街頭演説で凶弾に倒れる元首相、なんか世の中騒がしいですが、無駄かもしれませんが、祈るぐらいしかできないで。ご冥福お祈りしたいと思います。
正直こういう追悼系の残したくないんですが、お名前こそ上げなかったモノの「4 – 7 – 8 呼吸法」で触れてしまっていたので何かやるせないモノ感じました。
Buddhist Road : "Walk Alone Like a Rhinoceros!" :-)
街頭演説で凶弾に倒れる元首相、なんか世の中騒がしいですが、無駄かもしれませんが、祈るぐらいしかできないで。ご冥福お祈りしたいと思います。
正直こういう追悼系の残したくないんですが、お名前こそ上げなかったモノの「4 – 7 – 8 呼吸法」で触れてしまっていたので何かやるせないモノ感じました。
また余計なことかもしれませんが、時事ネタ的に、スリランカが実質デフォルト宣言しちゃいましたね。スリランカといえば多くの仏教者が日本に来て仏道を教えてくださっている関係の深い国ですね。国として見てみると社会主義国家でロシアと深い関係があったようで、元々の依存関係や経済状態に加えコロナ過が基盤に、ロシアのウクライナ侵攻がかなり影響したのかもしれませんね。ある意味仏教の歴史のある民族と国家なのですが、そういうのも所謂、アイデンティティ(ビリーフ(belief))も立派な我執の一つと見なせます。歴史(歴史問題)などと言葉をすり替えてみたり、そういう国という仮定の経済基盤の「崩壊」の宣言が現実の自分に与えるものもありえるかもしれません。お釈迦様でも一国の一族の崩壊は手が出せなかったと史実が語っているようにも思いますが、どうにもなりません。けれど形は崩れても生き延びた人もいたでしょうし、歴史と紡いでくれているはずで、それもこれもどうにかできました?どうにもなりません。いい意味だとOKで悪い意味だとNOとか極論でなく中道ですよね。諸悪莫作衆善奉行でしたよね。国とか民族とか結局はアイデンティティの含まれるやっかいな部分は、形而上学的な概念であって実体のない「空」です。憂えている場合ではなく、(今の私には心の中ででしかかないませんが)物質的にも壊滅的状態でしょうが、何も出来ないからこそ応援するのも大事かと思います。どちらも形はありませんがね。
お金も国家も、みんな架空の価値観とでもいえばいいでしょうか。架空の仮の存在が実は「私(我)」という「我執」にも影響が与えていることなんてたくさんあります。嫌って排除しようと忌まわしみ遠ざけても、寧ろ膨らんでしまったり質の悪いもので今でも苦しみますね。どうするって、今はなくせないなら使い方を知るしかないと思う今日この頃です。体験を思い出しながらの表現になりますが瓦解したように腹の下にヅーンと重い何かを感じてもあなた(私)は”今”生きてます。俗っぽい俗人の話ですが、実体のないものがその実体という、あの体験は私にとってのまさに空即是色でした。
とにもかくにも、暑い日が続きますのでご自愛ください。
「短い息を知る」これだけです。
プラーナヤーナっていう難しい知らない単語に惑わされる必要もないと思いますし、志那的発想で気功の「気」が「プラーナ」と同じなんじゃね?ぐらいでいいと思いますし、きっつい運動の中でヤレ「気を感じろ」とか「気がどうの」とか繰り返し十数~二十数年(あ、+αもあるなぁ)やってましたけど「気」なんてわかりませんし見えもませんでした。で、それで、いいんじゃないかと。変にわかってるような気がしても幻想かもしれませんし、少なくとも見えているのはあなただけでしょうし、それを否定するつもりもないので、あえて”「気」なんてわかりませんし見えません“。ただそう言われて育ってきて一つの答えをもっていてそれをいうならば「数値化出来るものはすべて”気”」だと思ってもらっていいではないでしょうか。圧力から力学、量子論の確率論に至るまですべて”気”だと思ってもらってかまわないと思います。それらが拮抗や指向性やバランス・圧を生んでいます。つまり殆どは私たちの場合「数値化」できるものです。それらを生み出しているもの(力・源)も含めて『気』とか『プラーナ』なのかと思ってもらってかまわないと思われます。が、そういうオカルトやスピリチュアルの世界はいったんこっちに置いておいて、一応、ここではそれらに注目するのではなく「吸って」「吐く」、「呼吸」です。
「長い息」と「短い息」の対比に始まって、「どのような影響がある」かを知ることで、「身体に威力がどんな」に「どのようにあるか」です。
”オカルトやスピリチュアルの世界”ではじきましたが、現実にはあります。例えば血管といえば動脈と静脈ですが厳密にそれらが終端しておらず単なる網目でまとめると一本の”完全な”管で繋がっているかというとどうもそう図式化されて習いますが、生理学的には動脈サイドからにじみ出た血漿は水分として組織の中へ浸透し、大半がリンパ管に流れ込み残りが静脈サイドの血管へ流れ込む、こういう循環を微小循環といいます。浸透圧なんかも関係しています。残念ながらこういう水性の流れや分布を数値化したのって見たことなかったりします。お肌の微小循環とか、くぼんだり黒くなっていたり赤く腫れていたり私にはそれしか見えませんので説明しづらいですが、私の不勉強さゆえなのかはわかりませんが、その「数値化」は「知りません」とだけお伝えします。
そうやってリンパ管がある事によって外部からの免疫組織として成立しています。消化管との間もリンパ管で外部から防御機構として働いています。これもせいぜい特定の血球数だの物質の濃度など以外で(これまそこに”水”性の媒介がある事を前提としてますが)数値化は難しいんじゃないかと思います。まぁ、それでも熱心にお化粧品の作っている裏ではお肌の微小循環とか真剣に研究してそうですが、肌の断面図とか簡単な図式は出来ても、解剖学のように「この指のここの部分でこのように微小循環が発生して」とか一般化出来て示せるようなものにはなっていないんじゃないかと思われます。でも、ここまで書けば、見えない世界を私たちの尺度として科学的に証明出来ましたよね?。神経ならば微弱な電気信号として電圧電力など、生体の内外部で起こった情報に応答して特定の器官で分泌するホルモンとそのバランスや血中の数値、などなど、それ以外のことや魂だのをいってる方は・・・ごめんなさい、その先は、私には理解出来ませんとだけお伝えするしかなさそうです。とはいっても特定されている現象なんて、科学が万能でないのと同じようにたくさんあります。身体の中の世界の事なんて(でさえも)日進月歩だといわれていますし。
