【AC・トラウマからの開放を目指して】記憶の一(小学校低学年)

小学校一年のことだったと思われる

友人Aは確か幼稚園の頃から仲良しだったか記憶が定かではない。
ある日、周りの他の男の子達から、集団でからかわれて、一対多数で囲まれていた状況でした。確か、当時男の子がぬいぐるみで遊ぶってことに対して、周りの感覚から「女の子」みたいだとイチャモンをつけてからかったか何かだったと記憶している。止め時を失ってまわりで声合わせて囃し立てるようにからかわれ、私自身も凍りつき(フリーズ)はじめ、友人Aも泣く寸前になってきていた。すごく勇気を振り絞って、「やめろ」と輪に割って入っていった。
くものこを散らすように輪が崩れて、私の記憶もモヤモヤした思いが終息していった。また知る限りこういう友人Aに対するイジメは起きていなかったと記憶している。

《認知》「何するんだ、Aが泣きそうじゃないか」「これ以上は放置しちゃ駄目だ」「もう止めないと」
《気分・感情》不安、心配、不愉快、怒り、緊張。
《身体反応》イライラ、ザワザワ、ギューッと胸が締め付けられる、ヒヤヒヤと勇気
《行動》勇気を奮い立たせて一歩割って入り、友人Aを身体でかばい前に出て「やめろよ!嫌がってるじゃないか」大声で怒鳴って注意をひいて友人を助けに入った


《背景》   《インデックス》   →次へ

【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:父の酒宴

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。


幼少~小学校時代の全体像のみ限定したものの、この件、正直書けば書くほど、怒りが込み上げてきて次から次へ言葉がたされていって収拾がつかない。小学生~中学生~・・・と時間経過により状況の変化もあり多少の環境変化はあれど大枠が全く変わらなかったという点とほぼ確定したパターンはあれど、私が大きくなるにつれて贖ったりもしたが、全く効果はなく『凍りつき(フリーズ)』状態で、逃れられない叫喚だけがそこにあったことだ。警察も不介入で、いつ殺人に発展してもおかしくなかったし、体裁も考えたし、誰かに訴えるようなチャンスもなかったし、もしかしたら今なら「児童相談所」案件かもしれないが、結局死者が出るレベルにならないと動かないだろうし現実誰も助けてはくれないので一人涙飲み続けた。

父の出張や健康診断前の誤魔化し休肝日は数日あればいい方だったので「ほぼ365日」毎日だった。

小学校に行っていた頃、私には自分だけの部屋はなく、また、母との共同の部屋はリビングルームのすぐ隣であり、誰にも救われず唯一人怯えながら耐え続けるしかなく逃げ場はどこにもなかった。中学生の頃には母屋に増築によって父の部屋が新しく出来るわけだが、自ら「座敷牢」と名付けた割にリビングには割と近い配置から、酔ってわざわざリビングに出てきてくだをまく、当然一触即発状態だった。中学生でやっと自分の部屋・・・は座敷牢に移った元父の部屋でリビングの真上、下のリビングの雑音までよく響いた。まして会話もまる聞こえで口論は筒抜けだったわけだ。

また、実際、両親の仲の悪さに、右往左往していた幼少期があって暴走したりもしているし、仲のいい夫婦や家族像にとても憧れがあった。母親は懲りてもう嫌だと思っているふりをしつつ「夜の酒宴」の準備を毎日続ける矛盾する行動にもうんざりしていた。

リビングで夕食を摂るたびに必ず酒に呑まれて周りの家族の人に被害を及ぼす”だけ”の夜の父の姿は、物心つく以前からだったのだろうか、始まりを知らない。ただ、夕食時の家族の団らんはわかりやすい父の酒乱スイッチが入った途端、さーっと皆去っていき、逃げ場のない私一人取り残され、母は傍観者となる構図だった。アルコール依存症と共依存を起こした夫婦の典型だったと言え、また全員自分の自衛策に手一杯でおまけなんぞにかまっている暇はないわけだ。「何で私はいるの?いなきゃいけないの?」
『凍りつき(フリーズ)』とは何とも言えない表現のつかない感覚だった。

酒宴の間『凍りつき(フリーズ)』状態のまま居続けた。5~6歳の子供が、2~4時間/毎日、その総計1万回(30年間)を超える回数、暴露され続けたということだ。

さて、少なくとも『凍りつき(フリーズ)』状態で、時にはなにか別のものに気を散らして(唯一の逃避の手段)そんな心の状態は必死に防衛反応を起こし続けただけだった。当然「自死」という選択肢のない子供(そんな考え到底及ばなかった)は「私はいらない子なんだ」と無意識受け止めざる得ず、自分を確立できていない子どもがこれを聞いてどう思うか。必死で他者に「認められる」ために本能的な生存戦略を模索し、足元に自分なく他人軸の本能的「生存」体験が、取り返すことのできない日々が続ている。今でもそうであるが少なくとも私が自死を選ばなかったのは周りに迷惑をかけたくなかったからという理由に過ぎない。つまり他人軸という悲しい現実を改めて気付かされる。

父は他者による酒乱で恐ろしい目にあっても一切反省もせず同じことを繰り返し続けた。誰も止められないという「アルコール」という恐ろしさ、制御できなくなるまで飲むということを許す社会構造である限り、アルコール依存者は永遠に終わりのない輪廻を繰り返すのだろうと思う。

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【AC・トラウマからの開放を目指して】父の酒宴

恐らく5~6歳頃から父が死ぬ前日まで様々なパターンで繰り返され暴露され続けて頭から消せない記憶である。

記憶の限り、いつから始まったかわからないが、リビングで父の酒宴の肴のつまみに、私(達)を直接的・間接的にいたぶることで、日々の憂さ晴らしをしていた。酒宴のステージには家族の誰かしらがマトとなり、都合が悪くなると「俺の言う事きかないなら出ていけ」と吐き捨て、時には物理的・精神的暴力を「肴」にする。酒宴のステージから皆去ってしまい終焉になると「もう、やだなー、働きたくないなー」と何度も繰り返す。行き場なくリビングかその隣の部屋で、誰にも守ってもらえず、誰からもフォローされず耐え続けた。あえて”ステージ”と表現したのは、「居ないふり」で端に座らされ常に参加させられ、「ふすま」一枚の遮りあるなしに関係なく、物理的退場を許されない、叫喚地獄という”ステージ”だった。私の声にならない悲鳴は誰にも届かなかったし、感情をひたすら殺した「いない子」だったのだ。少なくとも彼が他界する前日まで、私のこれまでの人生2/3の30年以上毎日繰り返され精神的にさらされ続けた。

