【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:記憶の三(小学校低学年)

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

小学校二年生のことだという根拠は、好きだったE先生から呼び出されたことが記憶に残っていて、注意を受けた記憶もあるのだが、事実確認された程度であったのかもしれないし、しこたま怒られたのかもしれないしその辺りはいまいち覚えていない。ただ悪気はなかったことと、子どもがしたこととはいえ、おそらく生まれて初めて、人に怪我をさせてしまった記憶であり、本来ならば反省と遺恨に基づく記憶であってもおかしくないのだが、今考えてみると特に暴力に対しての反省が欠如していたんでは?と思い起こされることだったりする。当初はそれがなぜなのかよくわからなかった。

後にDさんと何度か話したような記憶もあるのだが、被害者と加害者当然の結果というか、意識的には互いに避け合っていたような形となった。

兎にも角にも、Dさんには改めて謝罪を残しておきたいと思う。ごめんなさい。「子どものしたこと」「過ぎたこと」とはいえその時の怪我が後のBさんにどんな影響を与えたかわからないことと、あり得ない恐怖にさらしてしまったことは、「過ぎたこと」では済まされないことだと思っている。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】記憶の三(小学校低学年)

当初記憶されていた小学校低学年時の3番目である

小学校二年生のことだったと思う。
お気に入りのバットとグローブをカバンに入れて担いで遊びに行く道の途中で、前に知らない同学年ぐらいの女の子が二人歩いていた。仮にDさんとする。知り合いたい(仲良くなりたい?)という気持ちもあったのか脅かしてやろうと思った。驚かせる方法を模索していてふと思いついたのが、肩に担いでいるバッグを肘で押してカバンに入ったバットを操作してぶつけてみようと思いついたのだ。
今ならどう考えても恐ろしいことを考えついたもので、「バッグの握り紐の輪が肩を支点にバッグが動いてまわって出ているバットが相手に当たる」と推測してどうしてもやってみたい想いと脅かそうという思いと合わさって実際にやってしまったのだった。
相手に大怪我を追わせてしまい、立ちすくんで座り込んでしまったその子を横目に、声もかけず、その場を立ち去ってしまった。
悲鳴や音も感触も何も全く覚えていないが、バットの先が相手にあたったことだけは分かったし、その時のことは「あ、なんか想像したことと違うことになっちゃった!」ぐらいの記憶しか残っていない、逃げたというよりどうしていいのかわからなかったというのが正解なのかもしれない。
学校の校庭まで行きつき、誰も友達もおらず何もすることなく、そのまま家に帰った記憶はあるが、私だとわかるまで時間はそうかからずすぐに特定されていた。家に帰った私を母親は待ち構えていて、ひどく怒られ、連れ回され、そのDさんのお宅に連れて行かれ頭下げさせられた記憶がある。
今考えてもバカバカしい発想なのだが、距離感や方向やタイミングに至るまでバッチリ過ぎて当たりどころ悪く頭にあたってしまったことで、怪我をさせてしまったというわけである。大した怪我ではなく大事にはいたっていないと聞いた記憶があるが、それよりも、後に謝りに連れて行かれて出てきた包帯グルグル巻きだったDさんを見た事で「事の重大さ」に気付かされたという、何ともお粗末なこととなった。
ただただ心の傷として残った思い出すのも恥ずかしい出来事で、その時は嘘をつかず正直に話して懸命に眼の前の出来ることで精一杯だった。

《認知》<~直前>「驚かせよう・振り向かせよう」「こうしたらこんな風になるかな」<直後>「座り込んじゃった、どうしたらいいかわからないや、ほっとくしかない」<事後>「悪気はなかった、想像できなかった」「ごめんね」
《気分・感情》<~直前>落ち着かない、やってみたい<直後>勢い想像通り、不安、心配、緊張<事後>嘘を言わない、頭の中真っ白、ごめんなさい。
《身体反応》<~直前>ワクワク、ドキドキ<直後>ドッキリ、ハラハラ、アレ?どうして?<事後>意気消沈、謝罪
《行動》<~直前>肘で押してみた、支点は肩口・力点バットの柄、止まった時間・音<直後>やり過ぎをやり過ごす、大失敗であることに気がつく<事後>怒られ怖くなった、逃げたいけど逃げられない