大まかの流れとして各末端の組織が脳に対してポジティブないしネガティブによりフィードバックしまた脳からの指令や分泌物を血液(水分)ないし神経ないし媒介として伝達して組織に反応を起こさせるそういう、まさに、集まりがカーヤ(kāya)ですよね。今でこそ色々言葉としてかけますけれども、すっごいこと知っていたんですね。今の段階(”身随観”ですので)ではその無意識の反応などを観察する程度になるかと思いますが、今回の「短い息」の観察を通して心地の良さであるとかもっと欲しいであるとか、ここは嫌いで遠ざけたいとか、長い息に比べると心臓が鼓動がドキドキするから感じやすさ身体への影響など観察すればいいと思います。これ自体にあまり意味があるとは思えませんが、肉体を調整しているのは実はこの呼吸です。
上に余計なことも書いたので頭パンパンになりながら観察している姿は笑えますが( ´,_ゝ`)プッ、ですので、途中はすべて外事として無視してください。あくまでも「長い息」と「短い息」の対比に始まって、「どのような影響がある」かを知ることで、「身体に威力がどんな」に「どのようにあるか」です。前回までに結構ヒント書いてました。「吽」は短い息に分類出来ますし、カパラバティやってみるのもありかもしれませんし、私のオススメは「ボックス呼吸法」かもしれません。苦しかったら止めてくださいね。無理する必要はないと思います。でも苦しくなっているということは知っておいてくださいね。
もう2分半の壁も越えられていると仮定して、この段階も1週間続けてもらっているとして、補足的な話を。
少し『秘密集会阿閦金剛』の画像があったならば少し見てみて欲しい。今やっていることは密教ではないし集大成のチベット仏教が何を語るか。仏像ではなくタンカとか曼荼羅とか言われる絵柄の真ん中のご尊顔(憤怒形)を拝してみると、口が開き舌を上顎に上げているのがわかる。口も使って呼吸をするということ、よく言われるように舌を上顎につけるというのを実践しているのがわかるはずでそのまねるモデルになっている。一見関係ないようにも見えるが日本に伝わった真言密教の金剛界降三世三昧耶会降三世会理趣会を一枚で表したようなタントラが『秘密集会阿閦金剛』なのだがそういう教義的なものの見方をせずとも色々物語ってくれる一枚のシーンに思えてならない。
人間は言葉をしゃべる関係で口を使って呼吸をするように進化したのだが、口呼吸は呼吸を浅く速い呼吸に合っているように思われる。普段とは逆さまを練習するのがシータリー呼吸なのか全く知らないが、舌を丸めるのは通常鼻で呼吸する時(無意識の話で)鼻腔の中で空気を湿らせ適度な湿度の空気にして呼吸器に送ることと同じ効果+αを狙っているのかもしれないと思ったりもする。鼻から吸った空気も冷えていく様観じてますか?こうやって考えると呼吸においては口からは吐く以外はあまり考えなくていいことはある程度たどり着く。
長い息でよく知っておきたいのは「吐く」ことで、ひとつは「しっかり吐く」ことで、二つ目は「長く時間をかけて吐く」ことの二つで使い分けが出来る。「阿吽呼吸」で「吽」が終わりをも意味しているが吐ききるのにこの吐いた最後の終わりに「ウ(フ)ン」と腹に力を込めて吐ききると、”あら不思議”、吸ってもいないのに(”吸おうと意識しない”程度の意味)自然と息が入ってきますね。
ここまでやる必要なないですが、緊張で呼吸がうわずってしまう人にはちょっと頭の片隅に置いておいて欲しいのは吐かないと吸えないという事実です。呼吸がうわずっている時は換気量が少なく、更に早くなっている時は死腔が呼吸毎に加算されて効率の悪い呼吸になっていることは、よく知られている話だったりする。昔とは違い程度のほどはあれど私のように緊張しいなど心理的影響による過換気症候群(過呼吸)などは(現在では)ペーパーバッグ法は用いられないが(二酸化炭素分圧が高くなりすぎるというふうに解せられているみたいで人の状態を見極めるのが難しい事も含まれていそうで指導・治療・誘導には向かないのでしょうね)、まずは一時的に低下した二酸化炭素分圧を元に戻し、酸素の取り込みが可能な状態に戻すことが求められるのでゆっくり深い呼吸を薦められるのは横隔膜を使い腹式呼吸にする云々というようで異論はないです。
逆に激しい運動でハァハァしてしまった時は、代謝性アシドーシスで血中の乳酸が過度に(pHが上がり)増え、二酸化炭素を過度に捨てようと呼吸で補おうと(pHを下げようとする)している。
さて、いずれにいても、本来は肺気腫などのリハビリテーションの技術で縁遠い話でしょうが意外とオススメなのが口すぼめ呼吸+腹式(横隔膜)呼吸、口をすぼめて吐くので呼吸器に普段よりも圧をかけ、腹式呼吸で横隔膜を刺激しつつ自律神経を整える事が考えられます。ということで、前にのせた「4 – 7 – 8 呼吸法」のわかりやすい動画を見直してみてください。そのまんまです。
ここでは「伝統的に舌を上顎につける」的な説明をしているシーンが見られますが、どうもこれは共通していわれていることのようなのであえて一般論、「舌を上顎につけることで気の道を作る」んです。私には効果はさっぱりわかりません。寧ろ表の人中はぶん殴ると卒倒する点ですが(あえてツボとは呼ばない)その唇の裏の歯茎にある齦交というツボは情緒不安定の際に用いる事以外全くの謎のツボです。更にはその表面ではなく更に背面の上顎に添えるのが一般的です。ちなみに息吐きにくいです、えぇ。私的には実感も確証もなく立証出来ないのであまり触れてきませんが任脉と督脉はこの舌の先で繋げて気の道ができると考えていそうで、私的には「舌を上顎につける」のは極めて迷信に近いですので一応。