《認知》「また始まった」「大人しく居ないふりで避けてやり過ごそう」
《気分・感情》いつも通り・想像通り・繰り返し、阿鼻叫喚、恐怖、逃避、不安、心配、緊張、頭の中真っ白→凍りつき(フリーズ)
《身体反応》ドキドキ、ハラハラ、こわばり、首をすくめたり、余計な力が入る
《行動》やり過ごす、怖くて隠れたいけれど逃げたいけど逃げられない


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【AC・トラウマからの開放を目指して】序・脚下照顧

2020年11月中旬、よくわからない感染症から発熱、腹痛を発症して経過していったことから当時コロナが流行し始めた頃でも流石に陰性で、完全に体調を崩して1週間ほどで一旦治るが、逆流性食道炎などに起因した咳喘息の悪化など、その後数ヶ月不安定な体調は自宅療養を繰り返し、所詮サラリーマンのわたしは、「ある同僚」の裏切りの言葉に端を発し、社長から直々の脅し(この時点で「休職」の選択肢を潰されていた)によるハラスメントを受け、彼(=社長)の思い通り自己都合退職に追い込まれたわけですが、流石に社労士に言われたのだろうがまずかったらしく翌日には嘘までついてなかったことにしようとする始末でした(その当日のことは日誌につけ、後日のことはレコーディングしている)。脅しを受けたと私は同時に周りの同僚にオープンにしたため別の同僚から庇われ休職となったのは2021年3月のことだった。サラリーマン歴の中でこういう頭のおかしな自体はなかった。鬱の診断を受け、正直恐怖し誰も信じられないわけで、周りに愛想笑いで本心や状態をごまかしながらいたものの、そこから対人恐怖症のようになってしまい冗談じゃなく外に出られなくなり、必死に治療でデイサービスを受け回復に努めた1年、会社規定により退職、男性更年期障害(LOH)の治療を受けることとなり更に半年、2022年10月まで休んだ。

Al-Anonと救い

上にも書いた通り、「このフラッシュバックは何だろう」から始まって、トラウマであることに気がつくのに時間も要して、2023年にはリハビリ程度の事務仕事程度の社会復帰もした。

9月6日

症状の発症自体は、この辺りに遡れることもわかった。現状は体の患いも輪をかけて心の病引きずってしまい障害も認定され身も心も治らないまま現在に至っている。読み返してみるとわかるが「皆の帰る家を守りたい…」と思っていたのに私自身は「親の無言の圧(指示・強制)から離れないと駄目だ」と認識し「家は私の居場所ではない」と確信を持って実家から東京から離れた。

今回はそれでもこの「生きづらさ」は何だろうと医者とも相談をして、精神科では診断するところではないが「カウンセリングだったらアダルトチルドレン(AC)とかだろうね」と。世代連鎖からくる根の深さがわかり、それまでのアプローチ(マインドフルネス+行動認知療法+スキーマ療法)はトラウマ事象を詳らかにするのには役立ったがよりもっと根本問題の解決が必要ということだけはわかった。よく言う「毒親」は離れても問題は幼少期に刻まれた「基本的信頼感のない大人」であれば、離れるだけでは解決しないのは納得がいったし、無意識に世代連鎖を避けDINKsを選んだのもアダルトチルドレン(AC)特徴でもある。自分の分身が苦しいのを見るのが嫌だったからである。

サブタイトルに「脚下照顧」と書いたが、足元に確かに靴はあるが肝腎の自分の足元にない両足で立てていなかったことに気づくことになる。譲れない拘りやずっともやもやしていたのは「『心の中の親』に支配」され続けてそれらが足元の他人軸(親の軸)の規範であって、「自分の選択」に自信と価値を見いだせてこれなかった(基本的信頼感の欠損)からだ。自分を信頼していないから、当然、他人なんぞ信頼も信用もしていない。実のところ心のなかで境界線が引かれていてそれ以上の侵入をい許さないできたのはこの為であることもわかった。

さて、Al-anonに参加していたのだけど事情が許さず12月から休止となった。

それ以降、この数ヶ月、前向きに、「私はここに居ていいんだよ」と言い聞かせてきた。そうすると”なかった”足元が地につくから。「(願いが叶わなかったのは)君が悪いからじゃない」。また、「よく我慢した。もう誰も邪魔しない。全力で逃げよう」と。そんな先日、子どもの群れの中にいるのにポツンと疎外感に支配された自分の夢を見ました。そりゃぁそうだ。愛着執着が壊れている時点で私は昔っから「自分が好き」だったことがないし価値感じてないから、自分は「駄目なんだ」と信じてきていて、無価値な自分を嫌いだったからで、欠損した「愛されなかった」・「かまわれなかった」・「認められなかった」・「守られなかった」過去を変えることはできないのを、夢の中でどう解決したか、弱々しいけれども、「代わりに私があなたを信じるから」と思いっきり叫んで目を覚ました。

Al-anonで始める際よく唱えていたのは「平安の祈り」だ。

神さま 私にお与え下さい
自分に変えられないものを
受け入れる落ち着きを
変えられるものは
変えていく勇気を
そして二つのものを
見わける賢さを

 

お前暗いんだよ

六方礼拝経にいう

「悪友を避けて善友を求めよ、
しかし善友が得られなければ、孤独に歩め」

「悪友」とは

  • 何でも取っていく人
  • 言葉だけの人
  • 甘言を語る人
  • 遊蕩の人

お前だよお前!

夜な夜な酔っ払ってるから、22時半?!一般常識もわからない上、酔っ払って何も考えられず FaceTime か?恥を知れ!メッセージに悪言垂れ流しの情汚。お前の言葉は受け取らないから、持って帰れ莫迦が!二度とくるな

前世「ムラ」カルトは嫌だね、ホント。それだけやってろ。無関係の人に手を出すな。勘違いしているようなのでサブタイトル変えました。

さわれないほど苦しんでいたんだよ!お前(ら)にはわからんだろうがな。

邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」第15課

邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」はじめに

邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」第13課

『仏説大乗荘厳宝王経』第14課は漢文にないチベット文部分のケンポ・ソダジによる解説です
https://drive.google.com/drive/folders/1rDyjzq0tC24UQ8UcL2vEk-in7gmqbU1B
google driveに該当部分のテキストがPDFで置かれていますのでご覧ください。掲載等ご許可いただけているわけではないので該当文章のリンクだけ置いておきます。
ケンポ・ソダジによる解説:『仏説大乗荘厳宝王経』第15課