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:記憶の二(小学校低学年)

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

人によってはこれがしっかりとした成功体験になって残っているようなこともあるかもしれないが 、あれだけ緊張したのに終えた後の開放感も記憶なく、「とっても物足りなさが強く残ったと印象でやりきった感の全くない」ことからこの事柄が私には「できて当たり前」として残っているのかもしれない。またこの日も毎日いつものごとく父のための酒宴に家庭騒乱となり、家族や誰かに話を聞いてもらえる環境になく、誰にも褒めてもらえなかったのだろうと思う。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】記憶の二(小学校低学年)

当初残っていた小学校低学年の記憶の2番目である

小学校で覚える掛け算の九九を必死で覚えた記憶である。小学校2年生であったはずであり、当時、今のリビングテーブルに座って、紙を広げて繰り返し唱えて覚える勉強法で、数日?かなり短期間だったように思うが「・・・・さんにがろく、さざんがきゅー、さんしじゅうに・・・しちしちしじゅうく、しちわごじゅうろく、しちくろくじゅうさん・・・」、苦手だったのか3の段と7の段を繰り返しやっていた時の記憶が残っていたりする。時には姉だったかが手伝ってくれた記憶が残っているが定かではない(ここが重要なのかはわからないので)。
学校では授業中で特定の段だったか全段だったか指されてあたった人が発表する形式でだったと思う。指名されたとき、ドキドキしながら鳥肌が立ちふわふわ身もそぞろでひたすら間違えないように頭の中真っ白になりながら、4の段だったか発表したような記憶がある。無事終えたものの、ここで記憶は途切れている。
そして無事発表を終えたものの、結局とっても物足りなさが強く残ったと印象でやりきった感の全くない中途半端な記憶である。
《認知》「私の番だ」「うまくできるかな」「まわりの視線が怖い・注目されている(事がわかる)」「まちがえないようにしないと」
《気分・感情》不安、心配、緊張、勇気、頭の中真っ白。
《身体反応》ドキドキ、ゾクゾク、ゾワゾワ、ワー!(勇気と恐怖)、心拍上昇。
《行動》人がいっぱいいる。恥ずかしさで真っ赤になり、恥ずかしさを回避するかのように無心に集中して、極度な緊張状態で声を震わせながら振り絞った。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:記憶の一(小学校低学年)

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。


当時お隣に幼馴染の同い年の女の子Bさんとその妹Cさんが住んでおり、そもそもごっこ遊びだのをしていた私は人形遊びに関してはそれ程抵抗感がなかったこと、それと前後して友人Aと遊びにいったとき、持っていたのはスヌーピーのぬいぐるみで、同じのを買ってもらって、すすんで彼と一緒に遊んだ記憶も薄っすらとある。その後は世代的に「超合金」ロボットの出てきた時だったのでそれも持ち込んでいたようなことも思い出される。
2023年時点でトラウマになった事柄を思い出そうとし始めたら、この小学校低学年の頃の記憶が、他の2つ(二、三)であわせて3つしかなく、すっぽりと他の記憶がない状況に陥っていた。またこの記憶は他の2つ(二、三)とは違って英雄的行動(?)なので、トラウマではなく善い行いとして記憶しているのだと思ったのだが、何度も何度もマインドフルネス状態の中で繰り返しこの記憶を再現しているうちに、どうもこの後に思い出す何もできずただ立ち尽くした失敗体験のやり直しにリンクしているようであることに気づくまで時間がかかることになる。

この記憶は以下に跨る複雑な構図があるようだった。僅かな抵抗だったのかもしれない。

【AC・トラウマからの開放を目指して】酒宴の暴力の始まり

 

