は「空」に読み替えられるんです。「客塵」は「煩悩」の事ですから、この世での様々な「欲」で生じてしまう、心的不都合とでも言えばいいんでしょうか。染まらない如くの、「自性清浄」・・・「自性空」ってことで理解しています。

実はこの「自性空」、般若心経では単に「空」と言って、「五蘊が皆、(自性)空」と解れば「一切苦厄」を「度」すと言ってます。「自性」って何かなのですが、「チベットの般若心経(ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ, 斎藤 保高, クンチョック シタル著)」によると、「ものごとの本質」であり且つ「他に依らず成立する実態」と解釈できるそうです。そして、漢訳では「五蘊皆空」なのですが梵文での「自性」が漢訳には省略されていて、「度一切苦厄」がありません。また、ここでいう「空」は「空っぽ」という意味で、「五蘊」の「自性」性が「空っぽ」ということ・・・「自性たり得ない」=「無自性」ということなんです。

ピンとこない話ですが「因果によって成立している」と理解するのが最も早いのでしょうか、極論すると「五蘊は「幻」でしかない」ということ、「五蘊」・・・つまり「色」「受」「想」「行」「識」で成立してしまっている「幻」を「見極める」ことということが言えるのだと思います。

お大師さんはこの「度一切苦厄」と「究竟涅槃」を「修行によって得られた境地での利益」=「得楽」だと「般若心経秘鍵」仰っています。そう考えると「得楽」が「喜」無量心なのかな?と思えてしまうのは私だけでしょうか?いずれにしてもその「得楽」は私にはまだまだ解らないことなのですが、そのためには「照見」・・・つまり「自在」に「観察」しなければならないわけです。

やっぱり、ラーダ長老さんの如く観察するわけですよ(笑)。

一説では、観自在菩薩は瑜伽行者を指すなんていうのを聞いたことがありますが、そうすると、少なくとも「菩薩」にはなかなか遠いながらも「観察」を「自在」になれるように目指すという意味で、「観自在菩薩と等同ならしめん」ということになりそうですね。

書き忘れましたが、蓮花は『泥』の中から生えて綺麗な花を咲かせます。そしてその花には「客塵」という『泥』がついてません、その譬えなのだそうで、どろっどろの中に生きている私たちも「花」=「如来蔵」は汚れていないはずなんですよね。本来、汚れが無い(空っぽ)の「想い」は何かによって汚しているわけです、しかも自分の選択によって。汚れていない想いは汚れていない形で、今思っている形とは実は違うのかもしれません。結局は「心の中」の出来事・・・「幻」なんでしょうね。

というわけで、「今日」の「凶」には(「ネタ」という「メッセージ」に対して)、冷静に観察して、「幻」に惑わされないように見極めて真ん中辺を進もうと思います。

もし、「観世音菩薩普門品」にでてくる百戦錬磨の「観音」様になってしまうとしたなら、何でも出来てしまうスーパーマンになれるはずなんです。

「皆の願いが叶いますように」・・・そう読めませんかね?!観音様への思いがつまっているのは確かです。

南無そのまんま

突然ですが、認めたくない自分がいます!。

小学校に入って間もない甥っ子が来て、私に暴言を吐いていきました。

「だからおまえは結婚できないんだ」

え?結婚しているけど?しかし、カチンときました。そして、その晩と翌晩まで引きずって、マイハニーにツラく当たってしまいました。。。

あ、満月か・・・満月は人を狂わせるなぁ(笑)

多分書かなくてもいいことなのでしょうが、先に進めない自分にメッセージとして起きた話なのだろうと、書くことにしました。多分、今の相方に出会わなければ本当にそうなっていただろうと思います(笑)。

複雑な伏線を書くと、その子は義理の弟の子供なのですが、昨年、義理の弟たちは離婚してしまいました。アツアツで結婚して嫁さんの家に入り、お嫁さんの両親と一緒に暮らし始め、一児をもうけたわけですが・・・、義理弟は仕事のことで心を煩い(更にはその宅事情も重なって)、それが引き金となって、昨年、離婚となりました・・・そしてもしかしたら、今現在、周りでそんなことをいっている大人がいて、それをそのまま学習したのでしょう。想像に苦しくない状況と言うことでしょうか。・・・まだ甥っ子は自分の両親が「離婚」したことを理解できておらず「結婚」の意味を理解できていないのだろう、ということになります・・・。