除蓋障菩薩の説明が終わった後、仏は阿難陀に告げました:
「もしも業報を知らない者が、精舎の内部で唾を吐いたり、大小便をしたりする場合について、今説明しよう。もし常住地で唾を吐く者は、針口蟲の中で12年間生まれることになる。もし常住地で大小便をする者は、ヴァーラーナシ(※9)の大城の大小便の中に生まれることになり、穢れた虫として生まれる。もし常住の歯木(歯磨きのための木)を私用する者は、亀や魚、摩竭魚(魚の一種)の中で生まれることになる。もし常住の油、麻、米、豆などを盗む者は、餓鬼道に堕ち、髪が乱れ、体毛が立ち、腹が山のように大きく、喉が針のように細く、焼け焦げた骨だけが残る状態で、これらの苦しみを受けることになる。もし僧侶に対して軽蔑する者は、貧しい家に生まれ、どこに生まれても体が不完全で、背が曲がり、矮小で、体の多くが病気や痩せ、手足が痙攣し、膿と血が流れ、体が損なわれ、百千年にわたってこの苦しみを受けることになる。」
もし常住の財物を盗む者は、大号叫地獄に堕ちる。そこでの苦しみは、口が鉄の丸に呑み込まれ、唇と歯が断たれ、喉が焼け焦げる。心臓、肝臓、腸、胃が全身が焼けてしまう。その後、修行僧が業の風により彼を吹き飛ばし、死後に復活する。その後、閻魔の獄卒が罪人を引き連れ、彼は自らの業により大きな舌が生じ、その舌の上に百千の鉄の鋤で耕される。この苦しみは何千年も続く。地獄から出た後も、大火鍋地獄に入る。そこで閻魔の獄卒が罪人を百千本の針で舌の上に刺す。業の力で生き続け、火坑に投げ込まれ、さらに奈河に投げ込まれるが、死ぬことはない。このように、次々と他の地獄を経て三劫を経験する。その後、南贍部洲に貧しい家に生まれ、盲目となってこの苦しみを受けることになる。常住の財物を盗むことのないように気を付けなさい!
もし比丘が戒を持つ者であれば、三衣を受け持つべきである。もし王宮に入るならば、第一の大衣を披き、常に衆中にいるときは、第二の衣を披くべきである。作務をする時、村落や城隍に入る時、または道を行く時は、第三の衣を披くべきである。比丘はこのように三衣を受け持つべきである。もし戒を得、功徳を得、智慧を得るのであれば、比丘はこの戒を守るべきである。常住の財物を盗用することは許されない。常住の財物は、火坑に常に住む毒薬のようであり、重い荷物のようである。毒薬は救療する可能性があるが、常住の物を盗用する者には救済の方法がない。
その時、具寿阿難陀が世尊に申し上げた。
「如仏の教えに従って、全てを行い学ぶべきです。もし比丘が別解脱を受け持つならば、よく安住し、世尊の学びの場を守護すべきです。」
その後、具寿阿難陀は佛の足に頂礼し、一周して退去した。その時、諸大声聞たちはそれぞれ自分の本所に退いた。一切の世間の天龍、薬叉、乾闥婆(※22)、阿修羅(※18)、迦楼羅(※23)、緊那羅、摩睺羅伽(※20)、人間や非人間など、すべての存在は佛の説法を聞き、喜びと信仰を持って佛を礼拝し、退去した。

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邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」第13課

邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」はじめに

邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」第12課

ケンポ・ソダジによる解説:『仏説大乗荘厳宝王経』第13課

法師は言いました(敬意を払って申し上げた):
「善男子、あなたは何のご冗談ですか(※70)?それとも、実際に何かを求めているのですか?聖者はこの世で輪廻の煩悩を断ち切るために存在するのです。善男子、もし誰かがこの六字大明陀羅尼を持つなら、その人は貪り、怒り、無知の三毒に染まることがありません。それは紫磨金の宝石が埃で汚れることがないのと同じです。善男子、この六字大明陀羅尼を身に持つ者は、貪り、怒り、無知の病に染まることはありません。」
除蓋障菩薩は彼の足元に執り、言いました:
「私にはまだ明確な理解がなく、妙なる道を見失っています。誰が私を導いてくれるのでしょうか?私は今、法を渇望しており、法の味わいを得たいと思っています。私がまだ無上の正等菩提を得ていない今、どうか善き菩提の法種を安住させてください。色身が清浄(を得ることができるように)で、衆善が壊れないようにし、すべての有情がこの法を得ることができるようにしてください。」
人々が言いました:
「どうか悋惜※78を懐かず、法師よ、私たちに六字大明王の法を授けてください。私たちが速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得て、十二の法輪(※72)を転じ、一切の有情を輪廻の苦しみから救済できるようにしてください。この大明王の法は、これまで聞いたことのないものであり、今、私たちに六字大明王陀羅尼を得させてください。救いも依り所もない者にとって、それは頼れる拠り所であり、暗い夜に光を灯す明かりとなるでしょう。」
その時、法師がこう言った:
「この六字大明王の陀羅尼は、得ることが非常に難しく、まるで金剛のように壊れることがない。無上の智慧を得ることと同じであり、尽きることのない智慧と同じであり、清浄なる如来の智慧とも、無上の解脱に至ることとも同じである。それは貪りや怒り、無知から来る輪廻の苦しみを遠ざけ、禅定や解脱の境地である三昧や三摩鉢底(※71)に通じるものであり、あらゆる法に通じて、常に聖者たちが愛し楽しむものである。
もし善男子よ、解脱を求めるために種々の外道の法を奉じる者がいるならば、例えば帝釈天を敬い仕えたり、白衣(在家者に従うもの)や青衣(比較的身分の低い屠殺者や娼婦などの着る服とされている)を信奉したり、日天や大自在天、那羅延天、または裸形の外道を信奉したりするような者たちであっても、それらは無明の虚妄を脱することができず、修行の名を得るだけで、徒労に終わる。
天衆たち、例えば大梵天王、帝釈天主、那羅延天、大自在天、日天、月天、風天、水天、火天、閻魔法王、四大天王たちは、常に私の六字大明王を求めている。彼らがこの六字大明王を得た時、全ての束縛から解脱することができる。除蓋障よ、一切の如来の智慧である般若波羅蜜多の母は、この六字大明王を説き、一切の如来と菩薩衆はそれを敬い、合掌し礼拝するのだ。」
「善男子よ、この法は大乗の教えの中で最も精妙である。なぜなら、全ての大乗の経典、応頌、授記、譬喩、本生、方広、希法、論議の中に含まれているからである(=十二部経すべてを得られる)。善男子よ、この本母(※73)を得れば、寂静と解脱が得られ、多くの修行を必要としない。まるで収穫した精米を、家に持ち帰り、器に満たし、日光で乾かし、糠を取り除くようなものである。なぜなら、精米を得るためには糠は不要だからだ。その他の異なる瑜伽の修行は糠のようなものであり、この六字大明王こそが精米のように大切なものである。
善男子よ、菩薩はこの法のために布施、持戒、忍辱、精進、静慮、般若波羅蜜多を実践するのである。善男子よ、この六字大明王は得ることが難しく、ただ一遍念じるだけで、その人は一切の如来から衣服や飲食、薬、座具など全ての供養を受けるであろう(チベット版:「三世の諸仏・一切如来に対して衣服や飲食、薬、座具など全ての供養するのと同じである」)。」
その時、除蓋障菩薩が法師に対してこう言った:
「どうか私に六字大明陀羅尼を授けてください。」
その時、その法師は正念で深く思惟していた。すると、突然虚空から声が響いてきて言った:
「聖者よ、この六字大明王を授けなさい。」
その時、法師は思惟した:
「この声はどこから出たのだろうか?」
すると再び虚空から声が響き告げた:
「聖者よ、この菩薩は加行を志し、冥応を求めている(精進していて今求めているのだから)。六字大明王を授けなさい」
その時、法師は虚空を観察し、蓮華を手に持ち、吉祥な蓮華の姿をした、秋の月のような色をした者を見た。その者は宝冠を頂き、一切智(=阿彌陀佛)で美しく荘厳されていた。その身相を見た法師は、除蓋障菩薩に向かって言った:
「善男子よ、観自在菩薩摩訶薩があなたに六字大明王陀羅尼を授けるであろう(観自在菩薩摩訶薩から六字大明王陀羅尼を授けるようにと令された)。よく聞きなさい。」
その時、彼(除蓋障菩薩)は合掌し、敬虔に恭しく、六字大明王陀羅尼を聴いた。その陀羅尼は次のように説かれた:

「ॐ मणिपद्मे हूं (oṃ maṇipadme hūṃ)」

そのとき、陀羅尼が授けられると、大地は六種にわたって震動しました。除蓋障菩薩はこの三摩地を得たとき、さらに微妙なる智慧の三摩地、慈悲を発起させる三摩地、相応する行の三摩地を得ました。これらの三摩地を得た後、除蓋障菩薩摩訶薩は四大洲を七宝で満たし、それを法師に奉献して供養しました。
そのとき、法師はこう言いました:
「今あなたが供養されたものは、一字にも及ばない価値だ。どうして供養といえるのか?この六字大明は、あなたの供養を受け入れるものではない。善男子、あなたは菩薩であり聖者であり、非聖者ではない。」
その時、除蓋障菩薩はさらに百千の真珠の瓔珞を法師に供養した。すると、法師は言った:
「善男子、私の言葉を聞きなさい。汝はこの供養を釈迦牟尼如来、応正等覚に持って行くべきである。」
除蓋障菩薩は再び、価値が百千にも及ぶ真珠の瓔珞を法師に供養しました。すると、その法師はこう言いました:
「善男子、私の言葉を聞きなさい。この供養は、あなたが釈迦牟尼如来、応正等覚に捧げるべきものです。」
その時、除蓋障菩薩は、法師の足元に頭を下げて礼拝し、心が満たされた後、法師に別れを告げました。そして再び祇陀林園へ向かい、到着すると仏の足元に礼拝しました。
その時、世尊である釈迦牟尼如来応正等覚が除蓋障菩薩に告げました:
「善男子よ、汝は既に多くを得たことを知っている(汝は所得あるを知るや)。」
こうして、世尊の前に七十七倶胝もの如来応正等覚が集まりました。彼らすべての如来は共に陀羅尼を説きました:

「नमः सप्तानां सम्यक्संबुद्ध कोटीनां तद्यथा ॐ चले चुले चुन्दि स्वाहा (namaḥ saptānāṃ samyaksaṃbuddha koṭīnāṃ tadyathā oṃ cale cule cundi svāhā)」

この時、七十七倶胝の如来応正等覚が陀羅尼を説いた時、観自在菩薩の身には「日光明」と名づけられた一つの毛孔があった。その中には、無数の百千萬倶胝(※76)那庾多(※64)の菩薩が住んでいる。そして、その日光明の毛孔の中には、さらに一万二千の金山があり、それぞれの山には千二百の峰がある。これらの山々は周囲が蓮華色の宝で荘厳され、その周囲には天界の如意宝を持つ美しい園林が広がり、また様々な天の池がある。無数の百千萬の金宝で荘厳された楼閣があり、そこには百千の衣服、真珠、瓔珞が吊り下げられている。
その楼閣の中には、微妙な如意宝珠があり、菩薩摩訶薩たちに一切の必要な資具を供給している。菩薩たちは楼閣に入り、六字大明を念じると、涅槃の地を見出す。そして、その涅槃の地に到達し、如来を目にし、観自在菩薩摩訶薩を見て、心からの歓喜が生じる。菩薩たちは楼閣を出て、経行の場に向かい、さらにそこにある宝園に赴き、次に浴池に行き、また蓮華色の宝山に向かい、一方に座して結跏趺坐し、三昧に入ったのである。
「このように、善男子よ、菩薩はその毛孔に住んでいる。善男子よ、また別の毛孔があり、その名を帝釈王という。その中には、無数の不退転菩薩たちがいる。帝釈王の毛孔の中には、八万の天金宝山があり、その山には如意摩尼宝があり、蓮華光という名を持っている。その摩尼宝は、菩薩の心の思念に従い、すべてが成就されるのだ。そこにいる菩薩たちは、もし食べ物や飲み物を念じれば、すべてが満たされ、輪廻や煩悩の苦しみを感じることなく、常に自身の身体を思念する。
善男子よ、また別の毛孔があり、その名を大薬という。その中には、無数の初発心菩薩が住んでいる。大薬の毛孔には、九万九千の山があり、その山々の中には、金剛宝窟、金宝窟、銀宝窟、帝青宝窟、蓮華色宝窟、緑色宝窟、そして玻璃宝窟が存在する。これらの山王には、八万もの峰があり、それぞれが摩尼やさまざまな妙宝で荘厳されている。その峰の中には、乾闥婆(※22)の衆がいて、常に楽の音を奏でている。初発心菩薩たちは、空、無相、無我を思念し、生老病死の苦しみ、愛別離苦、怨憎会苦、阿鼻地獄に落ちる苦しみや、黒縄地獄に堕ちた有情たちの苦しみ、餓鬼道に堕ちた有情たちの苦しみなどを深く思念する。そして彼らは結跏趺坐して三昧に入り、その山中に住むのだ。
善男子よ、また別の毛孔があり、それを繢画王(チベット版:「様々な王」)という。その中には、無数の縁覚の衆がいて、彼らは火焔光を現している。その毛孔には、百千の山王があり、それらの山王は七宝で荘厳されている。さらに、種々の劫樹(※57)があり、それは金銀の葉を持ち、無数の宝で飾られている。その上には宝冠、耳飾り(※59)、衣服、さまざまな瓔珞、そして宝鈴が吊るされ、天界最高の衣(※58)や金銀の宝鈴が『チンチン』(※56)と鳴り響いている。その劫樹(※57)が山中を満たしており、無数の縁覚たちがそこに住んでいる。彼らは常に、契経、応頌、授記、譬喩、本生、方広、希法、論議などの法を説いている。
また、除蓋障よ、時にその縁覚たちは毛孔から出てくる。最後に、一つの毛孔があり、その名を幡王という。幡王は広さ八万由旬(※55)を持ち、その中には八万の山があり、さまざまな妙宝と摩尼で荘厳されている。その山王の中には、無数の劫樹(※57)があり、無数の栴檀香の木や無数の大樹がある。さらに、金剛宝地があり、九十九の楼閣が立ち、百千もの金宝や真珠、瓔珞、衣服が吊り下げられている。」
このように、これらすべてが毛孔から現れるのだ。」