ただそれでも呼吸に集中する”点”を鼻の下にする時、「舌を上顎につける」ことでコレが頼りになるのは確かで、それ以外は任脉と督脉の接続を考えるならば、舌をつけてなくても喜悦はおこるし鎮めも出来るので、鼻呼吸の際だけで一応”点ける”(付けておこうか~ぐらい)で十分な気がしないでもない。呼気を口からする時は綿密に気にしてたらキリがなさそうですなぁ(苦笑)。
最後に「吽」ですが元は「हूं(hūṃ)」ですので「ふ~ぅん(む)」で、金剛薩埵(降三世)の真言でもあります。呼気の最後に使うと吐ききれますし、カパラバティなどを参考にすればデトックス効果もありそうなのでまさに毒抜きなりそうですね。降三世は三毒を除くのはあながち間違っていないということです。秘密集会タントラでも最初に降三世明王の真言から入ってくようですね。
私は「4 – 7 – 8 呼吸法」と「ボックス呼吸法」以外は、昔、格闘技を習っていたことで丹田だの呼吸法っぽいことをやっていたのと、ずーっと昔にこのあたり「チベッタン・ヒーリング 古代ボン教・五大元素の教え」でも「どんなもんなんかい」とあれこれ試してみた記憶だけでヨガの呼吸法はほぼ知らないのだ。もっと落とし込めるのはないかなぁと思っていたら、ヨガの呼吸法はまさにそれだと思ったので、今回少し集めてみた。集めてみて面白い人がいたので動画を紹介しておこうと思う。
ヨガコントがいい感じでした(笑)。つか、お笑いに持っていくセンスより、体幹しっかりしててやっぱりこういう人たち凄いね。
「長い息を知る」を総括して「丁寧」に息をするという表現がわかりやすいかとも。
「長い息を知る」これだけです。
大前提として、アーナパーナーサティは第一段階の「長い息を知る」から毎回毎回一坐の度に順番を変えることなく修することとなっている。段階を深めていけば理由も自ずとわかってくると思われるが初禅の四段階から毎度繰り返すことになる。面倒なので飛ばすということはオススメしないし先を急いでしまうこともオススメはしない。やってはいけない毎回最初っからやることといわれている(「と記載してある」というのが正しいか)こともあるが、実のところ私の経験からいうと毎度修すことで毎度新たな発見がある可能性があり、先の段階でも発見があると初期の段階の理由が変わって(わかって)くる可能性もあるためである。ついでで、先の段階にはリアルタイムで行っている場合は「先へ進めない」のであえて書かなかったが、段階を追うというのも結構大事なヒントになっていることがあるので、ガマンして練習も大事なのでとりあえず順番に進めること、また先の段階が明らかでなくてもそこで終わりにするのがオススメである。ちなみに私はそうしていてあまり問題がなかった。終え方にどうしても心配があるならば、「願わくば此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん(ことを)」でも、回向文をとなえるでも、「今日を、今を、この瞬間を、ありがとうございました。関わった方々が幸がありますように」とかでよいかと(この二段落目後日追記)。
前置きに、プラーナヤーナだということだと書いたかと思いますし、ヒントはいくつか書きました。練習しながら試行錯誤の開始となります。
ただし、身体を感じること以外は原則すべて無視します。身随観とはカーヤヌパッサナーといわれます。カーヤ(kāya)は「集まり」という意味です。「今日当たり前」の「物質の集合体(身体)」を観察するわけです。身随観で四念処の最初です。体表の「痛み」であっても「痛み」として感覚に上がった後は既にそれは受随観や心随観の領域でしょうし「受随観」なら体毛や自由神経終末といった皮膚の感覚器によって生じた(受)「痛み」やその「伝搬(神経)」やそれによって生じた「不快(認知)」などは、身随観の領域ではないので観察対象にはならないと思います。五蘊でどうだったか思い出すと色受想行識の「色」です。五感でなく五官(六処といいたいところですが「意」は違うのであえて。この単語は恐らく東洋思想の言葉ですね)の眼耳鼻舌身で物体で、更にはそれぞれが物質でできた器官です。この器官に外界にぶつかる刺激(接触)が「触」で「受想行」が起こります。生身の身体という情報外はすべて観察対象外と考えていますのでここではこれ以上は触れません。しかし現代科学生理学的に酷似して考えても結局は物質の集まりという「カーヤ(kāya)」という表現に私は異論どころか激しく同意してしまいます。
プラーナヤーナという言葉も出てきましたが、次の段階へのヒントもにもなってきますが「長い息」で「どのような影響がある」かを知ることで、「身体に威力がどんな」に「どのようにあるか」です。気持ちが落ち着くのか怒りが緩まるのか苦しいのか何が苦しいのか苦しさをとる「長い息」はどんなかです。呼吸は今の段階ではある程度「意識的」に調整しなければならないはずで次の段階を通してとあることが見つかるまでは呼吸を調整しつつ眺めていきます。意識していても呼吸がついて行かないならばそれを知らなければならないと思いますし呼吸を任せるのはまだ先です。もし意識的に調整している中で呼吸と身体にギャップが生まれたならばこれ幸いと思ってその二つを比較します。今回はそのことについては触れましたがこれ以上は書きません。どのようになるか「長い息を知る」段階です。
前段階として昔私が習ったのはただ観察する方法の一つは、さらさらと若しくはふわーと流れていくのか流れていくならその空気はどこからどこへ流れるのかいきわたるところすべてを観察する、鼻と口から出た息は胸の前を下って身体の中では胸にとどまらず胸の周りに広がっていき、また丹田あたりまでふわっと流れ込み、吸う空気は頚の横を伝ってまた周囲から集まってくる、そんな空気がどう流れるかどう伝わっていくか体表に感じる空気と体内を流れる空気いろんな視点から感じることが出来るはずです。「長い息」でどのようか体験して知ります。
