所謂、ストレスコーピングするにしても、カウンセリングという形が受けられないことが解っていた段階で、客観的に記憶の記録を残すことと記憶の改竄を避けようと客観的に書き残すことを意図した、台紙を作っている。
記憶を何度も思い出していくうちに追憶で記憶の追加をつなげていく場合や一つの大まかな記憶から分岐していく場合はおいておいて、一つの大まかな記憶から分割して分けて書く場合は破いて捨てるなりで、置き換えていくほうが良いと思う(時系列や一点化することで《認知、気分・感情、身体反応、行動》などが変わる)。
使い方については、あくまでも下記の著書(P.22 『序章 認知行動療法の基礎知識』>『認知行動療法ー基本モデルを理解しよう』)を参考に、《環境、認知、気分・感情、身体反応、行動》を記述していった。
マインドフルネス&スキーマ療法 BOOK1 著:伊藤絵美(医学書院)
これをひたすら繰り返し残したものに注釈・背景・トラウマではない別の記憶とのつながりなどを加えてブログに記載している。《認知、気分・感情、身体反応、行動》が欠けているのは上記のように追憶からの追加で後から記載したものだったり、根が深く固く閉ざされた感情があったりして明らかではないものについては、あまり追求しないようにしたため、コーピングのその時々でそのまま味わうこととしている。
正常な幼少期を過ごせず歪な自我形成してしまった人たちが、取り組む方法が仏教にはほぼなく、絶望的である。仏教的にアダルトチルドレンに近いのは・・・と探してみるに「阿闍世コンプレックス」からの解脱があり得るかどうかだが、『阿闍世の怨みが父王ではなく母へと意図的な「改竄」がなされた』ことで『涅槃経』と『仏説観無量寿経』の差違から混同されがちな「未生怨」は大乗だけの解消策であるとも言えてしまい、非常に根拠性の薄さに気が付く。
大乗は密教に「怨」という視点で言えば全く無いわけではないのだが、中院流日用作法集(大山公淳著 東方出版)に「内護摩作法」として紹介されていて『自らの本誓に違する者は諸の不祥の怨なり』として金剛光菩薩に加持感応し印を転ずるなど(仮に目で追うならば)古典的EMDRなのか?と思わせる修法があるようだが、真言僧でもない個人に伝授口伝されることは絶対にない特殊な方法しか残っていない(自行用の為のもであって祈願目的の修法ではないようだ)。
光の象徴として、それでも「阿弥陀如来」が歴史的には信仰を集めてきたわけだが、結局「他力本願」的で私には自力性を否定する形が自立性を失わせてダルマさんになるだけで心を潰えさせてしまった。また根本仏教的には説明する人もいないだろう。残るは「慈悲の瞑想」のみである。それまで抑えてきたことを考えれば最も効果があると思うが、実は根本解決にはなっていない(少し事足らないという方があってるだろうか)。
もっといえば酒害家族以外にも戦災孤児など特殊な例などもあるだろうに現在では自律訓練法や白隠禅など逃げ道もあると思われるが「うつは瞑想するな」で片付けられる。
更には「飲酒戒」への”甘さ”は、泥酔の正当化を助長し、言い訳としても見苦しい。今の喫煙者と同じで、せめて「飲んだら合うな・話すな、閉ざして一切表に出るな」と言いたいところ、タバコの「副流煙」論と同じで、泥酔によりハラスメントに始まり殺人事件にも暴力事件にもならないはずだろうにだ。
よって、仏教が信仰として、アダルトチルドレンやトラウマやうつを救えない。
話を元に戻す。
《環境・ストレッサー、認知、気分・感情、身体反応、行動》は様々な解釈ができるが私的には五蘊に言う:
- 《環境・ストレッサー》→「触」もしくは「色」蘊
- 《認知》→「識」蘊
- 《気分・感情》→「想」蘊
- 《身体反応》→「受」蘊
- 《行動》→「行」蘊
などとしてみることが出来る。こういうのは十二因縁にいう、行・識は逆環により「無明を滅すれば、行を滅する。行滅すれば、識を滅する。・・・」と言っていて、「触」で不十分だった心を充足させれば焼き直しが出来るともとれる。
“メンタルヤバめ”をやめられる本 著:池田由芽 (大和出版)
つまりは『ネガティブ感情の根本にある「幼少期の満たされない願い」』の充足が足らないということだったりするようだった。
「五蘊は非我である」ことがわかろうとそれが悪見・我見だろうと、記憶が吹き出してしまったものをどうするか、手も足も出ない達磨さんとはよく言ったものだと思う。ただ、教えはちゃんと指し示していることになるが、方法がねぇ、やっぱりないね。
今の時点では書き殴っていく工程(5月末時点)なので、もう一回、見直して補完することで整理していこうと思う。そしてもう一回コーピングのし直しも必要と思われる。
「書き殴っていく工程」といっても思い出し文字化は辛い追想と体験だ。