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【AC・トラウマからの開放を目指して】記憶の一(小学校低学年)

小学校一年のことだったと思われる

友人Aは確か幼稚園の頃から仲良しだった。
ある日、周りの他の男の子達から、集団でからかわれて、一対多数で囲まれていた状況でした。確か、当時男の子がぬいぐるみで遊ぶってことに対して、周りの感覚から「女の子」みたいだとイチャモンをつけてからかったか何かだったと記憶している。止め時を失ってまわりで声合わせて囃し立てるようにからかわれ、友人Aも泣く寸前になってきていた。すごく勇気を振り絞って、「やめろ」と輪に割って入っていった。
くものこを散らすように輪が崩れて、私の記憶もモヤモヤした思いが終息していった。また知る限りこういう友人Aに対するイジメは起きていなかったと記憶している。

《認知》「何するんだ、Aが泣きそうじゃないか」「これ以上は放置しちゃ駄目だ」「もう止めないと」
《気分・感情》不安、心配、不愉快、怒り、緊張。
《身体反応》イライラ、ザワザワ、ギューッと胸が締め付けられる、ヒヤヒヤと勇気
《行動》勇気を奮い立たせて一歩割って入り、友人Aを身体でかばい前に出て「やめろよ!嫌がってるじゃないか」大声で怒鳴って注意をひいて友人を助けに入った


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:父の酒宴

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。


幼少~小学校時代の全体像のみ限定したものの、この件、正直書けば書くほど、怒りが込み上げてきて次から次へ言葉がたされていって収拾がつかない。小学生~中学生~・・・と時間経過により状況の変化もあり多少の環境変化はあれど大枠が全く変わらなかったという点とほぼ確定したパターンはあれど、私が大きくなるにつれて贖ったりもしたが、全く効果はなく逃れられない叫喚だけがそこにあったことだ。警察も不介入で、いつ殺人に発展してもおかしくなかったし、体裁も考えたし、誰かに訴えるようなチャンスもなかったし、もしかしたら今なら「児童相談所」案件かもしれないが、結局死者が出るレベルにならないと動かないだろうし現実誰も助けてはくれないので一人涙飲み続けた。

父の出張や健康診断前の誤魔化し休肝日は数日あればいい方だったので「ほぼ365日」毎日だった。

小学校に行っていた頃、私には自分だけの部屋はなく、また、母との共同の部屋はリビングルームのすぐ隣であり、誰にも救われず唯一人怯えながら耐え続けるしかなく逃げ場はどこにもなかった。中学生の頃には母屋に増築によって父の部屋が新しく出来るわけだが、自ら「座敷牢」と名付けた割にリビングには割と近い配置から、酔ってわざわざリビングに出てきてくだをまく、当然一触即発状態だった。中学生でやっと自分の部屋・・・は座敷牢に移った元父の部屋でリビングの真上、下のリビングの雑音までよく響いた。まして会話もまる聞こえで口論は筒抜けだったわけだ。

また、実際、両親の仲の悪さに、右往左往していた幼少期があって暴走したりもしているし、仲のいい夫婦や家族像にとても憧れがあった。母親は懲りてもう嫌だと思っているふりをしつつ「夜の酒宴」の準備を毎日続ける矛盾する行動にもうんざりしていた。

リビングで夕食を摂るたびに必ず酒に呑まれて周りの家族の人に被害を及ぼす”だけ”の夜の父の姿は、物心つく以前からだったのだろうか、始まりを知らない。ただ、夕食時の家族の団らんはわかりやすい父の酒乱スイッチが入った途端、さーっと皆去っていき、逃げ場のない私一人取り残され、母は傍観者となる構図だった。アルコール依存症と共依存を起こした夫婦の典型だったと言え、また全員自分の自衛策に手一杯でおまけなんぞにかまっている暇はないわけだ。「何で私はいるの?いなきゃいけないの?」