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邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」第12課

邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」はじめに

邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」第11課

ケンポ・ソダジによる解説:『仏説大乗荘厳宝王経』第12課

その時、無量寿如来応正等覚は、カラヴィンカ(※65)の声色で、観自在菩薩摩訶薩に告げました:
「善男子、汝はこの蓮華上如来応正等覚が、この六字大明陀羅尼のために無数の百千万倶胝(※76)那庾多(※64)の世界を遍歴したことを見ている。善男子よ、汝はこの六字大明を持って、この如来のためにここに来たのだ。」
観自在菩薩は世尊に言いました:
「私は曼荼羅の印を見ることができず、この法を得ることができません。どのようにして蓮華印を知り、持摩尼印を知り、一切王印を知り、曼荼羅清浄体を知るのかが分からないのです(四手観音菩薩)。今、この曼荼羅の相は四方の各々五肘の量であり、中心には曼荼羅が安立しており、無量寿の粉布がサファイアの粉、蓮の粉、エメラルドの粉、水晶の粉、金銀の粉(※67)が用いられています。無量寿如来の右側には大摩尼宝菩薩(大勢至菩薩(※66))が安置されており、仏の左側には六字大明(四臂観音)が安置されています。四臂の肉色は白く、月のような色合いであり、様々な宝が莊厳されています。左手には蓮華を持ち、蓮華の上には摩尼宝が安置されています。右手には数珠を持ち、下の二手で一切王印を結んでいます(合掌している)。六字大明の足元には天人が様々な莊厳で配置されています。右手には香炉を持ち、左手には満盛な宝を入れた鉢を持っています。曼荼羅の四角には四大天王がそれぞれの器仗を持って安置されており、曼荼羅の外の四角には四つの賢瓶が配置されており、様々な摩尼の宝で満たされています。もし善男子善女人がこの曼荼羅に入ろうとする場合、所有する眷属はこの曼荼羅の中に入ることができず、ただ名前だけが記されます。先に入った者はその眷属の名前を曼荼羅の中に投げ入れることで、彼らは皆菩薩の位を得ることができ、苦しみから解放され、迅速に阿耨多羅三藐三菩提を証得することができます。阿闍梨はこの法を虚偽に伝えてはならず、深く信じて大乗の加行を志し解脱を求める者に対して与えるべきです。外道の異見を持つ者には与えてはなりません。」
その時、無量寿如来応正等覚は観自在菩薩摩訶薩に言いました:
『善男子、もしこのような五種の色宝粖があれば、曼荼羅を建設することができる。もし善男子善女人が貧しくてこの宝粖を用意できない場合はどうするか?』
観自在は答えました:
『世尊、方便を用いて様々な色で作り、香花などを供養として用いるべきです。もし善男子がまた準備できない場合、または旅行中や道行中の場合、阿闍梨は心の意図で曼荼羅を作り、阿闍梨印を結ぶべきです。』
その時、蓮華上如来応正等覚は観自在菩薩に言いました:
『善男子、私がこの六字大明王陀羅尼を説くのは、無数の百千万倶胝(※76)那庾多(※64)の有情が輪廻の苦しみから離れ、迅速に阿耨多羅三藐三菩提を証得するためである。』
その時、観自在菩薩摩訶薩は蓮華上如来応正等覚に対して、この六字大明陀羅尼を説きました:

