四段階目「呼吸を落ち着かせる(静める)」

三段階目で呼吸を追い掛ける事、ここから続いて「5つの方便」を使ってイメージ力を働かせながらニミッタを落ち着かせてサーマディに入り「5つの要素(禅支)」を確認できれば四段階目も終わりです。

5つの方便
①呼吸(の調整役)を追い掛ける
②点を決めて呼吸を見守る
③見守る点にイメージを置く(ウッガハニミッタ(取相))
④イメージを操り(パティバーガニミッタ(似相))集中を磨く
⑤イメージを固定して、呼吸を静め落ち着かせ、専念して観察する

実のところ、呼吸を追い掛ける事にある程度集中が出来ていたら、既にニミッタも顕れて喜悦を体験出来ている人もいるのではないかとも思われます(私がそうだったので)。読み進めて実践してみて、上でいうイメージとはニミッタのことで、先に想像して作り出す・作り出してもいいというのが「5つの方便」の内容でした。

・・・実際のところ三段階目で適度に集中が出来て、途端に喜悦に入って三昧に入ってしまうので、三~四段階目は前後入り交じってしまい、何が間違っているのかわからなかったんです。私は一段階を最低三日ずつと決めて一段階ずつ内容を確認しながら味わって進めていったので最初は四段階目に入る前に既に喜悦が入っていたので読み進めるとかみ合わず、むしろこの辺は混乱して前後めちゃくちゃのまま、最後の状態だけ取り繕って(「5つの要素」を確認して)すすめる羽目になっていました。よって単に「静める」ことがこの段階だと思っていました。方便を使わずとも既にニミッタが出て喜悦に入ってから、集中を保ちつつ感覚の落ち着きを取り戻せる人は、身随観の初禅はほぼ卒業ってことで、もう既にこの段階で、禅定には入れている人も出てておかしくはないです。三段階目ではそれで、あえて「呼吸を追い掛ける」で書くのを止めました。同じ轍なので・・・

そして静まった状態で5つの要素(禅支)が確かめられたら「初禅の定(jhāna/dhyāna)」、で要素が揃っているのがわかるはずです。

5つの要素(禅支)
①喜悦(ピーティ pīti)
楽(スカ sukha)
③尋(ヴィタッカ vitakka)
④伺(ヴィチャーラ vicāra)
⑤一境性(エーカッガター ekaggatā)

逆に5つの要素が確かめられなかったら初禅の定ではないといえます。「喜悦(pīti)」によって「楽(sukha)」が成り立ち、「一点集中(一境性 ekaggatā)」によって、「注目(尋 vitakka)」が生じ、次いで「感知(伺 vicāra)」することができる。

その「注目」を「尋(vitakka)」といい「対象を記憶する事」と言い表す(認識対象把握)として、不定法では推究的で粗大な心の動き、といったり、唯識では「心や言葉で万事を浅く推量する心」とし不定心所の一つとしている。

そして「感知」を「伺(vicāra)」といい「心の経験をする対象」と言い表す(認識対象維持)として、不定法では観察的で微細な心の動き、といったり、唯識では「心や言葉で万事を深く推量する心」とし不定心所の一つとしている。

唯識学では、「尋(vitakka)」「伺(vicāra)」を併せて、「どうしてこうなってんのかな」としてしまう「所知障(外界のものに対する執着)」だといってます。実際、第二禅の受随観で「尋(vitakka)」「伺(vicāra)」を解放させます。

ですので、この段階での「一境性(エーカッガター ekaggatā)」は不完全である事がわかりますが正定の第一段階の入り口ということもいえます。喜悦からの満足によって心の中でヌッと現れた無思考空間で、一時的に思考が停止した状態です。身随観の完成であれば「身体ってそうしてそうなってんのか」の器が出来上がったとも言えます。まぁ、深くとらなくてもいいですが、まだそれが「我」だと思っている思考「そのもの」かもしれませんが。少なくとも肉弾道場のできあがりです。

「喜悦(pīti)」では光のイメージが顕れますがそれをニミッタというんです。どうも私の知る限り皆さん共通のようですが、上昇の指向性を持っているので足下のホワホワな感覚だったりモヤモヤだったり意心地が悪いような感覚でした。

コレを落ち着けていくのは一点を決めてそこから全体を眺めつつ下へ下へ下ろしていく、丁度、丹田呼吸を二点で上がったり下がったりをしながら観るのではなく鼻の下辺りから上下するのを感じて観察しています。つまり②「点を決めて呼吸を見守る」ですので、一点の玉やドットでいいとされています。それが③「見守る点にイメージを置く(ウッガハニミッタ(取相))」ということです。師匠に「三寸ぐらいの玉」と習った(三密観)イメージが強いのですが、①~⑤の手順は私には月輪観と阿字観そのものに感じてしまい、一点は鼻の下辺りに於いて身体のある辺りに一尺二~四寸(45cm)程の透明の玉(円)から発光されているイメージの月輪観(+日輪)のみになってしまっています。阿字観とか月輪観とかお次第に従って修するのではなくいきなりポンと視覚イメージをニミッタとして想像し置きます。それで充分です。懲りに凝るなら何かの道場観と謂われる観想でもよいかと。正に『「尋(vitakka)」「伺(vicāra)」を併せて、「どうしてこうなってんのかな」』をやっているだけで、パワーがあるとかないとかは私には知りません。ですので、この二つ「尋(vitakka)」「伺(vicāra)」を具現化している部分でもあります。まぁ、そういうことで道場観で喜悦に共通点が多いので興味深いところですがなかなか巧くいくもんじゃないですねぇ。いずれにしてもここは「月輪」程度が私にはあっているというだけで、点や星や太陽(日輪)やドット何でもいいと思います。

