ありがとうございました!

3日から5日まで静恵先生のところにお邪魔してまいりました。

不動五段護摩を修させていただき、室戸岬や最後は恵果和尚の御廟とに連れて行っていただき、準備から何から何までありがとうございました!

お護摩は緊張しました!ただただ、サンガの皆さんそれぞれの形での皆共成仏道を願わせていただきました。四無量心観、大切だなと。修行には入れるか入れないかの段階の身、人様のお願いなど烏滸がましいのですが、本当に静恵先生にご準備いただいたおかげです。

恵果和尚の御廟では勤行をしながらふと「蓮華座の上に独鈷杵(横置き)」のビジョンが浮かんだのでした。

多分、金剛盤の上の三鈷杵と独鈷杵の位置を間違えてしまいまして「金剛界側が独鈷杵、胎蔵生側は三部で三鈷杵かぁ」と学び直したので記憶の中でその影響もあったかと。失敗も「全てはメッセージ」ですね。

理と智を学んで、独一法界、修行なさい」と仰られているかのようで背中を押していただけた感じでした。多分、必要あらば次の段階にも進めるのでしょうかね。

胎蔵生曼荼羅の金剛部の尊の多く三昧耶形は「蓮華の上に(縦置きの)独鈷杵」ですし、金剛界曼荼羅の蓮華部は「蓮華の上に(縦置きの)独鈷杵」+αなんです。

私は中院流で教わってきてとてもヒントを与えていただけたのですが、先生は三宝院流憲深方ですから、今後先生のところで行じていくのに正式に三宝院流憲深方を学んで、皆サンガの為にも、あわせる必要性もあり学び直す必要があるなと。。。何か方法がないか先輩阿闍梨にも相談したりしてみようと思います。問題は「お暇」という名の余裕がありません(苦笑)ので、また私には更なる目標(何も決まっていないに等しい)の通過点の為の阿闍梨位でしかないのですよね。

それはさておきひたすら楽しかったです!

静恵阿闍梨、御姉(母)様、ぼっちゃんお嬢ちゃん、お嬢のお母様、そして応援&心配してくださった皆様、ありがとうございました。功徳が行き渡りますように。

ブルームーン

3月31日は、ひと月に2度の満月があるのをブルームーンというそうで、青い月が見られるのかと思えばそんなことはなく(笑)。

前回のブログ更新した日、後で知ったのですが、実はその日、叔母が他界し、先週一週間は太ったお腹のせいで礼服を買い換えねばならなくなりの、週末金曜は仕事を早退して通夜、翌日は告別式と、都内と行ったり来たり他の予定もこなしつつと過密スケジュールの週となってしまいました。重なってブルームーンとは色々考えさせられる日でもあったわけで、故人の冥福を祈って動き回りました。

話は変わって、日本では初七日でお不動さん、二七日でお釈迦様・・・となるわけですが、チベット死者の書の方が私にはしっくりきます。私には「”今”を見つめて知ってとっとと”解脱”しろ」と聞こえてくるかのような経典なのですが、実際、哀しみにうちひしがれる遺族に聞かせる為の「モノ」と考えられなくもなく、「生前にちゃんと修行しておきなさい」と聞いてとれなくもなかったりします。葬儀では日本式には参列者に難解な漢文の経典を聞かせるわけですが、ありがたいものなのですが、折角なら参列者に平素な言葉で枕経を読んでくれた方が、遺族達がその時を法門を開く機会にできて(?)よいのかもな?なんて思いもあったりします。勿論伝統も大事なので何ともかんともなのですが・・・私自身が、転生の道を歩むのか・解脱するのか、私にはそんなことがわかる能力があるわけでもなく知るよしもなく、今の積み重ねが未来を作るわけで、思わず着いて出た言葉が、少なくとも今はまだまだガチガチ(我痴ゞ)に現世に執着を残している自分がいることだけはわかった気がします。おかれた現状がカルマなんでしょうから、受け止めていこうと考えた週末でした。

毘盧遮那考察(4)

とある経典の一文を求めて色々読みあさってみていて見つけた一節。

姿や形だけで仏を求めてはならない。姿、形はまことの仏ではない。まことの仏はさとりそのものである。だから、さとりを見る者がまことに仏を見る。
世にすぐれた仏の(すがた)を見て、仏を見たというならば、それは無知の眼の過ちである。仏のまことの相は、世の人には見ることはできない。どんなにすぐれた描写によっても仏を知ることはできないし、どんな言葉によっても仏の相は言い尽くすことはできない。
まことの相とはいっても、実は、相あるものは仏ではない。仏には相がない。しかも、また、思いのままにすばらしい相を示す。
だから、明らかに見て、しかもその相にとらわれないなら、この人は自在の力を得て仏を見たのである。

「仏教聖典(仏教伝道協会制作) 第三章 仏の姿と仏の徳 第一節 三つのすがた」より

言いたいことを言い当ててくれています。問題はこの先・・・典拠元に「こんなんあったっけ?」とちらちら調べてみたんですがよくわからないで終わってしまいました(苦笑)。「華厳経 如来光明覚品」であるならば、以下の部分でしょうか。