さて、少なくとも「自死」という選択肢のない子供(そんな考え到底及ばなかった)は「私はいらない子なんだ」と無意識受け止めざる得ず、自分を確立できていない子どもがこれを聞いてどう思うか。必死で他者に「認められる」ために本能的な生存戦略を模索し、足元に自分なく他人軸の本能的「生存」体験が、取り返すことのできない日々が続ている。今でもそうであるが少なくとも私が自死を選ばなかったのは周りに迷惑をかけたくなかったからという理由に過ぎない。つまり他人軸という悲しい現実を改めて気付かされる。

父は他者による酒乱で恐ろしい目にあっても一切反省もせず同じことを繰り返し続けた。誰も止められないという「アルコール」という恐ろしさ、制御できなくなるまで飲むということを許す社会構造である限り、アルコール依存者は永遠に終わりのない輪廻を繰り返すのだろうと思う。

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【AC・トラウマからの開放を目指して】父の酒宴

記憶の限り、いつから始まったかわからないが、リビングで父の酒宴の肴のつまみに、私(達)を直接的・間接的にいたぶることで、日々の憂さ晴らしをしていた。酒宴のステージには家族の誰かしらがマトとなり、都合が悪くなると「俺の言う事きかないなら出ていけ」と吐き捨て、時には物理的・精神的暴力を「肴」にする。酒宴のステージから皆去ってしまい終焉になると「もう、やだなー、働きたくないなー」と何度も繰り返す。行き場なくリビングかその隣の部屋で、誰にも守ってもらえず、誰からもフォローされず耐え続けた。あえて”ステージ”と表現したのは、「居ないふり」で端に座らされ常に参加させられ、「ふすま」一枚の遮りあるなしに関係なく、物理的退場を許されない、叫喚地獄という”ステージ”だった。私の声にならない悲鳴は誰にも届かなかったし、感情をひたすら殺した「いない子」だったのだ。少なくとも彼が他界する前日まで、私のこれまでの人生2/3の30年以上毎日繰り返され精神的にさらされ続けた。

《認知》「また始まった」「大人しく居ないふりで避けてやり過ごそう」
《気分・感情》いつも通り・想像通り・繰り返し、阿鼻叫喚、恐怖、逃避、不安、心配、緊張、頭の中真っ白
《身体反応》ドキドキ、ハラハラ、こわばり、首をすくめたり、余計な力が入る
《行動》やり過ごす、怖くて隠れたいけれど逃げたいけど逃げられない


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【AC・トラウマからの開放を目指して】序・脚下照顧

2020年11月中旬、よくわからない感染症から発熱、腹痛を発症して経過していったことから当時コロナが流行し始めた頃でも流石に陰性で、完全に体調を崩して1週間ほどで一旦治るが、逆流性食道炎などに起因した咳喘息の悪化など、その後数ヶ月不安定な体調は自宅療養を繰り返し、所詮サラリーマンのわたしは、「ある同僚」の裏切りの言葉に端を発し、社長から直々の脅し(この時点で「休職」の選択肢を潰されていた)によるハラスメントを受け、彼(=社長)の思い通り自己都合退職に追い込まれたわけですが、流石に社労士に言われたのだろうがまずかったらしく翌日には嘘までついてなかったことにしようとする始末でした(その当日のことは日誌につけ、後日のことはレコーディングしている)。脅しを受けたと私は同時に周りの同僚にオープンにしたため別の同僚から庇われ休職となったのは2021年3月のことだった。サラリーマン歴の中でこういう頭のおかしな自体はなかった。鬱の診断を受け、正直恐怖し誰も信じられないわけで、周りに愛想笑いで本心や状態をごまかしながらいたものの、そこから対人恐怖症のようになってしまい冗談じゃなく外に出られなくなり、必死に治療でデイサービスを受け回復に努めた1年、会社規定により退職、男性更年期障害(LOH)の治療を受けることとなり更に半年、2022年10月まで休んだ。

