【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:父の酒宴

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。


幼少~小学校時代の全体像のみ限定したものの、この件、正直書けば書くほど、怒りが込み上げてきて次から次へ言葉がたされていって収拾がつかない。小学生~中学生~・・・と時間経過により状況の変化もあり多少の環境変化はあれど大枠が全く変わらなかったという点とほぼ確定したパターンはあれど、私が大きくなるにつれて贖ったりもしたが、全く効果はなく『凍りつき(フリーズ)』状態で、逃れられない叫喚だけがそこにあったことだ。警察も不介入で、いつ殺人に発展してもおかしくなかったし、体裁も考えたし、誰かに訴えるようなチャンスもなかったし、もしかしたら今なら「児童相談所」案件かもしれないが、結局死者が出るレベルにならないと動かないだろうし現実誰も助けてはくれないので一人涙飲み続けた。

父の出張や健康診断前の誤魔化し休肝日は数日あればいい方だったので「ほぼ365日」毎日だった。

小学校に行っていた頃、私には自分だけの部屋はなく、また、母との共同の部屋はリビングルームのすぐ隣であり、誰にも救われず唯一人怯えながら耐え続けるしかなく逃げ場はどこにもなかった。中学生の頃には母屋に増築によって父の部屋が新しく出来るわけだが、自ら「座敷牢」と名付けた割にリビングには割と近い配置から、酔ってわざわざリビングに出てきてくだをまく、当然一触即発状態だった。中学生でやっと自分の部屋・・・は座敷牢に移った元父の部屋でリビングの真上、下のリビングの雑音までよく響いた。まして会話もまる聞こえで口論は筒抜けだったわけだ。

また、実際、両親の仲の悪さに、右往左往していた幼少期があって暴走したりもしているし、仲のいい夫婦や家族像にとても憧れがあった。母親は懲りてもう嫌だと思っているふりをしつつ「夜の酒宴」の準備を毎日続ける矛盾する行動にもうんざりしていた。

リビングで夕食を摂るたびに必ず酒に呑まれて周りの家族の人に被害を及ぼす”だけ”の夜の父の姿は、物心つく以前からだったのだろうか、始まりを知らない。ただ、夕食時の家族の団らんはわかりやすい父の酒乱スイッチが入った途端、さーっと皆去っていき、逃げ場のない私一人取り残され、母は傍観者となる構図だった。アルコール依存症と共依存を起こした夫婦の典型だったと言え、また全員自分の自衛策に手一杯でおまけなんぞにかまっている暇はないわけだ。「何で私はいるの?いなきゃいけないの?」
『凍りつき(フリーズ)』とは何とも言えない表現のつかない感覚だった。

酒宴の間『凍りつき(フリーズ)』状態のまま居続けた。5~6歳の子供が、2~4時間/毎日、その総計1万回(30年間)を超える回数、暴露され続けたということだ。

さて、少なくとも『凍りつき(フリーズ)』状態で、時にはなにか別のものに気を散らして(唯一の逃避の手段)そんな心の状態は必死に防衛反応を起こし続けただけだった。当然「自死」という選択肢のない子供(そんな考え到底及ばなかった)は「私はいらない子なんだ」と無意識受け止めざる得ず、自分を確立できていない子どもがこれを聞いてどう思うか。必死で他者に「認められる」ために本能的な生存戦略を模索し、足元に自分なく他人軸の本能的「生存」体験が、取り返すことのできない日々が続ている。今でもそうであるが少なくとも私が自死を選ばなかったのは周りに迷惑をかけたくなかったからという理由に過ぎない。つまり他人軸という悲しい現実を改めて気付かされる。

父は他者による酒乱で恐ろしい目にあっても一切反省もせず同じことを繰り返し続けた。誰も止められないという「アルコール」という恐ろしさ、制御できなくなるまで飲むということを許す社会構造である限り、アルコール依存者は永遠に終わりのない輪廻を繰り返すのだろうと思う。