若以色性大神力
而欲望見調御士

もし、色性と大神力とをもって、しかも調御士のお釈迦さまを望見したいと欲せば、

是則瞖目顛倒見
彼爲不識最勝法

これはすなわち、眼病の目による、さかさまに倒れて見るものです。彼は最勝の法を識らない者です。

如來身色形相處
一切世間莫能覩

如来の身の色や形の相う処は、すべての世間ではよく観ることはできません。

億那由劫欲思量
妙色威神不可極

億那由のきわめて長い時間に思量したいと欲しても、妙なる色の威神は極めることはできません。

非以相好爲如來
無相離相寂滅法

仏の姿や顔つきをもって、如来と為すのではありません。相が無く、相を離れた寂滅の法です。

一切具足妙境界
隨其所應悉能現

すべての、つぶさに足り、妙なる境界は、その応じる所に随って、ことごとくよく現れます。

諸佛正法不可量
無能分別説其相

諸々の仏の正法は、量ることができません。よく分別してその相を説くこともできません。

諸佛正法無合散
其性本來常寂滅

諸々の仏の正法は合ったり散ったりすることはなく、その性は本来は常に寂滅です。

不以陰數爲如來
遠離取相眞實觀

色受想行識の集合である肉体をもって如来となしてはいません。取る相を遠く離れて真実を観ずれば、

得自在力決定見
言語道斷行處滅

自分の思いのままの力をもって決定して見ることを得ます。話にならず言語道断にして行うところは滅します。

等觀身心無異相
一切内外悉解脱

身の心に異なる相が無いことを等しく観察し、すべての内外はことごとく迷いより解りへと脱したならば、

無量億劫不二念
善逝深遠無所著

量ることのできない億のきわめて長い時間にも不二の念、善逝と言われるお釈迦様の深く遠いとらわれる所がなくなります。

普放妙光明
遍照世境界

あまねく妙なる光明を放ちて、遍く世の境界を照らし出せば、

淨眼一切智
自在深廣義

浄眼のすべての智にして、自分の思いのままに深く広い義です。

一能爲無量
無量能爲一

一つのよく量ることのできないものと成り、量ることのできないよく一となり、

知諸衆生性
隨順一切處

諸々の迷えるこの世の人々の性を知り、すべての処にすなおに随います。

身無所從來
去亦無所至

身は従来するところでななく、去るもまた至る所ではありません。

虚妄非眞實
現有種種身

虚妄は真実ではなく、種々に身があることを現します。

一切諸世間
皆從妄想生

すべての諸々の世間は、皆、妄想に従って生じます。

是諸妄想法
其性未曾有

この諸々の妄想の法は、その性いまだかつて、有ることはなく、

如是眞實相
唯佛能究竟

このように、真実の相はただ仏のみ、よく極めるところです。

若能如是知
是則見導師

もしよくこのように知ることができれば、これはすなわち導師を見ることです。

仏教聖典の部分が該当するとなると、随分意訳しちゃっていることになりますが、言い得て妙なるものに書き換えられてますね(和訳は「経典散策・大方広仏華厳経」より引用させていただきました)。

少なくとも、私たちが求めている「仏画」や「仏名」は佛陀ではないし、お釈迦様は「法の相続者たれ」(南伝 中部経典 三 法嗣経、漢訳 中阿含経 八八 求法経)といい「中道」を説かれ「八正道」を語られています。

現代で「中道」を学ぼうとすると、「中観派」つまり龍樹菩薩に始まる般若系の中論にたどり着きます。日本においては南都六宗の「三論宗」となり弘法大師の密教伝来と共に密教に融合していきます(実はその「三論宗」の中興の祖は聖宝尊師=理源大師とされている。また、寓宗に「成実宗)。もうひとつの流れで「唯識派」によってヨガ(瑜伽)は伝承され、日本においては「法相宗」(南都六宗の一つ、寓宗に「倶舎宗)となり、更には「行基」が学び、東大寺大仏(毘盧遮那佛)開眼供養の導師を勤めたとされています。ちなみにこのインドの学派の中観派と唯識派は対立していたとされています。今においてもこの色(中観派と唯識派)は濃く反映されていると思います。ただ、南都六宗の時代、学僧達は互いの学派を学びあう役割が強かった為か、インドの学派のと似たような道を通り、華厳宗・法相宗・律宗が残り次第に統合されて分派していったように思えます。

さて、東大寺の毘盧遮那佛は「華厳宗」だったりします。この華厳宗の教学(佛の見地に立ってみた「理」)に「重々無尽の縁起」があり、「無自性空」です。

弘法大師の思想はこの華厳宗と三論宗の影響が強かったんだろうと思います。空の思想も大乗仏教では「我空法空」ですが、「秘蔵宝論」で、第四住心(唯心無我心)と第五住心(抜業因種心)の辺りを読むとわかりますが、法空としているのは「五蘊が縁をあって仮に和合して(集まって)いる」と考えられるかどうかの違い(ただそれだけではありませんが)があるようです。つまり、色受想行識が因果関係(縁)によって成立・集まっているのであって、先日の坊さんブログの「現象よりこころに残ってるもの」に甚く感動したワケです。それらの「色も空だよ」と、「色即是空」だということだったり、現象って作り出すことも・・・可能かもというところに行き着きますものね。で、もうひとつの種子をだすと「हूं(吽)」字で字義は「因業不可得」です。「अ(阿)」字の「空」相がわかると、因果の法則まで変わってくるって事でしょうかね。

「हूं(吽)」字は金剛界で金剛薩埵、「吽字義」では大日如来の種子として語られています。

追記:私信

遅ればせながら、慧孝さん、慧孝さんの娘様の女王様、おめでとうございます(・∀・)ノ

毘盧遮那考察(3)