Al-Anonと救い

上にも書いた通り、「このフラッシュバックは何だろう」から始まって、トラウマであることに気がつくのに時間も要して、2023年にはリハビリ程度の事務仕事程度の社会復帰もした。

9月6日

症状の発症自体は、この辺りに遡れることもわかった。現状は体の患いも輪をかけて心の病引きずってしまい障害も認定され身も心も治らないまま現在に至っている。読み返してみるとわかるが「皆の帰る家を守りたい…」と思っていたのに私自身は「親の無言の圧(指示・強制)から離れないと駄目だ」と認識し「家は私の居場所ではない」と確信を持って実家から東京から離れた。

今回はそれでもこの「生きづらさ」は何だろうと医者とも相談をして、精神科では診断するところではないが「カウンセリングだったらアダルトチルドレン(AC)とかだろうね」と。世代連鎖からくる根の深さがわかり、それまでのアプローチ(マインドフルネス+行動認知療法+スキーマ療法)はトラウマ事象を詳らかにするのには役立ったがよりもっと根本問題の解決が必要ということだけはわかった。よく言う「毒親」は離れても問題は幼少期に刻まれた「基本的信頼感のない大人」であれば、離れるだけでは解決しないのは納得がいったし、無意識に世代連鎖を避けDINKsを選んだのもアダルトチルドレン(AC)特徴でもある。自分の分身が苦しいのを見るのが嫌だったからである。

サブタイトルに「脚下照顧」と書いたが、足元に確かに靴はあるが肝腎の自分の足元にない両足で立てていなかったことに気づくことになる。譲れない拘りやずっともやもやしていたのは「『心の中の親』に支配」され続けてそれらが足元の他人軸(親の軸)の規範であって、「自分の選択」に自信と価値を見いだせてこれなかった(基本的信頼感の欠損)からだ。自分を信頼していないから、当然、他人なんぞ信頼も信用もしていない。実のところ心のなかで境界線が引かれていてそれ以上の侵入をい許さないできたのはこの為であることもわかった。

さて、Al-anonに参加していたのだけど事情が許さず12月から休止となった。

それ以降、この数ヶ月、前向きに、「私はここに居ていいんだよ」と言い聞かせてきた。そうすると”なかった”足元が地につくから。「(願いが叶わなかったのは)君が悪いからじゃない」。また、「よく我慢した。もう誰も邪魔しない。全力で逃げよう」と。そんな先日、子どもの群れの中にいるのにポツンと疎外感に支配された自分の夢を見ました。そりゃぁそうだ。愛着執着が壊れている時点で私は昔っから「自分が好き」だったことがないし価値感じてないから、自分は「駄目なんだ」と信じてきていて、無価値な自分を嫌いだったからで、欠損した「愛されなかった」・「かまわれなかった」・「認められなかった」・「守られなかった」過去を変えることはできないのを、夢の中でどう解決したか、弱々しいけれども、「代わりに私があなたを信じるから」と思いっきり叫んで目を覚ました。

Al-anonで始める際よく唱えていたのは「平安の祈り」だ。

神さま 私にお与え下さい
自分に変えられないものを
受け入れる落ち着きを
変えられるものは
変えていく勇気を
そして二つのものを
見わける賢さを

 