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【AC・トラウマからの開放を目指して】父の酒宴

恐らく5~6歳頃から父が死ぬ前日まで様々なパターンで繰り返され暴露され続けて頭から消せない記憶である。

記憶の限り、いつから始まったかわからないが、リビングで父の酒宴の肴のつまみに、私(達)を直接的・間接的にいたぶることで、日々の憂さ晴らしをしていた。酒宴のステージには家族の誰かしらがマトとなり、都合が悪くなると「俺の言う事きかないなら出ていけ」と吐き捨て、時には物理的・精神的暴力を「肴」にする。酒宴のステージから皆去ってしまい終焉になると「もう、やだなー、働きたくないなー」と何度も繰り返す。行き場なくリビングかその隣の部屋で、誰にも守ってもらえず、誰からもフォローされず耐え続けた。あえて”ステージ”と表現したのは、「居ないふり」で端に座らされ常に参加させられ、「ふすま」一枚の遮りあるなしに関係なく、物理的退場を許されない、叫喚地獄という”ステージ”だった。私の声にならない悲鳴は誰にも届かなかったし、感情をひたすら殺した「いない子」だったのだ。少なくとも彼が他界する前日まで、私のこれまでの人生2/3の30年以上毎日繰り返され精神的にさらされ続けた。

《認知》「また始まった」「大人しく居ないふりで避けてやり過ごそう」
《気分・感情》いつも通り・想像通り・繰り返し、阿鼻叫喚、恐怖、逃避、不安、心配、緊張、頭の中真っ白→凍りつき(フリーズ)
《身体反応》ドキドキ、ハラハラ、こわばり、首をすくめたり、余計な力が入る
《行動》やり過ごす、怖くて隠れたいけれど逃げたいけど逃げられない


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【AC・トラウマからの開放を目指して】序・脚下照顧

2020年11月中旬、よくわからない感染症から発熱、腹痛を発症して経過していったことから当時コロナが流行し始めた頃でも流石に陰性で、完全に体調を崩して1週間ほどで一旦治るが、逆流性食道炎などに起因した咳喘息の悪化など、その後数ヶ月不安定な体調は自宅療養を繰り返し、所詮サラリーマンのわたしは、「ある同僚」の裏切りの言葉に端を発し、社長から直々の脅し(この時点で「休職」の選択肢を潰されていた)によるハラスメントを受け、彼(=社長)の思い通り自己都合退職に追い込まれたわけですが、流石に社労士に言われたのだろうがまずかったらしく翌日には嘘までついてなかったことにしようとする始末でした(その当日のことは日誌につけ、後日のことはレコーディングしている)。脅しを受けたと私は同時に周りの同僚にオープンにしたため別の同僚から庇われ休職となったのは2021年3月のことだった。サラリーマン歴の中でこういう頭のおかしな自体はなかった。鬱の診断を受け、正直恐怖し誰も信じられないわけで、周りに愛想笑いで本心や状態をごまかしながらいたものの、そこから対人恐怖症のようになってしまい冗談じゃなく外に出られなくなり、必死に治療でデイサービスを受け回復に努めた1年、会社規定により退職、男性更年期障害(LOH)の治療を受けることとなり更に半年、2022年10月まで休んだ。

Al-Anonと救い

上にも書いた通り、「このフラッシュバックは何だろう」から始まって、トラウマであることに気がつくのに時間も要して、2023年にはリハビリ程度の事務仕事程度の社会復帰もした。

9月6日

症状の発症自体は、この辺りに遡れることもわかった。現状は体の患いも輪をかけて心の病引きずってしまい障害も認定され身も心も治らないまま現在に至っている。読み返してみるとわかるが「皆の帰る家を守りたい…」と思っていたのに私自身は「親の無言の圧(指示・強制)から離れないと駄目だ」と認識し「家は私の居場所ではない」と確信を持って実家から東京から離れた。

今回はそれでもこの「生きづらさ」は何だろうと医者とも相談をして、精神科では診断するところではないが「カウンセリングだったらアダルトチルドレン(AC)とかだろうね」と。世代連鎖からくる根の深さがわかり、それまでのアプローチ(マインドフルネス+行動認知療法+スキーマ療法)はトラウマ事象を詳らかにするのには役立ったがよりもっと根本問題の解決が必要ということだけはわかった。よく言う「毒親」は離れても問題は幼少期に刻まれた「基本的信頼感のない大人」であれば、離れるだけでは解決しないのは納得がいったし、無意識に世代連鎖を避けDINKsを選んだのもアダルトチルドレン(AC)特徴でもある。自分の分身が苦しいのを見るのが嫌だったからである。

