【AC・トラウマからの開放を目指して】検証結果とは関係なく

【AC・トラウマからの開放を目指して】火災にあう

鎮火し、現場検証の始まる頃には実兄も到着していて、現場検証の際には金魚のフンのようについて回ってきた。紙にある程度書いて「ココに本棚、ココにはパソコン、出火場所の前にはプリンターとかおいてある棚・・・説明して回る。火の手が見えたので水をこの辺にぶっかけた消化液も近くにあったのを使った」・・・など洗いざらい正直に話して、腑に落ちなかった部分も何度も話して焦げの強い部分と実際に消火した部分との違いも説明した。状況証拠と私の証言から警察と消防との話し合いも行われ総合して、「自然発火」だねと。金魚のフンもそれを聞いていたはずで、にも関わらず彼は別の答えを出していたようだ。
後日子どもを連れて火災現場を見たいという。私は何かの事情で行けないと断ると、「お前が出した火災なんだから犯人のお前がいないと説明にならないだろう!」と罵られる。
「はぁ?自然発火だろ!聞いてただろ!」。誹謗中傷も良い所だ。
焼け死んでいたら、「ここが火災を出した犯人の寝ていた場所だ!」と自慢げに話したのだろう。
さて、こんな人間達に火災時に頼ったことがいかに馬鹿だったか。いっそ焼け死んだ方がなんぼかマシだったようにすら思った


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【AC・トラウマからの開放を目指して】火災にあう

2012年9月6日の火災は大きな分岐点となった

9月6日


秋だというのに夏の暑さを引きずった日、人生の折り返しのつもりで勉強に励みだした半年、試験前で徹夜のきかない私は早朝就寝し、目覚めたのが昼頃であったろうか、異変に驚く。焦げ臭く、「くすぶり破裂する」ような異常音に目を覚ますと、壁の中の一部がオレンジ色になっていた。
「え?煙硝?」とばかりに消火に挑戦するも、鎮火したと思いきや吹き返すというよく話に聞く火災というものを実体験することになっていた。恐怖と戦いながら人の助けを借りて何とか消防へ連絡がついた。
何故か電波悪く自分の部屋では携帯電話から119番が繋がらなかったのだ。慌てて外に出ると、そこは「昼間は外出したひっそりと帰宅を待つ住宅」が並ぶ町で偶々仕事で歩いていた職人さんの団体さんが道角向こうから歩いてくるのが見え大声で「すいませーん、火事なんですー。消防呼んでくださーい」と叫んだ。こんな思いで消防を呼んだわけだ。
長く待たされ途方に暮れ鎮火まで相当時間を要したと思う。道端で座り込み、バチバチと炎の上がる音に怯え泣きそうな思いで、再度、携帯電話から119番し状況を問い合わせるなどした覚えもある。掛からなかった電話機は道端では通話できる状況だった。いつも部屋で恋人にかけている電話機なので繋がらないわけはないのだが、何故かあの状況で使えなかったという。
鎮火後、警察と消防での現場検証の結果証言と状況から「自然発火」だと言われた。

《認知》「過去を焼き尽くしてくれたらどんなに良かったか」生き残ったがゆえの不幸の分岐点
《気分・感情》恐怖、不安、緊張、頭の中真っ白、怒り
《身体反応》ドキドキ、ハラハラ、心臓が押しつぶされそうな下腹が痛いような穴の空いた感じ。こわばり、余計な力が入る。
《行動》生き残れた。生き残ったが故になのかあんまりだった。思考停止したように動けなくなる感じ。

こんなこともあり、この事自体、PTSDのようにフラッシュバックが起きるようになったことの一つでもある。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:父の終焉

