【AC・トラウマからの開放を目指して】序・脚下照顧

2020年11月中旬、よくわからない感染症から発熱、腹痛を発症して経過していったことから当時コロナが流行し始めた頃でも流石に陰性で、完全に体調を崩して1週間ほどで一旦治るが、逆流性食道炎などに起因した咳喘息の悪化など、その後数ヶ月不安定な体調は自宅療養を繰り返し、所詮サラリーマンのわたしは、「ある同僚」の裏切りの言葉に端を発し、社長から直々の脅し(この時点で「休職」の選択肢を潰されていた)によるハラスメントを受け、彼(=社長)の思い通り自己都合退職に追い込まれたわけですが、流石に社労士に言われたのだろうがまずかったらしく翌日には嘘までついてなかったことにしようとする始末でした(その当日のことは日誌につけ、後日のことはレコーディングしている)。脅しを受けたと私は同時に周りの同僚にオープンにしたため別の同僚から庇われ休職となったのは2021年3月のことだった。サラリーマン歴の中でこういう頭のおかしな自体はなかった。鬱の診断を受け、正直恐怖し誰も信じられないわけで、周りに愛想笑いで本心や状態をごまかしながらいたものの、そこから対人恐怖症のようになってしまい冗談じゃなく外に出られなくなり、必死に治療でデイサービスを受け回復に努めた1年、会社規定により退職、男性更年期障害(LOH)の治療を受けることとなり更に半年、2022年10月まで休んだ。

Al-Anonと救い

上にも書いた通り、「このフラッシュバックは何だろう」から始まって、トラウマであることに気がつくのに時間も要して、2023年にはリハビリ程度の事務仕事程度の社会復帰もした。

9月6日

症状の発症自体は、この辺りに遡れることもわかった。現状は体の患いも輪をかけて心の病引きずってしまい障害も認定され身も心も治らないまま現在に至っている。読み返してみるとわかるが「皆の帰る家を守りたい…」と思っていたのに私自身は「親の無言の圧(指示・強制)から離れないと駄目だ」と認識し「家は私の居場所ではない」と確信を持って実家から東京から離れた。

今回はそれでもこの「生きづらさ」は何だろうと医者とも相談をして、精神科では診断するところではないが「カウンセリングだったらアダルトチルドレン(AC)とかだろうね」と。世代連鎖からくる根の深さがわかり、それまでのアプローチ(マインドフルネス+行動認知療法+スキーマ療法)はトラウマ事象を詳らかにするのには役立ったがよりもっと根本問題の解決が必要ということだけはわかった。よく言う「毒親」は離れても問題は幼少期に刻まれた「基本的信頼感のない大人」であれば、離れるだけでは解決しないのは納得がいったし、無意識に世代連鎖を避けDINKsを選んだのもアダルトチルドレン(AC)特徴でもある。自分の分身が苦しいのを見るのが嫌だったからである。

サブタイトルに「脚下照顧」と書いたが、足元に確かに靴はあるが肝腎の自分の足元にない両足で立てていなかったことに気づくことになる。譲れない拘りやずっともやもやしていたのは「『心の中の親』に支配」され続けてそれらが足元の他人軸(親の軸)の規範であって、「自分の選択」に自信と価値を見いだせてこれなかった(基本的信頼感の欠損)からだ。自分を信頼していないから、当然、他人なんぞ信頼も信用もしていない。実のところ心のなかで境界線が引かれていてそれ以上の侵入をい許さないできたのはこの為であることもわかった。

さて、Al-anonに参加していたのだけど事情が許さず12月から休止となった。

それ以降、この数ヶ月、前向きに、「私はここに居ていいんだよ」と言い聞かせてきた。そうすると”なかった”足元が地につくから。「(願いが叶わなかったのは)君が悪いからじゃない」。また、「よく我慢した。もう誰も邪魔しない。全力で逃げよう」と。そんな先日、子どもの群れの中にいるのにポツンと疎外感に支配された自分の夢を見ました。そりゃぁそうだ。愛着執着が壊れている時点で私は昔っから「自分が好き」だったことがないし価値感じてないから、自分は「駄目なんだ」と信じてきていて、無価値な自分を嫌いだったからで、欠損した「愛されなかった」・「かまわれなかった」・「認められなかった」・「守られなかった」過去を変えることはできないのを、夢の中でどう解決したか、弱々しいけれども、「代わりに私があなたを信じるから」と思いっきり叫んで目を覚ました。