サブタイトルに「脚下照顧」と書いたが、足元に確かに靴はあるが肝腎の自分の足元にない両足で立てていなかったことに気づくことになる。譲れない拘りやずっともやもやしていたのは「『心の中の親』に支配」され続けてそれらが足元の他人軸(親の軸)の規範であって、「自分の選択」に自信と価値を見いだせてこれなかった(基本的信頼感の欠損)からだ。自分を信頼していないから、当然、他人なんぞ信頼も信用もしていない。実のところ心のなかで境界線が引かれていてそれ以上の侵入をい許さないできたのはこの為であることもわかった。

さて、Al-anonに参加していたのだけど事情が許さず12月から休止となった。

それ以降、この数ヶ月、前向きに、「私はここに居ていいんだよ」と言い聞かせてきた。そうすると”なかった”足元が地につくから。「(願いが叶わなかったのは)君が悪いからじゃない」。また、「よく我慢した。もう誰も邪魔しない。全力で逃げよう」と。そんな先日、子どもの群れの中にいるのにポツンと疎外感に支配された自分の夢を見ました。そりゃぁそうだ。愛着執着が壊れている時点で私は昔っから「自分が好き」だったことがないし価値感じてないから、自分は「駄目なんだ」と信じてきていて、無価値な自分を嫌いだったからで、欠損した「愛されなかった」・「かまわれなかった」・「認められなかった」・「守られなかった」過去を変えることはできないのを、夢の中でどう解決したか、弱々しいけれども、「代わりに私があなたを信じるから」と思いっきり叫んで目を覚ました。

Al-anonで始める際よく唱えていたのは「平安の祈り」だ。

神さま 私にお与え下さい
自分に変えられないものを
受け入れる落ち着きを
変えられるものは
変えていく勇気を
そして二つのものを
見わける賢さを

 

Al-Anonと救い

この半年、トラウマと戦いながらひたすらマインドフルネスで洗い出していたのだけれど、私には小学校に入学してから4年生以下の記憶がスッポリないんです。事件のあったことはいくつか覚えてはいるもののピンポイントそこだけで、寧ろ幼稚園に入る前で幼馴染の子と遊んだ思い出や幼稚園に通う途中に大きな一貫校の学園を通るんですがケヤキ並木を整備されていた道を友達たちと通ったり、はたまた幼稚園の運動会やら庭で「森のくまさん」やら踊ったり、工作したり、クリスマスの演劇でキリストの誕生シーンでロバ演じたり、歌ったり、はたまた、スカートめくりが流行っていて、先生が顔真っ赤にして「そういう悪い子にはスカートはかせますからね!」と怒っていたり、他には幼馴染の女の子が好きで甘酸っぱい思い出や、その子に妹さんがいてお人形さんごっこにもつきあわされたり、ブランコ乗ったり、えぇ、結構楽しい思い出いろいろ覚えてます。
けれども、私には小学校1~4年生の記憶がスッポリないんです。
私は大蔵省(現在の財務省)に務める父とお嬢様大学卒の母の間の第三番目で、上に11歳離れた兄と8歳離れた姉がいます。東大出身でエリートコースであった父ですが、実に官僚なんて家庭ではクソみたいなもので、浴びるようにアルコールを呑み、くだを巻き暴力をふるい家庭崩壊。読んでる方の中には「官僚エリートが勝ち組家庭」とか思うでしょうが実態は親としては最低でした。酒害家族で夫婦間暴力は共依存を生みます。私は共依存で離れられない夫婦のもと逃げ場のない恐怖の中に育ちました。日に日にひどくなり平気で暴力を振り、そう姉が中学2年のある日・・・これ書いていて思い出したのは髪の泣き叫ぶ姉を父は毛を握り引っ張り回し十数メートル引きずり「出てけ!」と。とうとう姉も家出します。日に日にひどくなっていき逃げ場のない眼の前の部屋で小さくなっていた私を姉なりにかばってくれることも記憶しています。震えていたんでしょうね、怖くて、思い出したら涙も出てきます。エスカレートしてとうとう母に手を上げます。振り上げた拳に顔めがけて叩かれ「べいん」と鈍い音が耳に残っています。母のかけていたメガネは吹き飛び、その後は号泣する中、逃げ場のない私は眼の前で立ちすくんでいました。