さて、色々書きましたが、「5つの方便」というのは再現性のあるテクニックなので、巧くいかなかったとしてもとりあえずそこでサーマディということにしてしまいなさいともとれる内容でした(どれを読んでも)。

前段階から他とは違うことやっていると思いますし、やり方の違いはどこに注目しているかの違いで、ある意味適当な「サーマディ」を持ってきていることから「サーマディが重要じゃない」ということを示唆しているようにも読み取れます。そう、禅定が作れるかどうかですよね。そして、私のように最初っからすっとぱしてくる時もあれば遅れて来ることもあって、結局、落ち着けるということを繰り返さないとならないですので、呼吸の回数と時間のようにどこに落とし所を作るかでもあります。それは各々にお任せします。

ターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘著 『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル
ターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘著 三橋ヴィプラティッサ比丘日本語訳「観息正念」(アジアのお坊さん
ターン・プッタタート(ブッダダーサ比丘著 9.アーナーパーナサティバーヴァナー

今後その後もということであれば、上記3冊読み比べてみることをお勧めします。ちゃんと経典の訳も『呼吸によるマインドフルネス: 瞑想初心者のためのアーナーパーナサティ実践マニュアル』には載っています。

最近、この1年殆どニュースサイト以外、ブログは読みません。時間のない中ならば、くだらないブログを読むよりか「ターン・プッタタート の法施図書室  ( Buddhadasa )」の「法話」が面白くてしょうがないからです。「空」の思想をを理解する上座部僧侶、この人しか知りません(「空の話」「空・空の心」「心を空にするには」)。

残念ながらお弟子さんが日本で教授されている話は聞きません。かといって本場を知りに行くほど私には甲斐性はありませんしお金もありません。なので、書籍で知ることしか出来ません。アーナパーナーサティなんてごく一部です。現代に通じるところがありますが、如何せん、仏教以外は古い方なので全てを信じる必要はないといっても、かなり他方の研究もされているので、それだけに飛び抜けた方だったのでしょう、異端扱いもされる時期もあったようですが、様々な試みもなかなかすごいことですね。根本の教えを大乗を否定せず巧く取り込んでいるのはとても感動ものでした。

さて、そんな私ですが、それでもどうしても質問や連絡をということであればウェブサイトのコンタクトを使ったり、コメント(投稿より二週間のみ解放)連絡いただければと思いますが、しかし、伝統宗派以外のサイトで、私がカルトの可能性があるところや他のブログは読んでいないので今はどうでもよいところだったりします。転生については「14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度」を読めばはっきりするほど転生には明確な目的があり第三者の認定が緻密です。間に何に生まれ変わったかわからない転生で記憶なんて保てるわけもありません。利益・権威誘導に使われる可能性があるならまさにカルトです。私はどちらかというと『「今・ここ」における個々人の心のあり方をしめした概念であるとする』という思想を支持します。が、その個人に於いて根拠があるならば、全ては輪廻転生を否定するものではないです、その人の事実だから。ただ、他人相手に強制・強要や押し売り話になりません。あくまでもその人止まりのものでしかないでしょう。

またこのサイトは検索ロボットがスルーするようにしています。それもわざとです。

こんな世の中なので本当に「アーナパーナーサティ」の入り口だけでも完成させて実践に役立ててもらいたい一心で「ピエロ」を演じることにしました。なので先生ではないですし、私には阿難はおりませんし、その他推してくれる人はおりませんし、現代的にはお暇もそれを作るお金もないです。まぁ、もうここまででしょうから今後は出会いがない限りは一人「サイの角」でいようと思います。やるならば方便として通る伝統宗派のみしか(単立とかたくさんあるでしょうが)興味はありません。そんなこんなで私には縁作りまでで、仏法はより深い実践のみでこの世とおさらばしようと思ってます。

その一部も一部を体験を通じて紹介してみました。本編も足りない部分があるかと思うので追記するかもしれませんが、とりあえずここまでで私のアーナパーナーサティについての指南は終わりです。さようなら。

追伸:あ、けどダーキニー(触金剛女)は私に半年以内の死は予告していませんのでご安心を(?)。ま、悟ってないし教えてはくれないか(笑)。所謂ゾクチェンやチベット密教でいうところのダーキニーは半年後の死を告知してくれるそうです。

三段階目「身体のすべてを体験する」脱落編

「身体のすべて-『呼吸する身体』と『生身の身体』-を体験する」意味がさっぱりわからなく脱落した本人なので落胆というか、さてどうしようという感じでした(笑)。いらっしゃいませ。一応フォロー書いてましたが、要は「不合格」で「全てやり直してください」そういうことです。2分半も座れるようになったし「2週間も頑張ったのになー」みんなそうかもしれないです。ただ一つ成長したであろう事として、座れなかった時間の克服は出来たであろうし、根本として練習であることに気がついて、私の最初の頃とは違って気楽に座れているんじゃないかと。

『呼吸する身体』はまだ体験していなかったとしても、『生身の身体』は残っています。つまり、脱落した私は、しばらくは、「生身」で「肉体」の身体の観察をしていました。空気はどこまで伝わっていくのか、身体の中のエネルギーはどうつたわるのか、「お釈迦様は皮膚の毛穴まで観察した」というので可能なのかどうかなど、「痛み」があるならどこがどのように色に例えると形はどんなで、繊細に粗大に観察していました。それを数ヶ月続けていました。元々、喜悦を体験していた私は「あぁ、やっぱりコレのことなのだろう」程度で、この後の手順で同等の状態に入ることが出来ることがわかって、テクニック次第で「喜悦を体験」し初禅を完成に近づけていくことは可能だと確信したので、更に精進していましたので、一段目・二段目・三段目とこの後の四段目とそのテクニックを数ヶ月続けていました。