我慢すると退屈が生まれ面倒くさくなりますが我慢する必要もないと思います。今目的を持って目標がわかって観察しているはずで、痛みやかゆみやよだれは「掻いて」「飲んで」除去すればいいです。ただどのようによだれが生じているかは「観察していい」と思います。ヨダレは副交感優位になれば必然的に誰でも出ます。リラックスしている証明でもありますし、そう捉えれば十二分にリラズゼーションの効果はあると言えそうですね。我慢しろとかいう人もいるかもしれませんが、私はそんなもん「飲んだら」いいんですと思います。「掻いたら」いいんです。「お釈迦様は我慢した」かもしれませんが「我慢」したのはおそらく観察するためで観察し終わったら対処したであろうし対処すればいいし「痛みが消えるまで」云々は私は考えません。ただ、「観察するんだ」(「練習」ということ)ということだけ今は知っておけばいいです。
吐く息を徹底して長くしたければお経唱えてみたり真言繰り返したりすると一息で1分とか可能かと思います。その一本長ーい呼吸の練習もありだと思いますし、私のように体表と体内の空気を観察しながら、様々な呼吸法の中からチョイスしたものとして「4-7-8呼吸」でどこまでゆっくり出来るかや丹田呼吸など練習して試してみてもいいでしょうし、「膨らみ・縮み」をラベリング練習もしてもいいでしょうし。流儀が色々あるようですがラベリング方式は多分気が散るのを最小に収める効果はありそうな気もします。が、そのラベリング方式に納得いかないなら他に当たる方がいいと思います。形を伝承しなければいけない場合は徹底して伝統的な方法に従いそれを練習しなければならないと思いますが、結局はそれをベースとして「練習する」のはあなた次第です。今は「伝統」を習うんではなくて「経験」(自ら自らのこと)を学ぶので、しっくりいかなければ、絶対的な権威や伝統が邪魔だとすればチョイスするなり一時的に外すなりどっちでもいいと思います。
逆にあれこれ制限も書かれていないのが特徴かもしれませんが(それだから難しい)、ただ「長い息を知る」ことしか書かれていません。意識ではなく客観的に捉えていくしかないと思います。
まぁ、そろそろ飽きてくるだろうということで、1週間しないけれど更新してみます。ただ一つ間違えないで欲しいのは続かないのは飽きるのは中断してしまうのも「みんなそうだから」です。私もこのことを忘れていた時とか結構ひどい日もありました。スペシャリストの人や大先生や先師達も最初はそうだったはずで、なかなか「そんなもんだよ」とかいってくれる人はいないので(ハードル上げられすぎてると思いますが)、安心して「できない」ことを受け入れて、出来なくて練習してるんだからいいんだとあきらめてみるのもいいかもしれません。それで私は、はなっから「練習」といってます。例えばこれで「今日は本番」と決めて坐って散々だったように、基本「なーんもない」です(笑)。
ただ「退屈」なんです。
「退屈」は「瞋恚」です。
瞋恚=怒りは嫌でストレスですから、やらなくなるのは当たり前です。途中で止めるのも、続かないのも当たり前なんで。だから身にしみた言葉(=練習)だったりしているわけです。
退屈な事なんだとわかったら・・・退屈を眺めて楽しんでいる人もいるようなので視点を変えれば楽しめるモノなのかもしれません。実際尺度が色々違う退屈があって、もう総合して怒りなんですが、これ、どうにもなりませんよね。まぁ、それでもとなると忍辱と精進だとか精神論ですよね、まんま書いてありますが。あわないのはしょうがないので視点を変えてみるしかなさそうです。
こんな話のために追加したんでは実はなくて、この坐るのはプラーナヤーマだという視点もあります。ターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘)の『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』においてプラーナヤーマだとおっしゃっています。ヨガの言葉なのでしょうがその当時のヨガが現代のヨガに繋がってくるはずなので何らおかしいことでもないはずです。著書では呼吸法などは紹介されていなかったところから現代のヨガのようにする必要はないでしょうがざっくり上げておきます。
腹式呼吸
胸式呼吸
ウジャイ呼吸
カパラバティ
シータリー呼吸
丹田呼吸
ちなみに、片鼻呼吸(ナーディショーダナ)なんかは結構動画見たことある人もいるんではないでしょうか。こういうヨガの呼吸法とかいうと、なんか私には苦しいイメージしかなくて遠ざけたいところですが、別の視点から見ると面白くも見えてきます。ちなみに紹介はしましたが、吸気の際に丹田に気が落ちて溜まっていくようにイメージしながらやる所謂「丹田呼吸」以外は「ほぼ」不要だと思います。しかしやったことがなければまねごとも練習してみたりするのもありじゃないかと思います、飽きませんし実践して体験してみるというのは肥やしになります。そういう私は「4 – 7 – 8 呼吸法」と「ボックス呼吸法」をしょっちゅう取り入れています。普通に考えればわかりますが、カウントするだけで集中力をもたらすのに十二分だったりしますし、自律神経調整によってストレスを緩和するなどの効果もあるとされていたことと共に確かに集中力もさえるように思います。「4 – 7 – 8 呼吸法」についてはわかりやすい動画もあるのでそちらを参考にしてみてはどうでしょうか。英語で何言ってんのかわからない人(私)も見ながら一緒にやればコツはつかめるかと思いましたのでリンクもつけておきました。
