南無そのまんま

突然ですが、認めたくない自分がいます!。

小学校に入って間もない甥っ子が来て、私に暴言を吐いていきました。

「だからおまえは結婚できないんだ」

え?結婚しているけど?しかし、カチンときました。そして、その晩と翌晩まで引きずって、マイハニーにツラく当たってしまいました。。。

あ、満月か・・・満月は人を狂わせるなぁ(笑)

多分書かなくてもいいことなのでしょうが、先に進めない自分にメッセージとして起きた話なのだろうと、書くことにしました。多分、今の相方に出会わなければ本当にそうなっていただろうと思います(笑)。

複雑な伏線を書くと、その子は義理の弟の子供なのですが、昨年、義理の弟たちは離婚してしまいました。アツアツで結婚して嫁さんの家に入り、お嫁さんの両親と一緒に暮らし始め、一児をもうけたわけですが・・・、義理弟は仕事のことで心を煩い(更にはその宅事情も重なって)、それが引き金となって、昨年、離婚となりました・・・そしてもしかしたら、今現在、周りでそんなことをいっている大人がいて、それをそのまま学習したのでしょう。想像に苦しくない状況と言うことでしょうか。・・・まだ甥っ子は自分の両親が「離婚」したことを理解できておらず「結婚」の意味を理解できていないのだろう、ということになります・・・。

昨今はすぐ結婚して子供がいような関係なくすぐ離婚してしまいます。逆説的にその両者はとても敷居の低い話になってしまいました。そうかと思うと単身のままの人も多い時代です。何がどうしてこうなってしまったのだろうと。

実はこの結婚だとか離婚だとか、一つの社会的な概念でしかありません。逆に社会が形成される為には必要な概念です。ただ、この概念がなくなると、性欲のままに子作りをし・・・自然界のままで、実はそれは決して間違ったことではなかったりします。ただ増えすぎてしまう。近隣の国では逆に「一人っ子政策」なんぞを作り法的に拘束してました。それでもその国では影に隠れて増え続けたわけですが。かたや日本は医療が進み死ぬに死ねない国家では高齢化社会が進んで25%が高齢者というとんでもない状態になっています。先進諸国ではナンバーワン!そしていい意味でも悪い意味でも事例になっていくことで注目の的だったりします。どうしましょうかね~?半ば「人ごと」なのですが、確実に私たちに負担が来ている今日この頃です。

いずれにしても、「生まれれば死ぬ」、実は絶対的なセットです。

「生死の苦海に沈溺して自心を悟らず」

何が一体私たちを悩ませようとしているのか自心に解いてみます。結婚して一児をもうけてやっと一人前という社会通念があります。そしてそういう価値観に縛られて一人前になる為に勉強をして社会に放り出されます。つまり私たちはすり込まれて生きているのかもしれないとしたらどうでしょうか?。

実はここでいう「生死」とは「迷い」のことで、上で言う「生死」ではなかったりします。仮に「苦海」を社会としましょう。

「迷いの社会に放り込まれて自心を悟る必要も暇もない」

そうなんです。社会に生きていれば、戒律の殆ども不要です。殺人や盗みは犯罪です。あちこちで子作りしたらそれはそれで下手すれば社会的に抹殺されます(笑)。多分お釈迦様の生きていた時代も社会があったならば多少の通念は似たものもあったのではないでしょうか?そうなると敢えてこの戒律を入れた意味が不明です。社会の一部として生きるのに殆どは問題ないのですが、ものによっては迷いが生じて首が回らなくなります。たとえば「ダブルスタンダード」などいい例でしょう。

続けて、悲無量心では、

「妄りに分別を生じ 種々の煩悩随煩悩を起す」

とあります。皮肉を込めて訳すなら、石川啄木の言葉を借りて、

「働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」

敢えてこう書かせてもらいましたが、我欲によって目の前の幸せに気がつけないから苦しいママ。

さて、最初の話に戻すと、「結婚」という社会的価値を取り入れた私は、愛別離苦に相当する「離婚」を秘めているから余計苦しいのですね。そして一人前じゃないという世間体・・・つまり社会通念上の自我否定。こりゃぁ苦しいし怒りたくもなります。そして見苦しいですよね、私(笑)。そして何より今そこにある幸せを見えなくさせているのです。

それは「迷い」だけではなく「あたりまえ」という気持ちに変化した時にすでに生じています。

社会的(人間中心の生きている世界において)に正しいかどうかを「世俗諦」といいます(もっと深い意味がありますが一応ここではそうしておくことをお許しを)。「迷い」が生じたらまず人はこの世間での正しさを考えます。その迷いで選択すると「欲」が生じます。その欲はいい意味では生きる糧になります。悪い意味では犯罪や違法行為に走ります。だから宗教や哲学より法学や経済学の方がよっぽど役に立ちます。そして社会での生き方に役立つ方法を選択すればいいんです。

「これでいいのだ」

社会に適合していると言うことです、えぇ。あれ?苦しくないですか?おかしいと思いませんか?そしてその内「このままでいいのだろうか?」と思ったりしませんか?