昨今はすぐ結婚して子供がいような関係なくすぐ離婚してしまいます。逆説的にその両者はとても敷居の低い話になってしまいました。そうかと思うと単身のままの人も多い時代です。何がどうしてこうなってしまったのだろうと。

実はこの結婚だとか離婚だとか、一つの社会的な概念でしかありません。逆に社会が形成される為には必要な概念です。ただ、この概念がなくなると、性欲のままに子作りをし・・・自然界のままで、実はそれは決して間違ったことではなかったりします。ただ増えすぎてしまう。近隣の国では逆に「一人っ子政策」なんぞを作り法的に拘束してました。それでもその国では影に隠れて増え続けたわけですが。かたや日本は医療が進み死ぬに死ねない国家では高齢化社会が進んで25%が高齢者というとんでもない状態になっています。先進諸国ではナンバーワン!そしていい意味でも悪い意味でも事例になっていくことで注目の的だったりします。どうしましょうかね~?半ば「人ごと」なのですが、確実に私たちに負担が来ている今日この頃です。

いずれにしても、「生まれれば死ぬ」、実は絶対的なセットです。

「生死の苦海に沈溺して自心を悟らず」

何が一体私たちを悩ませようとしているのか自心に解いてみます。結婚して一児をもうけてやっと一人前という社会通念があります。そしてそういう価値観に縛られて一人前になる為に勉強をして社会に放り出されます。つまり私たちはすり込まれて生きているのかもしれないとしたらどうでしょうか?。

実はここでいう「生死」とは「迷い」のことで、上で言う「生死」ではなかったりします。仮に「苦海」を社会としましょう。

「迷いの社会に放り込まれて自心を悟る必要も暇もない」

そうなんです。社会に生きていれば、戒律の殆ども不要です。殺人や盗みは犯罪です。あちこちで子作りしたらそれはそれで下手すれば社会的に抹殺されます(笑)。多分お釈迦様の生きていた時代も社会があったならば多少の通念は似たものもあったのではないでしょうか?そうなると敢えてこの戒律を入れた意味が不明です。社会の一部として生きるのに殆どは問題ないのですが、ものによっては迷いが生じて首が回らなくなります。たとえば「ダブルスタンダード」などいい例でしょう。

続けて、悲無量心では、

「妄りに分別を生じ 種々の煩悩随煩悩を起す」

とあります。皮肉を込めて訳すなら、石川啄木の言葉を借りて、

「働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」

敢えてこう書かせてもらいましたが、我欲によって目の前の幸せに気がつけないから苦しいママ。

さて、最初の話に戻すと、「結婚」という社会的価値を取り入れた私は、愛別離苦に相当する「離婚」を秘めているから余計苦しいのですね。そして一人前じゃないという世間体・・・つまり社会通念上の自我否定。こりゃぁ苦しいし怒りたくもなります。そして見苦しいですよね、私(笑)。そして何より今そこにある幸せを見えなくさせているのです。

それは「迷い」だけではなく「あたりまえ」という気持ちに変化した時にすでに生じています。

社会的(人間中心の生きている世界において)に正しいかどうかを「世俗諦」といいます(もっと深い意味がありますが一応ここではそうしておくことをお許しを)。「迷い」が生じたらまず人はこの世間での正しさを考えます。その迷いで選択すると「欲」が生じます。その欲はいい意味では生きる糧になります。悪い意味では犯罪や違法行為に走ります。だから宗教や哲学より法学や経済学の方がよっぽど役に立ちます。そして社会での生き方に役立つ方法を選択すればいいんです。

「これでいいのだ」

社会に適合していると言うことです、えぇ。あれ?苦しくないですか?おかしいと思いませんか?そしてその内「このままでいいのだろうか?」と思ったりしませんか?