身行で痛みなどを観察する時、使えそうなものとして頭痛の時、形や色を思い浮かべて推測して想像して巡らすと痛みが消えていくなんぞというライフハックがあるんだそうですが、私には無理でしたんで少し我慢して観察し終わってさすったりしたことが大半です。動くなとか我慢するとか気が散ることはさっさとかたづけて続けた方が精神衛生上もよいですし効率的です。身随観の身行ですので、精神状態は追う必要はありません。私の場合は妄想とギリギリのラインや妄想となってしまっていたことも結構ありましたが、妄想だとはたと気がついたら「呼吸するのを追う」に戻せばいいんです。

ちなみに、ここで目指すサーマディ(喜悦と初禅)や四禅以降の、空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処の内、一説では、空無辺処はアーラーラ・カーラーマ(alāra kālāma)仙人から習い、非想非非想処はウッダカ・ラーマプッタ(uddaka-rāmaputta)仙人から習ったことになっていて、口をそろえて仏教のオリジナルは観の瞑想だということであるので、お釈迦様が定道後に広めた観の瞑想ではなく、当時のメジャーだった「止の瞑想」=サマタの瞑想で実現出来る瞑想の定であって、今ここでやっている、「観の瞑想」でなくとも「止の瞑想」=サマタの瞑想で可能な「定」である事を勘違いしないでください。つまり、喜悦・初禅を味わいたいだけであるならば、アーナパーナーサティ以外でも、それらの定に達することが出来るので今やっているアーナパーナーサティは不要です。そのパズルは坐っている内に気がつくと思います。あくまでもアーナパーナーサティを使いながら「喜悦」、「初禅定」を目指している事をしっかり念頭に置いておいてください。逆をいうと観察しながら集中を使うというテクニックですむ話で、後々書いていく話です。だから禅定には入れますので心配ご無用です。

『呼吸する身体』が何なのか、人によってなんとなくうっすらわかるかもしれませんが、解らなくても殆どの場合「呼吸するのを追う」は何とか出来ると思います。前回書いたように鼻口から丹田に繋がる架空の管に空気が鼻口から入って丹田に流れていき気が溜まっていきます。反対に吐く息は逆を追って出て行きます。何度も繰り返しながら追っていきます。よく巷に溢れている繊細で微細なゴージャスなのじゃなく、透明の単なる「管」でまっすぐの管でいいです。体表にはみ出る様な管になったとしても全く気にしなくてOKです。

苦しくなったり、生身の身体に何かしらのネガティブな反応があるならばその呼吸は間違っていますし、まずは身体の反応を見極めつつパッシブに呼吸を追い掛けていく感じです。アクティブではなく、ポジティブでもなく、ネガティブでもなく、想像しつつ追い掛けて預ける対象にしていきます。身体が求めている呼吸をあえて探求するためも呼吸法を探っておくのもありだなと後々思ったので先に種類などを示したのはその為ですが、もっと単純に丹田呼吸だけでいいです。

『生身の身体』を観察するのに別のコースとして「小ラーフラ教誡経」と「大ラーフラ教誡経」のご一読をオススメします。「大ラーフラ教誡経」は地界・水界・火界・風界・空(虚空)界を『生身の身体』で分類しています。そこで釈迦は息子に「あなたは出入息念という修習をおさめなさい(Ānāpānassatiṃ, rāhula, bhāvanaṃ bhāvehi.)」つまり、「小ラーフラ教誡経」でいうことも「大ラーフラ教誡経」でいうこともあなたは理解出来ていない状態で、本来はアーナパーナーサティを行う前に知っているからこそ先に進みやすくなっていたはずで、出来ていないならこの「身行」でしっかりと練習勉強しておくのもありな時間だと思います。それは形の五輪ではなく意味としての後々の五輪観を読み解くことに繋がる立派なベースと思います。肉体(地界)には血や体液(水界)に満たされ流れる食事や筋肉の収縮によって起きた熱(火界)血によって伝達して神経は指令を伝達し(風界)、毛穴など穴が虚空につながり・・・・最後に、空間がなかったら肉体は存在しません。そこに充分な空間があるから「生身の肉体」も存在出来るはずでそれ自体も「私」の勝手な思い込みである「我」であることも気がつきませんか。

ちなみに、懺悔文は「我昔所造諸悪業がしゃくしょぞうしょあくごう 皆由無始貪瞋痴かいゆむしとんじんち 従身語意之所生じゅうしんごい ししょしょう 一切我今皆懺悔いっさいがこん かいさんげ

」ですが、あなたの記憶のない「生身の身体」がおかしてきた罪でもあります。塵だったが集まって身体という「色」を作っていて「意」(無意識)が加わることで目的化されているように見えます。少なくともあなたの「生身の身体」を形成するという目的があるはずです。そして60兆(37兆という説もある)細胞となりそれぞれのプログラムに従いそれぞれが生き活かしてまるで一つの身体を「生身の身体」として感じているに過ぎないということもわかるはず。

幼く生まれたてのこの肉体は不完全で「意識」+「無意識」が未完成な状態で組み込まれていて、成長に従いより完全な身体となっていきます。転生ということを条件に考えると、つまり不完全なストレージに宿った強い執着の無明一部不完全な形で記録されたことになる。あえていうが、この事実から、過去世の記憶なんて不完全なストレージに完全な形で記録出来るわけがないです。そういう不完全な記憶が薫習と呼ばれたり業と呼ばれるものであるのは確かでしょう。身命経やここを研究されている論文「『雑阿含経』「婆蹉種相応」」を読まれてみることをお勧めします。そういう強い執着が断てるまでアーナパーナーサティを練習するんだと思います。そうでなければ「天狗」に生まれ変わると昔の人は考えてました。過去世の記憶など否定はしませんが取り違えた天狗になるのも、それを断つのも自由です。が、個人差を否定するつもりはありませんしそれを証明していただければ、その人の外事であって、執着を絶つのは私ではないので、やっぱり私には関係ない話ですね。私はわかりかねますが、じっくりと自分一人で立ち向かってください。