酒が憎いです。

私の兄も姉も酒が嫌いです。原則呑みません。
こうして私の住んでいた家庭は崩壊していきました。小学校高学年5・6年は比較的若い女の先生が担任でした。一見小綺麗なのですが唇の上に結構目立つ傷のある人だったのが印象的です。数ヶ月すると豹変して本証を露わにします。始まりは確かクラスの誰かがエビが嫌いだったのか、エビフライを残して残飯にしたことから始まったかと。ヒステリックに怒鳴り散らし犯人出てこいと騒ぎます。まぁ、「犯人は正直に出てこい」とか学校ではよくある風景なわけですが、彼女は違います。しばらく怒鳴り散らしたかと思うと「じゃぁ、お前ら、連帯責任だ。今後、毎日償わせてやる!」と莫し立てその後の学校生活は本当に地獄と化しました。何かにつけてビンタ、えぇ、吹っ飛ぶぐらいです(今ならクビになるでしょう)、暴力、脅し、何かにつけて怒鳴り散らします。すぐに正当化し始めました「他の子供達、卒業した子どもたちに感謝されているから、私は正しい、やっていることは正当だ」と。「おら、ボイコットしてみろ、そんな根性もねーのか」「お前ら許さねーからな!せいぜい卒業するまでお耐えればいい、コレが連帯責任だ」と。裏で皆いってました「またあいつヒステリー起こしている」と。まぁ、尋常じゃない。やがてクラス外でもこの態度を振り回しますが、逆に舐められ、そんな反抗した彼はヒーローで、後ろの方で拍手も起きるほどでしたか。

そうして、家にも学校にも逃げ場がなくなったわけです。大人から見ればクソみたいなことですが、当の子ども本人には深刻な傷を残します。

さて姉は早生まれで当時中学2年生というと14歳です。私も早生まれで6歳、つまり小学校入学していたわけです。ACの方で特定時期の記憶の欠落って珍しくないようですね。私も漏れず記憶の欠落が起きてしまっています。幼児期の記憶は比較的残っているのに小学校入ってからは断片から必死に思い出さないと、子供のできる数少ない能力で全身全霊で生き残りの行動し続け、記憶をシャットダウンしてしまっているかのようですが、その記憶を掘り起こさないとトラウマの実態が見えませんでした。何度もそのフラッシュバックとその記憶の鮮明化、慣れさせながら、再学習させるわけです。

・・・まぁ、それで今でも苦しんでいるわけですが。正面から向き合ってみるとこんなにもひどい傷だったのかと・・・数日涙もしました。追々これはすべて明かすかもしれませんが、救いはないなと。

父も他界し、最後にとどめは火事にあい跡形もなくなったことですか。そしてまたすったもんだ。

フラッシュバックに気がついていましたが日常、二進も三進も行きませんし、致し方なくトラウマを開陳しつつ子供だった頃の無力な自分を今の大人の目線で記憶の整理をつける荒療治を、この数ヶ月行っていますが、やっと今になって、トラウマを整理してみて、初めて私が、AC(アダルトチルドレン)であったことを自覚させられました。

そんなこんなでもがき苦しみながらアラノン自助グループに通うことにしました。

酒害家族にさらされた人達と会って、本当にアルコールに逃げる人たちの弱さを痛感させられます。
仏教では飲酒は戒律で禁じられていますが在家の五戒にすら上がっている理由が今更わかります。
アラノンと同様にアルコールホリック自助グループもあって(本来はこちらが本道だった)ちょっとした正当化も「甘え」と断じているのは頷けます。そうやって飲む行為こそ無力な人間そのものであるというわけですよ。

ACは自覚が必要なんです。アルコールホリックは他覚で認定されるものです。なので「ちょっとぐらいならいい」というのは罠でしかなく結局は自覚してやめられず飲酒を繰り返す要因でしかなく救えない「甘え」を正当化しているだけです。立派な依存症です。巷でみる麻薬と同レベルの依存症ですね。ちなみにタバコを吸っても狂って人を殺すようなことはありませんが、酒は毎日ニュースで見る如くですね。未だにタバコやめてから吸ってませんが、依存症ではありませんよ、あんなもん。好きなままやめているので匂えば香りは楽しめますが、自ら吸おうとはしませんし思わないんですよね。そういう意味からも私には飲酒は甘えにしか見えないわけですがね。

