【AC・トラウマからの開放を目指して】火災にあう

2012年9月6日の火災は大きな分岐点となった

9月6日


秋だというのに夏の暑さを引きずった日、人生の折り返しのつもりで勉強に励みだした半年、試験前で徹夜のきかない私は早朝就寝し、目覚めたのが昼頃であったろうか、異変に驚く。焦げ臭く、「くすぶり破裂する」ような異常音に目を覚ますと、壁の中の一部がオレンジ色になっていた。
「え?煙硝?」とばかりに消火に挑戦するも、鎮火したと思いきや吹き返すというよく話に聞く火災というものを実体験することになっていた。恐怖と戦いながら人の助けを借りて何とか消防へ連絡がついた。
何故か電波悪く自分の部屋では携帯電話から119番が繋がらなかったのだ。慌てて外に出ると、そこは「昼間は外出したひっそりと帰宅を待つ住宅」が並ぶ町で偶々仕事で歩いていた職人さんの団体さんが道角向こうから歩いてくるのが見え大声で「すいませーん、火事なんですー。消防呼んでくださーい」と叫んだ。こんな思いで消防を呼んだわけだ。
長く待たされ途方に暮れ鎮火まで相当時間を要したと思う。道端で座り込み、バチバチと炎の上がる音に怯え泣きそうな思いで、再度、携帯電話から119番し状況を問い合わせるなどした覚えもある。掛からなかった電話機は道端では通話できる状況だった。いつも部屋で恋人にかけている電話機なので繋がらないわけはないのだが、何故かあの状況で使えなかったという。
鎮火後、警察と消防での現場検証の結果証言と状況から「自然発火」だと言われた。

《認知》「過去を焼き尽くしてくれたらどんなに良かったか」生き残ったがゆえの不幸の分岐点
《気分・感情》恐怖、不安、緊張、頭の中真っ白、怒り
《身体反応》ドキドキ、ハラハラ、心臓が押しつぶされそうな下腹が痛いような穴の空いた感じ。こわばり、余計な力が入る。
《行動》生き残れた。生き残ったが故になのかあんまりだった。思考停止したように動けなくなる感じ。

こんなこともあり、この事自体、PTSDのようにフラッシュバックが起きるようになったことの一つでもある。


得度式からは3年後(平成21年だったようだ)、また父が他界して(その時は会社員だった)まだ数年も経ったわけでもないが、心機一転、人生を立て直そうと会社をやめ勉学の道に入って1年目の2012年9月のことだった。
その前の年には終わらない夏というか異常気象というか、35度超えの夏が当たり前のようになり始め、家族(主に母だけ?)に「最近昼間暑いせいか壁からベコベコ音が聞こえるんだよね」と話ていた。そこはコンセントもありまた雨戸の戸袋になっており、暑さのせいか骨組みとなっている木材が軋んで、音を出しているのは知っていた。そんな場所からの出火だった。オレンジ色に光って見えたのは戸袋の中か外っかわの壁なのだろうが、現場検証の際、出火の一番焦げている場所はコンセントから離れた場所で床と壁の境辺りだという指摘だった。確かにそこを消火した覚えがある場所だったのだが、オレンジ色に光っていたのはそこから50cm程上の場所の壁の中だったように見え、全く腑に落ちなかったのを覚えている。
前日偶々、夫と死別して近くで仕事をし始めていた姉が帰宅しており、2階の部屋は私一人の占有となっていたため、客間に姉は泊まった。朝には出かけていたらしく、母はコミュニティセンターのボランティアで出かけていた。そんなタイミングで偶々私だけがいた目の前でおきた火災だった。
生き残ってしまったがために兄という身内から犯人に仕立て上げられ不幸のどん底に突き落とされるとは思わず、いっそ焼け死んでいたほうがよっぽど良かったのかもしれないと今でも思っている。数年間、実家の土地の件で悩まされることにもなった。
現場検証では伏線がある。火災の鎮火の際、すでに救急車も駆けつけていて、煙を吸ってしまったことから、消防の勧めもあり近くの病院に運ばれ煙を吸った方は異常がなく小さいが重度の火傷で済んだ。
病院からの帰りがけ、私は兄を頼ろうと電話をした。
私「実は家が焼けて火事にあったんだ」
兄「あん?また金か!?」
私「は?まぁそれはわからないけど・・・(この人なんの話をしてる?狂ったか?話を変えよう、今日中間試験だったわ)」
私「今日中間試験だけど、これじゃぁ行くこともできなさそうだから、いくのやめようかな」
兄「おまえは試験は受けにいけ。とりあえず行くわ」
私が生きていたことは別にどうでもいいようなことだったらしく、火災はすでに彼の中では「私が起こしたもの」というストーリーとなっていたようだ。詳しくは先に進める。