小ネタですが「ボックス呼吸法」はリンク辿っていただければわかりますが、”Navy SEAL”(アメリカ海軍の特殊部隊)とかおどろおどろしい名前が並んでいますがまんまなようで、タクティカル・ブリージング(戦術的呼吸)とも呼ばれます。スナイパー(狙撃手)など高度なプレッシャーの中で『戦術として使う呼吸法』なんだそうで、たくさんの返り血をすすってきた呼吸法なので”そこ”の”あなた”はやらないように!同じ穴の狢に落ちます(冷笑)。ちなみに私はどんな暴力装置であろうと「道具」は所詮「手段」であり使い手の心次第だと思います。だから心を鍛えるわけですので、そしてあえてこう書いてみています。例えばノーベルさんは強力な爆弾を作って「平和」をうたいますが、正直言ってお馬鹿な私には理解出来ませんでして、しょっちゅうお題として考えるネタの一つです。真面目に考えてハゲるくらいなら使わないこともありだということです。また逆に用意された道具ならいかに心して使うかもアプローチの一つだと思います。
もう一つの小ネタで「4 – 7 – 8 呼吸法」は桜サクラとあの嫌われ前首相も好んで練習したとされています。私は寧ろ(前首相に対しては)つらい身体を引きずって官僚のロビー活動(説得工作)によく耐えてやりきってくれたなぁと思ってます。ストレスも半端じゃななかったろうと思いますし、鳴り物入りの反対政党ですら最後にへたった説得工作ですから並の神経じゃ渡れないだろうなとも思いますので。
いずれの小ネタも本当は普段は微塵も思っていませんが、思いつきのママに、ググると本当にゴミ情報も多くて毒されますねぇ。先入観ほど危ないものはないかと、あまり期待せず(期待したところで効果はないと思う)やってみるのもよいだろうと思います。集中力という点以外は私は期待どおり何もありませんでした。ただし丹田呼吸は様々なヒントと符合することが多いので練習しておくことをオススメします。
さて、この数ヶ月とあるマインドフルネス講座に参加したりもしている。やっぱりそうなのかとなるほどねぇと納得する部分もあり、ちょこちょこと「発見」と「学び」が多い感じだ。巷にいうマインドフルネスとはいえアーナパーナーサティは解釈は変わり得るがベースや次第は変わりはしないので、初禅までを書いてみようと思う。とりわけ
①アーナパーナーサティはターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘)の『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』をベースとして、「観息正念」というインターネット(アジアのお坊さん)で入手可能な書籍を副読本を軸にしている。
②とりわけ大乗仏教に偏っているところもあり、在家でできる仏教・仏道と考えたい。方法や説については可能な限りリンクで補うが口で聞いた事もあり典拠不可なモノもある。
③すべては「猿まね」から入ったとしても所詮はやり抜いて自分のモノにするまでのことで続けることだけを目標とすればよいと思う。
③はとても大事だなと思い直した事として、他者のやり方で参加してみるというのは一つの意義としてあると思うし、実にほとんどの人は「ひとりではできない」か「ひとりではつづかない」ので、そういう勉強会や座禅会は参加するという形で態勢を作るには一つの手段だと思う(私の場合は医療目的のデイサービスですが)。ある意味シュールな絵柄も「先生」達には不要なのだろうけど「私」達には必要な手段だし、そこに価値を見いだそうが(お金を払って受けるなり無償なりは好き好き)見いださなかろうが、ただのきっかけなのでそこからゆっくり歩めばよいのだと思う。特に他者を評価する(したがる?)ところもあるだろうが、寧ろ、本来は「気づく(注意・集中)」ことと「評価」は真逆のことで「評価はしない」ことが肝要だと思う。逆にそういう評価して欲しい承認欲求なのでいずれは捨てればよいことだと思う。続けるにあたっては自分にあったモノ(納得のいく・腑に落ちた方法や手段)を選択する方がよいなと思った。なのでその手段や方法、コツを含めて書いていきたい。
基本的に私は「先生」ではないので体験やコツや見聞きしたことは書くが指導は行わない事とする。つまりやりっぱなしの書きっぱなしということでお許し願いたい。もし欲しい答えに誘導したければ参加しておくのも一つの手だが私は「先生」ではない。「先生」という名前が欲しければ自ら選ぶし捨てもする。手段だが方法ではないしダルマでもない。本来的にはダルマは小さなモノであれ「苦(苦痛)が終わった」らダンマの終わりで、それを観察して学ぶことが本筋のことと思う。ただ、他方のやり方として私ならば納得のいく言い回しを見つけて腑に落ちたら解放されたこともあるので「サティ(気づき・注意)」を入れるやり方は指導の範囲ではない様に思われ、千差万別のような気がする。ただ人のやり方などは学びにはなるので多少は明かしていこうと思う。
長くなるので、いったんここで切って、座り方と心構えの話。
坐法については、初心者は安楽坐やあぐら、椅子を使って坐るのもありと思っていますが安楽坐や半跏坐からはじめて結跏趺坐を目指して欲しいかと思います。体験を通して半跏坐は体幹が捻れてしまったり気がつかないことがあるので結跏趺坐の窮屈な坐り方は実に安定して体幹がぶれないからですが私には身体硬くて長時間は向かないので深く長時間瞑想に入るなら安楽坐や普段は半跏坐と使い分けています。勉強会などではマインドフルネスのみだったりしますので椅子に座ってやることもありますので一応(少なくとも邪道なんかじゃないと思う)。
視点は1.5mほど先、対象物がある場合はこれに限りませんが、実のところこの「視点」は「物理的な視点」だけどは誰もいっていないのが味噌です。心の視点をそこに 落 ち 着 け て おけばいいというのが私の結論です。集中するのは鼻の下だったり鼻の先だったりするわけですが、最初の段階ではそれは考えずに、ただ「物理的視点」も「心の視点」もそこら辺に落ち着けます。背筋を伸ばします。
目は半眼とよく言われますが、少なくとも弘法大師の説ならば「半眼」は最初の段階で多生緊張しながらでも使ってみるとよいと思います。これについては「後述」。
