四無量心観というのがあり、よく知られているのが
- 私(皆)が幸せでありますように
- 私(皆)の苦しみがなくなりますように
- 私(皆)の願いが叶いますように
- 私(皆)が菩提を開けますように
ということを観想して瞑想する。
お次第に出てくるのは複雑怪奇ですが、三摩地と言ってるくらい「じっくり」繰り返してみると、上の4つと同じ事が解る。
いくつかの経典にその観想が確認できるので「金剛頂瑜伽千手千眼觀自在菩薩修行儀軌經」という経典から抜粋すると以下である。観想の部分だけを訳して真言はデバーナーガリーに起こした(必要なら先生とかに聞いてみるとより正しいのを教えてもらえると思われる)。
然後結跏趺坐端身正念。不動支節閉目寂靜。入四無量心觀。即結定印
初入慈無量心定。以慇淨心。
遍緣六道四生一切有情。(遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は)
皆具如來藏。(皆、如来蔵を具し、)
備三種身口意金剛。(三種の身口意の金剛を備えたり)
以我修三密功德力故。(我が三密の功徳力を以て故に)
願一切有情等同普賢菩薩。(一切有情が、普賢菩薩と等同なることを願わん)
如是觀已即誦大慈三摩地 真言曰
ओं महा मैत्रय स्ढर
次應入悲無量心三摩地智。以悲愍心。
遍緣六道四生一切有情。(遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は)
沈溺生死苦海不悟自心。(生死の苦海に沈溺して自心を悟らず)
妄生分別起種種煩惱隨煩惱。(妄りに分別を生じ 種々の煩悩随煩悩を起す)
是故不達真如平等如虛空。超恒沙功德。(是故 真如平等の虚空の如く恒沙を超える功徳に 達せず)
以我修三密加持力故。(我が三密の功徳力を以て故に)
願一切有情等同虛空藏菩薩。(一切有情が、虛空藏菩薩と等同なることを願わん)
如是觀已即誦大悲三摩地 真言曰
ओं महा करुणय स्ढर
次應入喜無量心三摩地智。以清淨心。
遍緣六道四生一切有情。(遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は)
本來清淨猶如蓮華。(本来清浄なること 由(なおし)蓮花の)
不染客塵自性清淨。(客塵に染せざるが如くして自性清浄なり)
以我修三密功德力故。(我が三密の功徳力を以て故に)
願一切有情等同觀自在菩薩。(一切有情、觀自在菩薩と等同なることを願わん)
如是觀已即誦大喜三摩地 真言曰
ओं शुद्धप्रमैद स्ढर
次應入捨無量心三摩地智。以平等心
遍緣六道四生一切有情。(遍く縁ぜよ、六道四生の一切有情は)
皆離我我所離蘊界。(皆、我我所を離れ 蘊界を離れ)
及離能取所取於法平等。(及び能取所取を離れ 法に於いて平等なり)
心本不生性相空故。(心 本より不生なり 性相空なるが故に)
以我修三密功德力故。(我が三密の功徳力を以て故に)
願一切有情等同虛空庫菩薩。(一切有情が、虛空庫菩薩と等同なることを願わん)
如是觀已即誦大捨三摩地 真言曰
ओं महोढेक्ष स्ढर
「慈無量心定」での「慇淨心」の「慇」は「いたむ・ねんごろ」とか「丁寧」的な意味と思える。
訳文の太字が次第にでてくるところなので、他の部分は読み飛ばしてよいと思うし、訳が適当になってしまった感が。。。ただ意味はわかるので補足になればと思う。
「我我所」とは「自我」のこと
「能取」「所取」はそれぞれ「主」「客」のことなので「主観と客観」のこと
最後の「一切有情が、○○菩薩と等同なることを願わん」と訳したが約めて「○○菩薩に等同ならしめん」となる。
「三摩地」と言っているから、観想を読んでじっくりと意味を考えて味わって・・・真言をとなえるのが本来なのだと思う。
自分自身に重点を置くなら・・・私は普段に、
「遍く縁ぜよ六道四生の一切有情」ではなく
「六道四生の吾我 は」とか単に「吾我は」
でもいいんではなかろうか?。大まじめに考えると「四生」は「胎生」「卵生」「湿生」「化生」なので、「人道胎生の私は」なのだろうけれど、「ずっと人間です!」なんて解らないので(苦笑)なので単に「吾我は」がよいかもしれない。
私はそうした(今でもそうだけれども)のは「今、自分すら救えないのに、自分勝手な念いで我が儘の勝手なママに自分勝手に選んだ他人に価値観を押しつけて救うとか、おごりも甚だしい」と自戒したからだった。
たとえば、世間・世界の言う「平等」と、宇宙的な意味での「平等」と、自分の考える「平等」と同じと言えるかどうかを考えれば自ずとずれを感じてしまうし、師僧に「あなたの考えていることは誰かが言ったこと」と散々諭されてきたからもしかしたら思っている常識すらも疑わしく思えてよいのだと思う。
だんだんと「皆(一切有情)が」と置き換えていけばよいと思し、その時は、廻向文の「皆共成仏道」はポイントだと思う。
こんだけで勤行終わり!でもいいんじゃないかと