「ॐ मणिपद्मे हूं (oṃ maṇipadme hūṃ)」

「この六字大明陀羅尼を説くとき、四大洲と諸天の宮殿がすべてバナナの葉のように震え、四大海の水は波立ち、すべての毘那夜迦(=障害をもたらす鬼(※19))や薬叉、夜叉、鬼、そしてその眷属や障害を作る魔たちは、皆恐れて散り逃げる。その時、蓮華上如来は、象王の鼻のように優雅に伸ばし、観自在菩薩摩訶薩に対して、百千の真珠と宝飾品を授け、供養に用いるようにされた。観自在菩薩は受け取った後、無量寿如来に奉納し、その仏が受け取った後、再び蓮華上如来に奉納した。その後、蓮華上如来は六字大明陀羅尼を受け取り、再び蓮華上の世界に戻られた。このように、善男子よ、私はかつてこの蓮華上如来のところで、この陀羅尼を聞いたのである。」
その時、除蓋障菩薩は仏に申し上げました:
「世尊、どのようにすれば私はこの六字大明陀羅尼を得ることができますか?世尊、この相応した甘露の徳味が満ちていることについて、私がもしこの陀羅尼を聞くことができ、心を込めて思い、保持することができれば、すべての生きとし生ける者たちにこの六字大明陀羅尼を聞かせることができ、大きな功徳を得ることができるでしょう。どうか、この教えを広めるためにお教えください。」
仏は言われました:
「善男子よ、もし誰かがこの六字大明陀羅尼を書写するならば、それは八万四千の法蔵を書写するのと同じであり、違いはありません。もし誰かが天金宝で微塵の数ほどの如来像を造り、一日限りで称賛し供養するようなことがあったとしても、書写したこの六字大明陀羅尼の一字の功徳には及びません。これは不可思議な善住解脱の果報をもたらします。善男子、善女人がこの六字大明陀羅尼を念じるならば、その人は次のような三昧を得ることができます:持摩尼宝の三昧、広博な三昧、清浄な地獄・傍生の三昧、金剛甲冑の三昧、妙なる足が平満な三昧、さまざまな方便の三昧、さまざまな法の三昧、観察の三昧、法車の声の三昧、貪り・怒り・愚痴からの離脱の三昧、無限の三昧、六波羅蜜多門の三昧、大妙高の三昧、怖れを救う三昧、諸仏の世界を現前させる三昧、諸仏を観察する三昧など、これら百八の三昧を得ることができます。」
その時、除蓋障菩薩が仏に申し上げました:
「世尊、私は今どこでこの六字大明陀羅尼を得ることができるのか、どうか教えてください。」
仏は告げました:
「善男子、ヴァーラーナシ(※9)の大城に一人の法師がいて、常にこの六字大明陀羅尼を受持し、誦じている。」
除蓋障菩薩が申し上げました:
「私は今、ヴァーラーナシ大城に行き、その法師に会い、礼拝して供養しようと思います。」
仏は言われました:
「よくぞ、よくぞ、善男子よ! 彼の法師は難しく遇うべきであり、六字大明陀羅尼を受持できる者は、彼を見たとき、如来を見たのと変わらない。彼を見たときは、功徳の聖地を見るのと同じであり、福徳の集まりを見るのと同じであり、珍宝の積み重ねを見るのと同じであり、願い事がかなう摩尼珠を見るのと同じであり、法蔵を見たり救世者を見たりするのと同じです。善男子よ、もし彼の法師に出会ったときには、軽んじたり疑念を抱いたりしてはいけません。善男子よ、そうでなければ、菩薩の地位(境地)を失い、再び堕落してしまう恐れがあります。彼の法師は戒律が欠けていたり、妻子がいたり、大小便が袈裟に付着していたり、威儀がない場合もあります。」
その時、除蓋障菩薩は世尊に言いました:
「仏の教えに従います。」
そこで、除蓋障菩薩は無数の菩薩、出家者たち、長者、童子、童女たちを従えて、供養の準備を整えました。天蓋を持ち、さまざまな供具、宝冠、耳飾り(※59)、装飾的なビーズ、天界最高ものなどの衣服(※58)や寝具などを用意しました。また、種々の美しい花々も用意されました。たとえば、青い蓮華(※29)、白い睡蓮(※35)、白い蓮華(※30)、マンダラ華(※31)、大マンダラ華(※32)、マンジュシャゲ華(※37)、大マンジュシャゲ華(※38)、ウドンゲ華(※33)、ジャムブー華(※34)、カラビラ華(※39)、パタラ華(※40)、アティムクタカ華(※41)、バラシカ華(※42)、クンダ華(※43)、ソマナ華(※44)、マリカ華(※45)などがありました。そして、鴛鴦や白鶴が飛び回り、従いました。さらに、青、黄、赤、白、紅、水晶(※79)などの色とりどりの葉が百種類ありました。また、さまざまな珍しい果物も用意されました。
こうして、除蓋障菩薩はこれらの供養の品々を持って、ヴァーラーナシ大城にある法師のもとに向かいました。到着すると、彼は頭を下げて足を礼拝し、法師が戒律を破り威儀がないのを見ても、持ってきた天蓋や供具、香華、衣服、装飾品などで大いに供養しました。供養が終わると、彼は合掌して法師の前に立ち、次のように言いました:
「大法藏よ、あなたは甘露の味を持つ宝のような存在であり、深い法の海です。あなたの教えは虚空のように広がり、一切の者があなたの説法を聞きます。天、龍、薬叉、乾闥婆(※22)、阿修羅(※18)、迦楼羅(※23)、摩睺羅伽(※20)、人間と非人など、あなたが説法する時には、皆が来て聞きます。あなたは大金剛のように、すべての有情を束縛から解放し、輪廻から解脱させます。その結果、これらの有情たちは大いなる福徳を得ます。このヴァーラーナシ大城に住む人々は、あなたのために常に罪が消え、まるで火で燃やされた森のように浄化されます。如来応正等覚は、あなたのもとに今、無数の百千萬倶胝(※76)那庾多(※64)の菩薩が集まり、供養のために来ています。大梵天王、那羅延天、大自在天、日天、月天、風天、水天、火天、閻魔法王、そして四大天王も皆来て供養しています。」

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邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」第11課

邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」はじめに

邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」第10課

ケンポ・ソダジによる解説:『仏説大乗荘厳宝王経』第11課

「仏説大乗荘厳宝王経」巻第四

その時、除蓋障菩薩は仏に申し上げました:
「世尊、私はどのようにしてこの六字大明陀羅尼を得ることができるのでしょうか?もしそれを得ることができたなら、不可思議で無量の禅定に相応し、即座に阿耨多羅三藐三菩提を得、解脱の門に入り、涅槃の境地を見、貪欲と瞋恚が永遠に消滅し(チベット版では貪瞋癡が消滅とする)、法蔵が円満し、五趣輪廻を破壊し、地獄を浄め、煩悩を断ち、傍生を救い、法の味を円満にし、一切智智を尽きることなく説き続けることができます。世尊、私はこの六字大明陀羅尼を必要としています!そのために、私は四大洲を七宝で満たし、それを布施として書写します。
世尊、もし紙や筆が足りなければ、私は自分の身から血を刺して墨とし、皮を剥いで紙とし、骨を裂いて筆とします。このようにして、世尊、私は後悔も躊躇もせず、これを自分の父母と同じくらい尊重いたします。」
その時、仏は除蓋障菩薩に告げて言いました:
「善男子よ、私は過去世の時、この六字大明陀羅尼を求めて、微塵の数ほどの世界を遍歴し、無数百千億倶胝(※76)那庾多(※64)の如来に供養しました。しかし、それでも得ることも、聞くこともできませんでした。その時、世の中には『宝上如来(チベット版=紅勝如来)』という仏がいました。彼は、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と称される偉大なる仏でした。私はその仏の前で涙を流し、悲しみ泣きました。すると、その如来は、正等覚を得た者として、私にこう言われました:
『善男子よ、泣くことをやめなさい!善男子よ、あなたはこれから蓮華上如来応正等覚に会いに行きなさい。彼の仏は、この六字大明陀羅尼を知っているであろう。』」
善男子、私は宝上如来を辞して、蓮華上如来の仏国に向かうつもりである。到着した後、仏の足に頂礼し、両手を合わせて前に置き、次のように願います:
『世尊、どうか私に六字大明陀羅尼を授けてください。この真言王のすべての本母(※73)がその名前を思い起こし、罪業が消え、速やかに菩提を証得するために、私は今、無数の世界を巡り、ここに戻ってきました。』
その時、蓮華上如来は、次のように六字大明陀羅尼の功徳を説かれました。
「善男子、この微塵の数を私は数えることができる。善男子、もしこの六字大明陀羅尼を一遍念じるならば、その功徳を私は数えることができない。善男子、また大海にある砂の数を私は数えることができるが、この六字大明陀羅尼を一遍念じる功徳は数えることができない。善男子、また天人(チベット=天人に限らず「人」)が倉庫を造り、その周囲が千由旬(※55)、高さが百由旬(※55)であり、脂麻で満たされており、そこに針の一つも置けない。倉庫の守護者が不老不死であり、百劫を過ぎて一粒の脂麻を外に投げると、倉庫内にすべてを投げ尽くすことができる。これも私は数えることができるが、六字大明陀羅尼を一遍念じる功徳は数えることができない。善男子、また四大洲の様々な穀物が、龍王が降らせた雨によって成長し、収穫が終わり、南贍部洲を場として、車や馬で運び終わったとすると、その一粒一粒を私は数えることができるが、六字大明陀羅尼を一遍念じる功徳は数えることができない。善男子、この南贍部洲にある大河、枲多河、ガンジス川(※2)、焔母那河、嚩芻河、設多嚕囉河、賛囉婆蘖河、愛囉嚩底河、蘇摩誐馱河、呬摩河、迦攞戍那哩河があり(各語訳で数はまちまちで、名称と実際を特定はできない)、それぞれの河に五千の小河がある。これらの河の一滴一滴を私は数えることができるが、六字大明陀羅尼を一遍念じる功徳は数えることができない。善男子、また四大洲にいる四足の生き物、獅子(ライオン)、象、馬、野牛、水牛、虎、狼、猿、鹿、羖羊、兎など、これらの四足の生き物の一毛一毛を私は数えることができるが、六字大明陀羅尼を一遍念じる功徳は数えることができない。善男子、また金剛鉤山王が高九万九千由旬(※55)、下八万四千由旬(※55)、そして方面に八万四千由旬(※55)があり、その山には人々が不老不死であり、一劫の間にその山を一周する。その山王のすべてを、例えば天界最高の薄い衣(※58)を以て擦り山を削り尽くすかのように、私は拭い尽くすことができるが、六字大明陀羅尼を一遍念じる功徳は説き尽くすことができない。善男子、大海の深さが八万四千由旬(※55)であり、穴口が広く無量である。その一毛の端をもって滴り尽くすことができるが、六字大明陀羅尼を一遍念じる功徳は説き尽くすことができない。善男子、大尸利沙樹林(クルソン仏が悉地成就した時の「菩提樹」に当たるもの)のすべての葉を私は数えることができるが、六字大明陀羅尼を一遍念じる功徳は説き尽くすことができない。善男子、四大洲に住むすべての男子、女人、童子、童女が、七地菩薩の位を得る(境地に至る)ことができる。これらの菩薩衆のすべての功徳は、六字大明陀羅尼を一遍念じる功徳と異なることはない。善男子、また十二月を過ぎ、閏年が十三月となることもある。天上の一劫が満ち、昼夜常に大雨が降る。これらの一滴一滴を私は数えることができるが、六字大明陀羅尼を一遍念じる功徳の数はそれを超えて多い。善男子、また一倶胝の数の如来が一か所におり、一劫の間に衣服、飲食、座臥、敷具、湯薬などの供養をするも、その功徳の数を数えることができない。六字大明陀羅尼の功徳の数はそれを超える。」(12の比喩)
「善男子、これは微妙な法であり、加行、観智、すべての相応が含まれている。汝は未来にこの微妙な心法を得ることができるであろう。観自在菩薩摩訶薩は、この六字大明陀羅尼を善く保持している。善男子、私は加行を通じて、無数の百千万倶胝(※76)那庾多(※64)の世界を遍歴し、無量寿如来のもとに到達した。そして、前に合掌し、法のために涙を流しました。その時、無量寿如来は私が見えていることを知り、また未来を見通して私に言われました。『善男子、お前はこの六字大明王の観行瑜伽を必要としているか?』」
その時、私は言いました。『私はこの法を必要としています。世尊、この法を渇望する者のように必要としているのです。世尊、私はこの六字大明陀羅尼のために、無数の世界を行じ、無数の百千万倶胝(※76)那庾多(※64)の如来に供養しましたが、いまだこの六字大明王の陀羅尼を得ることができませんでした。どうか世尊、私の愚鈍を救い、足りない者を満たし、迷いし者に道を示し、陽炎の熱を覆う影を作り、四つの道には娑羅樹を植え、私の渇いた心を満たしてください。この法を仰ぎ、善く住し究極の道を得るように導いてください。私は金剛甲冑を装備することを願っています。」

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邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」第10課

邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」はじめに

邦訳「仏説大乗荘厳宝王経」第9課

 

ケンポ・ソダジによる解説:『仏説大乗荘厳宝王経』第10課

その時、世尊は微笑みながら告げました:

「善男子、観自在菩薩摩訶薩は、実際には時間に関係なく、どの時でも来ることができます。善男子、その菩薩の体には『灑甘露』と呼ばれる毛孔があり、その毛孔の中には、無数の天人たちが住んでいます。その中には、初地、二地を証得した者から、十地の菩薩摩訶薩に至るまでの者がいます。除蓋障、その灑甘露毛孔の中には、六十の金銀の宝山があり、それぞれの山は高さ六万の由旬(※55)、九万九千の峰があり、天の妙金で装飾されています。そこには一生補処菩薩(或いは初発心の菩薩=チベット語訳)が住んでいます。
また、その毛孔の中には、無数の宮殿があり、天の摩尼宝で周遍に装飾されています。これを見る者の心は満足し、様々な真珠の飾りが施されています。各宮殿には菩薩がいて、微妙な法を説き、その宮殿からそれぞれが歩行しています。歩行する場所には、七十七の池があり、八功徳水が満ちています。そこには様々な花が咲いています。たとえば、青い蓮華(※29)、紅い蓮華(※54)、白い睡蓮(※35)、白い蓮華(※30)、ソーガンディカ華(※36)、マンダラ華(※31)、大マンダラ華(※32)が充満しています。
その歩行地には、適意の劫樹(※57)があり、天の金銀で葉が装飾され、その上には天の冠、耳飾り(※59)、宝物、飾りなどが悬っています。これらの菩薩たちは歩行を終えた後、夜の分に様々な大乗の法を思い起こし、寂滅の地、地獄、鬼趣、畜生などを思い巡らせ、慈心三摩地に入ります。」
「除蓋障よ、彼の毛孔の中には、このような菩薩が現れています。また、金剛面と呼ばれる毛孔には、無数の緊那羅(※24)(天人たち)が現れており、種々の華鬘や飾りで身を装飾し、妙な香油で体を塗りたくっています。それを見る者たちは喜びます。彼らは常に仏、法、僧を念じ、壊れない信仰を持ち、法に安住し、慈悲を実践しています。彼らは寂滅を思い、輪廻から遠く離れています。
善男子、その緊那羅たちは心から愛着を抱き、その毛孔には無数の山々があり、その中には金剛の宝窟、金の宝窟、銀の宝窟、水晶(※79)の宝窟、蓮華色の宝窟、青色の宝窟、そして七宝を具えた宝窟があります(チベット版には「窟」という訳がなく「山」となっているが解釈の違いによるもの)。善男子、その毛孔にはこのような変化が現れています。
また、その毛孔の中には無数の劫樹があり、無数の栴檀大樹や微妙な香樹があります。無数の浴池、百千の天宮の宝殿、水晶(※79)で装飾された巧妙で清浄な宝殿が現れています。その中で緊那羅たちは静かに過ごし、布施波羅蜜多の法や持戒、忍辱、精進、静慮、智慧波羅蜜多の法を説きます。それらの六波羅蜜多を説いた後、彼らは経行し、その経行道には黄金や白銀で作られた経行道があり、その周りには劫樹(※57)や天の衣、宝冠、耳飾り、宝鈴、飾りなどが装飾されています。
また、楼閣や緊那羅たちは経行の際に、沈淪生苦、老苦、病苦、死苦、貧窮困苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、または針刺地獄、黒縄地獄、酸味地獄、極熱地獄、火坑地獄、または餓鬼趣など、多くの苦しみを思い巡らせます。緊那羅(※24)たちは深い法を思索し、円寂の真界を考え、常に観自在菩薩摩訶薩の名号を念じます。その称念によって、彼らは必要な資具をすべて得ることができます。」
「善男子、観自在菩薩摩訶薩の名号すら得ることは難しいのです。なぜなら、彼はすべての有情を大いなる父母のように思い、すべての恐怖に苦しむ有情に無畏を施し、すべての有情を大善友として開導するからです。このように、善男子、観自在菩薩摩訶薩は、六字大明陀羅尼を持ち、それもまた難得に出会うものです。もし有人がその名(六字大明呪:ॐ मणिपद्मे हूं)を称え続けるならば、その者は彼の毛孔の中に生まれ、沈没することはなく、一つの毛孔から出てまた別の毛孔に入ることができ、そこに住むことになり、最終的には円寂の地を証得することができます。」
その時、除蓋障菩薩は世尊に申し上げました:
「世尊、今この六字の大明陀羅尼は、どこから得られるものですか?」
仏は言いました:
「善男子、この六字の大明陀羅尼は非常に珍しく、仏においてもその由来を知ることはできません。ましてや、菩薩の立場でどのようにして得られるかを知ることができるでしょうか。」
除蓋障菩薩が言いました:
「このような陀羅尼を、仏である如来が正等覚においても、どのようにして知らないのでしょうか?」
仏は言いました:
「善男子、この六字大明陀羅尼は観自在菩薩摩訶薩の微妙な本心です。もしこの微妙な本心を知ることができれば、解脱を知ることになります。」
その時、除蓋障菩薩は世尊に尋ねました:
「世尊、諸有情の中で、この六字大明陀羅尼を知ることができる者はいるのでしょうか?」
仏は言われました:
「善男子、この六字大明陀羅尼を知る者はいません。多くの如来でさえ、この六字大明陀羅尼の本心を知ることは難しいのです。菩薩がどのようにしてこの観自在菩薩の微妙な本心を知ることができるでしょうか?私が他の国土に行ったとしても、この六字大明陀羅尼の本心を知る者は存在しません。もし誰かがこの六字大明陀羅尼を常に受持しているなら、その持誦のときには、99のガンジス河の砂の数ほどの如来が集まります。さらに微塵の数ほどの菩薩も集まり、32の天の王子たちも集まります。また、四大天王が四方を守ります。さらに、娑伽羅龍王(※25)、阿那婆達多龍王(※27)、徳叉迦龍王(※26)、和修吉龍王(※28)など、無数の龍王たちが集まり、その人を守ります。また、地中の薬叉や虚空の神々もその人を守ります。」
「善男子、観自在菩薩の身の毛孔の中には、無数の如来がいます。その如来たちは、持誦する人を称賛して言います:
『善哉!善哉!善男子よ、あなたはこの如意摩尼の宝を得ることができました。あなたの七代の種族は皆、解脱を得るでしょう。』
善男子、そのような持誦者は、腹の中のすべての虫(お腹の中に住んでいる虫)が退転しない菩薩の位に達するでしょう。さらに、もし誰かがこの六字大明陀羅尼を体に、または首に持つならば、善男子、その持つ者を見ることができるならば、それは金剛の身を見ているのと同じであり、また、舍利弗の塔を見るのと同じであり、また、如来を見ているのと同じであり、また、倶胝の智慧を持つ者を見るのと同じです。もし善男子や善女人がこの六字大明陀羅尼を念じるならば、その人は無尽の弁才を得、清浄な智慧の集まりを得、また大慈悲を得るでしょう。このような人は、日々、六波羅蜜多の円満な功徳を具え、天の転輪の灌頂を受けるでしょう。その人が口から発する息が他者に触れると、触れた人は慈悲の心を起こし、すべての怒りと毒を離れ、退転しない菩薩の位に達し、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を証得するでしょう。また、この持誦者が手で他者に触れると、触れられた人は速やかに菩薩の位に達します。もしこの持誦者が男子や女人、童男童女、または異類の有情を見れば、見ることができる者は皆、速やかに菩薩の位に達します。このような人は、永遠に生老病死の苦しみや愛別離の苦しみを受けることがなく、不可思議な相応の念誦を得るでしょう。今この六字大明陀羅尼については、このように説かれています。」

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