Al-Anonと救い

この半年、トラウマと戦いながらひたすらマインドフルネスで洗い出していたのだけれど、私には小学校に入学してから4年生以下の記憶がスッポリないんです。事件のあったことはいくつか覚えてはいるもののピンポイントそこだけで、寧ろ幼稚園に入る前で幼馴染の子と遊んだ思い出や幼稚園に通う途中に大きな一貫校の学園を通るんですがケヤキ並木を整備されていた道を友達たちと通ったり、はたまた幼稚園の運動会やら庭で「森のくまさん」やら踊ったり、工作したり、クリスマスの演劇でキリストの誕生シーンでロバ演じたり、歌ったり、はたまた、スカートめくりが流行っていて、先生が顔真っ赤にして「そういう悪い子にはスカートはかせますからね!」と怒っていたり、他には幼馴染の女の子が好きで甘酸っぱい思い出や、その子に妹さんがいてお人形さんごっこにもつきあわされたり、ブランコ乗ったり、えぇ、結構楽しい思い出いろいろ覚えてます。
けれども、私には小学校1~4年生の記憶がスッポリないんです。
私は大蔵省(現在の財務省)に務める父とお嬢様大学卒の母の間の第三番目で、上に11歳離れた兄と8歳離れた姉がいます。東大出身でエリートコースであった父ですが、実に官僚なんて家庭ではクソみたいなもので、浴びるようにアルコールを呑み、くだを巻き暴力をふるい家庭崩壊。読んでる方の中には「官僚エリートが勝ち組家庭」とか思うでしょうが実態は親としては最低でした。酒害家族で夫婦間暴力は共依存を生みます。私は共依存で離れられない夫婦のもと逃げ場のない恐怖の中に育ちました。日に日にひどくなり平気で暴力を振り、そう姉が中学2年のある日・・・これ書いていて思い出したのは髪の泣き叫ぶ姉を父は毛を握り引っ張り回し十数メートル引きずり「出てけ!」と。とうとう姉も家出します。日に日にひどくなっていき逃げ場のない眼の前の部屋で小さくなっていた私を姉なりにかばってくれることも記憶しています。震えていたんでしょうね、怖くて、思い出したら涙も出てきます。エスカレートしてとうとう母に手を上げます。振り上げた拳に顔めがけて叩かれ「べいん」と鈍い音が耳に残っています。母のかけていたメガネは吹き飛び、その後は号泣する中、逃げ場のない私は眼の前で立ちすくんでいました。

酒が憎いです。

私の兄も姉も酒が嫌いです。原則呑みません。
こうして私の住んでいた家庭は崩壊していきました。小学校高学年5・6年は比較的若い女の先生が担任でした。一見小綺麗なのですが唇の上に結構目立つ傷のある人だったのが印象的です。数ヶ月すると豹変して本証を露わにします。始まりは確かクラスの誰かがエビが嫌いだったのか、エビフライを残して残飯にしたことから始まったかと。ヒステリックに怒鳴り散らし犯人出てこいと騒ぎます。まぁ、「犯人は正直に出てこい」とか学校ではよくある風景なわけですが、彼女は違います。しばらく怒鳴り散らしたかと思うと「じゃぁ、お前ら、連帯責任だ。今後、毎日償わせてやる!」と莫し立てその後の学校生活は本当に地獄と化しました。何かにつけてビンタ、えぇ、吹っ飛ぶぐらいです(今ならクビになるでしょう)、暴力、脅し、何かにつけて怒鳴り散らします。すぐに正当化し始めました「他の子供達、卒業した子どもたちに感謝されているから、私は正しい、やっていることは正当だ」と。「おら、ボイコットしてみろ、そんな根性もねーのか」「お前ら許さねーからな!せいぜい卒業するまでお耐えればいい、コレが連帯責任だ」と。裏で皆いってました「またあいつヒステリー起こしている」と。まぁ、尋常じゃない。やがてクラス外でもこの態度を振り回しますが、逆に舐められ、そんな反抗した彼はヒーローで、後ろの方で拍手も起きるほどでしたか。

そうして、家にも学校にも逃げ場がなくなったわけです。大人から見ればクソみたいなことですが、当の子ども本人には深刻な傷を残します。

さて姉は早生まれで当時中学2年生というと14歳です。私も早生まれで6歳、つまり小学校入学していたわけです。ACの方で特定時期の記憶の欠落って珍しくないようですね。私も漏れず記憶の欠落が起きてしまっています。幼児期の記憶は比較的残っているのに小学校入ってからは断片から必死に思い出さないと、子供のできる数少ない能力で全身全霊で生き残りの行動し続け、記憶をシャットダウンしてしまっているかのようですが、その記憶を掘り起こさないとトラウマの実態が見えませんでした。何度もそのフラッシュバックとその記憶の鮮明化、慣れさせながら、再学習させるわけです。