【AC・トラウマからの開放を目指して】父の終焉

「戦前の家長制度」の影響か何かは知らないが「一番風呂」を誰が入るのかで争うというくっだらない慣わしがあった。こんなことが日々の口論の口火を切ることになる。
15年前、11月に入った頃、いつものごとく口論となり、今日の酒宴の肴が「風呂の順番」となったのはいうまでもない。
さてその翌日昼過ぎから父母で口論を始め、のそのそ外に出ようとした父に、母は「あなたは馬鹿じゃないの?」「そんなんで行けるわけないでしょ」と散々の罵声を浴びせながら、その日、すでに弱っていた父は搬送先の主治医のいる病院で息を引き取った。
叫喚地獄の日々に終止符が打たれたわけだが、当然前日の「酒宴の肴」の怒りもあり「帰って来るなバカが」の望みがかなった日でもあり、苦い想いを未だに抱くこととなる。


「一番風呂に入りたきゃ自分で沸かせ、クソが!」私の返し文句である。少しは懲りてたまに遅まきながら自分でやるようになっては来たもののこっちは急いでいる時もありその場合はとっとと沸かして時間無視でとっとと入った。未だにカラスの行水はかわらない。熱めの風呂が好きなのだが身体洗ってとっとと浸かってとっとと出る。出なきゃいけないような気がせっているのが15年たった最近治ってきた。
私は時間になったら入る派という単純な理由だがいわゆる「タイパ」の問題だったりする。仮に夜19時に晩御飯が食べれたとして2時間おいて21時~22時にお風呂にすることで就寝までの時間を逆算して、その時間をチョイスしていて次の日に差し支えないように気をつけていたわけだ。
父は症状からすると「骨髄異形成症候群」(今では珍しくないのかもしれないが)だったろうか、興味もなく忘れてしまったが、結局、日和見感染で命を落とすこととなる。
笑えない話だが、父の体質にとても似ている私は、今、前立腺肥大になっている。高血圧に関しては気がついたら20代ぐらいですでに上が150mmHg、下が栝樓じて2桁の90mmHg代、脈拍に至っては100前後で早めだったので、歩行程度の運動でも120を簡単に超えるようになっていた。25%という遺伝確率という名の生まれる前から負わされた呪われた世代間連鎖ともいえる。私の最後も自己免疫疾患などからくる日和見感染で命が絶たれる可能性があるということだ。
さて父は、戦時中昭和の家の長男で、「東大出身大蔵省のエリート」という順風満帆な一面だけではなかったようで、吃音症であることを隠しながら頑張った人という一面を持つ。私ももれなくその血をついで軽い吃音を抱えているからわかるが、バカにされまいと必死に取り繕っていたのだろうと思う。物を言うという表現ができない分、「愛情表現が下手」というレッテルを貼られることとなった。またここぞという決めの甘さが出て失敗してしまうことがあるのもその吃音症せいだったのかもしれない。アメリカのマクドナルドで「カフェ」と頼んで「紅茶」が出てきたり、発語にはかなり難アリだったようだ。おまけに失敗もついてくるのでハタから見ると「決まらないドジなやつ」でまるで「伝説級」の笑いものになるときもある。ついでを言うと江戸っ子発音で「ひ」と「し」の区別もつかないのは父が下町育ちだからなんだと思っていたが、山の手育ちの私もそうであるところから吃音の要素を誤魔化せたに過ぎなかったのかもしれない。
そもそも感情が押し殺されて育ってきている私は一瞬思考停止して、自分の感情をスルーしてから考える為、思いつき勝負の口喧嘩が苦手なばかりでなく、さらに吃音症が加わって、自己肯定感も低くなってしまったわけでもある。