面白いことを宗教評論家・・・もとい「仏教原理主義者」の ひろさちや さんは御著書「気にしない、気にしない」(PHP文庫)の中で仰っています(今日のお題はそこから取らせていただいて「南無そのまんま」とさせていただきました、感謝)。

「このまんま」…世間の判断

「そのまんま」…仏の判断

仏様や自然界にとって・・・宇宙にとってどうなのよってことです。

「これでいいのだ!・・・けど、それでいいんですか?」

それが、私にとっての永遠のテーマだったりします。つまり「ライフワーク」の仏教・仏道。そして、上で言う戒律、自然界や宇宙とって、つまり仏様の視点に立って事なんですよね。まぁ、それでも人が増えすぎたのかもしれませんが、皆が幸せの方法を仏様視点で探してみるしかありません。それを「真諦」といいます。

実は弘法大師は上で言う「世間諦」や「欲」を「煩悩即菩提」といって否定してはおられないと思うんです。

「生死すなわち涅槃なれば さらに階級なし。煩悩すなわち菩提なれば 断証を労することなし。」(師僧の思想ですみません(笑))

「生死即涅槃」といいます。「涅槃」とは「安らぎ」や「迷い」のたたれた状態(有余涅槃)を指すとしたなら、たとえば社会通念や概念によって支配されている自我には「安らぎ」はきません。

そして、「そのまんま」なのか「このまんま」なのか、社会でも生きていかなければならない私たちにとっての重要な判断材料と言うことは言えます。そして、「如実知自心」がとても大事と言うことを仰っています。

自己同一性」というのがありますが、面白いことに、元々「自我同一性」と呼ばれていて、アイデンティティのことです。実は青年期のことだとされていましたが、この自我、「中年期老年期において何度も繰り返して再構築される」のです。つまり、自我は壊れてしまっても、「自己」はそのまんま、つまり自我が滅しても死にゃぁしません(笑)。そもそも、自我はなかったものでもあるんです。社会概念によってがんじがらめにされてしまった可哀想な「自分」の一部だと思い込んでいる「虚構の自分」でしかありません。一生が勉強と言いますが、一生かかっていいんでしょう。そう思えばこそのんびり続けられます。続けていいんです、きっと。

さて、こうして告白してスッキリしました。

私の苦しみは絶てました。

巻き込んじゃって、不快な思いをされたかたにはすみません。

そしてありがとうございます。

「皆の苦しみがなくなりますように」

そして何より、疲れて帰ってくる、(共働きの)マイハニーを暖かく迎えてあげようと思います。

さて、これらの苦しみを智恵に変えて「虚空蔵菩薩」を目指したいところです。

驀過

驀過、たま~にやってしまいまする(´ω`)ノ

念誦で、母珠(達磨、緒留)を超えてカウントしてしまうことで、法(達磨)を超えるという意味で忌みます。元々僧侶の隠語の「莫迦」はサンスクリットでmoha(मोह 愚)なんだそうで(笑)。つまり、

驀過=莫迦=馬鹿

って事なんでしょか?(笑)

ネタとして用いる日は来ないだろうと思っていたけど、丁度いいので!。

少なくとも、達磨超えて気がついて自分の心の中で「バカん(;´Д`)」と思っているのは確かです。

ちなみに、「金剛頂瑜伽念珠經」に

・・・

珠表菩薩之勝果 於中間絶爲斷漏
繩線貫串表觀音 母珠以表無量壽
愼莫驀過越法罪 皆由念珠積功徳

・・・

とのこと。

さて、慈無量心観、まだ、終わってなかったりする。というのは、普賢菩薩って一体何だろうと。多分、ぐぐると色々出てくると思うのだけど、結局は、普賢菩薩の十誓願に集約されると思われる。