そんな中調べていて「龍樹菩薩」のいう「三十五の過失」が目につきました:『三十三には、精神異常をきたしたり無知になる原因を植えつける。三十四には、死後に悪道や地獄に堕ちる。三十五には、もし次の生存に人間に生まれたとしても、その生活は常に狂気と愚かさに満ちる』。酒難しという私は、実は周りにかけた迷惑は怨となって降りかかる相続を受けたのかもなと、悔しく泣いたとしても今更遅いという話で片付けるのもよいでしょうが。来世に引き継いだとしても父からも相続を受けているとも解釈したとしても自戒もできないのなら救いようもないわけです。私はそう思ったわけですが、来世はないなら過去世もないです。お好きなだけ楽しめばよいです、他人事なので。

まぁ、そんな中、ちょっと元気の出るマントラがありましたので二週間ほどかけて邦訳していこうと思います。元々は今亡き師匠は山登りが好きでヒマラヤに憧れチベットで色々持ち帰り日本で僧侶になった方だったのでよく歌いながら唱えて教えてくれていた真言だったりします。オン マニ パドメ フーン♪

話は前後しますが得度の際習った准提真言ですが、実に密かにいまだに読んでいて、何故か多羅菩薩へつきあたりました。准提真言は満願すると夢の中なりそういう眷属とであったり色々実際に起きることがあるそうなんですが、単純に「頭おかしいんとちゃう?」と思っていたわけですが、まぁ調べていくとそういう功徳もあるそうで。実際にはやはりこれも師匠譲りで「観音様の涙は多羅菩薩だよ」というのを頭の端で覚えていたのかもしれません。何れにしても准提真言を調べるとどうしても立ちはだかるのが六字大明で「オン マニ ペメ フーン♪」は観音様の真言と捉えるのが正しいんだと気付かされました。准提観音様以外、真面目に、観音さん拝んだことないんでしが、そんなこんながあったので。

南無そのまんま

突然ですが、認めたくない自分がいます!。

小学校に入って間もない甥っ子が来て、私に暴言を吐いていきました。

「だからおまえは結婚できないんだ」

え?結婚しているけど?しかし、カチンときました。そして、その晩と翌晩まで引きずって、マイハニーにツラく当たってしまいました。。。

あ、満月か・・・満月は人を狂わせるなぁ(笑)

多分書かなくてもいいことなのでしょうが、先に進めない自分にメッセージとして起きた話なのだろうと、書くことにしました。多分、今の相方に出会わなければ本当にそうなっていただろうと思います(笑)。

複雑な伏線を書くと、その子は義理の弟の子供なのですが、昨年、義理の弟たちは離婚してしまいました。アツアツで結婚して嫁さんの家に入り、お嫁さんの両親と一緒に暮らし始め、一児をもうけたわけですが・・・、義理弟は仕事のことで心を煩い(更にはその宅事情も重なって)、それが引き金となって、昨年、離婚となりました・・・そしてもしかしたら、今現在、周りでそんなことをいっている大人がいて、それをそのまま学習したのでしょう。想像に苦しくない状況と言うことでしょうか。・・・まだ甥っ子は自分の両親が「離婚」したことを理解できておらず「結婚」の意味を理解できていないのだろう、ということになります・・・。

昨今はすぐ結婚して子供がいような関係なくすぐ離婚してしまいます。逆説的にその両者はとても敷居の低い話になってしまいました。そうかと思うと単身のままの人も多い時代です。何がどうしてこうなってしまったのだろうと。

実はこの結婚だとか離婚だとか、一つの社会的な概念でしかありません。逆に社会が形成される為には必要な概念です。ただ、この概念がなくなると、性欲のままに子作りをし・・・自然界のままで、実はそれは決して間違ったことではなかったりします。ただ増えすぎてしまう。近隣の国では逆に「一人っ子政策」なんぞを作り法的に拘束してました。それでもその国では影に隠れて増え続けたわけですが。かたや日本は医療が進み死ぬに死ねない国家では高齢化社会が進んで25%が高齢者というとんでもない状態になっています。先進諸国ではナンバーワン!そしていい意味でも悪い意味でも事例になっていくことで注目の的だったりします。どうしましょうかね~?半ば「人ごと」なのですが、確実に私たちに負担が来ている今日この頃です。

いずれにしても、「生まれれば死ぬ」、実は絶対的なセットです。

「生死の苦海に沈溺して自心を悟らず」

何が一体私たちを悩ませようとしているのか自心に解いてみます。結婚して一児をもうけてやっと一人前という社会通念があります。そしてそういう価値観に縛られて一人前になる為に勉強をして社会に放り出されます。つまり私たちはすり込まれて生きているのかもしれないとしたらどうでしょうか?。