【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:「トビラ」事件

担任G教員の強肩は様々なところであったらしい。私は先にも書いた通り「問題児だった」のだろうと確信した事件でもある。

卒業アルバムの台紙イラストは学年全員で描いたものから選考されるというのはよくある話。
さて、後で聞いた話だったのか何のタイミング聞いたのか思えていないのだが、実はその選考に最後、私の作品が残っていたらしい。
担任G教員の私に対するネガティブイメージを理由に選考の最後落選したというウワサを耳にしている。私にそれを聞かせる必要ってあったのかわからないが、共同責任というのであるならばこれが社会であり会社含む組織であり人となり他者をさらに信用できなくなったトラウマの一つだ。

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について

【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:恐怖支配

担任G教員の恐怖支配は卒業まで続いて釈然としない傷だけを残した。

「お前ら、絶対許さない」
「私はかつての卒業生からは感謝されており、私は正しい」
担任G教員の言い分。
何かクラス内の過ちは、連帯責任と称して都度全員の前、下手すると全校生徒の前で吊し上げられ、時には「びんただ」と暴力で粛清され、服従を強要され続けられた。


こうして、家では毎晩の父の酒宴の恐怖が続き、学校でも縮み上がる思いで、ひたすら心を真っ白に保ってただただ時間のすぎることを願い続けた。
「今日も私のせいではなかった」「今日も無事くぐり抜けられた」
そして帰ってきて同じように晩食時を過ごし、常に過緊張状態の中すごすこととなる。家でもどこでもコード・レッドの危険が終わることはな区、私の周りでは常に危機は状態にあり、それにアラートを上げることもできなかった。この反動が出るのは2年後である。
保護者会では担任G教員による恐怖支配のことをまことしやかに正しいかのように説明していたのか、PTAも保護者からも文句の一つもやり過ごしていったようだ。ちなみに母はPTAの役員で、担任G教員にとっては何かしら「ちょろい親」だったのかもしれない。被害妄想になるが、私が「問題児」と指摘されていたから何も言えなかったのであろうことは後々想像に苦しくないことである。次の事件さえなければそう思うことはなかったろうけれど。

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について

【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:エビフライ事件

G案件は小学校5・6年生の担任・女教員Gによる2年間続く一連の「恐怖支配」教室の話となる。

小学校5年生の担任・女教員Gになって数ヶ月が経過したあたりのことだったと思う。G教員は他校から赴任してきた新しい教員で、それまでシャキシャキはしていたものの温和を装って一見すると優しい先生風であった。
クラスメイトが給食のエビフライを残してしまい、口もつけずに残飯処理に出したことに始まる(確定ではないがHくんとする)。
G教員はそれを見るやいなや「誰だ?」とし、小言から始まり、「名乗り出れないなら」、今度は、「目をつむって挙手をしろ」という。散々プレッシャーをかけて震え上がってしまったのか誰も手が挙がらなかったという(私は真面目に目をつむって待っていたので実際どうだか知らない)。
G教員はこうはじめた。「誰も名乗り出ないのであれば、お前ら全員、連帯責任だ」「絶対に許さない」「卒業まで続ける」と。
この後、卒業までの1年半の間、この件をネチネチ追求するとともに、「連帯責任」と称して、何かにつけて大げさに騒ぎ続けられることとなった。
G教員は何かにつけて、自分を正当化し続けた。「他の卒業生からはみんな感謝されている」「ボイコットするならやってみろ」「お前ら全員ゆるさないからな」。ことのつまり他の学校でも同様の「連帯責任論」で児童を小突き回してきたということだそうだ。