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

「一番風呂に入りたきゃ自分で沸かせ、クソが!」私の返し文句である。少しは懲りてたまに遅まきながら自分でやるようになっては来たもののこっちは急いでいる時もありその場合はとっとと沸かして時間無視でとっとと入った。未だにカラスの行水はかわらない。熱めの風呂が好きなのだが身体洗ってとっとと浸かってとっとと出る。出なきゃいけないような気がせっているのが15年たった最近治ってきた。
私は時間になったら入る派という単純な理由だがいわゆる「タイパ」の問題だったりする。仮に夜19時に晩御飯が食べれたとして2時間おいて21時~22時にお風呂にすることで就寝までの時間を逆算して、その時間をチョイスしていて次の日に差し支えないように気をつけていたわけだ。
父は症状からすると「骨髄異形成症候群」(今では珍しくないのかもしれないが)だったろうか、興味もなく忘れてしまったが、結局、日和見感染で命を落とすこととなる。
笑えない話だが、父の体質にとても似ている私は、今、前立腺肥大になっている。高血圧に関しては気がついたら20代ぐらいですでに上が150mmHg、下が栝樓じて2桁の90mmHg代、脈拍に至っては100前後で早めだったので、歩行程度の運動でも120を簡単に超えるようになっていた。25%という遺伝確率という名の生まれる前から負わされた呪われた世代間連鎖ともいえる。私の最後も自己免疫疾患などからくる日和見感染で命が絶たれる可能性があるということだ。
さて父は、戦時中昭和の家の長男で、「東大出身大蔵省のエリート」という順風満帆な一面だけではなかったようで、吃音症であることを隠しながら頑張った人という一面を持つ。私ももれなくその血をついで軽い吃音を抱えているからわかるが、バカにされまいと必死に取り繕っていたのだろうと思う。物を言うという表現ができない分、「愛情表現が下手」というレッテルを貼られることとなった。またここぞという決めの甘さが出て失敗してしまうことがあるのもその吃音症せいだったのかもしれない。アメリカのマクドナルドで「カフェ」と頼んで「紅茶」が出てきたり、発語にはかなり難アリだったようだ。おまけに失敗もついてくるのでハタから見ると「決まらないドジなやつ」でまるで「伝説級」の笑いものになるときもある。ついでを言うと江戸っ子発音で「ひ」と「し」の区別もつかないのは父が下町育ちだからなんだと思っていたが、山の手育ちの私もそうであるところから吃音の要素を誤魔化せたに過ぎなかったのかもしれない。
そもそも感情が押し殺されて育ってきている私は一瞬思考停止して、自分の感情をスルーしてから考える為、思いつき勝負の口喧嘩が苦手なばかりでなく、さらに吃音症が加わって、自己肯定感も低くなってしまったわけでもある。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】父の終焉

「戦前の家長制度」の影響か何かは知らないが「一番風呂」を誰が入るのかで争うというくっだらない慣わしがあった。こんなことが日々の口論の口火を切ることになる。
15年前、11月に入った頃、いつものごとく口論となり、今日の酒宴の肴が「風呂の順番」となったのはいうまでもない。
さてその翌日昼過ぎから父母で口論を始め、のそのそ外に出ようとした父に、母は「あなたは馬鹿じゃないの?」「そんなんで行けるわけないでしょ」と散々の罵声を浴びせながら、その日、すでに弱っていた父は搬送先の主治医のいる病院で息を引き取った。
叫喚地獄の日々に終止符が打たれたわけだが、当然前日の「酒宴の肴」の怒りもあり「帰って来るなバカが」の望みがかなった日でもあり、苦い想いを未だに抱くこととなる。

 


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:G案件:「トビラ」事件

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

 

【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:エビフライ事件

【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:恐怖支配

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について


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【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:「トビラ」事件

担任G教員の強肩は様々なところであったらしい。私は先にも書いた通り「問題児だった」のだろうと確信した事件でもある。

卒業アルバムの台紙イラストは学年全員で描いたものから選考されるというのはよくある話。
さて、後で聞いた話だったのか何のタイミング聞いたのか思えていないのだが、実はその選考に最後、私の作品が残っていたらしい。
担任G教員の私に対するネガティブイメージを理由に選考の最後落選したというウワサを耳にしている。私にそれを聞かせる必要ってあったのかわからないが、共同責任というのであるならばこれが社会であり会社含む組織であり人となり他者をさらに信用できなくなったトラウマの一つだ。