さて、こういう不完全な状態で生まれてきた私は何を元にしているのか、有機物になる以前の無機物ではどこの誰の死骸を取り込んで命にしてきたのかなぜ誰の命が絶たれたのか、そういう罪業もあるのかもしれませんし、今昭和の戦後の世界に生まれた人は少なくとも戦時の犠牲者の元に生かされているという事実もあるので、また生きるために他を殺し糧として肉にしてきた連鎖も、それも過去から引き継いだ悪業でしょうね。まぁ、精神的に抑圧したり虜にした(してきた)犠牲者もりっぱな悪業でしょうね。

『呼吸する身体』がわからずとも、『生身の身体』の身行だけでもキリはありません。

三段階目「身体のすべてを体験する」

身体のすべて『呼吸する身体』と『生身の身体』を体験する、別訳に頼ると「呼吸が体を変化させることを知る」です。

とても珍妙ですが、前回までの布石は全て、これです。

残念ながらの場合もあるだろうし、バッチ来いな人もいるかもしれませんが、ここが未完成でもとりあえず先に進めます(ました)ので、あと一週間、そしてわかるまでずっと、長い息と短い息を復習し練習し続けてください。

私は実は残念なパターンでしたが、後々その意味がわかりました。逆に同じ失敗はして欲しくないので先に進めてもずっとここをわかるまで繰り返す課題として「肉体と呼吸体」という事への取り組みは残しておいてください。

残念なパターンじゃない方は、呼吸を調整しようとしている意識とは別の調整役がいることを見つけられているはずで、それ(調整役)をよく観察し、その呼吸によって心の状態が変化することを体験しつつ、追いかけ見守る行程に入っていきます。そうやって呼吸のコントロールコントロール(調整)を手放していきます。「呼吸をコントロールしない」の意味はそこにある事がわかると思います。『追いかける」のは例えれば「丹田呼吸」で、仮設の「気」です。

普通には吸った空気は肺に入ってガス交換が行われ肺から出ていきます。

が、架空の「管」で鼻の穴から架空の臓器の丹田(臍下三寸)までつないで、吸った「気」は丹田まで流れていき溜まっていく様、また逆に丹田から出ていく様を追っていきます。追っていきますが、リアルタイムにはずれが生じたならば、それを追いかけていきます。続けて、今度は呼吸を預けて一点で見守っていきますが、今回はそこまではしません。

「行」は形成力と形成と形成プロセスで出来上がっていて、呼吸という「調整システム」を使って「行」として観察していきます。調整装置(身体)・調整・調整プロセスとみていくのだと教えています。これが出来なくても喜悦には入れますので、ちんぷんかんぷんであれば、とりあえずはここでは追い掛けていくだけでよいです。出来なければ練習すればいいだけなので深遠に辿り着けなくても辿り着けても練習だけです。最初の通り本番なんてありませんでしたし。カーヤサンカーラ(kāya saṅkhāra)=「身行」ということになります。

二段階目「短い息を知る」その2

仮に「4 – 7 – 8 呼吸法」に20秒(4+7+8=19)かかったとします。5分坐ったら連続15回吸って吐いてしたら5分は過ぎてしまいます。一呼吸に1分まで延長出来るようになったとしますと5回吸って吐いてしたら5分経過してしまいます。既に1週間以上坐ってきているはずですが、それで納得かどうかは”あなたの決めること”なので、長いか短いか充分かという話をするために書いているわけではありません。が、少なくとも2分半の壁は充分ということは言えますし、自信に繋げていっていいはずです。

同じく5分ならば「ボックス呼吸法」で15秒(4+4+4+4=16)だったとしたら、連続20回吸って吐いてしたら5分です。上にあわせて連続15回だったなら、3分45秒ですが、実際には中断したりやり直したりしているでしょうし、小休止しても、10分は坐っていることでしょう。「長い息を知る」段階と併せて計10分は、一日のたった1/144ですが、倍の20分坐ると1/96、30分だと1/48日と、社会人には結構ダメージのでかい時間となってきます。実際これも続かなくなる要因です。傍目に馬鹿真面目だからと評価も結構ですが、本来「時間を切り売り」しているサラリーマンにとって「大きいダメージ」ですね。客観的に落とし所は自分で決めていくことになります。私は長くても線香一本分(所謂バラ詰約25分~30分)としています。このことも踏まえて上記の時間をうまく調整してくれればと思います。

さて、この段階までは呼吸のコントロールをしているわけですが、次の段階かこの段階でカーヤサンカーラ(kāya saṅkhāra)を見つけます。プッタダート比丘は「呼吸」も「身体」だと表現していて「呼吸である体と身体である体」と2つを表現されています。観息正念では「肉体と呼吸体」、マインドフルネス版では「『呼吸する身体』と『生身の身体』」と訳されています。私の表現に変えると呼吸と呼吸の間など「ギャップがあったらその隙を見つけておき」ます(知るのは次です)。