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について

【AC・トラウマからの開放を目指して】Fさんに手を上げる(小学校4年)

小学校3年だったか小学校4年はずなのだが、担任の先生すら思い出せないある日の出来事である。

当時クラスメイトだった、ほりの深い目立つ顔立ちの女の子Fさん、話した記憶もほとんどない。
ある日の下校時、誰だかよくわからないが背中にピッタリくっついてくるような後を追ってくる人がいた。私は恐怖に陥りパニックになりながら後ろに振り向きざまに「後ろ追っかけてくるな!」と殴ってしまう。
後ろのついてきた人が、Fさんだと知っていたのか知らなかったのか今思い出してもよく覚えていないが、一瞬振り向き確認して、更に次の一瞬で手を上げたのかもしれない。
殴った後、ダーッと相手が逃げていったのはよく覚えているが、同時に私も急いでその場を離れた。ただ追いかけられているようで怖かった記憶である・・・ただ事後の記憶が全くいない(少し「怒られた」ような気もするのだが・・・記憶にない)。


私は早生まれで、小学生の当時、記憶のある始まりからずっと学年一番身体が小さく身長も低く、「前ならえ」肘を上げ腰に抱えた記憶しかない。
いじめられた記憶こそないのだが、多分、学校の教員には問題児視はされていたのだろうかあまり雰囲気的にうけ良い児童でなかったと認識していて、すでに自信を失ってしまっていたことだけは覚えている。
それだからなのかこの事案については何ら追求を受けた記憶も残っていないし、何ら確認する手段はない。
実際に面白がって追いかけたら予想外の展開になったのかもしれないし、小学校を卒業するまで教員からを除き同学年の子からいじめられたりした記憶はない。ただ、今なら別の手段を取って行動していただろう事柄でトラウマとなって残っている記憶の一つだ。

【AC・トラウマからの開放を目指して】記憶の三(小学校低学年)

当初記憶されていた小学校低学年時の3番目である

小学校二年生のことだったと思う。
お気に入りのバットとグローブをカバンに入れて担いで遊びに行く道の途中で、前に知らない同学年ぐらいの女の子が二人歩いていた。仮にDさんとする。知り合いたい(仲良くなりたい?)という気持ちもあったのか脅かしてやろうと思った。驚かせる方法を模索していてふと思いついたのが、肩に担いでいるバッグを肘で押してカバンに入ったバットを操作してぶつけてみようと思いついたのだ。
今ならどう考えても恐ろしいことを考えついたもので、「バッグの握り紐の輪が肩を支点にバッグが動いてまわって出ているバットが相手に当たる」と推測してどうしてもやってみたい想いと脅かそうという思いと合わさって実際にやってしまったのだった。
相手に大怪我を追わせてしまい、立ちすくんで座り込んでしまったその子を横目に、声もかけず、その場を立ち去ってしまった。
悲鳴や音も感触も何も全く覚えていないが、バットの先が相手にあたったことだけは分かったし、その時のことは「あ、なんか想像したことと違うことになっちゃった!」ぐらいの記憶しか残っていない、逃げたというよりどうしていいのかわからなかったというのが正解なのかもしれない。
学校の校庭まで行きつき、誰も友達もおらず何もすることなく、そのまま家に帰った記憶はあるが、私だとわかるまで時間はそうかからずすぐに特定されていた。家に帰った私を母親は待ち構えていて、ひどく怒られ、連れ回され、そのDさんのお宅に連れて行かれ頭下げさせられた記憶がある。
今考えてもバカバカしい発想なのだが、距離感や方向やタイミングに至るまでバッチリ過ぎて当たりどころ悪く頭にあたってしまったことで、怪我をさせてしまったというわけである。大した怪我ではなく大事にはいたっていないと聞いた記憶があるが、それよりも、後に謝りに連れて行かれて出てきた包帯グルグル巻きだったDさんを見た事で「事の重大さ」に気付かされたという、何ともお粗末なこととなった。
ただただ心の傷として残った思い出すのも恥ずかしい出来事で、その時は嘘をつかず正直に話して懸命に眼の前の出来ることで精一杯だった。