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について


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【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:恐怖支配

担任G教員の恐怖支配は卒業まで続いて釈然としない傷だけを残した。

「お前ら、絶対許さない」
「私はかつての卒業生からは感謝されており、私は正しい」
担任G教員の言い分。
何かクラス内の過ちは、連帯責任と称して都度全員の前、下手すると全校生徒の前で吊し上げられ、時には「びんただ」と暴力で粛清され、服従を強要され続けられた。
親に言っても、すでに手を回していて囲い込みが終わっているため、孤立した教室の出来上がりとなった


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:G案件:エビフライ事件

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について

洗脳の手法から以下のことがわかる

  • さも正しいことをしているように装う:①安心…理解者・支援者だと安心させる
  • 「ボイコットするならやってみろ」:②驚き…占いなど予想を的中させたり、心の底を言い当てたりするトリックを使う
  • 「他の卒業生からはみんな感謝されている」:③嫉妬…他のメンバーを登場させ互いに競わせる
  • 他にも「親には私から今回の件説明しておく(ので、君らからの声は無駄だ)」:④囲い込み…家族や社会から分断、帰り場所をなくす

すべてがこの問題はこの最初の事件に帰結していって、更には、これを1年以上かけて攻め続ける必要があることなのか。甚だ疑問しかない。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:エビフライ事件

G案件は小学校5・6年生の担任・女教員Gによる2年間続く一連の「恐怖支配」教室の話となる。

小学校5年生の担任・女教員Gになって数ヶ月が経過したあたりのことだったと思う。G教員は他校から赴任してきた新しい教員で、それまでシャキシャキはしていたものの温和を装って一見すると優しい先生風であった。
クラスメイトが給食のエビフライを残してしまい、口もつけずに残飯処理に出したことに始まる(確定ではないがHくんとする)。
G教員はそれを見るやいなや「誰だ?」とし、小言から始まり、「名乗り出れないなら」、今度は、「目をつむって挙手をしろ」という。散々プレッシャーをかけて震え上がってしまったのか誰も手が挙がらなかったという(私は真面目に目をつむって待っていたので実際どうだか知らない)。
G教員はこうはじめた。「誰も名乗り出ないのであれば、お前ら全員、連帯責任だ」「絶対に許さない」「卒業まで続ける」と。
この後、卒業までの1年半の間、この件をネチネチ追求するとともに、「連帯責任」と称して、何かにつけて大げさに騒ぎ続けられることとなった。
G教員は何かにつけて、自分を正当化し続けた。「他の卒業生からはみんな感謝されている」「ボイコットするならやってみろ」「お前ら全員ゆるさないからな」。ことのつまり他の学校でも同様の「連帯責任論」で児童を小突き回してきたということだそうだ。

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について

 


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【AC・トラウマからの開放を目指して】Fさんに手を上げる(小学校4年)

小学校3年だったか小学校4年はずなのだが、担任の先生すら思い出せないある日の出来事である。

当時クラスメイトだった、ほりの深い目立つ顔立ちの女の子Fさん、話した記憶もほとんどない。
ある日の下校時、誰だかよくわからないが背中にピッタリくっついてくるような後を追ってくる人がいた。私は恐怖に陥りパニックになりながら後ろに振り向きざまに「後ろ追っかけてくるな!」と殴ってしまう。
後ろのついてきた人が、Fさんだと知っていたのか知らなかったのか今思い出してもよく覚えていないが、一瞬振り向き確認して、更に次の一瞬で手を上げたのかもしれない。
殴った後、ダーッと相手が逃げていったのはよく覚えているが、同時に私も急いでその場を離れた。ただ追いかけられているようで怖かった記憶である・・・ただ事後の記憶が全くいない(少し「怒られた」ような気もするのだが・・・記憶にない)。


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