・・・まぁ、それで今でも苦しんでいるわけですが。正面から向き合ってみるとこんなにもひどい傷だったのかと・・・数日涙もしました。追々これはすべて明かすかもしれませんが、救いはないなと。

父も他界し、最後にとどめは火事にあい跡形もなくなったことですか。そしてまたすったもんだ。

フラッシュバックに気がついていましたが日常、二進も三進も行きませんし、致し方なくトラウマを開陳しつつ子供だった頃の無力な自分を今の大人の目線で記憶の整理をつける荒療治を、この数ヶ月行っていますが、やっと今になって、トラウマを整理してみて、初めて私が、AC(アダルトチルドレン)であったことを自覚させられました。

そんなこんなでもがき苦しみながらアラノン自助グループに通うことにしました。

酒害家族にさらされた人達と会って、本当にアルコールに逃げる人たちの弱さを痛感させられます。
仏教では飲酒は戒律で禁じられていますが在家の五戒にすら上がっている理由が今更わかります。
アラノンと同様にアルコールホリック自助グループもあって(本来はこちらが本道だった)ちょっとした正当化も「甘え」と断じているのは頷けます。そうやって飲む行為こそ無力な人間そのものであるというわけですよ。

ACは自覚が必要なんです。アルコールホリックは他覚で認定されるものです。なので「ちょっとぐらいならいい」というのは罠でしかなく結局は自覚してやめられず飲酒を繰り返す要因でしかなく救えない「甘え」を正当化しているだけです。立派な依存症です。巷でみる麻薬と同レベルの依存症ですね。ちなみにタバコを吸っても狂って人を殺すようなことはありませんが、酒は毎日ニュースで見る如くですね。未だにタバコやめてから吸ってませんが、依存症ではありませんよ、あんなもん。好きなままやめているので匂えば香りは楽しめますが、自ら吸おうとはしませんし思わないんですよね。そういう意味からも私には飲酒は甘えにしか見えないわけですがね。

そんな中調べていて「龍樹菩薩」のいう「三十五の過失」が目につきました:『三十三には、精神異常をきたしたり無知になる原因を植えつける。三十四には、死後に悪道や地獄に堕ちる。三十五には、もし次の生存に人間に生まれたとしても、その生活は常に狂気と愚かさに満ちる』。酒難しという私は、実は周りにかけた迷惑は怨となって降りかかる相続を受けたのかもなと、悔しく泣いたとしても今更遅いという話で片付けるのもよいでしょうが。来世に引き継いだとしても父からも相続を受けているとも解釈したとしても自戒もできないのなら救いようもないわけです。私はそう思ったわけですが、来世はないなら過去世もないです。お好きなだけ楽しめばよいです、他人事なので。

まぁ、そんな中、ちょっと元気の出るマントラがありましたので二週間ほどかけて邦訳していこうと思います。元々は今亡き師匠は山登りが好きでヒマラヤに憧れチベットで色々持ち帰り日本で僧侶になった方だったのでよく歌いながら唱えて教えてくれていた真言だったりします。オン マニ パドメ フーン♪

話は前後しますが得度の際習った准提真言ですが、実に密かにいまだに読んでいて、何故か多羅菩薩へつきあたりました。准提真言は満願すると夢の中なりそういう眷属とであったり色々実際に起きることがあるそうなんですが、単純に「頭おかしいんとちゃう?」と思っていたわけですが、まぁ調べていくとそういう功徳もあるそうで。実際にはやはりこれも師匠譲りで「観音様の涙は多羅菩薩だよ」というのを頭の端で覚えていたのかもしれません。何れにしても准提真言を調べるとどうしても立ちはだかるのが六字大明で「オン マニ ペメ フーン♪」は観音様の真言と捉えるのが正しいんだと気付かされました。准提観音様以外、真面目に、観音さん拝んだことないんでしが、そんなこんながあったので。