《認知》<~直前>「驚かせよう・振り向かせよう」「こうしたらこんな風になるかな」<直後>「座り込んじゃった、どうしたらいいかわからないや、ほっとくしかない」<事後>「悪気はなかった、想像できなかった」「ごめんね」
《気分・感情》<~直前>落ち着かない、やってみたい<直後>勢い想像通り、不安、心配、緊張<事後>嘘を言わない、頭の中真っ白、ごめんなさい。
《身体反応》<~直前>ワクワク、ドキドキ<直後>ドッキリ、ハラハラ、アレ?どうして?<事後>意気消沈、謝罪
《行動》<~直前>肘で押してみた、支点は肩口・力点バットの柄、止まった時間・音<直後>やり過ぎをやり過ごす、大失敗であることに気がつく<事後>怒られ怖くなった、逃げたいけど逃げられない


小学校二年生のことだという根拠は、好きだったE先生から呼び出されたことが記憶に残っていて、注意を受けた記憶もあるのだが、事実確認された程度であったのかもしれないし、しこたま怒られたのかもしれないしその辺りはいまいち覚えていない。ただ悪気はなかったことと、子どもがしたこととはいえ、おそらく生まれて初めて、人に怪我をさせてしまった記憶であり、本来ならば反省と遺恨に基づく記憶であってもおかしくないのだが、今考えてみると特に暴力に対しての反省が欠如していたんでは?と思い起こされることだったりする。当初はそれがなぜなのかよくわからなかった。

後にDさんと何度か話したような記憶もあるのだが、被害者と加害者当然の結果というか、意識的には互いに避け合っていたような形となった。

兎にも角にも、Dさんには改めて謝罪を残しておきたいと思う。ごめんなさい。「子どものしたこと」「過ぎたこと」とはいえその時の怪我が後のBさんにどんな影響を与えたかわからないことと、あり得ない恐怖にさらしてしまったことは、「過ぎたこと」では済まされないことだと思っている。

【AC・トラウマからの開放を目指して】記憶の二(小学校低学年)

当初残っていた小学校低学年の記憶の2番目である

小学校で覚える掛け算の九九を必死で覚えた記憶である。小学校2年生であったはずであり、当時、今のリビングテーブルに座って、紙を広げて繰り返し唱えて覚える勉強法で、数日?かなり短期間だったように思うが「・・・・さんにがろく、さざんがきゅー、さんしじゅうに・・・しちしちしじゅうく、しちわごじゅうろく、しちくろくじゅうさん・・・」、苦手だったのか3の段と7の段を繰り返しやっていた時の記憶が残っていたりする。時には姉だったかが手伝ってくれた記憶が残っているが定かではない(ここが重要なのかはわからないので)。
学校では授業中で特定の段だったか全段だったか指されてあたった人が発表する形式でだったと思う。指名されたとき、ドキドキしながら鳥肌が立ちふわふわ身もそぞろでひたすら間違えないように頭の中真っ白になりながら、4の段だったか発表したような記憶がある。無事終えたものの、ここで記憶は途切れている。
そして無事発表を終えたものの、結局とっても物足りなさが強く残ったと印象でやりきった感の全くない中途半端な記憶である。
《認知》「私の番だ」「うまくできるかな」「まわりの視線が怖い・注目されている(事がわかる)」「まちがえないようにしないと」
《気分・感情》不安、心配、緊張、勇気、頭の中真っ白。
《身体反応》ドキドキ、ゾクゾク、ゾワゾワ、ワー!(勇気と恐怖)、心拍上昇。
《行動》人がいっぱいいる。恥ずかしさで真っ赤になり、恥ずかしさを回避するかのように無心に集中して、極度な緊張状態で声を震わせながら振り絞った。