「अ」字は大日経具縁品や般若経四十二字門もかもわかるとおり「一切諸法本不生」とします。「不生」は般若心経の「是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減」であり、つまり遠回しに「空相」であると言っていると思います。

少なくとも御大師様が著された「般若心経秘鍵」では「分別諸乗分」の「絶(文殊菩薩の無意味に議論を絶つことを説かれる教え)」と仰って「無戯論如来の深い悟りの境地」としています。

更に「無戯論如来」の「無戯論」とは「離戯論」と同義ですから”言葉では表現しきれない”真実の論、ということでしょう。「वं(鑁)」字言説不可得とうかんで腑に落ちてしまいます。

御大師は「御遺告」で「阿含経」の名前を出されていますから、当然のこと、元々お釈迦様が「地水火風」の四大は触れて弟子達にお話しされていて、その当時の思想に「空」の概念が含まれていなかった事は知っていたのでは?と思ったりもします。それでも「空」を追い求めて探って私たちに示してくれているように思えます。

根本仏教で「空」は「我空法有」といい、大乗仏教では「我空法空」としています。「我」とは「真我」や心奥に住す「神」や「魂」なのでしょうが、三法印でいえば、「諸法無我」です。根本仏教でも大乗仏教でも共通しているわけですが、「法空」や「法有」の「法」は「色受想行識」・・・つまり「五蘊」が「有」のか「空」なのかという問いだったりします。物理世界としての「自己」はどう否定しても「有」ので、「我」はどうも「自我」を指していると捉えるのがいいように思ってます。「自己」は客観的存在、「自我」は主観的存在とでも置き換えたらわかりやすいのでしょうか。その中でも「貪」・「瞋」・「痴」の「三毒」に起因する「自我」が問題なのであって、自身を否定するよりは、起きている事象のなかで客観的に「三毒」のいずれかか、複合されているか、自省して、自分を自分でコントロールすることが必要なんだと思えます。自分が救われる道に他者をコントロールするなんて、自分さえコントロールできないのに可能だと思います?そんな自分勝手なお願いが叶うと思います?私はあり得ないと思って、現在に至っています。前にも書きましたが「自己同一性」を病気のようなこととしてでなく、自身で自分の為にコントロールする為に行う・治して正すっていう意味で、そのままなワケですが。。。自分が変わればいいということなんではないでしょうか?さて、「空」を小難しく考える必要もありますが、根本に戻って「空虚」や「空っぽ」と簡単に割り切って心の中(識)の「自我」が「空っぽ」でも「自己」は存在し続けます。

昔、エンジニアを生業にしていた頃、コンピュータを使う上でプログラムを書きます。関数という「器」を人間様が宣言して、コンピュータ(のOS)にお任せでメモリを割り当てます。

int var = 0;

宣言と同時に初期化も行っていますが、初期化をせずに「器」だけ、宣言したらどうなるでしょう?・・・「答え、そのメモリ上に書かれていた数値を使う」です。ですから、「初期化をしましょう」って話です。更にはみんなお行儀がいいのでプログラムを終了する時に「0」に戻しておいてくれたり、OSがそうしてくれる場合もあります。

人間の感情はコンピュータほど簡単なものではありません。皮膚の細胞に至っては物理的な免疫・・・体内を保護しますが、もしかしたら「隣とくっついている」だけの使命を果たしているだけかもしれません。その塊が集まりに集まって、60兆、皮膚となり、内臓となり、骨となり・・・生き物を形成しているわけですが、そこに「心」という「識」を総合的に集まって形成しているとも言えます。当然、最初は小さな使命で繋がっているだけかもしれませんが、やがて「生きる」ことを考え、「欲」が生まれて、「貪」・「瞋」・「痴」と共に生きることになってしまうという構図ですね。そこに気がつくことを、私的に表現すると「空」はその上で説明した「関数」という「器」だけの状態に似ているなと勝手に思っています。ちゃんと初期化さえしてしまえば、あとは実は自由に定義できるし、自由に使っていいものだったりしています。初期化しないメモリは、所謂、慣習や常識などに雁字搦めにされた集団意識・社会にポンと自分がおかれた時に、何かの行動をとると、初期化が済んでいない自我がその雁字搦めの落とし穴に填まる(全てではないにせよ「悪業を積む」ことにもなる)という構造に似ているなと思います。更には最近は複雑で、ダブルスタンダードの中に於かれているものが沢山あります。いずれを選ぶとしても「自分を満足」させる為に「自分の都合のいい」選択をしていることが多々あります。自戒を込めて書けば、そういう「誰かが言ったこと」に「疑い」を持つのも大切なにかもしれません。そもそも「不生不滅不垢不浄不増不減」なはずの話です。断っておきますが、社会に反骨する事でも乱すことでも、逆に八方美人になることでもないですが、仏法・中道を選択するとある意味「マイノリティ」は避けられないかもしれませんが、大体はそうならずに済むと思います。

実践して体験して納得したのはこの程度の「空」でしかないので、それもここに書けるのはごく一部ですし、実践し切れていないのが現状で、まだ入り口・玄関に入っているに過ぎません。玄関はその奥があるということでをれを明らかにすることが、私の由来だったりします。物質が量子の世界に入って・・・原子が「不確定性原理」においても静止せず一定の振動があるとされていますが、「ゼロ点エネルギー」(略してZPE、URLの由来です)は、いうなれば「あがき」のようなものなのかもしれないですし、結局は「苦」の根源を除きたいという一点に帰りたちます。何でしょうね?「菩提心」だと思います。