1)礼敬諸仏
2)称讃如来
3)広修供養
4)懺悔業障
5)随喜功徳
6)請転法輪
7)請仏住世
8)常随仏学
9)恒順衆生
10)普皆廻向

諸佛に礼拝し称賛し広く供養を修して、

業障を懺悔して功徳を喜び、

法を説くことを請い、

諸佛が世に住するのを願い、

仏教(法)を学び、

恒に衆生に順い、

普く皆を廻向する。

よく考えてみると、五悔を思い出す内容だったりする・・・と思っていたらまさにそれを説明してくださっているページを見つけたのでリンクしておこうと思う。

住職のひとりごと : 「さんがいずいき」を平易に解す 

いつも指導してくださる静恵先生のところではないのですが参考になりますので。

さて、私は小学校の時、歴史の授業でこう習っている。

「あなたたちは、末法の世に生まれてきたのだから絶対に悟る事は出来ないので諦めなさい。よかったね。」

義務教育の現場で教えられる歴史は残念ながら「誰かの主観」であることを(あえて)教えてくれたのだと勝手にひねて考えている。

かくして、無神論者に育て上げられた私にとって、お釈迦様を讃歎して敬礼するのは、実感こもってよいのです。ただ、「称讃如来」とひたすら真言陀羅尼を念誦する事にも実は疑問を隠せないのが本音で、他力本願になるなら単に、「南無阿弥陀仏」と唱えて連れて行って戴く方がよいようにも思えてしまうのだったりする。たとえば、「紙本白描阿弥陀鉤召図」のように(笑)。いやぁ、極楽浄土に・・・封印されてしまいそうで・・・(苦笑)

さて、密教に説かれる如来・仏・菩薩はどうしたものかと、いうのに私見をば、夢を砕くようならお許しください。

仏画や曼荼羅に描かれる仏様達が実態としているわけではないよなぁ、といつも思うのです。その絵に描かれたシンボル的な意味は確かに何か得体の知れない・・・仏様や神様とかに通じるものがあるのであろうと思っていて、それらは、お釈迦様の「智恵」、お釈迦様の説かれた「法」をシンボル(象徴)化したしたものであり、多分、「法」とか「達磨」とか、「事象」を描いた「理智(वं)」なのだろうと考えている。

真言陀羅尼が「総持」といい、「記憶」を表すといわれているんですが、科学の世界で「記憶」は必ず通るルートがあるのだそうです。
最初は、記銘(符号化)、保持(貯蔵)、想起(検索)、そして忘却。
初っぱな、シンボル(象徴)化、「ロゴス」なのです。
「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」( ヨハネによる福音書1)
お大師さんも
「五大皆有響。 十界具言語。 六塵悉文字。 法身是実相。」
て言ってます。

多分、仏画に描かれる仏様を拝むというよりは、「阿(अ)」字、つまり、私たちの生きている宇宙や現世とその共存・つながりを「諸佛・如来」として讃歎する・・・「ありがとう」だと思えた時、意味を解しました。妄信できない罪深き私をお許しいただければと思いますが、そう考えると、慈無量心、「皆が幸せでありますように」だと思えるようになったわけです。

追記:懺悔って何だろうと。何も戒律を守れなかったりしたことを反省して諸佛に告白する場だけでなく。。。今日の失敗を繰り返さない為に、仏法に照らし合わせて、考えてみる場でもいいのでは?とか思ったりしている。それは「世間」にとって「どうなのか」だけでなく、「宇宙・現世」にとって「どうなのか」という、前向きな事を考える時間でもあると思うんです。

追記の追記:「種子」という言葉も密教の本当の意味なのだと思うのでその内に。。。

慈無量心と菩薩達

癒やし瞑想」に書いたとおり、「金剛頂瑜伽千手千眼觀自在菩薩修行儀軌經」から起こしなおした慈無量心は以下となる

遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は
皆、如来蔵を具し、
三種の身口意の金剛を備えたり
我が三密の功徳力を以て故に
普賢菩薩と等同ならしめん

視点を変えて「四無量心観」を見てみると、自分が仏様の目線になる努力をするものともいえるし、ある意味「修行」の指針にもなることを示してくれている如来蔵は浄菩提心を示しているといわれている。そして、身口意を永遠の金剛の徳に変えること、普賢菩薩(समन्तभद्र)を目指す必要があるということが解る。そうしてみると・・・金剛薩埵そのものですよね。