手は「定印」としますが、私は個人的に親指を合わせて宝珠形(これは単に「仏舎利信仰」だからです(笑))にして少し引き上げて(結跏趺坐で置いた時の高さか丹田の高さで浮かせます)います。もしくは左手の上に右手を重ねて親指で折り合わせます。接客業やったことある人ならばマナーで習ったソレです。少し緩めて指を軽く伸ばしておなかを温めるように丹田にそっとあてます。実は私はおなかが冷えます。特に瞑想中に冷えを強く感じることもあるのでこういう手法をとっています。OKサインで膝におく必要は全くありませんし(やってもいいけど後々どうでもよくなると思う)意味わからずまねするより「定印」手を前に組む手印でいいと思います。よくこの世界との唯一つながりとなるので形に気をつけてなんていう説もあるところから意味に納得したならばソレを採用するといいと思いますね。
さて、よく見たことのある形になると思いますがそれでいいです。
すべて練習です。
腕時計でもいいので目の届く範囲においておくのも別にかまいません。時間を計るのにお線香を使うのが昔からあるやり方なんでしょうがどうでもいいです。ただ、白檀は鎮静効果や抗うつなどに効くともされ、身体の消炎効果や鬱血の除去や咳を鎮める効果も期待でき抗菌作用もあるらしいのでアロマオイルで使うのもありだと思います。その場合は時計をそばに置いておくのですが、後述しますがヒントにするためなので慣れたらもういりません。アロマオイルやお香は好き好きに。私はお線香1本の瞑想時間をとるのを目標にしています。
すべて練習です。
まず坐って呼吸を鼻の下の空気の出入りを観察します。あるいは空気の出入り見つめながら空気の動きを観察します。想像します。体感します。
すべて練習です。
まずは「2分半」の壁を目指してください。もしかするとあなたには「1分半」かもしれませんし「3分」かもしれません。じっとして呼吸を見つめていると飽きてきます。退屈します。退屈は怒りなのですが、気がつくとそれは「2分半」程度です。「よし頑張った」と時間が2分半なら精進してみて伸ばしてみてください。ちなみ「よし頑張った」は結果への「評価」です。今坐っていることで感じたり思ったりするかもしれませんが「評価」はしません。この評価をしないということを忘れないで片隅に置いておいてください。妄想に耽ったら「妄想」とラベリングするのは効果があると思いますし、受動的に感じて思ったならば「色」や「識」と漠然とロゴ付けして観察するも私は後者かもしれませんが、ひどい時は「妄想・・・妄想・・・」と入れている時もあります。
すべて練習です。
呼吸をするに当たって息は吐くのが先か吸うのが先かという問題がありますが、経典では「吸う」→「吐く」の順番になっているモノを見かけます。私もそれでいいと思うんですが、もし、あなたが苦しくなるならば『「吐」かないと「吸」えません』という事実を忘れないでおいてください。
すべて練習です。
マインドフルネスは毎回すべて「練習」ですので「本番」なんかなく、毎回出来も違いますので毎回練習で行うと思ってください。
さて、目は半眼の話ですが呼吸になれてきたら目を瞑ろうが半眼で頑張り続けようが好きにしていいと思います。マインドフルネスでは「瞑目で内観」を意味するので瞑るんだそうですが、初心者には「半眼」を教えます。私はこれ矛盾していると思います。どっちでもいいんですが、座して落ち着くまで半眼、その後、好き好きのスタンスです。ただ半眼のいいところもあります。薄目を開けてますので光が入ります。時には光が眠気を壊してくれます。全く無意味ではないですが、プルプルしてしまうぐらいならあなたの自由な選択でいいと思います。
疲れたら終わり、練習、お疲れ様でした。
今日はここまで習熟しましょう。『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』でも急に先へ先へ進めるのではなく一つ一つ納得しながら進めるように指示があります。実はスワンモークというところでの合宿では細かくチェックしながら進めていくそうです。短気に先に進めるのはオススメしませんので私も従おうと思います。書くのが面倒で怠惰なのも事実ですが(笑)。また私も自分でも何度か読み直しつつ、1週間ぐらい間をおきながらかければいいなと思いますので、ご一緒出来ればと思います。この系統の先生にお会いすることもないしまぁ今は縁がないのでしょうね。ただそれでも『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』と「観息正念」は良本だと思います。
2005年ぐらい「地獄少女」という深夜帯アニメだったかと思うんですが、有名な台詞で、「人を呪わば穴二つ・・、いっぺん死んでみる?」・・・いや、マジ怖っ(涙)。15年たった昨今でも本当にどうしたんだろうかと思うよな事件として、外国大統領のわら人形事件が近くでおきてましたんで、えぇ。
「神社にプーチン氏写真付きわら人形 72歳を逮捕 器物損壊容疑など」
我が儘自在と思っている人たちへの不満、とでもいえばいいんでしょうか.。o○(ちなみに、三日月神社とか蘇羽鷹神社っていうのは昨年にかけて回ったところですね。)
どうにもならんことなので、これくらいの鬱憤晴らしいいんじゃないの?と思えてしまう私もいるのも事実、まぁ、気持ち悪いですし、人様のもんどうこうっていう視点では、なんとも言えませんね、そばでこんなんあると。でも、本当にどうにもならんですもの、自身の心と同様かともいえますが。
そもそも天下太平って「退屈」の意味なんですかね?少なくともコロナ過も終息しつつありなんか産みの苦しみというか膿に苦しんでいるというかの世の中ですが、ある意味では「平和」なわけで「天下太平」ってこんなんだったのかもなと。
昭和のある教室での出来事ですが、「おまえら、○○やったんは誰だ?!申し出ないんだったら全体責任だ!」。私語絶対禁止、給食は黙食、教室から出られると、この拘束の苦しみから逃れられ、廊下に立ってる方が幾分か開放感のある日常でした。そらもう、毎日
(また誰か何かやったのかよ・・・)
(けど、僕なんかやらかしたかな?)