面白いことを宗教評論家・・・もとい「仏教原理主義者」の ひろさちや さんは御著書「気にしない、気にしない」(PHP文庫)の中で仰っています(今日のお題はそこから取らせていただいて「南無そのまんま」とさせていただきました、感謝)。

「このまんま」…世間の判断

「そのまんま」…仏の判断

仏様や自然界にとって・・・宇宙にとってどうなのよってことです。

「これでいいのだ!・・・けど、それでいいんですか?」

それが、私にとっての永遠のテーマだったりします。つまり「ライフワーク」の仏教・仏道。そして、上で言う戒律、自然界や宇宙とって、つまり仏様の視点に立って事なんですよね。まぁ、それでも人が増えすぎたのかもしれませんが、皆が幸せの方法を仏様視点で探してみるしかありません。それを「真諦」といいます。

実は弘法大師は上で言う「世間諦」や「欲」を「煩悩即菩提」といって否定してはおられないと思うんです。

「生死すなわち涅槃なれば さらに階級なし。煩悩すなわち菩提なれば 断証を労することなし。」(師僧の思想ですみません(笑))

「生死即涅槃」といいます。「涅槃」とは「安らぎ」や「迷い」のたたれた状態(有余涅槃)を指すとしたなら、たとえば社会通念や概念によって支配されている自我には「安らぎ」はきません。

そして、「そのまんま」なのか「このまんま」なのか、社会でも生きていかなければならない私たちにとっての重要な判断材料と言うことは言えます。そして、「如実知自心」がとても大事と言うことを仰っています。

自己同一性」というのがありますが、面白いことに、元々「自我同一性」と呼ばれていて、アイデンティティのことです。実は青年期のことだとされていましたが、この自我、「中年期老年期において何度も繰り返して再構築される」のです。つまり、自我は壊れてしまっても、「自己」はそのまんま、つまり自我が滅しても死にゃぁしません(笑)。そもそも、自我はなかったものでもあるんです。社会概念によってがんじがらめにされてしまった可哀想な「自分」の一部だと思い込んでいる「虚構の自分」でしかありません。一生が勉強と言いますが、一生かかっていいんでしょう。そう思えばこそのんびり続けられます。続けていいんです、きっと。

さて、こうして告白してスッキリしました。

私の苦しみは絶てました。

巻き込んじゃって、不快な思いをされたかたにはすみません。

そしてありがとうございます。

「皆の苦しみがなくなりますように」

そして何より、疲れて帰ってくる、(共働きの)マイハニーを暖かく迎えてあげようと思います。

さて、これらの苦しみを智恵に変えて「虚空蔵菩薩」を目指したいところです。

9月6日

1ヶ月前のこと
その日学校の期末試験の最終日だった
前日明け方まで勉強し、さすがに疲れて寝入ったのは4時回ってたろうか。
私はひとつの夢を叶えるため今は鍼灸学校にの夜間に通っている
夏休み開けに期末試験というのは学校でもはじめての試みだったらしい
この夏も異様に暑かったが私の部屋は冷房入れても30度越える部屋。下手したら45度軽く越える。かといって節電の昨今夜中は冷房はタイマーで消して寝床に入っている。
夜中遅かったのもあって朝起きたら勉強しようなどと思っていた。
あんなことにならなければ…..

11時回ってたろうか。
パチパチする音で目が覚める。焦げ臭い匂い….
身体を起こして視線を音へ向ける。カーテンの隙間から入る光りは青い。その間からオレンジ色の炎が浮かび上がっているのを気が付くのに時間はいらなかった。

皆の帰る家を守りたい….一心で簡易消火剤で火を消しにかかる、一旦落ち着くも下からあがる炎、人間の力なんて無力だ。水をかける、嘲笑うかのように立ち上がる炎。
近くに転がっていたPHSで119番…掛からない。階段を駈け降り消火器をさがす。
固定電話からの119番。通じない。
手詰まって行くなか、他の力を借りるしかないと感じる中、外に出る準備をして火元を確認しに戻る。

まるで映画の1シーンかのように真っ黒な煙の壁が立ちはだかる。漏れた煙をちょっと吸い込んだだけなのに息が詰まってむせかえり暫く息を吸うことすら出来ない。悶えながら玄関に向かう。
表に出て助けを呼ぶ。平日の昼間答える人影なんてまずない。
二度目の「誰か119番、消防車呼んでくれ」、そんな叫びに、呼応するかのように近所で工事に来ていた人の姿が目に飛び込んできた。私の血相に流石に状況を察してくれたのか携帯ので緊急通報、住所を伝え、燃える我が家を横目に後はただただ立ち尽くしてた。
こういう時の時間の流れは遅い…長く感じられ、再度PHS で119。今向かっている。遠く離れた所からサイレンの音は近付いてくるが、家の前は意外と細い、大きな車は入りづらい。離れた十字路に一台の車両。祈る思いだった。目の前で起きていることが夢であって欲しかった。
バチンバチン、音が怖かった、何もかもが焼けてしまった。
翌日、現場検証、誠意をもって知り得ることを伝えたつもり。幾度となく同じ内容を伝え、ショートした電源コードが見付かった以外は原因は不明なままである。私に過失はないと言うことで検証の幕は閉じた。

悔しかったのは一生懸命守ろうとした気持ちを裏切るかのような、犯人扱いな言葉を言われていること、実の兄にだ。

焼け残って出てきたのは得度式で頂いた焼け焦げた袈裟と僅な鍼灸道具、そして何よりこの身体。多分、今後の道筋を物語っているかのように今は目の前に集中しろ、と云われているかのようだ。最終日の試験は赤点、追試は通らないで有名な教科であり、結果をまたずに膨大なレポートを予測している日々だ。
学校からは早々に教科書を準備して頂き、周りの方の好意で足らない授業で使う鍼灸道具を集めていただいて、何とか学校には通える状態だ。
彼女に貰った財布は焼けてしまったが、思いや心はしっかりこころに焼きついているし、色んな意味でダンシャリになったのかもしれない。

そして何より、まずは
生きて帰りました
ただいま

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mixi日記より移植

火災

はっはっは
火事に遭いました(笑)
とりあえず、生き残りました。
怪我も軽い火傷程度ですみました。

しばらくはネットお預けです。

また元気で会いましょう!

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