呼吸を調整しようと思って調整する場合、随意運動の運動野を使って行いますが情動でも呼吸はコントロールされます(情動呼吸は扁桃体だもいわれている)。また、更に身体に巡らしたセンサー(受容器)で捉えた情報(酸素分圧・二酸化炭素分圧・pH)などを元に脳幹の延髄に呼吸中枢で代謝性呼吸を行っています。ちなみにセンサーの一つ酸素分圧は心臓から出る大動脈にある大動脈小体で行っているとされています。呼吸中枢(延髄)にて吸気についてはある程度自動的にリズムが作られているとされます。更に上位の(呼吸調整中枢)ではこのリズムを、感情や意思など大脳皮質と視床下部の情報を受け呼吸リズム(呼吸中枢)を調整(呼吸調整中枢)してます。橋とか延髄は、中脳と併せて脳幹と言われる部分にあり脊髄に繋がっていきます。視覚からすると視覚野は後頭葉にあるので前方に向かって真ん中に脳幹があり、物理的には眼球から鼻筋を見るような位置関係に近いかもしれません。(次の予告的になりますが)私的には呼吸が自動に切り替わって(追いかけ)更に呼吸を見守る頃に視点の鼻先の下や鼻先の鼻筋がすっとした頃に盆の窪の奥が熱いような感覚になるのはこういうことなのかなと思ったりもしますが、実際そうかどうかは知りません。ただ、位置関係に納得したのは本当です。次の段階でその実体の肉体と呼吸する身体と見極めていかなければならないので先にクソいらない知識(本当にここ以降では出さない話です苦笑)と共に『呼吸する身体』を意識してもらえればと思います。

追記

大前提として、アーナパーナーサティは第一段階の「長い息を知る」から毎回毎回一坐の度に順番を変えることなく修することとなっている。段階を深めていけば理由も自ずとわかってくると思われるが初禅の四段階から毎度繰り返すことになる。面倒なので飛ばすということはオススメしないし先を急いでしまうこともオススメはしない。やってはいけない毎回最初っからやることといわれている(「と記載してある」というのが正しいか)こともあるが、実のところ私の経験からいうと毎度修すことで毎度新たな発見がある可能性があり、先の段階でも発見があると初期の段階の理由が変わって(わかって)くる可能性もあるためである。ついでで、先の段階にはリアルタイムで行っている場合は「先へ進めない」のであえて書かなかったが、段階を追うというのも結構大事なヒントになっていることがあるので、ガマンして練習も大事なのでとりあえず順番に進めること、また先の段階が明らかでなくてもそこで終わりにするのがオススメである。ちなみに私はそうしていてあまり問題がなかった。終え方にどうしても心配があるならば、「願わくば此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん(ことを)」でも、回向文をとなえるでも、「今日を、今を、この瞬間を、ありがとうございました。関わった方々が幸がありますように」とかでよいかと(この二段落目後日追記)。

以上、「第一段階の「長い息を知る」」の二段落目に追記した。

 

安部元首相の安らかなることを心よりお祈りいたします。

街頭演説で凶弾に倒れる元首相、なんか世の中騒がしいですが、無駄かもしれませんが、祈るぐらいしかできないで。ご冥福お祈りしたいと思います。

正直こういう追悼系の残したくないんですが、お名前こそ上げなかったモノの「4 – 7 – 8 呼吸法」で触れてしまっていたので何かやるせないモノ感じました。

空即是色

また余計なことかもしれませんが、時事ネタ的に、スリランカが実質デフォルト宣言しちゃいましたね。スリランカといえば多くの仏教者が日本に来て仏道を教えてくださっている関係の深い国ですね。国として見てみると社会主義国家でロシアと深い関係があったようで、元々の依存関係や経済状態に加えコロナ過が基盤に、ロシアのウクライナ侵攻がかなり影響したのかもしれませんね。ある意味仏教の歴史のある民族と国家なのですが、そういうのも所謂、アイデンティティ(ビリーフ(belief))も立派な我執の一つと見なせます。歴史(歴史問題)などと言葉をすり替えてみたり、そういう国という仮定の経済基盤の「崩壊」の宣言が現実の自分に与えるものもありえるかもしれません。お釈迦様でも一国の一族の崩壊は手が出せなかったと史実が語っているようにも思いますが、どうにもなりません。けれど形は崩れても生き延びた人もいたでしょうし、歴史と紡いでくれているはずで、それもこれもどうにかできました?どうにもなりません。いい意味だとOKで悪い意味だとNOとか極論でなく中道ですよね。諸悪莫作衆善奉行でしたよね。国とか民族とか結局はアイデンティティの含まれるやっかいな部分は、形而上学的な概念であって実体のない「空」です。憂えている場合ではなく、(今の私には心の中ででしかかないませんが)物質的にも壊滅的状態でしょうが、何も出来ないからこそ応援するのも大事かと思います。どちらも形はありませんがね。

お金も国家も、みんな架空の価値観とでもいえばいいでしょうか。架空の仮の存在が実は「私(我)」という「我執」にも影響が与えていることなんてたくさんあります。嫌って排除しようと忌まわしみ遠ざけても、寧ろ膨らんでしまったり質の悪いもので今でも苦しみますね。どうするって、今はなくせないなら使い方を知るしかないと思う今日この頃です。体験を思い出しながらの表現になりますが瓦解したように腹の下にヅーンと重い何かを感じてもあなた(私)は”今”生きてます。俗っぽい俗人の話ですが、実体のないものがその実体という、あの体験は私にとってのまさに空即是色でした。