(何だろう?何が犯したのかな?)
(結局、今日もコレか怖いし動けないし辛い)
いろんな意見もあるでしょうけど、小学生だった私にはおかしてもいない罪を自省する毎日の時間の退屈さ窮屈さが恐怖で堪りませんでした。まぁ、お世辞にもできのいい子供でもなかったし寧ろ問題抱えまくっていたんですけれども、それでもあの2年間は一体何だったんだろうといまだに解決できないトラウマですかね。
自分をどうにかいうこと聞かせることもままらなんのに、それぐらいまわりなんてどうにもならないのに、まぁ、笑えますかね。そう窮屈な退屈が本当に嫌いだったんだなぁと思った私のとある今日一日でした。
そして今日は弘法大師の誕生日でもありましたね。南無大師遍照金剛。
そうそう、燃え尽き症候群なのかと思ったら男性更年期障害といって、熟々どうにもならないんだなぁ私って、と思った今日この頃でした(苦笑)。
敢えてこう書いてみた。換言すれば「パワーバランスの極み」とでもいえばいいのか、賛成多数だったり政策だったり信心・信念だったり、メカニズムや仕組み的には「メジャー」であって「マイナー」は封殺されていく圧力(仕組み)だったりする側面があるように思う。
お釈迦様の理論を極めればおそらく「中道」にまとまっていくのだと思うけれど、国家というパワーバランスの中においては、資本主義と社会主義の2つの系統があって民主主義と全体主義型・独裁型が問題を起こしていて不幸にも近いところ(テーラワーダといえばの「スリランカ」とか「ミャンマー」とかはその社会主義勢力だったのだけど)がなし崩しになっているようにも見えますし、多分その当事者という内側から見ると「ロシアもまた正しい」といえると思います。領有資源の原資がバランスのようにみえますので金蔓のパイプラインがどこを通っているか、当然主要なところが傀儡政権とかだと期待が大きいんで、たったそれだけで人が死んでいる現実があるんですよね。
実際、自分の正しさなんぞ自分の中のだけのことです。我が強すぎて人の「それぞれ」違いを受け入れられない(尊べない)からなのでしょうが、他者の足をすくったりすれちがいざまに小突いたり最悪のパターンなどもあり得ます。こういうのをスパイト行動というんだそうです(→「日本人のマスク着用率の高さは、意地悪な性格の裏返し?スパイト行動とは」[Yahoo特集]記事)。裏を返せば極論「おまえは毛色が違うから消えろ」そういうことです。毛色の違いとはまさに民族紛争でお釈迦様も止められなかったヤツです。シャカ族は他族に違いを思いやれず卑しい者を絆にしてコーサラ国に攻められ根絶やしにされることになります。言い換えれば「我」に自滅しました。三度進軍を遮って「仏の顔も三度まで」という逸話を作りましたが、重要なのは指導的立場の人が互いに危険を顧みず話し合えたことの方が重要に思えます。そしてかなわなかった。決定者(王族)の行動は代弁者としての行動(民族の願い)とはなっていないのは現代でも同じなんではないでしょうか。
こういう国家とか国民とか民族とか政治体制とか、それも「我」として形作っているのの一つであることは確かで、こういう信条も含めた「我」を「belief」と括るとして、そういうバックグラウンドも含めた自分が「我」の定義と一致すると思っている。言い換えるならば世間との絶妙なバランスがその「我」に現れでもあります。ある民は「ソレ」は「民の総意ではない」と声を上げたが、その決定者を選んじゃったのは「民」であるというジレンマも、また、「世間」というバランスであって「同調圧力」にも双方が存在しているように見えてきてしまいますね。
そうやって私たちは「愛煙者」「嫌煙者」や「愛酒者」「嫌酒者」や・・・上の記事だと「マスクをする(しない)人」を、個人の「正しさ」という価値観で追いやってきました。下手したら「ヘイト」という言葉をぶつけて差別してきました。その後には回り回って受け取る準備もしておかなければならないと思います。危惧するのは「メジャー」であって「マイナー」が入れ替わってそれを受け入れられない人たちが出てくることかもしれません。実は私はマスクに関しては「どっちでもいいんじゃね?」と思ってますが、ケースバイケースで「マスクする」方だったりします。つまり下手すると「マイナー」になりますかね。訳あって「咳」が出てしまうからで、致し方なく「マスクをする」選択しています(別件なので敢えて触れておくと数年ほど前からひどくなってきていて様々な原因も重なり体調を崩す羽目になっていました)。
いずれにしても自分すらもどうにもならないのにどうせよというかといえば(無我)、戒を保つように鑑み省みることが残された道で、次はその間(中道)を通ればいいんだと思います。そこで選ぶ道は他者とは違っていいと思っています。でもそれは「世間」に背を向けることではないです。そして他者には寛容であることも大切かもしれません。「諦める」とかきれいな言葉で修飾しないように鑑み省みる必要もあると思います。