普賢菩薩って「慈」と「行」の菩薩様なのけれども、私には、同時に「発心」それを保ち続けることの難しさを教えてくれる存在だと思えてならなかったりする。実は「坊さんブログ」で既にフォローくださっていたりする(笑)が、「続けていくこと」の難しさも教えてくれているように思えてならないのが私にとっての普賢菩薩の姿だったりしている。

やめたら、終り、ではなく
やめたら、終らない

同時に、慈無量心の普賢菩薩の続けて、悲無量心では虚空蔵菩薩、喜無量心では観自在菩薩、捨無量心では虚空庫菩薩であることが解る。慈悲喜捨それぞれの文言がそれぞれの菩薩に対応して、「六道四生の一切有情」を対象にしているわけだが、逆に見ると、私たちが目指すべき菩薩の姿あり方を指し示しているともいえると思う。

経典に出てくるような超人的な菩薩になる・・・入我我入して即身成仏という意味ではなく、それぞれの菩薩が目標とでもいえばいいのだろうか。それぞれの菩薩の一部でもあやかって日々を生きていきたいものだと思って・・・・Let’s Night Stand Buddhist!です。

おやすみなさい。

心の縮図

如来蔵は仏性とも覚性とも仏種とも。唯識でいう範囲は「五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識」ということになるらしい。つまりは心の範囲が無意識まで含めるとする。

岡野守也先生の著書「唯識の心理学」ではヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「生物から見た世界」を引用して、ゾウリムシの環世界の話が出てくる。

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ゾウリムシは密生した繊毛に覆われており、それを打って、体軸のまわりをたえず回転しながら水中をすばやく移動する。

ゾウリムシの環世界は環境にあるさまざまな事物の中から常に同じ知覚標識だけを取りだしており、(中略)なんらか刺激が起こると逃避運動が起こる。(中略)この小動物は食物である腐食菌(その環世界のあらゆる事物のうち、刺激を発しないのはこれだけである)にぶつかるとはじめて静止する。

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との部分を引用(「生物から見た世界」)して、つまりは、心の中に「障害物」と「食物」に識別だけ起こって、そこに対する反応が起きていることを「私たちの心の極端な縮図」とおっしゃっている。「なるほど」と思ったのを今でも新鮮に感じていたりする。

「情」があるのが「有情」なら、生理学的には反射で片付けられそうな範囲も含めて、極論この範囲も・・・観察の範囲だといえそう(笑)。当然、不殺生戒による「衆生」とか「生きとし生けるもの」の定義が、「有情」の範囲ともいえそうだけれども、ヴィパッサナー瞑想で自分を観察する範囲と置き換えてみると・・・含まれそうな気がしないでもない。そうかんがえると人間って言う生き物すげー!と思う。・・・もはや私に出来るのは、宇宙全体を全身で感じてみる(まねごと)ぐらいしか出来ないわけですが(笑)・・・それでも全然足らない。まして私は達人でもないので(;´∀`)・・・。

逆説的にとらえると、「六道四生の一切有情」は「私」を「一」としたら、「一」か「全」か、好きな人とか嫌いな人とか、一切考える必要がないと考えてまして、とてもありがたい範囲です(笑)。結局、全身くまなく意識するにしても意識できる範囲は限界があると言えなくもない。

更にいえば、「いましめ」としての「不殺生戒」も応用できますよね。単に「虫」殺しちゃダメなんじゃなくて、「自分と同じ心の縮図を持つ者」なので、自分が大事と同等なだけ宇宙(?環境?)にとっての存在であると考えられるわけですし、逆に宇宙大から考えると、「私」も「虫」また、多分、同等に、平等に必要なんでしょうね。そして共に生きている訳で、仮に「共存」という言葉当てはまるのでしょう。だって、自分の自分だけの「空気」や「水」なんて少なくとも地球上にいる限り定義できないんですよね。