この「空」の思想・思考は、弘法大師がお名前に「空」の字を入れたのも、御大師にとってこの「空」の思想がとても重要だったから命がけで求法の旅に出られたのかなと私は勝手に想像してしまいます。奥が深すぎて私のような凡夫には計り知れない・・・ですよね。

元の話に戻りますが、「अ(阿)」字「本不生」、「空」相や「有」、梵字では「本初」です。赤ちゃんが生まれて最初にするのも「あ~」って泣くわけで、入り口です。「空」ですら入り口なのですから「अ(阿)」字を二編でも足りないワケです。

さて、大乗って何でしょう?「十牛図」では俗世に戻ってくる必要性があります。返本還源にも至ってないので、こんな、他愛のない話ですみません。そんなのでも「ブログやってみれば?」「法を説いてみれば?」なんていって頂けた先生には申し訳ない内容・・・拙い文ですが・・・ありがとうございます。

毘盧遮那考察(2)

節分でしたね、旧暦で正月に当たりますので厄除け祈願をお願いしました!ありがとうございました。2月3日は休日でしたので、昼寝を・・・(笑)して目覚めたら、何かがぽろっと落ちたかのように目覚めがスッキリでした。

さて、梵字を墨書する場合、最初の点「阿(अ)点」を打ちます。どの梵字でもです。全ては「阿字に帰す」といわんかのようです。

胎蔵生曼荼羅には、最初「中台八葉がなかった」と教わったことがあります。その代わり「中心は遍知院の一切如来智印だ」とも。色々読み進めていくと結局は仏像でも尊像でもなく、その「一切如来智印」の象徴が意味することが一番大事(私には「根本仏教」の部分)ということを教わって何か釈然としないけれども、スッキリしたことがあります。そしてその脇には拝火教を捨ててお釈迦様に着いていった「優楼頻羅迦葉」と「伽耶迦葉」が描かれます。密教といえばお護摩ですが、このお二人が出てくるのは何故なのでしょうかね。大日経にはこのお二人出てこないはずで、それを描く方に委ねられているともいえるんですね。

中台八葉院」の中台八葉には毘盧遮那如来と四如来と四菩薩が描かれます。種子は毘盧遮那如来をのぞいて「रं वं सं हं अं अ बु यु」と表現されます。特に四如来は別の種子があり、有名な無所不至の真言では「(नमःसर्वतथागतेभ्यो विज़्वमुखेभ्य सर्वथा)अआअंअः」となります。四つの阿(अ)にはそれぞれ「発心(अ)」「修行(आ)」「菩提(अं)」「涅槃(अः)」が割り当てられます。更に五転阿字といい四つの阿の後に「方便(आः)」を繋げて「五転阿字」といいます。

「発心(अ)」は宝幢如来で「与願印」を結びます。金胎不二に考え方からすれば宝幢如来は金剛界で降魔印の阿閦如来(हूं)と同一とされています。降魔印(触地印)といえばお釈迦様が成道する際の悪魔の声に応えた有名な印です。私にはひたすら発心して(普賢菩薩を目指して)「あなたの願いを叶えたくば、心(識)の瞋恚を取り除け」とよめますがどうでしょうね。

「修行(आ)」は開敷華王如来で大悲の象徴で「施無畏印」を結び、金剛界の宝生如来(त्राः)に相当します。「恐怖をのぞきたくば、心を仏法(宝)を学べ」と。

「菩提(अं)」の無量寿如来は裏も表も同じ阿弥陀如来(ह्रीः)ですね。「定にこそ菩提がある」のでしょうか。

「涅槃(अः)」の天鼓雷音如来は触地印です。金剛界の不空成就如来(अः)です。「諸魔を除けば、心は涅槃に至る」ワケなのでしょうね。

何だか「六根清浄の大祓」を読んでる気がしてきます。

金剛界曼荼羅の五智如来の種子を並べるとこれまた有名な真言で「वंहूंत्राःह्रीःअः」で五大虚空蔵なわけですが、三昧耶会だけは違います。蓮華部心念誦儀軌には「वज्रज्ङनं आः वज्रज्ङनं हूं वज्रज्ङनं त्राः वज्रज्ङनं ह्रीः वज्रज्ङनं अः」となっていて、種子を並べると「आःहूंत्राःह्रीःअः」となります。五転阿字で「आः(方便)」が金剛界でも胎蔵生でも毘盧遮那如来となるわけです。

そして「五智の宝冠」をいただきます。その三昧耶の姿をもうひとつの形でみると「瑜祇塔図」で表されます。

この二つは「आः(方便)」の形で「理知不二」を言い表しているといってもいいんでしょう。更に蓮華部心念誦儀軌の真言をあさってみると「आः」を「阿」と書いているものが散見されます。結局「अ」は地大として解釈もされますが「宇宙」=「曼荼羅」なんでしょう。

摩訶毘盧遮那如来は「曼荼羅」をも含めた象徴なワケですが弘法大師は高野山に密教道場として、曼荼羅をおいています。それは「高野山蓮華曼荼羅図」として読み取ることが出来ます。