とにもかくにも、暑い日が続きますのでご自愛ください。

二段階目「短い息を知る」

「短い息を知る」これだけです。

プラーナヤーナっていう難しい知らない単語に惑わされる必要もないと思いますし、志那的発想で気功の「気」が「プラーナ」と同じなんじゃね?ぐらいでいいと思いますし、きっつい運動の中でヤレ「気を感じろ」とか「気がどうの」とか繰り返し十数~二十数年(あ、+αもあるなぁ)やってましたけど「気」なんてわかりませんし見えもませんでした。で、それで、いいんじゃないかと。変にわかってるような気がしても幻想かもしれませんし、少なくとも見えているのはあなただけでしょうし、それを否定するつもりもないので、あえて”「気」なんてわかりませんし見えません“。ただそう言われて育ってきて一つの答えをもっていてそれをいうならば「数値化出来るものはすべて”気”」だと思ってもらっていいではないでしょうか。圧力から力学、量子論の確率論に至るまですべて”気”だと思ってもらってかまわないと思います。それらが拮抗や指向性やバランス・圧を生んでいます。つまり殆どは私たちの場合「数値化」できるものです。それらを生み出しているもの(力・源)も含めて『気』とか『プラーナ』なのかと思ってもらってかまわないと思われます。が、そういうオカルトやスピリチュアルの世界はいったんこっちに置いておいて、一応、ここではそれらに注目するのではなく「吸って」「吐く」、「呼吸」です。

「長い息」と「短い息」の対比に始まって、「どのような影響がある」かを知ることで、「身体に威力がどんな」に「どのようにあるか」です。

”オカルトやスピリチュアルの世界”ではじきましたが、現実にはあります。例えば血管といえば動脈と静脈ですが厳密にそれらが終端しておらず単なる網目でまとめると一本の”完全な”管で繋がっているかというとどうもそう図式化されて習いますが、生理学的には動脈サイドからにじみ出た血漿は水分として組織の中へ浸透し、大半がリンパ管に流れ込み残りが静脈サイドの血管へ流れ込む、こういう循環を微小循環といいます。浸透圧なんかも関係しています。残念ながらこういう水性の流れや分布を数値化したのって見たことなかったりします。お肌の微小循環とか、くぼんだり黒くなっていたり赤く腫れていたり私にはそれしか見えませんので説明しづらいですが、私の不勉強さゆえなのかはわかりませんが、その「数値化」は「知りません」とだけお伝えします。

そうやってリンパ管がある事によって外部からの免疫組織として成立しています。消化管との間もリンパ管で外部から防御機構として働いています。これもせいぜい特定の血球数だの物質の濃度など以外で(これまそこに”水”性の媒介がある事を前提としてますが)数値化は難しいんじゃないかと思います。まぁ、それでも熱心にお化粧品の作っている裏ではお肌の微小循環とか真剣に研究してそうですが、肌の断面図とか簡単な図式は出来ても、解剖学のように「この指のここの部分でこのように微小循環が発生して」とか一般化出来て示せるようなものにはなっていないんじゃないかと思われます。でも、ここまで書けば、見えない世界を私たちの尺度として科学的に証明出来ましたよね?。神経ならば微弱な電気信号として電圧電力など、生体の内外部で起こった情報に応答して特定の器官で分泌するホルモンとそのバランスや血中の数値、などなど、それ以外のことや魂だのをいってる方は・・・ごめんなさい、その先は、私には理解出来ませんとだけお伝えするしかなさそうです。とはいっても特定されている現象なんて、科学が万能でないのと同じようにたくさんあります。身体の中の世界の事なんて(でさえも)日進月歩だといわれていますし。

大まかの流れとして各末端の組織が脳に対してポジティブないしネガティブによりフィードバックしまた脳からの指令や分泌物を血液(水分)ないし神経ないし媒介として伝達して組織に反応を起こさせるそういう、まさに、集まりがカーヤ(kāya)ですよね。今でこそ色々言葉としてかけますけれども、すっごいこと知っていたんですね。今の段階(”身随観”ですので)ではその無意識の反応などを観察する程度になるかと思いますが、今回の「短い息」の観察を通して心地の良さであるとかもっと欲しいであるとか、ここは嫌いで遠ざけたいとか、長い息に比べると心臓が鼓動がドキドキするから感じやすさ身体への影響など観察すればいいと思います。これ自体にあまり意味があるとは思えませんが、肉体を調整しているのは実はこの呼吸です。

上に余計なことも書いたので頭パンパンになりながら観察している姿は笑えますが( ´,_ゝ`)プッ、ですので、途中はすべて外事として無視してください。あくまでも「長い息」と「短い息」の対比に始まって、「どのような影響がある」かを知ることで、「身体に威力がどんな」に「どのようにあるか」です。前回までに結構ヒント書いてました。「吽」は短い息に分類出来ますし、カパラバティやってみるのもありかもしれませんし、私のオススメは「ボックス呼吸法」かもしれません。苦しかったら止めてくださいね。無理する必要はないと思います。でも苦しくなっているということは知っておいてくださいね。

一段階目「長い息を知る」その2

もう2分半の壁も越えられていると仮定して、この段階も1週間続けてもらっているとして、補足的な話を。

少し『秘密集会阿閦金剛』の画像があったならば少し見てみて欲しい。今やっていることは密教ではないし集大成のチベット仏教が何を語るか。仏像ではなくタンカとか曼荼羅とか言われる絵柄の真ん中のご尊顔(憤怒形)を拝してみると、口が開き舌を上顎に上げているのがわかる。口も使って呼吸をするということ、よく言われるように舌を上顎につけるというのを実践しているのがわかるはずでそのまねるモデルになっている。一見関係ないようにも見えるが日本に伝わった真言密教の金剛界降三世三昧耶会降三世会理趣会を一枚で表したようなタントラが『秘密集会阿閦金剛』なのだがそういう教義的なものの見方をせずとも色々物語ってくれる一枚のシーンに思えてならない。