そう考えると好きな人嫌いな人関係なく・・・結構、楽しく範囲が広げられちゃうわけで。だって、その人の何が解るんだか=自分の何が解るんだか、ってことでしょう?!。もやはごめんなさいとしかいいようがない。そんな「自分の心」さえ追い切れないのに、もう他の人様のことときたら・・・そんな自分と同じ心の範囲があるんですよね。

「こいつ嫌い」って考えている自分をも慈しむわけですから、極論、私の「阿(अ)字」の範囲だけ他人の「阿(अ)字」があるわけで。それでもそれが邪魔ならそこを考えなきゃいいワケで。それでも出てくるなら自分に「そう思っちゃってごめんねー」とスルーしてみるとか色々試せます。とどめておくこと、がスタートだと思いますし。もしくは、何か気がついたらすぐ、メモする。メモしきれないなら、放置する。私はくっだらないことまでメモったりします、逆にくだらない内容しかメモしきれませんでした。そのメモ、後で見ると面白いです、恥ずかしいのもあります、まず見せられません(笑)。

そうやって全体から自分を見てみると・・・うまくいかなかった原因、見えてきそうな気がします。つまり見たくない自分、認めたくない自分。言い換えればマーラなんでしょうし「無明」。きっとその反対は「如来蔵」なのかもしれないし、ひとそれぞれの「真理」かもしれないです。そうやって考えると、四無量心観、すごくよく出来てて、結構、じっくりやると面白いです。

根本経典(阿含経)に出てくる方で、ラーダ長老さん、お釈迦さんとの会話が出てくるのです。お題目を戴いて多分その後瞑想するのだと思います。これは読んでもらった方が早いのですが、「欲貪」、「魔羅」、「魔法」、「無常」、「苦」、「無我」、「壊法」、「滅法等」・・・だいたい同じ内容で、「○○は何?」に対して、お釈迦さんは「色」「受」「想」「行」「識」をそれぞれ「○○」であると・・・現代的にいえばこの五蘊を「疑え」といっているのだと思います。

「六道四生の一切有情」のこと書こうと思ってたら・・・飛びすぎました(笑)

火舎香炉

最近はアロマ使っている事は書いたんですが、数年以上前だろうか次第を自行でやっていた時見つけて使っていたのがこれ

え?ずるい?それまで勿論ひとつひとつ盛ってました。すぐに香具自体をコ字のを自作して盛っていたんです。灰に接する山の部分を少し丸めて・・・毎度毎度。若しくはコの字型のお香買っていたんですが・・・・。これを見つけて飛びつきました。結構しますが・・・トータルコストを考えるとおすすめです(笑)。これに抹香300グラム買ってきたら多分、すごい持ちます。経験上、固めておくと真っ白によく燃えます(火舎香炉の大きさは中型ですので中型用だと思います)。上からもう一度しっかり固めて押しておくと焼香の際の乗せやすいです(謎)

ちなみに、事と次第によっては一辺で間に合うかもというのは放っておいて、そもそも、もう普段使いもしていませんが、今C型もあるんですって!(記事書くのにもう一回探してみて発見)。

さらに普段使いは・・・渦巻き香です、えぇ。適当な香炉を用意して、灰をひいて、100円ショップあたりで水道口の「ゴミ受け」金網を買ってきて、逆さにして丸いところを灰の上に少し出して、その上に、渦巻き香をのせる・・・と、渦巻き香消えませんので心配いらずです。金属の網にすれば燃えませんし(笑)

さらに追加で、内緒ですが、渦巻き香選ぶ時に・・・ぐぐる時に、「柄香炉」(何に使うか知っていると思いますけど)を検索に加えて「渦巻き香+柄香炉」でググると結構丁度いいのが出てきます(近くの仏具店で買えるような香炉の口の大きさに丁度よさげです)。まぁ、それでも、香炉の口の大きさは測っておいて選んだ方がいいと思いますけれど。渦巻き香だと、お線香の時間より少し長めに座るなら全然持ちますし、途中で消してまた次回に使えばよいでしょうし。