さて、「密教」は弘法大師の造語だという解釈があるのを聞いたことがあります。「秘密仏教」なわけですが、敢えて、「密」の字を使ったことがうかがえます。「密」の字を調べると「すきまもなく集まっている。きめが細かい。」様なワケです。そして大師は「菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便を究竟と為す」と敢えて「大日経」から言葉を選んでいます。はじめは何でもいいのかもしれませんが、曼荼羅にせよ梵字にせよ、探求していくと結局「隠された根本」にたどり着くようにできてます。まさに「密」なる教えなんですよね。

泥の中から蕾を伸ばして(泥という名の厄をはらって)、大輪の蓮華の花をバーンと咲かせる日が来ることを願って・・・結局は心と葛藤することが大切な気がします。

毘盧遮那考察(1)

しかし、心の実相というのはとても難解で引っぺがすにしても直すにしてもとてもつらいものがありますね。

怒りの根底を探ってみると、自他が分けられたその時点で、我に不利益であったり都合が悪かったりすると、その時点で「生存欲(自己保存欲求)」だったりが引き金になって、「怒り」が起きていたりするのが解るワケでなかなかそこから離れることが出来ない。「渇愛」も元々は「再生」程の意味だったとのことを静恵先生から教えて頂いたわけですが、結局「渇愛」も「生存欲」「快楽欲」「破壊欲」がへばり付いている限りは、何度も反省して考えを改めようと、また襲ってくる(=「再生」)という、確かに消えることのない亡霊のようなものだったりする、そんな思いをする毎日だったりしてます。

さて、それでも「悟りたい」想いを原点(発心)に心に張り巡らし、維持し続けるのも結構つらい思いも、フッと上で書いたようなことが解ると少し安堵と同時に、もう一回原点に戻ろうと保ち続けるわけだったりする。普賢十大願では四番目に「四者懺悔業障」といい、悪業を悔い改めようと願いを起こすわけですが、見習って・・・続けるというのは結構大変です。

普賢菩薩というと、「金剛峯樓閣一切瑜伽瑜祇經」では、普賢一字心として「वं」としています。この普賢菩薩とは結局、金剛薩埵であり、金剛手菩薩です。さて、金剛界の一印会のお姿を見ると大日如来(वं)ですが、『金剛頂経』によれば「金剛薩埵(一切義成就菩薩)」がそこに描かれるはずです。つまり、金剛薩埵が成道した姿が「金剛界如来」で、それを大日如来(वं)としたのであろう思えます。後期密教では大日如来(वं)とは別に持金剛仏が立てられています。ヒントはそこにあるとも言えるのかもしれないです。

「वं」は五輪塔の「水輪」でもあります。仏教においての「水」といえば、「閼伽水」として供養に用いるわけですが、「布施」波羅密を意味しています。「水」って、空気中に水蒸気となっていますし、もっといえば人体の60%は「水」です。海水に始まり、お日様に温められて、蒸発して雲となり、雨や雪として地上に降り、川となって流れて、また海に注ぐわけですが、生き物を育て、ほんの一部を一時は「あなた」や「私」の一部となりますが、不要になれば、また循環に戻るわけで永遠にめぐり続けます。

お浄土にも水(八功徳水)がありますし、摩訶毘盧遮那仏の住む世界にもその「八功徳水」は瀰漫しています。きっとそれも役目が終われば循環に戻ってくるのかもしれないわけですが、次元が違えば解りませんけれども。大日如来の密厳浄土は現世ですから、循環に戻ると言えます。

そんな「水」のほんのわずかの一部を「閼伽」として供えて役目が終われば循環に戻って・・・(廻向)・・・戻れば他の「水」と差別はありませんし、少なくとも全体において「あなた」や「私」もないとも言える・・・ませんかね。「お布施が大事!」てこういうことなのかもしれないですね。水って実体が液体なのでつかみ所ありませんが、「計測」することが出来ます。ということは一種のエネルギー(風)でもあり得ます。更には東洋医学では「水毒」といって取り過ぎに注意を促しています。つまりは器に合った適量ということ、小欲知足ってことですね。器次第なのでしょうね。

更には知恵を使えば「水」は汚れを洗い流せます(智恵)。汚れは「水」に溶解しなければ沈殿して、「上澄み」はまた綺麗な「水」に戻ります。心の垢も流せるといいんですがね。

ちなみに、「空」という概念を伝える為に「金剛般若経」では「水」を譬えに使っています。ただ、そんな「水」も「空間(अ)」がなければ存在できないわけですが・・・つまり「宇宙」。元々「瑜伽」はヨガなわけですが、ヨガは宇宙と一体になる、「अ」字(宇宙)にダイビングってことでしょうか。

ちなみに、「वं」の字相は「言説(ごんせつ)」ですが、字義は「言説不可得」です。ホントに語り尽くせませんね。

ところで入定大師のお姿って何かに似てませんか?