人によってはこれがしっかりとした成功体験になって残っているようなこともあるかもしれないが 、あれだけ緊張したのに終えた後の開放感も記憶なく、「とっても物足りなさが強く残ったと印象でやりきった感の全くない」ことからこの事柄が私には「できて当たり前」として残っているのかもしれない。またこの日も毎日いつものごとく父のための酒宴に家庭騒乱となり、家族や誰かに話を聞いてもらえる環境になく、誰にも褒めてもらえなかったのだろうと思う。

【AC・トラウマからの開放を目指して】記憶の一(小学校低学年)

小学校一年のことだったと思われる

友人Aは確か幼稚園の頃から仲良しだった。
ある日、周りの他の男の子達から、集団でからかわれて、一対多数で囲まれていた状況でした。確か、当時男の子がぬいぐるみで遊ぶってことに対して、周りの感覚から「女の子」みたいだとイチャモンをつけてからかったか何かだったと記憶している。止め時を失ってまわりで声合わせて囃し立てるようにからかわれ、友人Aも泣く寸前になってきていた。すごく勇気を振り絞って、「やめろ」と輪に割って入っていった。
くものこを散らすように輪が崩れて、私の記憶もモヤモヤした思いが終息していった。また知る限りこういう友人Aに対するイジメは起きていなかったと記憶している。

《認知》「何するんだ、Aが泣きそうじゃないか」「これ以上は放置しちゃ駄目だ」「もう止めないと」
《気分・感情》不安、心配、不愉快、怒り、緊張。
《身体反応》イライラ、ザワザワ、ギューッと胸が締め付けられる、ヒヤヒヤと勇気
《行動》勇気を奮い立たせて一歩割って入り、友人Aを身体でかばい前に出て「やめろよ!嫌がってるじゃないか」大声で怒鳴って注意をひいて友人を助けに入った


当時お隣に幼馴染の同い年の女の子Bさんとその妹Cさんが住んでおり、そもそもごっこ遊びだのをしていた私は人形遊びに関してはそれ程抵抗感がなかったこと、それと前後して友人Aと遊びにいったとき、持っていたのはスヌーピーのぬいぐるみで、同じのを買ってもらって、すすんで彼と一緒に遊んだ記憶も薄っすらとある。その後は世代的に「超合金」ロボットの出てきた時だったのでそれも持ち込んでいたようなことも思い出される。
2023年時点でトラウマになった事柄を思い出そうとし始めたら、この小学校低学年の頃の記憶が、他の2つ(二、三)であわせて3つしかなく、すっぽりと他の記憶がない状況に陥っていた。またこの記憶は他の2つ(二、三)とは違って英雄的行動(?)なので、トラウマではなく善い行いとして記憶しているのだと思ったのだが、何度も何度もマインドフルネス状態の中で繰り返しこの記憶を再現しているうちに、どうもこの後に思い出す何もできずただ立ち尽くした失敗体験のやり直しにリンクしているようであることに気づくまで時間がかかることになる。

この記憶は以下に跨る複雑な構図があるようだった。僅かな抵抗だったのかもしれない。

【AC・トラウマからの開放を目指して】酒宴の暴力の始まり

【AC・トラウマからの開放を目指して】父の酒宴

記憶の限り、いつから始まったかわからないが、父の酒宴の肴のつまみに、私(達)を直接的・間接的にいたぶることで、日々の憂さ晴らしをしていた。酒宴のステージには家族の誰かしらがマトとなり、都合が悪くなると「俺の言う事きかないなら出ていけ」と吐き捨て、時には物理的・精神的暴力を「肴」にする。酒宴のステージから皆去ってしまい終焉になると「もう、やだなー、働きたくないなー」と何度も繰り返す。行き場なくリビングかその隣の部屋で、誰にも守ってもらえず、誰からもフォローされず耐え続けた。あえて”ステージ”と表現したのは、「居ないふり」で端に座らされ常に参加させられ、「ふすま」一枚の遮りあるなしに関係なく、物理的退場を許されない、叫喚地獄という”ステージ”だった。私の声にならない悲鳴は誰にも届かなかったし、感情をひたすら殺した「いない子」だったのだ。