Al-anonで始める際よく唱えていたのは「平安の祈り」だ。

神さま 私にお与え下さい
自分に変えられないものを
受け入れる落ち着きを
変えられるものは
変えていく勇気を
そして二つのものを
見わける賢さを

 

Al-Anonと救い

この半年、トラウマと戦いながらひたすらマインドフルネスで洗い出していたのだけれど、私には小学校に入学してから4年生以下の記憶がスッポリないんです。事件のあったことはいくつか覚えてはいるもののピンポイントそこだけで、寧ろ幼稚園に入る前で幼馴染の子と遊んだ思い出や幼稚園に通う途中に大きな一貫校の学園を通るんですがケヤキ並木を整備されていた道を友達たちと通ったり、はたまた幼稚園の運動会やら庭で「森のくまさん」やら踊ったり、工作したり、クリスマスの演劇でキリストの誕生シーンでロバ演じたり、歌ったり、はたまた、スカートめくりが流行っていて、先生が顔真っ赤にして「そういう悪い子にはスカートはかせますからね!」と怒っていたり、他には幼馴染の女の子が好きで甘酸っぱい思い出や、その子に妹さんがいてお人形さんごっこにもつきあわされたり、ブランコ乗ったり、えぇ、結構楽しい思い出いろいろ覚えてます。
けれども、私には小学校1~4年生の記憶がスッポリないんです。
私は大蔵省(現在の財務省)に務める父とお嬢様大学卒の母の間の第三番目で、上に11歳離れた兄と8歳離れた姉がいます。東大出身でエリートコースであった父ですが、実に官僚なんて家庭ではクソみたいなもので、浴びるようにアルコールを呑み、くだを巻き暴力をふるい家庭崩壊。読んでる方の中には「官僚エリートが勝ち組家庭」とか思うでしょうが実態は親としては最低でした。酒害家族で夫婦間暴力は共依存を生みます。私は共依存で離れられない夫婦のもと逃げ場のない恐怖の中に育ちました。日に日にひどくなり平気で暴力を振り、そう姉が中学2年のある日・・・これ書いていて思い出したのは髪の泣き叫ぶ姉を父は毛を握り引っ張り回し十数メートル引きずり「出てけ!」と。とうとう姉も家出します。日に日にひどくなっていき逃げ場のない眼の前の部屋で小さくなっていた私を姉なりにかばってくれることも記憶しています。震えていたんでしょうね、怖くて、思い出したら涙も出てきます。エスカレートしてとうとう母に手を上げます。振り上げた拳に顔めがけて叩かれ「べいん」と鈍い音が耳に残っています。母のかけていたメガネは吹き飛び、その後は号泣する中、逃げ場のない私は眼の前で立ちすくんでいました。

酒が憎いです。

私の兄も姉も酒が嫌いです。原則呑みません。
こうして私の住んでいた家庭は崩壊していきました。小学校高学年5・6年は比較的若い女の先生が担任でした。一見小綺麗なのですが唇の上に結構目立つ傷のある人だったのが印象的です。数ヶ月すると豹変して本証を露わにします。始まりは確かクラスの誰かがエビが嫌いだったのか、エビフライを残して残飯にしたことから始まったかと。ヒステリックに怒鳴り散らし犯人出てこいと騒ぎます。まぁ、「犯人は正直に出てこい」とか学校ではよくある風景なわけですが、彼女は違います。しばらく怒鳴り散らしたかと思うと「じゃぁ、お前ら、連帯責任だ。今後、毎日償わせてやる!」と莫し立てその後の学校生活は本当に地獄と化しました。何かにつけてビンタ、えぇ、吹っ飛ぶぐらいです(今ならクビになるでしょう)、暴力、脅し、何かにつけて怒鳴り散らします。すぐに正当化し始めました「他の子供達、卒業した子どもたちに感謝されているから、私は正しい、やっていることは正当だ」と。「おら、ボイコットしてみろ、そんな根性もねーのか」「お前ら許さねーからな!せいぜい卒業するまでお耐えればいい、コレが連帯責任だ」と。裏で皆いってました「またあいつヒステリー起こしている」と。まぁ、尋常じゃない。やがてクラス外でもこの態度を振り回しますが、逆に舐められ、そんな反抗した彼はヒーローで、後ろの方で拍手も起きるほどでしたか。