人間は言葉をしゃべる関係で口を使って呼吸をするように進化したのだが、口呼吸は呼吸を浅く速い呼吸に合っているように思われる。普段とは逆さまを練習するのがシータリー呼吸なのか全く知らないが、舌を丸めるのは通常鼻で呼吸する時(無意識の話で)鼻腔の中で空気を湿らせ適度な湿度の空気にして呼吸器に送ることと同じ効果+αを狙っているのかもしれないと思ったりもする。鼻から吸った空気も冷えていく様観じてますか?こうやって考えると呼吸においては口からは吐く以外はあまり考えなくていいことはある程度たどり着く。

長い息でよく知っておきたいのは「吐く」ことで、ひとつは「しっかり吐く」ことで、二つ目は「長く時間をかけて吐く」ことの二つで使い分けが出来る。「阿吽呼吸」で「吽」が終わりをも意味しているが吐ききるのにこの吐いた最後の終わりに「ウ(フ)ン」と腹に力を込めて吐ききると、”あら不思議”、吸ってもいないのに(”吸おうと意識しない”程度の意味)自然と息が入ってきますね。

ここまでやる必要なないですが、緊張で呼吸がうわずってしまう人にはちょっと頭の片隅に置いておいて欲しいのは吐かないと吸えないという事実です。呼吸がうわずっている時は換気量が少なく、更に早くなっている時は死腔が呼吸毎に加算されて効率の悪い呼吸になっていることは、よく知られている話だったりする。昔とは違い程度のほどはあれど私のように緊張しいなど心理的影響による過換気症候群(過呼吸)などは(現在では)ペーパーバッグ法は用いられないが(二酸化炭素分圧が高くなりすぎるというふうに解せられているみたいで人の状態を見極めるのが難しい事も含まれていそうで指導・治療・誘導には向かないのでしょうね)、まずは一時的に低下した二酸化炭素分圧を元に戻し、酸素の取り込みが可能な状態に戻すことが求められるのでゆっくり深い呼吸を薦められるのは横隔膜を使い腹式呼吸にする云々というようで異論はないです。

逆に激しい運動でハァハァしてしまった時は、代謝性アシドーシスで血中の乳酸が過度に(pHが上がり)増え、二酸化炭素を過度に捨てようと呼吸で補おうと(pHを下げようとする)している。

さて、いずれにいても、本来は肺気腫などのリハビリテーションの技術で縁遠い話でしょうが意外とオススメなのが口すぼめ呼吸+腹式(横隔膜)呼吸、口をすぼめて吐くので呼吸器に普段よりも圧をかけ、腹式呼吸で横隔膜を刺激しつつ自律神経を整える事が考えられます。ということで、前にのせた「4 – 7 – 8 呼吸法」のわかりやすい動画を見直してみてください。そのまんまです。

ここでは「伝統的に舌を上顎につける」的な説明をしているシーンが見られますが、どうもこれは共通していわれていることのようなのであえて一般論、「舌を上顎につけることで気の道を作る」んです。私には効果はさっぱりわかりません。寧ろ表の人中はぶん殴ると卒倒する点ですが(あえてツボとは呼ばない)その唇の裏の歯茎にある齦交というツボは情緒不安定の際に用いる事以外全くの謎のツボです。更にはその表面ではなく更に背面の上顎に添えるのが一般的です。ちなみに息吐きにくいです、えぇ。私的には実感も確証もなく立証出来ないのであまり触れてきませんが任脉と督脉はこの舌の先で繋げて気の道ができると考えていそうで、私的には「舌を上顎につける」のは極めて迷信に近いですので一応。

ただそれでも呼吸に集中する”点”を鼻の下にする時、「舌を上顎につける」ことでコレが頼りになるのは確かで、それ以外は任脉と督脉の接続を考えるならば、舌をつけてなくても喜悦はおこるし鎮めも出来るので、鼻呼吸の際だけで一応”点ける”(付けておこうか~ぐらい)で十分な気がしないでもない。呼気を口からする時は綿密に気にしてたらキリがなさそうですなぁ(苦笑)。

最後に「吽」ですが元は「हूं(hūṃ)」ですので「ふ~ぅん(む)」で、金剛薩埵(降三世)の真言でもあります。呼気の最後に使うと吐ききれますし、カパラバティなどを参考にすればデトックス効果もありそうなのでまさに毒抜きなりそうですね。降三世は三毒を除くのはあながち間違っていないということです。秘密集会タントラでも最初に降三世明王の真言から入ってくようですね。

私は「4 – 7 – 8 呼吸法」と「ボックス呼吸法」以外は、昔、格闘技を習っていたことで丹田だの呼吸法っぽいことをやっていたのと、ずーっと昔にこのあたり「チベッタン・ヒーリング 古代ボン教・五大元素の教え」でも「どんなもんなんかい」とあれこれ試してみた記憶だけでヨガの呼吸法はほぼ知らないのだ。もっと落とし込めるのはないかなぁと思っていたら、ヨガの呼吸法はまさにそれだと思ったので、今回少し集めてみた。集めてみて面白い人がいたので動画を紹介しておこうと思う。

まじめに呼吸法 片岡まり子

ヨガコントがいい感じでした(笑)。つか、お笑いに持っていくセンスより、体幹しっかりしててやっぱりこういう人たち凄いね。

「長い息を知る」を総括して「丁寧」に息をするという表現がわかりやすいかとも。

一段階目「長い息を知る」

「長い息を知る」これだけです。

大前提として、アーナパーナーサティは第一段階の「長い息を知る」から毎回毎回一坐の度に順番を変えることなく修することとなっている。段階を深めていけば理由も自ずとわかってくると思われるが初禅の四段階から毎度繰り返すことになる。面倒なので飛ばすということはオススメしないし先を急いでしまうこともオススメはしない。やってはいけない毎回最初っからやることといわれている(「と記載してある」というのが正しいか)こともあるが、実のところ私の経験からいうと毎度修すことで毎度新たな発見がある可能性があり、先の段階でも発見があると初期の段階の理由が変わって(わかって)くる可能性もあるためである。ついでで、先の段階にはリアルタイムで行っている場合は「先へ進めない」のであえて書かなかったが、段階を追うというのも結構大事なヒントになっていることがあるので、ガマンして練習も大事なのでとりあえず順番に進めること、また先の段階が明らかでなくてもそこで終わりにするのがオススメである。ちなみに私はそうしていてあまり問題がなかった。終え方にどうしても心配があるならば、「願わくば此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん(ことを)」でも、回向文をとなえるでも、「今日を、今を、この瞬間を、ありがとうございました。関わった方々が幸がありますように」とかでよいかと(この二段落目後日追記)。