質問ばかりで答えがありませんが、感じ取ってみることが大切なのでしょうね。

造塔の話

以下は増谷文雄編訳 阿含経典3 からの引用である。最初に、実はお釈迦様とアーナンダとの間で「女人」についての問いがあるが、割愛させてもらいます。

(増支部経典 4-245、増一阿含経 36-3)

ー世尊よ、わたくしどもは、如来の遺身をどのように処理すべきものなのでしょうか

アーナンダよ、そなたたちは、如来の遺身の供養のために煩わされないがよろしい。
さあ、アーナンダよ、そなたたちは、最高の善につとめるがよい。最高の善を修するがよい。
最高の善において、放逸することなく、熱心に、精勤にして住するがよい。
アーナンダよ、如来の信をいだくクシャトリアの学者や、婆羅門の学者や、居士の学者があって、彼らが如来の遺身を供養するであろう。

だが、世尊よ、如来の遺身はどのように処理すべきでありましょうか。

それは、アーナンダよ、転輪聖王の遺身を処理するように、そのように如来の遺身を処理すべきである。

では、世尊よ、転輪聖王の遺身をどのように処理すべきものなのでしょうか。

アーナンダよ、人々は転輪聖王の遺身を新しい布で包む。新しい布で包んで、さらに真新しい麻布で包む。真新しい麻布で包んで、さらに新しい衣で包む。そのようにして、幾重にも幾重にも輪転聖王の遺身を包んで、鉄の油槨に入れ、さらにもう一つの鉄槨で覆い、いろいろの香木の薪を積んで、輪転聖王の遺身を荼毘に付する。
そして、大いなる四衢街道に輪転聖王の塔を造立するのである。アーナンダよ、転輪聖王の遺身はこのように処理するのである。
そして、アーナンダよ、転輪聖王の遺身を処理するように、そのように如来の遺身もまた処理するのである。また、大いなる四衢街道に如来の塔を造立すべきである。そこに、華鬘や香料や顔料を供えて礼拝する者には、長い間にわたって、利益と安楽があるであろう。ー

さて、世尊が入滅したクシナーラーで、マッラ族にご遺体の処理を任せることになる。種々の供養し七日目、ご遺体を移動しようにも移動できないなんてことが起きる。長老アヌルッダ尊者は「諸天意向と異なっているから(意訳)」と答えいうことで、さらに天神とマッラ族と共に種々の供養を捧げることになる。処理方法を聞いたアーナンダ(阿難)によって同じ事を、のマッラ族に伝え、荼毘に伏してもらうこととなる。上の通りに安置し、香木に火をつけようとするが火はつかないのだった。

実は長老マハーカッサパが途中で世尊の最期を聞いて、クシナーラーに向かっていた途中だったという。長老マハーカッサパ一行が着いてすぐの話を続けて、

(律蔵 小品 一一 五百結集犍度、四分律、五四、集法毘尼五百人、五分律、三〇、五百人集法、十誦律 六〇、五百比丘結集三蔵法)

ー長老マハーカッサパは、クシナーラーのマクタ・バンダナ(天冠寺)というマッラ族の廟に赴いた。赴くと衣を一肩にかけ、合掌して、三たび香木の薪をめぐり、足より覆いをとりさって、世尊の御足に頂礼した。
そして、長老マハーカッサパと五百人の比丘たちとが、礼拝し終わった時、世尊の香木の薪はおのずから燃えた。
かくて、世尊の遺体が荼毘せられると、その皮も肉も筋も髄も、その灰も煤も見えなくて、ただの舎利のみが残った。
たとえば、ちょうど酥や油の燃えた時、その灰も煤もみえないように、そのように、世尊の遺体が荼毘せられた時、その灰も煤も見えなくて、ただの舎利のみが残った。そして、かの幾重にも幾重にも重ねた衣のうち、最も内と最も外の二重の衣は焼けた。
そして、世尊の遺体が荼毘せられた時、虚空から水の流れが現れて、世尊の香木の薪を消し、また水倉の水が迸り出でて世尊の香木の薪を消した。また、クシナーラーのマッラ族の人々は、七日の間、公会堂において、槍の垣を造り、弓の柵をめぐらし、舞踏や歌謡や奏楽や華鬘や香料をもって、世尊の遺骸を尊び、敬い、崇めて供養した。ー

この後、舎利は様々な部族に八分され8つの舎利塔となり灰などを分けた瓶塔と灰塔を含めると十に分けられたというのが伝説です。さらに200年後にはマウリヤ朝アショーカ王によって「周辺国も含めて8万余の膨大な寺院に再配布」している。

法身の仏陀の言葉などと、生身の仏陀は、この世を去り「舎利」として残り、今ではどれが本物かも解らないような状態と言っていいと思われる。

世尊は「如来の遺身の供養のために煩わされないがよろしい。」と修行を勧めているが、後世立てられた東南アジア諸国の僧院寺院にはストゥーパやパゴダや仏塔という形で舎利塔が建てられているのは興味深いところである。恐らく、歴史的なものから、信者による寄進により、建てられたものなのだろうと思われる。様々な日本の寺院でも五重塔・三重塔・多宝塔など様々な仏塔が建てられている。さらに、密教に興味のある方なら寺院の大壇に舎利塔が置かれているのはみたことがあるかもしれない。

仏教徒とは「信者」なのか「修行者」なのかよくよく考えさせられることになる。少なくとも私は「佛陀釈迦牟尼如来」の「信者」であり、その「法」・「真理」を学び実践したいと思うからこそ・・・「悟りたい」という気持ちが最優先だからこそ・・・行を通じて、その教えに感謝し供養するというスタンスを取っている。

少なくとも、私はまだ俗世の人なので「お金ないと困る~ヽ(`Д´)ノ」のでそういうご利益もあったらいいなとは思うが・・・「小欲知足」でしょ!という気持ちもあり・・・と・・・そうではなく「智恵」というご利益が正しいだろうと思う。だからこその「安楽」であるとも言えると思う。

さて、この「塔」一体どこかでみたことないでしょうか?曼荼羅の三昧耶形で真ん中に置かれる「塔」の中身は何か?