《認知》「また始まった」「大人しく居ないふりで避けてやり過ごそう」
《気分・感情》いつも通り・想像通り・繰り返し、阿鼻叫喚、恐怖、逃避、不安、心配、緊張、頭の中真っ白
《身体反応》ドキドキ、ハラハラ、こわばり、首をすくめたり、余計な力が入る
《行動》やり過ごす、怖くて隠れたいけれど逃げたいけど逃げられない


幼少~小学校時代の全体像のみ限定したものの、この件、正直書けば書くほど、怒りが込み上げてきて次から次へ言葉がたされていって収拾がつかない。小学生~中学生~・・・と時間経過により状況の変化もあり多少の環境変化はあれど大枠が全く変わらなかったという点とほぼ確定したパターンはあれど、私が大きくなるにつれて贖ったりもしたが、全く効果はなく逃れられない叫喚だけがそこにあったことだ。警察も不介入で、いつ殺人に発展してもおかしくなかったし、体裁も考えたし、誰かに訴えるようなチャンスもなかったし、もしかしたら今なら「児童相談所」案件かもしれないが、結局死者が出るレベルにならないと動かないだろうし現実誰も助けてはくれないので一人涙飲み続けた。

父の出張や健康診断前の誤魔化し休肝日は数日あればいい方だったので「ほぼ365日」毎日だった。

小学校に行っていた頃、私には自分だけの部屋はなく、また、母との共同の部屋はリビングルームのすぐ隣であり、誰にも救われず唯一人怯えながら耐え続けるしかなく逃げ場はどこにもなかった。中学生の頃には母屋に増築によって父の部屋が新しく出来るわけだが、自ら「座敷牢」と名付けた割にリビングには割と近い配置から、酔ってわざわざリビングに出てきてくだをまく、当然一触即発状態だった。中学生でやっと自分の部屋・・・は座敷牢に移った元父の部屋でリビングの真上、下のリビングの雑音までよく響いた。まして会話もまる聞こえで口論は筒抜けだったわけだ。

また、実際、両親の仲の悪さに、右往左往していた幼少期があって暴走したりもしているし、仲のいい夫婦や家族像にとても憧れがあった。母親は懲りてもう嫌だと思っているふりをしつつ「夜の酒宴」の準備を毎日続ける矛盾する行動にもうんざりしていた。

リビングで夕食を摂るたびに必ず酒に呑まれて周りの家族の人に被害を及ぼす”だけ”の夜の父の姿は、物心つく以前からだったのだろうか、始まりを知らない。ただ、夕食時の家族の団らんはわかりやすい父の酒乱スイッチが入った途端、さーっと皆去っていき、逃げ場のない私一人取り残され、母は傍観者となる構図だった。アルコール依存症と共依存を起こした夫婦の典型だったと言え、また全員自分の自衛策に手一杯でおまけなんぞにかまっている暇はないわけだ。「何で私はいるの?いなきゃいけないの?」

さて、少なくとも「自死」という選択肢のない子供(そんな考え到底及ばなかった)は「私はいらない子なんだ」と無意識受け止めざる得ず、自分を確立できていない子どもがこれを聞いてどう思うか。必死で他者に「認められる」ために本能的な生存戦略を模索し、足元に自分なく他人軸の本能的「生存」体験が、取り返すことのできない日々が続ている。今でもそうであるが少なくとも私が自死を選ばなかったのは周りに迷惑をかけたくなかったからという理由に過ぎない。つまり他人軸という悲しい現実を改めて気付かされる。

父は他者による酒乱で恐ろしい目にあっても一切反省もせず同じことを繰り返し続けた。誰も止められないという「アルコール」という恐ろしさ、制御できなくなるまで飲むということを許す社会構造である限り、アルコール依存者は永遠に終わりのない輪廻を繰り返すのだろうと思う。少なくとも彼の場合、他界する前日まで、私のこれまでの人生2/3の30年以上毎日繰り返されさらされ続けた。