前置きに、プラーナヤーナだということだと書いたかと思いますし、ヒントはいくつか書きました。練習しながら試行錯誤の開始となります。

ただし、身体を感じること以外は原則すべて無視します。身随観とはカーヤヌパッサナーといわれます。カーヤ(kāya)は「集まり」という意味です。「今日当たり前」の「物質の集合体(身体)」を観察するわけです。身随観で四念処の最初です。体表の「痛み」であっても「痛み」として感覚に上がった後は既にそれは受随観や心随観の領域でしょうし「受随観」なら体毛や自由神経終末といった皮膚の感覚器によって生じた(受)「痛み」やその「伝搬(神経)」やそれによって生じた「不快(認知)」などは、身随観の領域ではないので観察対象にはならないと思います。五蘊でどうだったか思い出すと色受想行識の「色」です。五感でなく五官(六処といいたいところですが「意」は違うのであえて。この単語は恐らく東洋思想の言葉ですね)の眼耳鼻舌身で物体で、更にはそれぞれが物質でできた器官です。この器官に外界にぶつかる刺激(接触)が「触」で「受想行」が起こります。生身の身体という情報外はすべて観察対象外と考えていますのでここではこれ以上は触れません。しかし現代科学生理学的に酷似して考えても結局は物質の集まりという「カーヤ(kāya)」という表現に私は異論どころか激しく同意してしまいます。

プラーナヤーナという言葉も出てきましたが、次の段階へのヒントもにもなってきますが「長い息」で「どのような影響がある」かを知ることで、「身体に威力がどんな」に「どのようにあるか」です。気持ちが落ち着くのか怒りが緩まるのか苦しいのか何が苦しいのか苦しさをとる「長い息」はどんなかです。呼吸は今の段階ではある程度「意識的」に調整しなければならないはずで次の段階を通してとあることが見つかるまでは呼吸を調整しつつ眺めていきます。意識していても呼吸がついて行かないならばそれを知らなければならないと思いますし呼吸を任せるのはまだ先です。もし意識的に調整している中で呼吸と身体にギャップが生まれたならばこれ幸いと思ってその二つを比較します。今回はそのことについては触れましたがこれ以上は書きません。どのようになるか「長い息を知る」段階です。

前段階として昔私が習ったのはただ観察する方法の一つは、さらさらと若しくはふわーと流れていくのか流れていくならその空気はどこからどこへ流れるのかいきわたるところすべてを観察する、鼻と口から出た息は胸の前を下って身体の中では胸にとどまらず胸の周りに広がっていき、また丹田あたりまでふわっと流れ込み、吸う空気は頚の横を伝ってまた周囲から集まってくる、そんな空気がどう流れるかどう伝わっていくか体表に感じる空気と体内を流れる空気いろんな視点から感じることが出来るはずです。「長い息」でどのようか体験して知ります。

我慢すると退屈が生まれ面倒くさくなりますが我慢する必要もないと思います。今目的を持って目標がわかって観察しているはずで、痛みやかゆみやよだれは「掻いて」「飲んで」除去すればいいです。ただどのようによだれが生じているかは「観察していい」と思います。ヨダレは副交感優位になれば必然的に誰でも出ます。リラックスしている証明でもありますし、そう捉えれば十二分にリラズゼーションの効果はあると言えそうですね。我慢しろとかいう人もいるかもしれませんが、私はそんなもん「飲んだら」いいんですと思います。「掻いたら」いいんです。「お釈迦様は我慢した」かもしれませんが「我慢」したのはおそらく観察するためで観察し終わったら対処したであろうし対処すればいいし「痛みが消えるまで」云々は私は考えません。ただ、「観察するんだ」(「練習」ということ)ということだけ今は知っておけばいいです。

吐く息を徹底して長くしたければお経唱えてみたり真言繰り返したりすると一息で1分とか可能かと思います。その一本長ーい呼吸の練習もありだと思いますし、私のように体表と体内の空気を観察しながら、様々な呼吸法の中からチョイスしたものとして「4-7-8呼吸」でどこまでゆっくり出来るかや丹田呼吸など練習して試してみてもいいでしょうし、「膨らみ・縮み」をラベリング練習もしてもいいでしょうし。流儀が色々あるようですがラベリング方式は多分気が散るのを最小に収める効果はありそうな気もします。が、そのラベリング方式に納得いかないなら他に当たる方がいいと思います。形を伝承しなければいけない場合は徹底して伝統的な方法に従いそれを練習しなければならないと思いますが、結局はそれをベースとして「練習する」のはあなた次第です。今は「伝統」を習うんではなくて「経験」(自ら自らのこと)を学ぶので、しっくりいかなければ、絶対的な権威や伝統が邪魔だとすればチョイスするなり一時的に外すなりどっちでもいいと思います。

逆にあれこれ制限も書かれていないのが特徴かもしれませんが(それだから難しい)、ただ「長い息を知る」ことしか書かれていません。意識ではなく客観的に捉えていくしかないと思います。