【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:習い事

今となっては、子供の頃は我慢をさせることも必要というが、毎晩酒宴に強制参加させられ恐怖や感情を抑え我慢を強いられてきていた子供にそれ以上の我慢は必要?。もっとやることがあったでしょうに。
私も家出すれば(できれば)よかったわけでしょうが、それを選択する頭はなかったですよ、だから全て我慢したんです。結果、深い傷が残ったわけです。

さて、調べていくと「何とも言えない心の状態」を理解する一つのワードが出てきたんです。『凍りつき(フリーズ)』です。

アダルトチルドレンのうつ症状:自己犠牲と感情回復のプロセストラウマケア専門こころのえ相談室

多くは書きませんが、カウンセラーの方も商売ですからね、様々な方が様々な形で臨床経験から特徴などを表現してくれています。カウンセラーについて治療ができる環境にあるならば、そのカウンセラーの手法に従うのが筋です。が、私のようにそういう環境にない場合(そもそも余裕がない)、とにかく一人で調べます。自分で自分の心を理解に努めて氷解していくことだけが唯一の手段なので、その方が著書を出されていれば手にとって理解の手掛かりを入手に務めるなど、「藁をもつかむ想い」がそこにあります。

もっと元気になって行きたいですからね。今は自分を守ってあげるだけで精一杯です。

この「凍りつき」反応は、背側迷走神経複合体が強く働いた状態なのでしょう。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】習い事

習字を習うことになって、学校以外では、はじめて教室に連れて行かれた記憶がある。
「そろばん」と「ピアノ」と「習字」から選ばされたそうだ。そのとき「そろばん」と「ピアノ」は断ったと聞く。
多分、「ただ遊ぶ時間が削られることが嫌」で断っていったのだと思うが、いずれにしても「やらない」という選択肢はなく、母親に無理やりやらされ、まして教室の下見などは一切した記憶はない。そもそも見たこともやったことも行ったこともないものを理解はできないし選択できるものだろうか不思議である。
こういう「あなたが断ったからだ」と平気で言い放ち、抵抗もできない強制、親の自己満足とそもそも選択肢のないダブルスタンダードが増えていった。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】続・逆上がり

逆上がりを公園で一人で練習していた時、幼馴染だったBさんが現れて「私が練習手伝ってあげるから」と声をかけてくれたことがとても嬉しかった記憶がある。と同時に「できない子」がとても恥ずかしく情なかった。この後の記憶もなく、夢だったのかどうかも怪しいと感じてしまう記憶だ。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】逆上がり

早生まれの私は、当然、運動もできない子であった。不幸にも左右盲と重なってしまったのかもしれない。

一人で何度も練習していた記憶があり「悔しかった」ようだ。
結局最終テストで結果が出せたのかも曖昧で覚えていない。教員にそっと背中を支えられ軽く押し上げられたような感触を覚えていたりする。練習の時だったか最終のテストだったか・・・。
いずれにしても最終テストを開放された安堵の反面、更に自分が「できない子」のラベルが貼られて、認識が強まったように思う。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】左右盲

私は左右盲である

両利きか左利きであったのか成長過程で右利きに統一されたのか左右がわからず小中学校で「回れ右(左)」「右(左)にならえ」など左右盲に苦しむこととなる。
できない子の一つが完成される。

右利きに育てられたことだけはわかっていて、普通現在でも右のコツを左に移す事(真似)ができて、筆記用具以外の日常生活を左利き過ごせる。
中学校ぐらいから格闘技をやっていたが、私はなぜかサウスポーだったことで後で気がつくことになるが、既に左右盲となっていた。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】世間体が規範

【AC・トラウマからの開放を目指して】酒宴の暴力の始まり

姉は家出した。
幼馴染だったBさんは、当然ながら小学校にはいると友だちもできて外出など行き違いが増えていくこととなった。

《認知》「寂しい」「何処いったら会えるんだろう?」
《気分・感情》孤独感、不安、心配、頭の中真っ白
《身体反応》しゅん・・・、脱力
《行動》会えず彷徨う(これが当たり前になっていく)

母は兄のことを贔屓気味に優先、兄は常に私をマウント、私から自立を奪う存在で、そして父には逆らっていけない。
更には私は「できない子」の構図
毎日の父の酒宴
ある意味家訓・規範は「世間体」
自立性無視でただ存在生存し続けるだけの学童期が始まっていた。

《認知》「僕だけ独りぼっち」「できない」「居場所ない」「あがなえない・逆らえない」
《気分・感情》情緒不安定、不安、心配、緊張、頭の中真っ白→凍りつき(フリーズ)
《身体反応》逆らえないから停止、思考も辞める
《行動》ただ立ちすくむ(逆らう方法もわからない)