金剛界曼荼羅では、大日如来の種子は「वं」である。が・・・三昧耶会に月輪中の蓮華の上に「五鈷杵」上に「塔」が描かれている。種子は「आः」であり、胎蔵生曼荼羅の中台八葉の中尊と同じなのを気づきませんでしょうか?

12月8日は「みんなのサンガ」で「成道感謝の日」でした(笑)いつもと変わらずご供養と廻向で皆共に成道を祈ったりしていました。サンガあっての「先生」と「菩薩道」でもありますしね。ありがとうございます。

シンクロニシティ

元々この考え方を提唱したのはカール・ユングです。日本語では共時性なんて言ったりします。曖昧で意味深な事から商売的にはもてはやされる概念なんでしょうね。なのでかなり嫌いな言葉でもありますが、実際、それを感じることが多いのも事実だったりします。

Wikipediaにも書いてあることですが、『従来知られていた「因果性」の原理とは異なる、複数の出来事を離れた場所で、同時期に生起させる原理』であるというんですね。それぞれの個の無意識に共有部分があって(集合的無意識)、共通する『元型』によって起こるそうですね。

「元型」があるとしたら釈迦牟尼仏だったり、その思想であったり、目標であったりが私にとってのソレでありそうな気がします。

そう考えると、サンガにおいて、元型=釈迦如来による共通部分による「縁起」が成り立ちそうな気がしますが、内緒の方向で。変な意味で読者の皆さんが「共時性(シンクロニシティ)」に利用されることがありませんように。

私の念持仏というか枕本尊というか、奉っているのは、あくまでも「生身の佛」様ということで佛舎利です。元々戴いた(というか「お布施しておわけ戴いた」)水晶の舎利塔(パゴダ)に入った「御舎利」だったのですが、数年前火災に遭ってこの身以外は全てを失ったワケで、一時はその水晶の舎利塔の割れて粉々になった欠片をいくつか集めて祀っていました。お分けくださったミャンマー上座部仏教の僧侶に事情をお話ししたところ、改めて2粒とミャンマーのパゴダを象った舎利塔をセットで戴いたものが今の本尊となっています。この世に二つと無い本尊となったわけです。

この場を借りて改めて、ありがとうございます。

実際「御舎利」といっても実物のお釈迦様の御遺骨ではなく、貴石などを舎利として祈念していただいたモノです。嬉しいじゃないですか、やはり、見ず知らずの佛徒に成仏を目指せるように信仰のお供として、祈念していただいた事が。

要は舎利となる貴石を仏舎利として思い込むことから始まるわけです。

今ではそんな御舎利も勝手に増やして三十数粒にして戴いた舎利塔に納めています。たまたま開眼法を知っていたから勝手に開眼していますが、機会あらばちゃんと伝統に従って開眼して戴くかもしれませんし、そのまま拝み続けるかもしれません。最初にわけて戴いた時、実は高野山に得度する前後でして、元々その水晶の舎利塔と御舎利はミャンマー上座部仏教の僧侶に共感した真言宗の僧侶によって寄進されたものを分けていたそうです。

火災に遭って改めてわけて戴いたのは上座部仏教の僧侶によって瞑想会を開いた時に分けたモノだったらしく、所縁が日蓮宗のお寺のようです。私は今は姓が変わっていますが、嫁ぎ(?)先の宗派は日蓮系・菩提寺は真言系というまさに、シンクロニシティなわけですよ(笑)。

当然、「御舎利」=「生身の佛」であり「応供」なワケですけれど、「五濁悪世ノ衆生ハ佛身ヲ見ルニ堪エ不ルガ故ニ 大悲方便ヲ以テ變ジテ金剛ノ舎利ト成ル」ように、お釈迦さんはその土地の信仰に従い弔せたワケで、大小乗関係なく共通で祭られていたワケです。お釈迦さんの時代に「経典」も「仏像」も作らせなかったわけですが、元々後世ゆるされた唯一の形なのであろうと思われます。

華厳経の毘盧遮那佛の如くお釈迦様は”今”何も語ってくれません。シャカ族が太陽の末裔(日種族)とされている話もあり、「光明遍照」つまり「毘盧遮那(वैरोचन)」と如来の十号のようにされたともとれます。少なくとも「佛陀:釈迦」とても深い関わりがあるのは確かですが、所詮は象徴として「架空の佛」とされるのが一般的なんでしょうね。私にとってはその架空の佛様は、あくまでも目指すべき仏陀の姿・・・シンボルであって、そこに内在する「佛法」が最も尊重すべきものであるのが現実で、「如来(金剛)の知恵(根本)」=「御舎利」が信仰の対象においているに過ぎません。

たまたま、その点で大日如来とお釈迦様と繋がったから信仰の対象にしているわけですが、大切なのはあくまでもやっぱり「佛法」=「達磨(ダンマ)」です。

「御舎利」は言うなれば「法」を示す「シンボル」で私にとっての「種子」ですね。別の形で如意宝珠でもあり(「如意融通尊」も祀っていますが、表の形です(笑))、智恵の象徴なワケです。何も語ってくれやしませんが。

経典は一時阿含経に傾倒していました。ただ、これは生の声を口語体にして書かれたモノでその場にいてその環境にいてその境涯でなければ解らない部分があります。例えば以前書きましたように「五感・五官」に対して各々「厭い嫌う」という邦訳が使われているわけですが、これを実生活の中で活かすのではなくあくまでも瞑想や思惟の中で使うべきなのではないかと最近思っています。そうでないと自我喪失もあり得るわけで、軸の無い状態になってしまう場合があるなと言うのが心配でもあります。ですので、今は敢えて「般若」系のお経(実は私の原点が「般若心経」)と「法華」の一部だったり、総持で陀羅尼を読むかとしています。そしてその代表が普賢菩薩乃至観自在菩薩であり、文殊菩薩の智恵でありと。

そんな小難しいことを言っても、そんなたいした人ではなく凡人なので(笑)、そんな今日は「そもそも我とは何ぞや」と坊さん(静恵先生)に聞いていたりしたわけです(笑)。とっても、凡夫なのですよ!