問題はその決定者だけの希望を充足した決定者はどうするかということが残ってきます。最近では現場の話を聞かない社長とか官権などねじ曲がった権力サイドの側や上級国民とか(苦笑)のことですね。逸話として釈迦はその王の事を「彼とその軍隊は7日後に死ぬだろう」と予言したことになっていますが、占いを禁じた釈尊がそんな子供じみた仕返しのような言質があったとは私には到底思えないんですよね。いわゆる仕返しは近代国家では禁じられています(ちなみに近代日本では明治に入って死刑を含む罪刑が国家によることによって「復讐禁止令」を出して仇討ちを禁じています、連鎖を絶つ手段です)が、そういう憎しみの連鎖を生むような仕返しや仇討ちを寧ろ世尊は嫌がっていたと思うんですよね。だから「その悪口は受け取らない」だったはずですし、たとえそれが言葉であっても、自滅することを予測できるほどキレキレの人ならば、世尊は諫める前に相手の立場で理解し謝罪したり誤解を解くなどしてたり表現も相当に工夫していたんじゃないかとも思えるのですが・・・あ、気をつけて言葉を選んだつもりでも、まぁ、伝わりませんでしたね、現実に(笑)、私の場合選びすぎて嫌みも入ってしまう質があるのであとで省みつつも。結局、人間は都合のいいようにしか認知していないんで、我ながら腹立ちますね。
元に戻りますが、実際にコーサラ国は突如消えて謎のままにマカダ国に併合されてしまいます。たくさんの命が失われていたとしてもその決定者を晒すことも如何なものかもしれませんね。仕返しの連鎖が出来上がってしまわないようにしないと更に悲しい結末が予想できることになると思います。さてスパイト行動をする人たちには結末があるのでしょうかね?少なくとも仲間入りをしないようにするとともに、あぁ、そして最後に、向いていない背中は注意することはできませんが、今は私は「真面目」なので「背中に気をつけよう」と思います。さてさてお巫山戯はここまでに♪
いろいろ整理ついたらLINEは消しますので。今年、端末を載せ替えまして、一応一回は復活させたんですがその後引き継ぎも失敗しましたので、もういらないなと。今時マルチプラットフォームでシームレスじゃないのはいらないですね。秘匿性という意味では、LINE交換するのも電話番号交換するのもメールアドレス交換するのも、どれも対して変わらないと思いますが中でも炎上対策だったり独自ルールだったり、またよりセキュアという意味ではLINEはないかな。ずーっと我慢していました。
SNS利用動向調査、幅広い世代でLINEが使われる。利用率は8割超えに
昔っからセキュリティガバガバで「情報漏洩」問題やら「電話帳ぶっこ抜き」問題だったり、個人情報に触れるところに手を出しがちなLINEですが、これ以外にも既知の問題がずっとあって、まぁ改善はないだろうと。
仕事上我慢して使ってきたんですが、独自ルール(既読未読や放置?好きな時間に読みゃいいだろ?)や情報漏洩問題は「芸能人の不倫でなぜ漏れるの?笑」ぐらいならいいんですが(売名行為だったりいろいろあるのかもしれませんし、結構知らない人がポッとわいてくる現象は興味深い)、それが可能なら他も漏れるということですよね。
LINEを信じすぎて段落分けのない長文を送りつけてきたり(いわゆるメールで「頭のおかしい(頭悪い)」と揶揄されるような長文ですね)。文字数制限どうなってるのやら、改行打てない(もしくは打ちにくいなども含めて)ってことは「長文」の為の設計ではない、そういうことなんだと思います。
短文だと、待ち受け画面だけで事が解決するんですが、これが「未読スルー」問題となってくるわけで、発展して『「マイルール」押しつけてくるな』というのが本音なんです。楽しく使おうよ、という点についてはビデオチャットではなかなかよさげだったんですが、やっぱり重い。ビデオ会議システムでは、ZoomやらGoogle Meetやら素晴らしいものが出てきたのでそちらに移行でよいと思います。
今の風潮を見れば自明の理で会社とか企業とか労働契約の奴隷化したい方からすれば都合のいい道具なんで、仕事中の運転中とか休日連絡ありえないわけですしね。
iPhoneユーザーよりAndroidユーザーの方が安全運転だと?
というわけで、
少なくとも私の脳内での話ですが、優先順位として
直接対面>電話>郵便>電子メール・SMS・宅配レター>SNS
でしたが、今年に入って「郵便」は「レターパックス」以上となりました。2月に郵政メール消えました(笑)。手間なので新しいのを送って終わりにしましたが、電子メール・SMSのない時代には「郵便」の確実性は上位でした。「信書」の定義が根底からくつがえされるわけですが、「郵便不達」なんてググればニュースが出てくるように、不確実性が高くなってきたワケです。
直接対面>電話>郵便レターパックス以上>電子メール・SMS・宅配レター>SNS・普通郵便
が不達の可能性も考慮した現実的なところですか。
P.S. あ、あと、一ヶ月ぐらい書き進まない記事も諸々に捨てました:-)