【AC・トラウマからの開放を目指して】続・逆上がり


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【AC・トラウマからの開放を目指して】踵の痛み

【AC・トラウマからの開放を目指して】荷物と同じ

そもそも、こういう気持ちだったという話。

私ののっていた補助輪付き自転車にはそもそもブレーキも付いていない代物だったと記憶している。なので補助輪を外してさぁ乗れるねと練習していても、外(公道)には出られずしばらく放置されていった。妙なところガチガチの真面目さんお宅(体裁主義家庭)だったので、出る度に私は母の自転車の荷台に載せられ自由は許されなかった。2人目3人目の子どもというのはこういう扱いなのだろう、要は私用の自転車は与えられなかったということがポイントで、「怪我したら大変」とか色々言えるが、しばらく放置されていったというのが現実だ。
ある日、ずっと心の奥底で抵抗して私は行動に出た。
車輪に足を突っ込み反発を示したわけだが、母は気が付かず家について事の重大さにやっと病院につれていくという、踵には骨が見えるほどえぐれた傷が出来(傷自体は20年近く残っていた)、何とも痛いだけの大損をすることになった。
痛い思いをしただけで母には全くこの想い(自立心)は通じなかった。

【AC・トラウマからの開放を目指して】荷物と同じ

【AC・トラウマからの開放を目指して】記憶の三(小学校低学年)

やっと思い出された派生した記憶である。

帰宅するやいなや、怒りに満ちた顔で待機していて、引きずり回すように、母の自転車の荷台に載せられ連れ回された記憶がある。
「怪我させたんでしょ!来なさい!」的な説明はあったかもしれないが、この後の記憶は凍りついて(フリーズ)いてあまり覚えていない。
ただ並行して残っている記憶は、もう「いく」なら「ひとりでやらせて欲しかった」、私は外用の自転車に自分で乗って運転して謝りに行かせて欲しかった。

こういう、凍りついた(フリーズ)状態にもっていかれながら、自立心の削がれ方はこの件に代表されるようにずっと続いていた。恐らくこの状態にするということを聞くという親のエゴにより多用されたものと思われる。
親のエゴが優先され意思を無視すると同時に、その時にも感じましたが、私って「お荷物」だったんでしょうね。

「こんなにも一生懸命育てたのに!」・・・私は放置されるか人形になるかしか記憶ないんですけれどもね。今から思うと大人の私からすれば、「3人分の苦労を一人に押し付けて言った」のも解ってきました。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:酒宴の暴力の始まり

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。


姉の家出が中学二年生であったことから、8歳下の私が六歳前後の時の出来事だということになる。小学一年生、未だに卒園式やら入学式やら記憶に全く思い出されない。ぽつんぽつんと負の記憶があるだけだったり、記憶障害があるか、よっぽど楽しくなかったか、よっぽど大事ではなかったか、であろう。
兄?兄は我関せず、知らんぷりだったようで、部屋でひっそりしてましたわ。
この後姉の家出を兄の受験の失敗の原因と逃げをうつことになる。この頃から残念な人だ。父を見習って私にも暴力で事を片付けるようになりましたかね。あぁ、そうして、更に家での逃げ場がなくなっていったんだわ。
一見するとすべて姉のせい、父の酒のせい


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【AC・トラウマからの開放を目指して】酒宴の暴力の始まり

【AC・トラウマからの開放を目指して】父の酒宴

酒宴のある日。
酒が入り泥酔してべろんべろんの状態で父は反抗する姉をねじ伏せようと暴力に出た。
髪の毛を掴んで今から引きずり回し玄関へ引っ張り出し、
「言うことをきけないなら、(家から)出ていけ」
と怒鳴りちらした。殴ったりもしただろうか。記憶が飛んでいる。
母は号泣するばかり。
私は恐怖で動けず立ち尽くした。凍りつい(フリーズ)ていた。
髪の毛は床に散乱し、大の字で泥酔の父は玄関に横たわり、姉は多分部屋に逃避。
誰も守られることなく、誰にも認められず、逃げるところもなく、事件の渦中の部屋の真ん中にぽつんと、傍観せざるえなかった。
私は泣いていたのか恐怖でおののいていたのか一切の感情が思い出されない。
以来、誰からも守られなかったことは「捨てられる」恐怖に変わり、怯え育つ事になった。


《第0感情》

  • 「暴力やめて」
  • 「私を認めて守って欲しかった」
  • 「私は私を捨てないから、私であっていいんだよ」
  • 「私はここにいていいんだよ」
  • 「辛かったね、私が私を守るから、もういいんだよ、どうか心を閉じないで」

さらには、暴力・理不尽に対する抵抗の現れが記憶の一番目となったようだ

【AC・トラウマからの開放を目指して】記憶の一(小学校低学年)


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