実はここでいう「生死」とは「迷い」のことで、上で言う「生死」ではなかったりします。仮に「苦海」を社会としましょう。

「迷いの社会に放り込まれて自心を悟る必要も暇もない」

そうなんです。社会に生きていれば、戒律の殆ども不要です。殺人や盗みは犯罪です。あちこちで子作りしたらそれはそれで下手すれば社会的に抹殺されます(笑)。多分お釈迦様の生きていた時代も社会があったならば多少の通念は似たものもあったのではないでしょうか?そうなると敢えてこの戒律を入れた意味が不明です。社会の一部として生きるのに殆どは問題ないのですが、ものによっては迷いが生じて首が回らなくなります。たとえば「ダブルスタンダード」などいい例でしょう。

続けて、悲無量心では、

「妄りに分別を生じ 種々の煩悩随煩悩を起す」

とあります。皮肉を込めて訳すなら、石川啄木の言葉を借りて、

「働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」

敢えてこう書かせてもらいましたが、我欲によって目の前の幸せに気がつけないから苦しいママ。

さて、最初の話に戻すと、「結婚」という社会的価値を取り入れた私は、愛別離苦に相当する「離婚」を秘めているから余計苦しいのですね。そして一人前じゃないという世間体・・・つまり社会通念上の自我否定。こりゃぁ苦しいし怒りたくもなります。そして見苦しいですよね、私(笑)。そして何より今そこにある幸せを見えなくさせているのです。

それは「迷い」だけではなく「あたりまえ」という気持ちに変化した時にすでに生じています。

社会的(人間中心の生きている世界において)に正しいかどうかを「世俗諦」といいます(もっと深い意味がありますが一応ここではそうしておくことをお許しを)。「迷い」が生じたらまず人はこの世間での正しさを考えます。その迷いで選択すると「欲」が生じます。その欲はいい意味では生きる糧になります。悪い意味では犯罪や違法行為に走ります。だから宗教や哲学より法学や経済学の方がよっぽど役に立ちます。そして社会での生き方に役立つ方法を選択すればいいんです。

「これでいいのだ」

社会に適合していると言うことです、えぇ。あれ?苦しくないですか?おかしいと思いませんか?そしてその内「このままでいいのだろうか?」と思ったりしませんか?

面白いことを宗教評論家・・・もとい「仏教原理主義者」の ひろさちや さんは御著書「気にしない、気にしない」(PHP文庫)の中で仰っています(今日のお題はそこから取らせていただいて「南無そのまんま」とさせていただきました、感謝)。

「このまんま」…世間の判断

「そのまんま」…仏の判断

仏様や自然界にとって・・・宇宙にとってどうなのよってことです。

「これでいいのだ!・・・けど、それでいいんですか?」

それが、私にとっての永遠のテーマだったりします。つまり「ライフワーク」の仏教・仏道。そして、上で言う戒律、自然界や宇宙とって、つまり仏様の視点に立って事なんですよね。まぁ、それでも人が増えすぎたのかもしれませんが、皆が幸せの方法を仏様視点で探してみるしかありません。それを「真諦」といいます。

実は弘法大師は上で言う「世間諦」や「欲」を「煩悩即菩提」といって否定してはおられないと思うんです。

「生死すなわち涅槃なれば さらに階級なし。煩悩すなわち菩提なれば 断証を労することなし。」(師僧の思想ですみません(笑))

「生死即涅槃」といいます。「涅槃」とは「安らぎ」や「迷い」のたたれた状態(有余涅槃)を指すとしたなら、たとえば社会通念や概念によって支配されている自我には「安らぎ」はきません。

そして、「そのまんま」なのか「このまんま」なのか、社会でも生きていかなければならない私たちにとっての重要な判断材料と言うことは言えます。そして、「如実知自心」がとても大事と言うことを仰っています。

自己同一性」というのがありますが、面白いことに、元々「自我同一性」と呼ばれていて、アイデンティティのことです。実は青年期のことだとされていましたが、この自我、「中年期老年期において何度も繰り返して再構築される」のです。つまり、自我は壊れてしまっても、「自己」はそのまんま、つまり自我が滅しても死にゃぁしません(笑)。そもそも、自我はなかったものでもあるんです。社会概念によってがんじがらめにされてしまった可哀想な「自分」の一部だと思い込んでいる「虚構の自分」でしかありません。一生が勉強と言いますが、一生かかっていいんでしょう。そう思えばこそのんびり続けられます。続けていいんです、きっと。