そしてまた、それを元に「思惟」する、日々となります。

「災禍転福」・・・となるといいなぁ

よくも、まぁ、喜無量心書こうと思ってる、このタイミングで・・・ネタとしかいいようがないです。

「凶」来ました~!(笑)

さて8月10日は己巳の日ですので、弁天様にご挨拶してきました。

関東三大弁天の一つ、布施弁天が近くにありまして、「弘法大師空海御作といわれる弁財天像をご本尊(秘仏)として開山された祈願寺」とのことで、この土地に来て一年が過ぎ、今回は舎利禮文を写経して、納めて参りました。浅草寺では結構出る「凶」ですが、相当に運がいいと見える私(苦笑)。

よく観察して中道を歩もうと思います!

観察と言えば・・・観自在菩薩ですね。喜無量心は観自在菩薩を目指すのでしょうね。「観自在菩薩」=「観世音菩薩」だとされています。

観世音菩薩普門品よむと、自分が観自在菩薩になるのはほど遠い話ですよね。「念彼観音力」と言うから念じると言うことなのでしょうけれども、それはそれで勿論のこと、なのでしょうが、目の前のつらい出来事はおはからいにお任せして、そもそも自分で出来ることを考えるとやはり客観的にになることなのでしょうね。私はよく師僧にいわれました。

「あなたが観自在にならなきゃダメだよ!観自在になる為に唯識を学びなさい!」

唯識の話は私にはまだ荷が重い(笑)ので省略させてもらいますが・・・、喜無量心の「観想」を見てみると。

遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は
本来清浄なること 由(なおし)蓮花の
客塵に染せざるが如くして自性清浄なり
我が三密の功徳力を以て故に
觀自在菩薩と等同ならしめん

読んでママなのですが、一つヒントを書くと、「清浄」は「空」に読み替えられるんです。「客塵」は「煩悩」の事ですから、この世での様々な「欲」で生じてしまう、心的不都合とでも言えばいいんでしょうか。染まらない如くの、「自性清浄」・・・「自性空」ってことで理解しています。

実はこの「自性空」、般若心経では単に「空」と言って、「五蘊が皆、(自性)空」と解れば「一切苦厄」を「度」すと言ってます。「自性」って何かなのですが、「チベットの般若心経(ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ, 斎藤 保高, クンチョック シタル著)」によると、「ものごとの本質」であり且つ「他に依らず成立する実態」と解釈できるそうです。そして、漢訳では「五蘊皆空」なのですが梵文での「自性」が漢訳には省略されていて、「度一切苦厄」がありません。また、ここでいう「空」は「空っぽ」という意味で、「五蘊」の「自性」性が「空っぽ」ということ・・・「自性たり得ない」=「無自性」ということなんです。

ピンとこない話ですが「因果によって成立している」と理解するのが最も早いのでしょうか、極論すると「五蘊は「幻」でしかない」ということ、「五蘊」・・・つまり「色」「受」「想」「行」「識」で成立してしまっている「幻」を「見極める」ことということが言えるのだと思います。

お大師さんはこの「度一切苦厄」と「究竟涅槃」を「修行によって得られた境地での利益」=「得楽」だと「般若心経秘鍵」仰っています。そう考えると「得楽」が「喜」無量心なのかな?と思えてしまうのは私だけでしょうか?いずれにしてもその「得楽」は私にはまだまだ解らないことなのですが、そのためには「照見」・・・つまり「自在」に「観察」しなければならないわけです。

やっぱり、ラーダ長老さんの如く観察するわけですよ(笑)。

一説では、観自在菩薩は瑜伽行者を指すなんていうのを聞いたことがありますが、そうすると、少なくとも「菩薩」にはなかなか遠いながらも「観察」を「自在」になれるように目指すという意味で、「観自在菩薩と等同ならしめん」ということになりそうですね。

書き忘れましたが、蓮花は『泥』の中から生えて綺麗な花を咲かせます。そしてその花には「客塵」という『泥』がついてません、その譬えなのだそうで、どろっどろの中に生きている私たちも「花」=「如来蔵」は汚れていないはずなんですよね。本来、汚れが無い(空っぽ)の「想い」は何かによって汚しているわけです、しかも自分の選択によって。汚れていない想いは汚れていない形で、今思っている形とは実は違うのかもしれません。結局は「心の中」の出来事・・・「幻」なんでしょうね。

というわけで、「今日」の「凶」には(「ネタ」という「メッセージ」に対して)、冷静に観察して、「幻」に惑わされないように見極めて真ん中辺を進もうと思います。

もし、「観世音菩薩普門品」にでてくる百戦錬磨の「観音」様になってしまうとしたなら、何でも出来てしまうスーパーマンになれるはずなんです。

「皆の願いが叶いますように」・・・そう読めませんかね?!観音様への思いがつまっているのは確かです。