そうして、家にも学校にも逃げ場がなくなったわけです。大人から見ればクソみたいなことですが、当の子ども本人には深刻な傷を残します。

さて姉は早生まれで当時中学2年生というと14歳です。私も早生まれで6歳、つまり小学校入学していたわけです。ACの方で特定時期の記憶の欠落って珍しくないようですね。私も漏れず記憶の欠落が起きてしまっています。幼児期の記憶は比較的残っているのに小学校入ってからは断片から必死に思い出さないと、子供のできる数少ない能力で全身全霊で生き残りの行動し続け、記憶をシャットダウンしてしまっているかのようですが、その記憶を掘り起こさないとトラウマの実態が見えませんでした。何度もそのフラッシュバックとその記憶の鮮明化、慣れさせながら、再学習させるわけです。

・・・まぁ、それで今でも苦しんでいるわけですが。正面から向き合ってみるとこんなにもひどい傷だったのかと・・・数日涙もしました。追々これはすべて明かすかもしれませんが、救いはないなと。

父も他界し、最後にとどめは火事にあい跡形もなくなったことですか。そしてまたすったもんだ。

フラッシュバックに気がついていましたが日常、二進も三進も行きませんし、致し方なくトラウマを開陳しつつ子供だった頃の無力な自分を今の大人の目線で記憶の整理をつける荒療治を、この数ヶ月行っていますが、やっと今になって、トラウマを整理してみて、初めて私が、AC(アダルトチルドレン)であったことを自覚させられました。

そんなこんなでもがき苦しみながらアラノン自助グループに通うことにしました。

酒害家族にさらされた人達と会って、本当にアルコールに逃げる人たちの弱さを痛感させられます。
仏教では飲酒は戒律で禁じられていますが在家の五戒にすら上がっている理由が今更わかります。
アラノンと同様にアルコールホリック自助グループもあって(本来はこちらが本道だった)ちょっとした正当化も「甘え」と断じているのは頷けます。そうやって飲む行為こそ無力な人間そのものであるというわけですよ。

ACは自覚が必要なんです。アルコールホリックは他覚で認定されるものです。なので「ちょっとぐらいならいい」というのは罠でしかなく結局は自覚してやめられず飲酒を繰り返す要因でしかなく救えない「甘え」を正当化しているだけです。立派な依存症です。巷でみる麻薬と同レベルの依存症ですね。ちなみにタバコを吸っても狂って人を殺すようなことはありませんが、酒は毎日ニュースで見る如くですね。未だにタバコやめてから吸ってませんが、依存症ではありませんよ、あんなもん。好きなままやめているので匂えば香りは楽しめますが、自ら吸おうとはしませんし思わないんですよね。そういう意味からも私には飲酒は甘えにしか見えないわけですがね。

そんな中調べていて「龍樹菩薩」のいう「三十五の過失」が目につきました:『三十三には、精神異常をきたしたり無知になる原因を植えつける。三十四には、死後に悪道や地獄に堕ちる。三十五には、もし次の生存に人間に生まれたとしても、その生活は常に狂気と愚かさに満ちる』。酒難しという私は、実は周りにかけた迷惑は怨となって降りかかる相続を受けたのかもなと、悔しく泣いたとしても今更遅いという話で片付けるのもよいでしょうが。来世に引き継いだとしても父からも相続を受けているとも解釈したとしても自戒もできないのなら救いようもないわけです。私はそう思ったわけですが、来世はないなら過去世もないです。お好きなだけ楽しめばよいです、他人事なので。

まぁ、そんな中、ちょっと元気の出るマントラがありましたので二週間ほどかけて邦訳していこうと思います。元々は今亡き師匠は山登りが好きでヒマラヤに憧れチベットで色々持ち帰り日本で僧侶になった方だったのでよく歌いながら唱えて教えてくれていた真言だったりします。オン マニ パドメ フーン♪

話は前後しますが得度の際習った准提真言ですが、実に密かにいまだに読んでいて、何故か多羅菩薩へつきあたりました。准提真言は満願すると夢の中なりそういう眷属とであったり色々実際に起きることがあるそうなんですが、単純に「頭おかしいんとちゃう?」と思っていたわけですが、まぁ調べていくとそういう功徳もあるそうで。実際にはやはりこれも師匠譲りで「観音様の涙は多羅菩薩だよ」というのを頭の端で覚えていたのかもしれません。何れにしても准提真言を調べるとどうしても立ちはだかるのが六字大明で「オン マニ ペメ フーン♪」は観音様の真言と捉えるのが正しいんだと気付かされました。准提観音様以外、真面目に、観音さん拝んだことないんでしが、そんなこんながあったので。