さて、こうして告白してスッキリしました。

私の苦しみは絶てました。

巻き込んじゃって、不快な思いをされたかたにはすみません。

そしてありがとうございます。

「皆の苦しみがなくなりますように」

そして何より、疲れて帰ってくる、(共働きの)マイハニーを暖かく迎えてあげようと思います。

さて、これらの苦しみを智恵に変えて「虚空蔵菩薩」を目指したいところです。

9月6日

1ヶ月前のこと
その日学校の期末試験の最終日だった
前日明け方まで勉強し、さすがに疲れて寝入ったのは4時回ってたろうか。
私はひとつの夢を叶えるため今は鍼灸学校にの夜間に通っている
夏休み開けに期末試験というのは学校でもはじめての試みだったらしい
この夏も異様に暑かったが私の部屋は冷房入れても30度越える部屋。下手したら45度軽く越える。かといって節電の昨今夜中は冷房はタイマーで消して寝床に入っている。
夜中遅かったのもあって朝起きたら勉強しようなどと思っていた。
あんなことにならなければ…..

11時回ってたろうか。
パチパチする音で目が覚める。焦げ臭い匂い….
身体を起こして視線を音へ向ける。カーテンの隙間から入る光りは青い。その間からオレンジ色の炎が浮かび上がっているのを気が付くのに時間はいらなかった。

皆の帰る家を守りたい….一心で簡易消火剤で火を消しにかかる、一旦落ち着くも下からあがる炎、人間の力なんて無力だ。水をかける、嘲笑うかのように立ち上がる炎。
近くに転がっていたPHSで119番…掛からない。階段を駈け降り消火器をさがす。
固定電話からの119番。通じない。
手詰まって行くなか、他の力を借りるしかないと感じる中、外に出る準備をして火元を確認しに戻る。

まるで映画の1シーンかのように真っ黒な煙の壁が立ちはだかる。漏れた煙をちょっと吸い込んだだけなのに息が詰まってむせかえり暫く息を吸うことすら出来ない。悶えながら玄関に向かう。
表に出て助けを呼ぶ。平日の昼間答える人影なんてまずない。
二度目の「誰か119番、消防車呼んでくれ」、そんな叫びに、呼応するかのように近所で工事に来ていた人の姿が目に飛び込んできた。私の血相に流石に状況を察してくれたのか携帯ので緊急通報、住所を伝え、燃える我が家を横目に後はただただ立ち尽くしてた。
こういう時の時間の流れは遅い…長く感じられ、再度PHS で119。今向かっている。遠く離れた所からサイレンの音は近付いてくるが、家の前は意外と細い、大きな車は入りづらい。離れた十字路に一台の車両。祈る思いだった。目の前で起きていることが夢であって欲しかった。
バチンバチン、音が怖かった、何もかもが焼けてしまった。
翌日、現場検証、誠意をもって知り得ることを伝えたつもり。幾度となく同じ内容を伝え、ショートした電源コードが見付かった以外は原因は不明なままである。私に過失はないと言うことで検証の幕は閉じた。

悔しかったのは一生懸命守ろうとした気持ちを裏切るかのような、犯人扱いな言葉を言われていること、実の兄にだ。

焼け残って出てきたのは得度式で頂いた焼け焦げた袈裟と僅な鍼灸道具、そして何よりこの身体。多分、今後の道筋を物語っているかのように今は目の前に集中しろ、と云われているかのようだ。最終日の試験は赤点、追試は通らないで有名な教科であり、結果をまたずに膨大なレポートを予測している日々だ。
学校からは早々に教科書を準備して頂き、周りの方の好意で足らない授業で使う鍼灸道具を集めていただいて、何とか学校には通える状態だ。
彼女に貰った財布は焼けてしまったが、思いや心はしっかりこころに焼きついているし、色んな意味でダンシャリになったのかもしれない。

そして何より、まずは
生きて帰りました
ただいま

https://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=140391&id=1873959915

mixi日記より移植

火災

はっはっは
火事に遭いました(笑)
とりあえず、生き残りました。
怪我も軽い火傷程度ですみました。

しばらくはネットお預けです。

また元気で会いましょう!

https://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=140391&id=1869607060

mixi日記より移植